万葉集の歌碑めぐり

万葉歌碑をめぐり、歌の背景等を可能な限り時間的空間的に探索し、万葉集の万葉集たる所以に迫っていきたい!

万葉歌碑を訪ねて(その1730~1732)―坂出市沙弥島 万葉樹木園(4)~(6)―万葉集 巻二 一六六、巻二 一八五、巻三 二五九

―その1730―

●歌は、「磯の上に生ふる馬酔木を手折らめど見すべき君が在りと言はなくに」である。

坂出市沙弥島 万葉樹木園(4)万葉歌碑(大伯皇女)

●歌碑は、坂出市沙弥島 万葉樹木園(4)にある。

 

●歌をみていこう。

 

◆磯之於尓 生流馬酔木乎 手折目杼 令視倍吉君之 在常不言尓

       (大伯皇女 巻二 一六六)

 

≪書き下し≫磯(いそ)の上(うえ)に生(お)ふる馬酔木(あしび)を手折(たを)らめど見(み)すべき君が在りと言はなくに

 

(訳)岩のあたりに生い茂る馬酔木の枝を手折(たお)りたいと思うけれども。これを見せることのできる君がこの世にいるとは、誰も言ってくれないではないか。(伊藤 博 著 「万葉集 一」 角川ソフィア文庫より)

 

 この歌については、ブログ拙稿「万葉歌碑を訪ねて(その173)」他で、斎王の宮址に関しては「同(その429)」で、紹介している。

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 葛城市HPに「大伯皇女(おおくのひめみこ)と大津皇子(おおつのみこ)」と題する記事が次の様に掲載されているので、引用させていただきます。

「本市で『万葉集』ゆかりの歌人として忘れてならないのは、大伯皇女(661年~702年)と大津皇子(663年~686年)姉弟です。二人は天武天皇を父に、天智天皇の皇女・大田皇女を母に生まれました。やがて姉の大伯皇女は伊勢の斎宮(注釈)

に召されます。弟の大津皇子は「体格や容姿が逞しく、寛大。幼いころから学問を好み知識は深く、見事な文章を記した。長じては武芸にすぐれ、その人柄は自由闊達つ皇子ながら謙虚、多くの人々の信望を集めた」(『懐風藻』)と、将来を嘱望される皇子に成長したようです。ところが天武天皇崩御の後、川島皇子の密告がもとで謀反のかどで捕らえられ、磐余にある訳語田(現奈良県桜井市)の自宅で死を賜りました。皇太子草壁皇子の即位の妨げになるためだったとの説もあります。辞世の歌として、

ももづたふ磐余の池に鳴く鴫を 今日のみ見てや雲隠りなむ

が、『万葉集』巻三・四一五に残されています。

弟への慈愛を母のように注いだ皇女は、弟を案じ、その死に臨んで悲嘆に暮れる歌を詠んでいます。伊勢を訪ねた皇子が帰途についた際

わが背子を大和に遣るとさ夜ふけて暁露にわが立ち濡れし (巻二・一〇五)

二人行けど行き過ぎ難き秋山をいかにか君が独り越ゆらむ (巻二・一〇六)

皇子の亡がらは、二上山に移葬されました。雄岳頂上には、大津皇子二上山墓が築かれています。

うつそみの人なる我や明日よりは二上山を弟背とわが見む (巻二・一六五)

(注釈)「いつきのみや」とも呼ばれ、天皇に代わって伊勢神宮に仕えるため、天皇の代替わりごとに皇族女性の中から選ばれて、都から伊勢に派遣された。」

 

 一六五歌についてはブログ拙稿「万葉歌碑を訪ねて(その437)」で紹介している。

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―その1731―

●歌は、「水伝ふ礒の浦廻の岩つつじ茂く咲く道をまたも見むかも」である。

坂出市沙弥島 万葉樹木園(5)万葉歌碑(日並皇子尊宮舎人)

●歌碑は、坂出市沙弥島 万葉樹木園(5)にある。

 

●歌をみていこう。

 

