―その1742―
●歌は、「岩つなのまたをちかえりあをによし奈良の都をまたも見むかも」である。
●歌碑は、坂出市沙弥島 万葉樹木園(16)にある。
●歌をみていこう。
題詞は、「傷惜寧樂京荒墟作歌三首 作者不審」<寧楽(なら)の京の荒墟(くわうきよ)を傷惜(いた)みて作る歌三首 作者審らかにあらず>である。
(注)寧楽の京の荒墟:天平十二年(740年)から同十七年奈良遷都まで古京と化したのである。
◆石綱乃 又變若反 青丹吉 奈良乃都乎 又将見鴨
(作者未詳 巻六 一〇四六)
≪書き下し≫岩つなのまたをちかへりあをによし奈良の都をまたも見むかも
(訳)這(は)い廻(めぐ)る岩つながもとへ戻るようにまた若返って、栄えに栄えた都、あの奈良の都を、再びこの目で見ることができるであろうか。(「万葉集 二」 伊藤 博 著 角川ソフィア文庫より)
(注)岩綱【イワツナ】:定家葛の古名、岩に這う蔦や葛の総称(weblio辞書 植物名辞典)
(注の注)「石綱(イワツナ)」は「石葛(イワツタ)」と同根の語で岩に這うツタのことだが、延びてもまた元に這い戻ることから「かへり」にかかる枕詞となる、(「植物で見る万葉の世界」 國學院大學 萬葉の花の会 著)
(注)をちかへる【復ち返る】自動詞:①若返る。②元に戻る。繰り返す。(weblio古語辞典 学研全訳古語辞典)
奈良の都が突然廃都となり、伊勢行幸の後に恭仁京遷都となるが、作者未詳とはいえ、この三首に見られる、無常観、虚無感ははかりしえない。
一〇四四~一〇四六歌ならびに田辺福麻呂の「寧楽の故郷を悲しびて作る歌一首幷せて短歌」の一〇四八歌については、聖武天皇の「彷徨の五年」とともにブログ拙稿「万葉歌碑を訪ねて(その1097)で紹介している。
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―その1743―
●歌は、「行く川の過ぎにし人の手折らねばうらぶれ立てり三輪の檜原は」である。
●歌碑は、坂出市沙弥島 万葉樹木園(17)にある。
●歌をみていこう。
◆徃川之 過去人之 手不折者 裏觸立 三和之桧原者
(柿本人麻呂歌集 巻七 一一一九)
≪書き下し≫行く川の過ぎにし人の手折(たを)らねばうらぶれ立てり三輪(みわ)の桧原(ひはら)は
(訳)行く川の流れのように、現(うつ)し世を消え去って行った人びとが手折って挿頭(かざし)にしないので、しょんぼりと立っている。三輪の檜原は。(同上)
(注)うらぶる 自動詞:わびしく思う。悲しみに沈む。しょんぼりする。 ※「うら」は心の意。(weblio古語辞典 学研全訳古語辞典)
(注)ひばら【檜原】名詞:檜(ひのき)の生い茂っている原。奈良時代では初瀬(はつせ)・巻向(まきむく)・三輪(みわ)のあたりの檜原が有名だった。「ひはら」とも。(学研)
万葉集には、「檜原」が詠まれたのは六首、「檜乃嬬手」「檜山」「檜橋」の形で三首が収録されている。これらについては、ブログ拙稿「万葉歌碑を訪ねて(その1124)」で紹介している。
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―その1744―
●歌は、「たらちねの母がその業る桑すらに願へば衣に着るといふものを」である。
●歌碑は、坂出市沙弥島 万葉樹木園(18)にある。
●歌をみていこう。
◆足乳根乃 母之其業 桑尚 願者衣尓 著常云物乎
(作者未詳 巻七 一三五七)
≪書き下し≫たらちねの母がその業(な)る桑(くは)すらに願(ねが)へば衣(きぬ)に着るといふものを。
(訳)母が生業(なりわい)として育てている桑の木でさえ、ひたすらお願いすれば着物として着られるというのに。(同上)
(注)なる【業る】自動詞:生業とする。生産する。営む。(学研)
この歌は、母の反対がゆえにかなえられない恋を嘆く女心を詠っているのであるが、ここでは「たらちねの母がその業(な)る桑・・・」に注目し、女性の仕事ぶりを歌った歌が万葉集に数多くみられる。
いくつかあげてみよう。
■志賀島の海女の忙しさを詠った歌■
◆然之海人者 軍布苅塩焼 無暇 髪梳乃小櫛 取毛不見久尓
(石川君子 巻三 二七八)
≪書き下し≫志賀(しか)の海女(あま)は藻(め)刈り塩焼き暇(いとま)なみ櫛笥(くしげ)の小櫛(をぐし)取りも見なくに
