万葉集の歌碑めぐり

万葉歌碑をめぐり、歌の背景等を可能な限り時間的空間的に探索し、万葉集の万葉集たる所以に迫っていきたい!

万葉歌碑を訪ねて(その1796)―愛媛県西予市 三滝公園万葉の道(8)―万葉集 巻四 六六九

●歌は、「あしひきの山橘の色に出でよ語らひ継ぎて逢ふこともあらむ」である。

愛媛県西予市 三滝公園万葉の道(8)万葉歌碑(春日王

●歌碑は、愛媛県西予市 三滝公園万葉の道(8)にある。

 

●歌をみていこう。

 

◆足引之 山橘乃 色丹出与 語言継而 相事毛将有

             (春日王    巻四 六六九)

 

≪書き下し≫あしひきの山橘(やまたちばな)の色に出でよ語らひ継(つ)ぎて逢ふこともあらむ

 

(訳)山陰にくっきりと赤いやぶこうじの実のように、いっそお気持ちを面(おもて)に出してください。そうしたら誰か思いやりのある人が互いの消息を聞き語り伝えて、晴れてお逢いすることもありましょう。(伊藤 博 著 「万葉集 一」 角川ソフィア文庫より)

(注)上二句「足引之 山橘乃」は序、「色丹出与」を起こす。(伊藤脚注)

 

題詞は、「春日王歌一首 志貴皇子之子母日多紀皇女也」<春日王(かすがのおほきみ)が歌一首 志貴皇子の子、母は多紀皇女といふ>である。

(注)多紀皇女は、天武天皇の娘。(伊藤脚注)

 

志貴皇子の子供には、万葉歌人湯原王(母不祥)、白壁皇子(後の光仁天皇 母は紀橡姫 太政大臣紀諸人の娘)、春日王らがいる。

 

この歌ならびに異母兄弟の湯原王の歌についてはブログ拙稿「万葉歌碑を訪ねて(その1077)」で紹介している。

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 春日王の系譜をみてみると次の通りである。(フリー百科事典『ウィキペディアWikipedia)』)

父:志貴皇子[1][2]

母:託基皇女(多紀皇女・当耆内親王

男子:安貴王

男子:高田王

男子:香久王

 

天智天皇の男系の孫、天武天皇の女系の孫にあたる」とある。これらを参考に系図を作ってみた。次の通りである。

 

春日王」の系図

 

 「春日王」の系図上の主な人たちをみてみよう。

 

■父:志貴皇子(?―715/716)■

万葉集』の歌人。活躍は藤原京時代。天智(てんじ)天皇の皇子。母は道君伊羅都売(みちのきみのいらつめ)。光仁(こうにん)天皇の父で、追尊して春日宮(かすがのみや)天皇、また田原(たわら)天皇とも。万葉歌人湯原王(ゆはらのおおきみ)らの父でもある。天武(てんむ)朝にはすでに成年に達していたらしい。持統(じとう)朝には不遇であった。作品は短歌6首で少ないが、明快、流麗なリズムで新鮮さがあり、繊細な面も認められる。また寓意(ぐうい)を含むと思われる歌、機知的な歌もある。なお皇子の死を悼(いた)む笠金村(かさのかなむら)の挽歌(ばんか)が巻二に収録されている。この題詞が715年(霊亀元年)没と伝え、『続日本紀(しょくにほんぎ)』が716年没とする(後略)。(コトバンク 小学館 日本大百科全書<ニッポニカ>)

 

 志貴皇子の六首の内の五一、六四、一四一八歌ならびに陵墓である「奈良市田原町 田原西陵」についてはブログ拙稿「万葉歌碑を訪ねて(その28改)」で紹介している。

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万葉歌碑を訪ねて(その28改)―奈良市矢田原町 田原西陵前―万葉集 巻八 一四一八 - 万葉集の歌碑めぐり

 

 残りの二六七、五一三、一四六六歌についてはブログ拙稿「万葉歌碑を訪ねて(その29改)」で紹介している。

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万葉歌碑を訪ねて(その29改)―奈良県ヘリポートの東側―万葉集 巻三 二六七 <本日新元号『令和』が発表された> - 万葉集の歌碑めぐり

 

 笠金村の「志貴親王(しきのみこ)の薨ぜし時に作る歌一首 幷(あは)せて短歌」についてはブログ拙稿「万葉歌碑を訪ねて(その19改)」で紹介している。

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万葉歌碑を訪ねて(その19改)―白毫寺の境内―万葉集 巻二 二三一 - 万葉集の歌碑めぐり

