万葉集の歌碑めぐり

万葉歌碑をめぐり、歌の背景等を可能な限り時間的空間的に探索し、万葉集の万葉集たる所以に迫っていきたい!

万葉歌碑を訪ねて(その1757~1759)―坂出市沙弥島 万葉樹木園(31)~(33)―万葉集巻十一 二四八〇、巻十一 二五〇三、巻十五 三六〇〇

―その1757―

●歌は、「道の辺のいちしの花のいちしろく人皆知りぬ我が恋妻は」である。

坂出市沙弥島 万葉樹木園(31)万葉歌碑(柿本人麻呂歌集)

●歌碑は、坂出市沙弥島 万葉樹木園(31)にある。

 

●歌をみていこう。

 

◆路邊 壹師花 灼然 人皆知 我戀孋  或本日 灼然 人知尓家里 継而之念者

       (柿本人麻呂歌集 巻十一 二四八〇)

 

≪書き下し≫道の辺(へ)のいちしの花のいちしろく人皆知りぬ我(あ)が恋妻(こひづま)は   或る本の歌には「いちしろく人知りにけり継ぎてし思へば」といふ

 

(訳)道端のいちしの花ではないが、いちじるしく・・・はっきりと、世間の人がみんな知ってしまった。私の恋妻のことは。<いちじるしく世間の人が知ってしまったよ。絶えずあの子のことを思っているので>(伊藤 博 著 「万葉集 三」 角川ソフィア文庫より)

(注)いちし:古くからダイオウ、ギンギシ、クサイチゴ、エゴノキ、イタドリ、ヒガンバナの諸説が入り乱れ、万葉植物群の中で最も難解な植物とされていた。牧野富太郎氏によってヒガンバナ説が出され、山口県では「イチシバナ」、福岡県では、「イチジバナ」という方言があることが確認され、ヒガンバナ説が定着した。(「植物で見る万葉の世界」 國學院大學 萬葉の花の会 著)

(注)いちしろし【著し】形容詞:「いちしるし」に同じ。※上代語。(weblio古語辞典 学研全訳古語辞典)

(注)いちしるし【著し】形容詞:明白だ。はっきりしている。 ⇒参考:古くは「いちしろし」。中世以降、シク活用となり、「いちじるし」と濁って用いられる。「いち」は接頭語。(同上)

 

 「ヒガンバナ」が福岡県の方言で「イチジバナ」と言われることに因んで太宰府市大佐野 太宰府メモリアルパークの歌碑を紹介したブログ拙稿「万葉歌碑を訪ねて(その904)」を取り上げました。

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 「ヒガンバナ」については、広島大学附属福山中・高等学校/編著「万葉植物物語」(中国新聞社)に、「ヒガンバナは、秋の彼岸に合わせたように開花します。葉が全く出ないときに長い花茎を伸ばして、鮮やかな赤い花を咲かせます。有毒植物ですが、鱗茎(りんけい)にはでんぷんを含んでおり、水洗いして有毒成分を除去した後、食用にしました。救荒(きゅうこう)植物として保護した歴史があります。鱗茎を擦りつぶして、膝関節のはれ、炎症の湿布薬に使っていたようです。また、ヒガンバナのでんぷんで作ったのりは虫がつきにくく、ふすまやびょうぶの下張りに使われていました。」と書かれている。

(注)きゅうこうしょくぶつ【救荒植物】:山野に自生する植物で、飢饉ききんの際に食糧になるもの。ノビル・ナズナ・オオバコなど。備荒植物。(コトバンク 小学館デジタル大辞泉

 

 

 

―その1758―

●歌は、「夕されば床の辺去らぬ黄楊枕何しか汝れが主待ちかたき」である。

坂出市沙弥島 万葉樹木園(32)万葉歌碑(作者未詳)

●歌碑は、坂出市沙弥島 万葉樹木園(32)にある。

 

●歌をみていこう。

 

◆夕去 床重不去 黄楊枕 何然汝 主待固

      (作者未詳 巻十一 二五〇三)

 

