万葉集の歌碑めぐり

万葉歌碑をめぐり、歌の背景等を可能な限り時間的空間的に探索し、万葉集の万葉集たる所以に迫っていきたい!

万葉歌碑を訪ねて(その1777、1778)―坂出市高屋町 塩釜神社、同町 白峰展望台―万葉集巻一 五、六

―その1777―

●歌は、「霞立つ 長き春日の 暮れにける わづきも知らず むらきもの 心を痛み ぬえこ鳥 うら泣け居れば・・・」である。

坂出市高屋町 塩釜神社万葉歌碑(軍王)

●歌碑は、坂出市高屋町 塩釜神社にある。

 

●歌をみていこう。

 

 題詞は、「幸讃岐國安益郡之時軍王見山作歌」<讃岐(さぬき)の国の安益(あや)の郡(こほり)に幸(いでます)時に、軍王(こにきしのおほきみ)が山を見て作る歌>である。

(注)軍王 いくさのおおきみ:飛鳥(あすか)時代の歌人。舒明(じょめい)天皇にしたがい、讃岐(さぬき)でよんだ歌を「万葉集」にのこす。斉明天皇七年(661年)百済(くだら)(朝鮮)に帰国した百済の王子余豊璋(よ-ほうしょう)とする説、文武天皇のころの人物とする説などがある。「こにきしのおおきみ」ともよむ。(コトバンク 講談社デジタル版 日本人名大辞典+Plus)

(注)安益(あや)の郡:香川県綾歌群東部。(伊藤脚注)

(注)山を見て作る歌:山を見て望郷の念を述べる歌。(伊藤脚注)

 

 

◆霞立 長春日乃 晩家流 和豆肝之良受 村肝乃 心乎痛見 奴要子鳥 卜歎居者 珠手次 懸乃宜久 遠神 吾大王乃 行幸能 山越風乃 獨座 吾衣手尓 朝夕尓 還比奴礼婆 大夫登 念有我母 草枕 客尓之有者 思遣 鶴寸乎白土 網能浦之 海處女等之 焼塩乃 念曽所焼 吾下情

     (軍王 巻一 五)

 

≪書き下し≫霞立つ 長き春日(はるひ)の 暮れにける わづきも知らず むらきもの 心を痛み ぬえこ鳥(どり) うら泣け居(を)れば 玉たすき 懸(か)けのよろしく 遠(とほ)つ神(かみ) 我(わ)が大君の 行幸(いでまし)の 山越(やまこ)す風の ひとり居(を)る 我(わ)が衣手(ころもで)に 朝夕(あさよひ)に 返らひぬれば ますらをと 思へる我(わ)れも 草枕 旅にしあれば 思ひ遣(や)る たづきを知らに 網(あみ)の浦の 海人娘子(あまをとめ)らが 焼(や)く塩の 思ひぞ焼くる 我(あ)が下心(したごころ)

 

(訳)霞(かすみ)立ちこめる、長い春の日がいつ暮れたのかわけもわからぬほど、この胸のうちが痛むので、ぬえこ鳥のように忍び泣きをしていると、玉襷(たまたすき)を懸(か)けるというではないが、心に懸けて想うのに具合よろしく、遠い昔の天つ神そのままにわれらが大君のお出(で)ましの地の山向こうの故郷の方から神の運んでくる風が、家を離れてたったひとりでいる私の衣の袖(そで)に、朝な夕な、帰れ帰れと吹き返るものだから、立派な男子だと思っている私としてからが、草を枕の遠い旅空にあることとて、思いを晴らすすべも知らず、網(あみ)の浦(うら)の海人娘子(あまおとめ)たちが焼く塩のように、故郷への思いにただ焼(や)け焦(こ)がれている。ああ、切ないこの我が胸のうちよ。(「万葉集 一」 伊藤 博 著 角川ソフィア文庫より)

(注)かすみたつ【霞立つ】分類枕詞:「かす」という同音の繰り返しから、地名の「春日(かすが)」にかかる。「かすみたつ春日の里」(weblio古語辞典 学研全訳古語辞典)

(注)わづき:区別。孤語で、他に例がない。(伊藤脚注)

