万葉集の歌碑めぐり

万葉歌碑をめぐり、歌の背景等を可能な限り時間的空間的に探索し、万葉集の万葉集たる所以に迫っていきたい!

万葉歌碑を訪ねて(その1727~1729)―坂出市沙弥島 万葉樹木園(1)~(3)―万葉集 巻一 二八、巻二 一一一、巻二 一四一

―その1727―

●歌は、「春過ぎて夏来るらし白栲の衣干したり天の香具山」である。

坂出市沙弥島 万葉樹木園(1)万葉歌碑(持統天皇

●歌碑は、坂出市沙弥島 万葉樹木園(1)にある。

 

●歌をみていこう。

 

標題は、「藤原宮御宇天皇代 高天原廣野姫天皇 元年丁亥十一年譲位軽太子 尊号太上天皇」<藤原(ふぢはら)の宮(みや)に天の下知らしめす天皇の代 高天原広野姫天皇(たかまのはらひろのひめのすめらみこと)、元年丁亥(ひのとゐ)十一年に位(みくらゐ)を軽太子(かるのひつぎのみこ)に譲りたまふ。尊号を太上天皇(おほきすめらみこと)といふ>である。

(注)藤原宮:持統・文武両天皇の皇居。香具山の西方、橿原市高殿町付近。(伊藤脚注)

(注)高天原広野姫天皇:四一代持統天皇。(伊藤脚注)

(注)軽太子(かるのひつぎのみこ):草壁皇子の第二子。697年持統天皇の譲位を受けて文武天皇となった。707年25歳で崩御

(注)おほきすめらみこと【太上天皇】〘名〙:退位した天皇をいう尊称。文武天皇元年(六九七)に譲位した持統天皇に対して用いたのに始まる。だいじょうてんのう。だじょうてんのう。(コトバンク 精選版 日本国語大辞典

 

題詞は、「天皇御製歌」<天皇の御製歌>である。

 

◆春過而 夏来良之 白妙能 衣乾有 天之香来山

    (持統天皇 巻一 二八)

 

≪書き下し≫春過ぎて夏来(きた)るらし白栲(しろたへ)の衣干したり天の香具山

 

(訳)今や、春が過ぎて夏がやってきたらしい。あの香具山にまっ白い衣が干してあるのを見ると。(伊藤 博 著 「万葉集 一」 角川ソフィア文庫より)

(注)しろたへ【白栲・白妙】名詞:①こうぞ類の樹皮からとった繊維(=栲)で織った、白い布。また、それで作った衣服。②白いこと。白い色。(weblio古語辞典 学研全訳古語辞典)

 (注の注)ここは、まっ白いの意。「栲」は楮の樹皮で作った白い布。(伊藤脚注)

 

 この歌ならびに持統天皇の他の五首ならびに藤原宮跡についてはブログ拙稿「万葉歌碑を訪ねて(その117改)」で紹介している。

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―その1728―

●歌は、「いにしへに恋ふる鳥かも弓絃葉の御井の上より鳴き渡り行く」である。

坂出市沙弥島 万葉樹木園(2)万葉歌碑(弓削皇子

●歌碑は、坂出市沙弥島 万葉樹木園(2)にある。

 

●歌をみていこう。

 

 題詞は、「幸于吉野宮時弓削皇子贈与額田王歌一首」<吉野の宮に幸(いでま)す時に、弓削皇子(ゆげのみこ)の額田王(ぬかたのおほきみ)に贈与(おく)る歌一首>である。

(注)弓削皇子天武天皇の子。母は大江皇女。文武三年(699年)没。持統統治政下に不遇であったらしい。(伊藤脚注)

 

◆古尓 戀流鳥鴨 弓絃葉乃 三井能上従 鳴嚌遊久

      (弓削皇子 巻二 一一一)

 

≪書き下し≫いにしへに恋ふらむ鳥かも弓絃葉(ゆずるは)の御井(みゐ)の上(うへ)より鳴き渡り行く

 

