●歌は、「磯の上に生ふる馬酔木を手折らめど見すべき君が在りと言はなくに」である。
●歌をみていこう。
題詞は、「移葬大津皇子屍於葛城二上山之時大来皇女哀傷御作歌二首」<大津皇子の屍(しかばね)を葛城(かづらぎ)の二上山(ふたかみやま)に移し葬(はぶ)る時に、大伯皇女の哀傷(かな)しびて作らす歌二首>である。
(注)移し葬(はぶ)る時:殯宮から墓地に移し葬った時に。(伊藤脚注)
(注の注)祟りを恐れて罪人の大津皇子にも殯宮の礼が許されたらしい。(伊藤脚注)
◆磯之於尓 生流馬酔木乎 手折目杼 令視倍吉君之 在常不言尓
(大伯皇女 巻二 一六六)
≪書き下し≫磯(いそ)の上(うえ)に生(お)ふる馬酔木(あしび)を手折(たを)らめど見(み)すべき君が在りと言はなくに
(訳)岩のあたりに生い茂る馬酔木の枝を手折(たお)りたいと思うけれども。これを見せることのできる君がこの世にいるとは、誰も言ってくれないではないか。(伊藤 博 著 「万葉集 一」 角川ソフィア文庫より)
左注は、「右一首今案不似移葬之歌 蓋疑従伊勢神宮還京之時路上見花感傷哀咽作此歌乎」<右の一首は、今案(かむが)ふるに、移し葬る歌に似ず。けだし疑はくは、伊勢の神宮(かむみや)より京に還る時に、路(みち)の上(へ)に花を見て感傷(かんしょう)哀咽(あいえつ)してこの歌を作るか。>である。
三重県明和町HPに「斎王(さいおう)」について、次の様に書かれている。
「斎王(さいおう)…それは、天皇に代わって伊勢神宮の天照大神に仕えるために選ばれた、未婚の皇族女性のことである。歴史に見られる斎王制度は、天武二年(674)、壬申(じんしん)の乱に勝利した天武天皇が、勝利を祈願した天照大神に感謝し、大来皇女(おおくのひめみこ)を神に仕える御杖代(みつえしろ)として伊勢に遣わしたことに始まる。 以来、斎王制度は660年以上にわたって続き、60人以上の斎王が存在した。・・・ 制度が確立して以降の斎王は、卜定(ぼくじょう)という占いで選ばれ、斎王群行と呼ばれる五泊六日の旅を経て伊勢へと赴いた。その任が解かれるのは、主に天皇が代わったときのみ。年に三度、伊勢神宮に赴く以外は、一年のほとんどを斎宮で過ごし、神々を祀る日々を送っていた。・・・ 斎王の解任(退下)は天皇の譲位、死去、近親者の喪などによる」
斎王が住いする「斎宮の規模」について、同町HPに、大宰府・平城京・平安京との比較が次の様に図示されているので引用させていただきました。
「史跡 斎王の宮跡」については、大伯皇女の一〇五、一〇六歌とともに、ブログ拙稿「万葉歌碑を訪ねて(その429)」で紹介している。
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一六五歌もみてみよう。
◆宇都曽見乃 人尓有吾哉 従明日者 二上山乎 弟世登吾将見
(大伯皇女 巻二 一六五)
≪書き下し≫うつそみの人にある我(あ)れや明日(あす)よりは二上山(ふたかみやま)を弟背(いろせ)と我(あ)れ見む
(訳)現世の人であるこの私、私は、明日からは二上山を我が弟としてずっと見続けよう。(同上)
一六五、一六六歌についてはブログ拙稿「万葉歌碑を訪ねて(その173)」で紹介している。
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香芝市HPに、「二上山(ふたかみやま)」について、「奈良盆地の北西部、奈良県と大阪府が境を接するあたりに位置し、雄岳と雌岳が寄り添って並ぶ二上山。左右に金剛・葛城山系と信貴・生駒山系をしたがえ、四季折々、季節のうつろいの中でその優美な姿を変えていきます。雄岳の頂上には、謀反の罪で命を落とした悲劇の皇子・大津皇子が眠ります。古くは『万葉集』に詠まれ、万葉の『ふたかみやま』として古代史の舞台ともなりました。」と書かれている。
「二上山」を詠んだ歌をみてみよう。
◆木道尓社 妹山在云 玉櫛上 二上山母 妹許曽有来
(作者未詳 巻七 一〇九八)
≪書き下し≫紀伊道(きぢ)にこそ妹山(いもやま)ありといへ玉櫛笥(たまくしげ)二上山(ふたかみやま)も妹こそありけれ
(訳)紀伊路(きじ)に妹山はあると世間で言うけれど、ここ大和の二上山にも妹山があったのに。(「万葉集 二」 伊藤 博 著 角川ソフィア文庫より)
(注)妹山:和歌山県伊都郡かつらぎ町西渋田にある山。北岸の背の山と共に妹背の山と呼ばれる。(伊藤脚注)
(注)たまくしげ【玉櫛笥・玉匣】分類枕詞:くしげを開けることから「あく」に、くしげにはふたがあることから「二(ふた)」「二上山」「二見」に、ふたをして覆うことから「覆ふ」に、身があることから、「三諸(みもろ)・(みむろ)」「三室戸(みむろと)」に、箱であることから「箱」などにかかる。(weblio古語辞典 学研全訳古語辞典)
この歌についてはブログ拙稿「万葉歌碑を訪ねて(その1412)」で紹介している。
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◆大坂乎 吾越来者 二上尓 黄葉流 志具礼零乍
(作者未詳 巻十 二一八五)
≪書き下し≫大坂(おほさか)を我(わ)が越え来(く)れば二上(ふたかみ)に黄葉(もみじ)流るしぐれ降りつつ
(訳)大坂を私が越えてやって来たところ、二上山にもみじ葉がはらはらと舞っている。時雨が降り続くので。(同上)
(注)大坂:二上山の北を越える穴虫越か。南を越える竹内越ともいう。
この歌についてはブログ拙稿「万葉歌碑を訪ねて(その174)」で紹介している。
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◆二上尓 隠經月之 雖惜 妹之田本乎 加流類比来
(作者未詳 巻十一 二六六八)
≪書き下し≫二上(ふたかみ)に隠(かく)らふ月の惜(を)しけども妹が手本(たもと)を離(か)るるこのころ
(訳)二上の山に隠れてゆく月が名残惜しくてならぬように、まことに心残りなことだが、あの子の手枕からずっと遠ざかったままのこのごろだ。(「万葉集 三」 伊藤 博 著 角川ソフィア文庫より)
(注)二上:葛城の二上山。上二句は序。「惜し」を起こす。(伊藤脚注)
これまで歌碑巡りを行なって来た中で、二上山の光景をいくつかあげてみよう。
(参考文献)
★「萬葉集」 鶴 久・森山 隆 編 (桜楓社)
★「weblio古語辞典 学研全訳古語辞典」
★「香芝市HP」
★「三滝自然公園 万葉の道」 (せいよ城川観光協会)