万葉集の歌碑めぐり

万葉歌碑をめぐり、歌の背景等を可能な限り時間的空間的に探索し、万葉集の万葉集たる所以に迫っていきたい!

万葉歌碑を訪ねて(その1786)―橿原市南浦町 古池―万葉集巻三 四二六

●歌は、「草枕旅の宿りに誰が夫か国忘れたる家待たまくに」である。

橿原市南浦町 古池万葉歌碑(柿本人麻呂

●歌碑は、橿原市南浦町 古池にある。

 

●歌をみていこう。

 

題詞は、「柿本朝臣人麻呂見香具山屍悲慟作歌一首」<柿本朝臣人麻呂。見香具山の屍(しかばね)を見て、悲慟(かな)しびて作る歌一首>である。

 

草枕 羈宿尓 誰嬬可 國忘有 家待真國

       (柿本人麻呂 巻三 四二六)

 

≪書き下し≫草枕旅の宿(やど)りに誰(た)が夫(つま)か国忘れたる家待たまくに   

 

(訳)草を枕のこの旅先の宿りで、いったいどなたの夫なのであろうか、故郷へ帰るもの忘れて臥せっているのは。家の妻たちは帰りをひたすら待っているのであろうに。(「万葉集 一」 伊藤 博 著 角川ソフィア文庫より

(注)やどり【宿り】名詞:①旅先で泊まること。宿泊。宿泊所。宿所。宿。②住まい。住居。特に、仮の住居にいうことが多い。③一時的にとどまること。また、その場所。 ⇒参考:「宿り」は、住居をさす「やど」「すみか」とは異なり、旅先の・仮のの意を含んでいる。(weblio古語辞典 学研全訳古語辞典)

(注)国忘れ:死んで横たわっていることをいう。「国」は故郷。(伊藤脚注)

(注)家:家人。(伊藤脚注)

 

 この歌では、「死」について、目の当たりにした「行路の死」を家で「待つ妻」に焦点をあて、「死」の悲しみをより強く打ち出している。

 

 このパターンは、題詞、「讃岐狭岑嶋視石中死人柿本朝臣人麿作歌一首并短歌」<讃岐(さぬき)の狭岑(さみねの)島にして、石中(せきちゅう)の死人(しにん)を見て、柿本朝臣人麻呂が作る歌一首并(あは)せて短歌>の長歌(二二〇歌)と反歌二首(二二一、二二二歌)の歌群についてもあてはまるのである。

(注)狭岑(さみねの)島:香川県塩飽諸島中の沙美弥島。今は陸続きになっている。

(注)石中の死人:海岸の岩の間に横たわる死人。

 

 歌をみてみよう。

◆玉藻吉 讃岐國者 國柄加 雖見不飽 神柄加 幾許貴寸 天地 日月與共 満将行 神乃御面跡 次来 中乃水門従 船浮而 吾榜来者 時風 雲居尓吹尓 奥見者 跡位浪立 邊見者 白浪散動 鯨魚取 海乎恐 行船乃 梶引折而 彼此之 嶋者雖多 名細之 狭岑之嶋乃 荒磯面尓 廬作而見者 浪音乃 茂濱邊乎 敷妙乃 枕尓為而 荒床 自伏君之 家知者 往而毛将告 妻知者 来毛問益乎 玉桙之 道太尓不知 鬱悒久 待加戀良武 愛伎妻等者

       (柿本人麻呂 巻二 二二〇)

 

≪書き下し≫玉藻(たまも)よし 讃岐(さぬき)の国は 国からか 見れども飽かぬ 神(かむ)からか ここだ貴(たふと)き 天地(あめつち) 日月(ひつき)とともに 足(た)り行(ゆ)かむ 神の御面(みおも)と 継ぎ来(きた)る 那珂(なか)の港ゆ 船浮(う)けて 我(わ)が漕(こ)ぎ来(く)れば 時つ風 雲居(くもゐ)に吹くに 沖見れば とゐ波立ち 辺(へ)見れば 白波騒く 鯨魚(いさな)取り 海を畏(かしこ)み 行く船の 梶引き折(を)りて をちこちの 島は多(おほ)けど 名ぐはし 狭岑(さみね)の島の 荒磯(ありそ)面(も)に 廬(いほ)りて見れば 波の音(おと)の 繁(しげ)き浜辺を 敷栲(しきたへ)の 枕になして 荒床(あらとこ)に ころ臥(ふ)す君が 家(いへ)知らば 行きても告(つ)げむ 妻知らば 来(き)も問はましを 玉桙(たまほこ)の 道だに知らず おほほしく 待ちか恋ふらむ はしき妻らは