≪書き下し≫夕去れば床(とこ)の辺(へ)去らぬ黄楊枕(つげまくら)何しか汝(な)れが主(ぬし)待ちかたき

 

(訳)夕方になるとかならず床の辺にいついて離れない黄楊の枕よ、お前は、どうしてお前の主人(あるじ)を待ち迎えることができないのか。(「万葉集 三」 伊藤 博 著 角川ソフィア文庫より)

(注)なにしか【何しか】分類連語:どうして…か。▽原因・理由についての疑問に用いる。⇒なりたち:副詞「なに」+副助詞「し」+係助詞「か」(学研)

(注)主:女の待ち焦がれる男(伊藤脚注)

 

 

 この歌ならびに「黄楊」を詠んだ歌についてはブログ拙稿「万葉歌碑を訪ねて(その1054)」で紹介している。

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 黄楊の櫛でも当時は、相当高価であった。黄楊の枕は、この女が待ち焦がれる主が、マイ枕として女の家に持ち込んでいたものであろうか。

 

 

 

―その1759―

●歌は、「離れ磯に立てるむろの木うたがたも久しき時を過ぎにけるかも」である。

坂出市沙弥島 万葉樹木園(33)万葉歌碑(遣新羅使人等)

●歌碑は、坂出市沙弥島 万葉樹木園(33)にある。

 

●歌をみていこう。

 

◆波奈礼蘇尓 多弖流牟漏能木 宇多我多毛 比左之伎時乎 須疑尓家流香母

      (遣新羅使人等 巻十五 三六〇〇)

 

≪書き下し≫離(はな)れ礒(そ)に立てるむろの木うたがたも久しき時を過ぎにけるかも

 

(訳)離れ島の磯に立っているむろの木、あの木はきっと、途方もなく長い年月を、あの姿のままで過ごしてきたものなのだ。(伊藤 博 著 「万葉集 三」 角川ソフィア文庫より)

(注)むろの木:鞆の浦広島県福山市鞆町) ※大宰帥大伴旅人が大納言となって帰京する時(この時は妻を亡くした後である)に「鞆の浦を過ぐる日に作る歌三首」(四四六から四四八歌の「鞆の浦のむろの木」)を踏まえている。

(注)うたがたも 副詞:①きっと。必ず。真実に。②〔下に打消や反語表現を伴って〕決して。少しも。よもや。(学研) ここでは①

 

 三五九四から三六〇一歌の歌群の左注は、「右の八首は、船に乗りて海に入り、路の上にして作る歌」である。

 この歌群の歌については、ブログ拙稿「万葉歌碑を訪ねて(その623)」で紹介している。

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 旅人の四四六から四四八歌についてはブログ拙稿「万葉歌碑を訪ねて(その508)」で紹介している。

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 万葉集巻十五は、遣新羅使人に関する歌群(三五七八~三七二二歌)と、中臣宅守と狭野弟上娘子の悲恋の歌群(三七二三~三七八五歌)の実録風の二歌群の構成から成り立っている特異な巻である。

三五九四から三六〇一歌の歌群の左注は、「右の八首は、船に乗りて海に入り、路の上にして作る歌」であり、想像を絶する苦難に遭遇するとは思ってもみない往路の初めの方の歌群である。

広島県呉市倉橋町の桂浜神社の前の松原に「萬葉集史蹟長門之島碑」が建てられておりそこに三六一七から三六二四歌が刻されている。これは、天平八年(736年)遣新羅使が安芸の国長門島に停泊し船出する時の八首である。

 

こちらの歌碑ならびに歌群についてはブログ拙稿「万葉歌碑を訪ねて(その1618)」で紹介している。

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(参考文献)

★「萬葉集」 鶴 久・森山 隆 編 (桜楓社)

★「万葉集 三」 伊藤 博 著 (角川ソフィア文庫

★「植物で見る万葉の世界」 國學院大學 萬葉の花の会 著 (同会 事務局)

★「万葉植物物語」 広島大学附属福山中・高等学校/編著 (中国新聞社)

★「weblio古語辞典 学研全訳古語辞典」

★「コトバンク 小学館デジタル大辞泉