(訳)古(いにしえ)に恋の焦がれる鳥なのでありましょうか、鳥が弓絃葉の御井(みい)の上を鳴きながら大和の方へ飛び渡って行きます。(伊藤 博 著 「万葉集 一」 角川ソフィア文庫より)

(注)弓絃葉の御井:吉野離宮の清泉の通称か。

 

 この歌ならびに額田王が和えた歌(一一二歌)についてはブログ拙稿「万葉歌碑を訪ねて(その110改)」で紹介している。(初期のブログであるのでタイトル写真には朝食の写真が掲載されていますが、「改」では、朝食の写真ならびに関連記事を削除し、一部改訂いたしております。ご容赦下さい。)

 こちらの歌碑は、奈良県桜井市栗原 栗原寺跡(おうばらでらあと)のものです。

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 弓削皇子に忍びよる持統の恐怖についてはブログ拙稿「万葉歌碑を訪ねて(その200)」で紹介している。

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―その1729―

●歌は、「岩代の浜松が枝を引き結びま幸くあらばまた返り見む」である。

坂出市沙弥島 万葉樹木園(3)万葉歌碑(有間皇子

●歌碑は、坂出市沙弥島 万葉樹木園(3)にある。

 

●歌をみていこう。

 

◆磐白乃 濱松之枝乎 引結 真幸有者 亦還見武

        (有間皇子 巻二 一四一)

 

≪書き下し≫岩代(いはしろ)の浜松が枝(え)を引き結びま幸(さき)くあらばまた帰り見む

 

(訳)ああ、私は今、岩代の浜松の枝と枝を引き結んでいく、もし万一この願いがかなって無事でいられたなら、またここに立ち帰ってこの松を見ることがあろう。(伊藤 博 著 「万葉集 一」 角川ソフィア文庫より)

 

 この歌については、これまで幾度となく紹介している。和歌山県日高郡みなべ町西岩代の光照寺の歌碑、ならびに「有間皇子結松記念碑」にちてはブログ拙稿「万葉歌碑を訪ねて(その1193、番外岩代)」で紹介している。

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 ナカンダ浜の柿本人麻呂の歌碑に続いて「万葉樹木園」の歌碑群が並んでいる。瀬戸大橋の遠望も見られ、現代から万葉時代へのタイムスリップの架け橋となっているようである。

人麻呂の歌碑・万葉樹木園の歌碑群そして瀬戸大橋

 「万葉樹木園」とあるが、先達のブログや一部の書物に「こども樹木園」という言い方が使われている。

 「万葉樹木園の記」には、「万葉人の愛せし樹木より五十種を選び自然の中にとけこんで生きた遠い人の心を思い自然をとうとび人間と自然の調和を願って坂出市小中学校児童生徒が心を込めて植樹するものである。 昭和六十三年三月坂出市教育研究所」と書かれている。

「万葉樹木園の記」の碑

 何故か気になり、検索して、「坂出市沙弥島ナカンダ浜等のあり方検討協議会」の平成28年3月の第1次報告書を見てみた。沙弥島の歴史略年表が「時代・出来事・関連史蹟等」が書かれているが、そこには、「昭和62年(1987年)・市内24の小中学校児童が万葉樹木を植樹→平成16年の台風によりほぼ全壊・万葉樹木園」と書かれていた。

 「こども樹木園」の記述は残念ながら見当たらなかった。

 現在の「万葉樹木園」の歌碑の並べ方を見る限り、他の場所に「こども樹木園」があり、台風被害により歌碑を全て現在地に持って来たのではと勝手に考えている。

 

 

 

(参考文献)

★「萬葉集」 鶴 久・森山 隆 編 (桜楓社)

★「万葉集 一」 伊藤 博 著 (角川ソフィア文庫

★「weblio古語辞典 学研全訳古語辞典」

★「コトバンク 精選版 日本国語大辞典

★「坂出市沙弥島ナカンダ浜等のあり方検討協議会平成28年3月の第1次報告書」 (坂出市HP)

★「万葉樹木園の記」 (坂出市教育研究所)