(訳)志賀島の海女(あま)は、藻を刈ったり塩を焼いたりして暇がないので、櫛笥の小櫛、その櫛を手に取って見ることもできない。(「万葉集 一」 伊藤 博 著 角川ソフィア文庫より)
(注)藻:食用や製塩の材料である海藻。(伊藤脚注)
この歌ならびに塩焼く海女を詠った歌についてはブログ拙稿「万葉歌碑を訪ねて(その1636)」で紹介している。
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■機織り■
◆公為 手力勞 織在衣服叙 春去 何色 揩者吉
(柿本人麻呂歌集 巻七 一二八一)
≪書き下し≫君がため手力(たぢから)疲(つか)れ織(お)れる衣(ころも)ぞ 春さらばいかなる色に摺(す)りてばよけむ
(訳)あなたのためにと、手の力も抜けてしまうほどに精を出して織った着物です。春になったら、これをどんな色に染め上げたらよいのでしょう。(「万葉集 二」 伊藤 博 著 角川ソフィア文庫より)
この歌についてはブログ拙稿「万葉歌碑を訪ねて(その1228)」で紹介している。
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■手染めの糸作り■
◆河内女之 手染之絲乎 絡反 片絲尓雖有 将絶跡念也
(作者未詳 巻七 一三一六)
≪書き下し≫河内女(かふちめ)の手染の糸を繰(く)り返し片糸(かたいと)にあれど絶えむと思へや
(訳)河内の国の女たちがその手で染めた糸を、何度も繰った、そんな糸なのだから、片糸であっても、切れてしまうとは思えない。(同上)
(注)河内 分類地名 :旧国名。畿内(きない)五か国の一つ。今の大阪府東部。河州(かしゆう)。古くは「かふち」であったらしい。(学研)
(注)くりかへす【繰り返す】他動詞:何度も糸をたぐる。何度も同じことをする。(学研)⇒絶えず思っている様
(注)かたいと【片糸】名詞:より合わせていない糸。 ※縫い合わせる糸は、より合わせた糸を使う。(学研)⇒片思いの譬え
この歌についてはブログ拙稿「万葉歌碑を訪ねて(その451)」で紹介している。
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■麻の栽培■
◆麻衣 著者夏樫 木國之 妹背之山二 麻蒔吾妹
(藤原卿 巻七 一一九五)
≪書き下し≫麻衣(あさごろも)着(き)ればなつかし紀伊の国(きのくに)の妹背(いもせ)の山に麻蒔(ま)く我妹(わぎも)
(訳)麻の衣を着ると懐かしくて仕方がない。紀伊の国(きのくに)の妹背(いもせ)の山で麻の種を蒔いていたあの子のことが。(同上)
この歌についてはブログ拙稿「万葉歌碑を訪ねて(その732)」で紹介している。
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■麻手刈り干す常陸娘子■
題詞は、「藤原宇合大夫遷任上京時常陸娘子贈歌一首」<藤原宇合大夫(ふぢはらのうまかひのまへつきみ)、遷任して京に上る時に、常陸娘子(ひたちのをとめ)が贈る歌一首>である。
◆庭立 麻手苅干 布暴 東女乎 忘賜名
(常陸娘子 巻四 五二一)
≪書き下し≫庭に立つ麻手(あさで)刈り干(ほ)し布曝(さら)す東女(あづまをみな)を忘れたまふな
(訳)庭畑に茂り立っている麻を刈って干し、織った布を日にさらす東女(あずまおんな)、この田舎くさい女のことをどうかお忘れ下さいますな。(「万葉集 一」 伊藤 博 著 角川ソフィア文庫より)
(注)庭:季節によって畑になったり、仕事場になったりする、家の前の空き地。(伊藤脚(注)麻手:布の原料としての麻の意か。(伊藤脚注)
この歌についてはブログ拙稿「万葉歌碑を訪ねて(その1721)」で紹介している。
➡ こちら1721
「東歌」はあっては、その性格からも「・・・愛(かな)しき子ろが布乾(にのほ)さるかも(巻十四 三三五一歌」、「多摩川にさらす手作りさらさらに・・・(同 三三七三歌)」、「稲搗(つ)けばかかる我が手を今夜もか・・・(同 三四五九歌)」などがみられるのである。
(参考文献)
★「萬葉集」 鶴 久・森山 隆 編 (桜楓社)
★「weblio古語辞典 学研全訳古語辞典」
★「weblio辞書 植物名辞典」