(注)むらきもの【群肝の】分類枕詞:「心」にかかる。心は内臓に宿るとされたことからか。「むらぎもの」とも。(学研)

(注)ぬえこどり【鵼小鳥】分類枕詞:悲しげな鳴き声から「うらなく(=忍び泣く)」にかかる。(学研)

(注の注)ぬえ【鵼・鵺】名詞:鳥の名。とらつぐみ。夜、ヒョーヒョーと鳴く。鳴き声は、哀調があるとも、気味が悪いともされる。「ぬえことり」「ぬえどり」とも。(学研)

(注)たまだすき【玉襷】名詞:たすきの美称。たすきは、神事にも用いた。 ※「たま」は接頭語。(学研)

(注の注)たまだすき【玉襷】分類枕詞:たすきは掛けるものであることから「掛く」に、また、「頸(うな)ぐ(=首に掛ける)」ものであることから、「うなぐ」に似た音を含む地名「畝火(うねび)」にかかる。(学研)

(注)かけ【掛け・懸け】名詞:心や口の端にかけること。口に出して言うこと。(学研)

(注)たづき【方便】名詞:①手段。手がかり。方法。②ようす。状態。見当。 ⇒参考 古くは「たどき」ともいった。中世には「たつき」と清音にもなった。(学研)ここでは①の意

 

 

 次に反歌をみてみよう。

 

◆山越乃 風乎時自見 寐夜不落 家在妹乎 懸而小竹櫃

(巻一 六 軍王)

 

≪書き下し≫山越(やまこ)しの風を時じみ寝(ぬ)る夜(よ)おちず家なる妹(いも)を懸(か)けて偲ひつ

 

(訳)山越しの風が絶えず袖をひるがえすので、寝る夜は一夜(ひとよ)もおかず、家に待つ妻、あのいとしい妻を、私は吹きかえる風に事寄せては偲んでいる。(同上)

(注)ときじ【時じ】形容詞:①時節外れだ。その時ではない。②時節にかかわりない。常にある。絶え間ない。(学研) ⇒参考:上代語。「じ」は形容詞を作る接尾語で、打消の意味を持つ。

(注)おちず【落ちず】分類連語:欠かさず。残らず。(学研) ⇒なりたち:動詞「おつ」の未然形+打消の助動詞「ず」の連用形(学研)

 

 左注は、「右檢日本書紀 無幸於讃岐國 亦軍王未詳也 但山上憶良大夫類聚歌林曰 記曰 天皇十一年己亥冬十二月己巳朔壬午幸于伊与温湯宮 云々 一書 是時 宮前在二樹木 此之二樹斑鳩比米二鳥大集 時勅多挂稲穂而養之 乃作歌 云々 若疑従此便幸之歟」<右は、檢日本書紀に検(ただ)すに、讃岐の国に幸(いでま)すことなし。 また、軍王(こにきしのおほきみ)もいまだ詳(つばひ)らかにあらず。ただし、山上憶良大夫(やまのうへのおくらのまへつきみ)が類聚歌林(るいじうかりん)に曰(い)はく、「紀には『天皇の十一年己亥(つちのとゐ)の冬の十二月己巳(つちのとみ)の朔(つきたち)の壬午(みづのえうま)に、伊与(いよ)の温湯(ゆ)の宮(みや)に幸(いでま)す云々(しかしか)』といふ。 一書には『この時に宮の前に二つの樹木あり。この二つの樹(き)に斑鳩(いかるが)と比米(ひめ)との二つの鳥いたく集(すだ)く。時に勅(みことのり)して多(さは)に稲穂(いなほ)を掛けてこれを養(か)はしめたまふ。すなはち作る歌云々』といふ」と。けだし、ここよりすなはち幸(いでま)すか>である。

(注)この左注は、天平十七年(745年)段階で大伴家持たちが付したものらしい。(伊藤脚注)

(注)壬午(みづのえうま):干支で日を数えたもの。十四日。(伊藤脚注)

(注)いかるが【斑鳩】名詞:鳥の名。もずに似た渡り鳥。まめまわし。「いかる」とも(学研)

(注の注)斑鳩:「比米」と共にスズメ科の小鳥。(伊藤脚注)

 

 この歌についてはブログ拙稿「万葉歌碑を訪ねて(その1712)」で紹介している。

 ➡ 

tom101010.hatenablog.com

 