 

(訳)玉藻のうち靡(なび)く讃岐の国は、国柄が立派なせいかいくら見ても見飽きることがない。国つ神が畏(かしこ)いせいかまことに尊い。天地・日月とともに充ち足りてゆくであろうその神の御顔(みかお)であるとして、遠い時代から承(う)け継いで来たこの那珂(なか)の港から船を浮かべて我らが漕ぎ渡って来ると、突風が雲居はるかに吹きはじめたので、沖の方を見るとうねり波が立ち、岸の方を見ると白波がざわまいている。この海の恐ろしさに行く船の楫(かじ)が折れるなかりに漕いで、島はあちこちとたくさんあるけれども、中でもとくに名の霊妙な狭岑(さみね)の島に漕ぎつけて、その荒磯の上に仮小屋を作って見やると、波の音のとどろく浜辺なのにそんなところを枕にして、人気のない岩床にただ一人臥(ふ)している人がいる。この人の家がわかれば行って報(しら)せもしよう。妻が知ったら来て言問(ことど)いもしように。しかし、ここに来る道もわからず心晴れやらぬままぼんやりと待ち焦がれていることだろう、いとしい妻は。(伊藤 博 著 「万葉集 一」 角川ソフィア文庫より)

(注)たまもよし【玉藻よし】分類枕詞:美しい海藻の産地であることから地名「讚岐(さぬき)」にかかる。(学研)

(注)那珂(なか)の港:丸亀市金倉川の河口付近。(伊藤脚注)

(注の注)金倉川:中津万象園・丸亀美術館の東側を流れる川である。

(注)ときつかぜ【時つ風】名詞:①潮が満ちて来るときなど、定まったときに吹く風。②その季節や時季にふさわしい風。順風。 ※「つ」は「の」の意の上代の格助詞(学研)

(注)とゐなみ【とゐ波】名詞:うねり立つ波。(学研)

(注)なぐはし【名細し・名美し】形容詞:名が美しい。よい名である。名高い。「なくはし」とも。 ※「くはし」は、繊細で美しい、すぐれているの意。上代語。(学研)

(注)狭岑(さみね)の島:今の沙弥島(しゃみじま)(香川県HP)

(注)ころふす【自伏す】:ひとりで横たわる。(weblio辞書 三省堂大辞林第三版)

(注)たまほこの【玉桙の・玉鉾の】分類枕詞:「道」「里」にかかる。かかる理由未詳。「たまぼこの」とも。(学研)

(注)おほほし 形容詞:①ぼんやりしている。おぼろげだ。②心が晴れない。うっとうしい。③聡明(そうめい)でない。※「おぼほし」「おぼぼし」とも。上代語。(学研)

 

 

◆妻毛有者 採而多宜麻之 作美乃山 野上乃宇波疑 過去計良受也

        (柿本人麻呂 巻二 二二一)

 

≪書き下し≫妻もあらば摘みて食(た)げまし沙弥(さみ)の山野(の)の上(うへ)のうはぎ過ぎにけらずや

 

(訳)せめて妻でもここにいたら、一緒に摘んで食べることもできたろうに、狭岑のやまの野辺一帯の嫁菜(よめな)はもう盛りが過ぎてしまっているではないか。(同上)

 

「うはぎ」は、古名はオハギ(『出雲風土記(いずもふどき)』)あるいはウハギで、『万葉集』にはウハギの名で二首が収録されている。春の摘み草の対象とされ、「春日野(かすがの)に煙(けぶり)立つ見ゆ娘子(おとめ)らし春野のうはぎ摘(つ)みて煮らしも」(巻十 一八七九)と詠まれているように、よく食べられていたとみられる。(コトバンク 日本大百科全書<文化史>)

 

 

◆奥波 来依荒磯乎 色妙乃 枕等巻而 奈世流君香聞

       (柿本人麻呂 巻二 二二二)

 

≪書き下し≫沖つ波来(き)寄(よ)る荒磯(ありそ)を敷栲(しきたへ)の枕とまきて寝る(な)せる君かも

 

(訳)沖つ波のしきりに寄せ来る荒磯なのに、そんな磯を枕にしてただ一人で寝ておられるこの夫(せ)の君はまあ。」(同上)