 一七一~一九三歌の歌群の題詞は、「皇子尊宮舎人等慟傷作歌廿三首」<皇子尊(みこのみこと)の宮の舎人等(とねりら)、慟傷(かな)しびて作る歌二三首>とある。

 

◆水傳 磯乃浦廻乃 石上乍自 木丘開道乎 又将見鴨

       (日並皇子尊宮舎人 巻二 一八五)

 

≪書き下し≫水(みづ)伝(つた)ふ礒(いそ)の浦(うら)みの岩つつじ茂(も)く咲く道をまたも見むかも

 

(訳)水に沿っている石組みの辺の岩つつじ、そのいっぱい咲いている道を再び見ることがあろうか。(伊藤 博 著 「万葉集 一」 角川ソフィア文庫より)

(注)いそ【磯】名詞:①岩。石。②(海・湖・池・川の)水辺の岩石。岩石の多い水辺。(weblio古語辞典 学研全訳古語辞典)

(注)うらみ【浦廻・浦回】名詞:入り江。海岸の曲がりくねって入り組んだ所。「うらわ」とも。(学研)

(注)茂く>もし【茂し】( 形ク ):草木の多く茂るさま。しげし。(weblio辞書 三省堂大辞林 第三版)

 

 この歌ならびに全二十三首についてはブログ拙稿「万葉歌碑を訪ねて(その502)」で紹介している。

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―その1732―

●歌は、「いつの間も神さびけるか香具山の桙杉の本に苔生すまでに」である。

坂出市沙弥島 万葉樹木園(6)万葉歌碑(鴨君足人)

●歌碑は、坂出市沙弥島 万葉樹木園(6)にある。

 

●歌をみていこう。

 

二五七から二五九歌の題詞は、「鴨君足人香具山歌一首 幷短歌」<鴨君足人(かものきみたりひと)が香具山(かぐやま)の歌一首 幷(あは)せて短歌>である。

 

◆何時間毛 神左備祁留鹿 香山之 鉾椙之本尓 薜生左右二

       (鴨君足人 巻三 二五九)

 

≪書き下し≫いつの間(ま)も神(かむ)さびけるか香具山(かぐやま)の桙杉(ほこすぎ)の本(もと)に苔(こけ)生(む)すまでに

 

(訳)いつの間にこうも人気がなく神さびてしまったのか。香具山の尖(とが)った杉の大木の、その根元に苔が生すほどに。(「万葉集 一」 伊藤 博 著 角川ソフィア文庫より)

(注)ほこすぎ【矛杉・桙杉】:矛のようにまっすぐ生い立った杉。(広辞苑無料検索)

(注)桙杉(ほこすぎ)の本(もと):矛先の様にとがった、杉の大木のその根元。(伊藤脚注)

 

 二五七から二五九歌ならびに「或る本」の歌(二六〇歌)についてはブログ拙稿「万葉歌碑を訪ねて(その1466)」で紹介している。

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 大伯皇女は、斉明天皇7年(661年)、大伯(今の岡山県瀬戸市内沿岸)沖合の船上で生まれたという。この船は、斉明天皇の征西の船である。母は大田皇女である。この船には妹にあたる鸕野讃良(うのささら)皇女<後の持統天皇>も乗っており、船が那の大津(今の博多)に着いてから、日並皇子尊(草壁皇子)を生んでいる。

 そして天智二年(663年)の大津の皇子が誕生している。

 こうして大津皇子の悲劇へのドラマは幕を開けたのである。

 

 大津皇子辞世の歌についてはブログ拙稿「万葉歌碑を訪ねて(その118改)」で紹介している。(初期のブログであるのでタイトル写真には朝食の写真が掲載されていますが、「改」では、朝食の写真ならびに関連記事を削除し、一部改訂いたしております。ご容赦下さい。)

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(参考文献)

★「萬葉集」 鶴 久・森山 隆 編 (桜楓社)

★「万葉集 一」 伊藤 博 著 (角川ソフィア文庫

★「大津皇子」 生方たつゑ 著 (角川選書

★「weblio古語辞典 学研全訳古語辞典」

★「weblio辞書 三省堂大辞林 第三版」

★「広辞苑無料検索」

★「葛城市HP」