 

 香川県さぬき市HPに塩釜神社について、「塩田の安全繁栄を祈願するための神社で、祭神は大綿津見神である。香川県内には塩釜神社が十数社あるといわれる。

 その起源は、江戸時代に遡り、文政4年高松藩主となった松平頼恕が、坂出に塩田115町歩を埋め立て造成した折に、家老の久米通賢に命じて、沖湛甫に奏斎したのが始まりといわれる。その後、各地で塩田が開発されるたびに勧請された。

 長浜地区の塩釜神社も、そのようにして建てられた塩釜神社の一つであると考えられる。」と書かれている。

 坂出市高屋町の塩釜神社もその一つであろう。坂出市HPの「町名・地名由来(現在)」の「高屋町」について、「保元の昔、讃岐に流された崇徳上皇が上陸された松山ノ津(松ヶ浦海岸)を管理していた,高床館が設けられていたのが由来。白峰山登山口にある高家神社は、讃岐路で亡くなられた上皇の遺体を白峰山に葬る際、奉葬の一行が休憩所にあてたことで有名。景色に恵まれており、坂出市との合併までは、旧松山村の中心地だった。」と書かれている。

 

 塩釜神社の歌碑はサヌカイトであり、鏡面反射し歌碑を写すのは一苦労である

(注)サヌカイトの名前の由来:讃岐の名石として知られるサヌカイトは黒色緻密で堅く、たたくとカンカンと金属音を出すので、属に「カンカン石」と呼ばれる。割ると鋭利な角崚や貝殻状の割れ口を呈することから、縄文~弥生時代の生活用具として、矢じりや石刀など人類発展に大きな役割を果たした。(中略)1891年にドイツの岩石学者ワイシェンク(Weinschenk)が来日して研究し、世界で珍しい感関として、産地の旧国名讃岐にちなみ、サヌキット(Sanukit)と命名して報告した。これが英語読みのサヌカイト(Sanukite)となり、世界的にも有名になり、日本でも『讃岐岩』として知られるようになった。(後略)(香川大学博物館HP)

 

■ホテル⇒坂出市高屋町 塩釜神社

 2日目の最初の歌碑は、塩釜神社にある。

楼門と境内と社殿

社殿

県道16号線沿い、五色台の麓にある小さな楼門と社殿が残っているだけの小ぢんまりとした神社である。楼門の右側境内の隅っこに歌碑は建てられている。

 この歌碑は、坂出市万葉を歩く会が建立したもので、冒頭に巻一 五歌「霞立つ 長き春日(はるひ)の 暮れにける わづきも知らず むらきもの 心を痛み ぬえこ鳥(どり) うら泣け居(を)れば・・・」と刻されており、「ぬえこ鳥(トラツグミ)」は、ものの哀れを想起させる鳥である旨が書かれていた。

 

 

 

―その1778-

●歌は、「霞立つ 長き春日の 暮れにける わづきも知らず むらきもの 心を痛み ぬえこ鳥 うら泣け居れば・・・(巻一 五歌)」

「山越の風を時じみ寝る夜おちず家にある妹を懸けて偲ひつ(巻一 六歌)である。

 

●歌碑は、坂出市高屋町 白峰展望台にある。

白峰展望台万葉歌碑(軍王)

●歌は、前稿(その1777)と同じである。             

 

白峰展望台案内碑と歌碑

坂出市高屋町 塩釜神社⇒同 白峰展望台

 神社をあとにし、四国八十八カ所第八十一番白峰寺に通じる山道を上って行く。白峰展望台に歌碑は建てられている。

 塩竈神社の歌碑もそうであるがここも磨き上げた黒色の鏡面のサヌカイトに刻されているので、映り込みがきつく写真としては苦手な歌碑である。

 

 

 

(参考文献)

★「萬葉集」 鶴 久・森山 隆 編 (桜楓社)

★「万葉集 一」 伊藤 博 著 (角川ソフィア文庫)

★「weblio古語辞典 学研全訳古語辞典」

★「コトバンク 講談社デジタル版 日本人名大辞典+Plus」

★「香川県さぬき市HP」

★「坂出市HP」

★「香川大学博物館HP」