(注)なす【寝す】動詞:おやすみになる。▽「寝(ぬ)」の尊敬語。※動詞「寝(ぬ)」に尊敬の助動詞「す」が付いたものの変化した語。上代語。(学研)

 

 この歌群についてはブログ拙稿「万葉歌碑を訪ねて(その1726)」で紹介している。

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 四一五歌もみてみよう・

 

題詞は、「上宮聖徳皇子出遊竹原井之時見龍田山死人悲傷御作歌一首 小墾田宮御宇天皇代墾田宮御宇者 豊御食炊屋姫天皇也諱額田謚推古」<上宮聖徳太子(かみつみやのしょうとくのみこ)、竹原の井(たかはらのゐ)に出遊(いでま)す時に、竜田山(たつたやま)の死人を見て悲傷(かな)しびて作らす歌一首<小墾田の宮(おはりだのみや)に天の下知らしめす天皇の代。小墾田の宮に天の下知らしめすは豊御食炊屋姫(とよみけかしきやひめ)天皇なり。諱は額田、謚は推古>である。

(注)竹原井:大阪府柏原市高井田

(注)小墾田宮御宇天皇推古天皇

(注)推古天皇(554~628):記紀で第三三代天皇(在位592~628)の漢風諡号しごう。名は額田部(ぬかたべ)。豊御食炊屋姫(とよみけかしきやひめ)とも。欽明天皇第三皇女。敏達天皇の皇后。崇峻天皇蘇我馬子に殺されると、推されて即位。聖徳太子を皇太子・摂政として政治を行い、飛鳥文化を現出。(コトバンク 「大辞林第三版」)

 

◆家有者 妹之手将纏 草枕 客尓臥有 此旅人▼怜

      (聖徳太子 巻三 四一五)

   ▼は「りっしんべんに『可』」 「▼怜」で「あはれ」と読む

 

≪書き下し≫家ならば妹(いも)が手まかむ草枕旅に臥(こ)やせるこの旅人(たびと)あはれ   

 

(訳)家にいたなら、いとしい妻の腕(かいな)を枕にしているであろうに、草を枕に旅先で一人倒れ臥しておられるこの旅のお方は、ああいたわしい。(同上)

 

 この歌についてはブログ拙稿「万葉歌碑を訪ねて(その114改)」で紹介している。(初期のブログであるのでタイトル写真には朝食の写真が掲載されていますが、「改」では、朝食の写真ならびに関連記事を削除し、一部改訂いたしております。ご容赦下さい。)

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tom101010.hatenablog.com

 

 四一五歌も、行路にある「この旅人」の死を空間軸で「家ならば妹(いも)が手まかむ」と「妻」を呼びだし、「哀れ」感を最大に持って行っているのである。

 

 

 「なれば笥に盛る飯を草枕にしあれば椎の葉に盛る(有間皇子 一四二歌)

 「ならば妹が手まかむ草枕に臥やせるこの旅人あはれ(聖徳太子 四一五歌)

 

行路を嘆く歌にあっては、「家」と「旅」との対比は一つのパターンであり、行路の死を悲しむうたにあっては、「家・妻」と「旅の宿り」、「旅に臥やせる」などと対比させ、読者の涙を誘っているのである。

 

 万葉集の心憎いところはこのような所にもある。恐るべし万葉集である。

 

 

 香具山の東麓に「万葉の森」が整備されている。ここには九基の歌碑が立てられている。万葉の森の北出口あたりの空き地に車を停め、古池の池畔を歩いていく。道の両端には草が生い茂っている。車での移動も不可能ではないが、草による洗車状態になるので歩きが正解である。やがて左手に歌碑が見えて来る。

 

古池からの耳成山遠望

古池から二上山遠望

北西の方向には耳成山、西には二上山が見える絶景ポイントである。

歌碑と景色を堪能し次の目的地「畝尾都多本神社」を目指す。

 

 

 

 

(参考文献)

★「萬葉集」 鶴 久・森山 隆 編 (桜楓社)

★「万葉集 一」 伊藤 博 著 (角川ソフィア文庫)

★「万葉の心」 中西 進 著 (毎日新聞社

★「weblio古語辞典 学研全訳古語辞典」

★「コトバンク 大辞林第三版」

★「コトバンク 日本大百科全書<文化史>」

★「weblio辞書 三省堂大辞林第三版」

★「香川県HP」