 

 

■母:多紀皇女(?-751)■

奈良時代天武天皇の皇女。文武天皇二年伊勢斎宮(さいぐう)となる。施基皇子(しきのおうじ)の妃となって春日王を生んだ。一品(いっぽん)。天平勝宝(てんぴょうしょうほう)三年死去。名は託基、当耆とも書く。(コトバンク 講談社デジタル版 日本人名大辞典+Plus参照)

天平勝宝元年(749年)、一品に昇叙された。奈良時代を通じて内親王で一品に昇進したのは、彼女と氷高皇女(後の元正天皇)の2人だけである。これは当時既に、天武天皇の子女の中で彼女が最後の生存者になっていたために、格別な敬意が払われたものとされている。志貴皇子とは斎宮退下後に結婚したものと思われる。(フリー百科事典『ウィキペディアWikipedia)』参照)

 

 

■異母兄弟:白壁皇子【光仁天皇】(709-781)■

「第49代に数えられる奈良後期の天皇。在位770-781年。天智天皇の孫、施基(志貴)皇子の第6子、母は紀諸人の女橡姫(とちひめ)。諱(いみな)は白壁、和風諡号(しごう)を天宗高紹(あまむねたかつぎ)天皇という。天平九年(737年)無位から従四位下に叙せられ、以後累進して正三位大納言に至ったが、その間飲酒をほしいままにして皇位継承の争いに巻き込まれるのを避けていた。しかし770年8月に称徳天皇が没し、天武系の皇統が絶えると、藤原百川、永手らに擁立されて皇太子となり、道鏡を下野薬師寺別当に左遷した。(コトバンク 株式会社平凡社世界大百科事典 第2版参照)

 

 志貴皇子の陵墓は、奈良市田原町 田原西陵であるが、光仁天皇の陵墓は、奈良市日笠町の田原東陵である。

 田原東陵についてはブログ拙稿「万葉歌碑を訪ねて(その1091)」で紹介している・

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■子:安貴王(生没年不祥)■

 奈良時代春日王(かすがのおう)の王子。妻は紀少鹿女郎(きの-おしかのいらつめ)(コトバンク 講談社デジタル版 日本人名大辞典+Plus参照)

 万葉集には、四首(三〇六、五三四、五三五、一五五五歌)が収録されている。

 

 この歌をみてみよう。

 

題詞は、「幸伊勢國之時安貴王作歌一首」<伊勢の国に幸(いでま)す時に、安貴王(あきのおほきみ)が作る歌一首>である。

(注)養老二年(718年)二月、元正天皇美濃行幸の途次か。(伊藤脚注)

 

◆伊勢海之 奥津白浪 花尓欲得 褁而妹之 家褁為

       (安貴王 巻三 三〇六)

 

≪書き下し≫伊勢の海の沖つ白波(しらなみ)花にもが包みて妹(いも)が家(いへ)づとにせむ

 

(訳)伊勢の海の沖の白波よ、これが花であったらよいのに。包んで持ち帰っていとしい子への土産にしように。(同上)

(注)もが 終助詞:《接続》体言、形容詞・助動詞の連用形、副詞、助詞などに付く。〔願望〕…があったらなあ。…があればなあ。 ⇒参考:上代語。上代には、多く「もがも」の形で用いられ、中古以降は「もがな」の形で用いられた。⇒もがな・もがも(学研)

(注)いへづと【家苞】名詞:自分の家への土産。(学研)

 

 

題詞は、「安貴王歌一首 幷短歌」<安貴王(あきのおほきみ)が歌一首 幷(あは)せて短歌>である。

 

◆遠嬬 此間不在者 玉桙之 道乎多遠見 思空 安莫國 嘆虚 不安物乎 水空徃 雲尓毛欲成 高飛 鳥尓毛欲成 明日去而 於妹言問 為吾 妹毛事無 為妹 吾毛事無久 今裳見如 副而毛欲得

     (安貴王 巻四 五三四)

 

≪書き下し≫遠妻(とほづま)の ここにしあらねば 玉桙(たまほこ)の 道をた遠(どほ)み 思ふそら 安けなくに 嘆くそら 苦しきものを み空行く 雲にもがも 高飛ぶ 鳥にもがも 明日(あす)行きて 妹(いも)に言(こと)どひ 我(あ)がために 妹も事なく 妹がため 我(あ)れも事なく 今も見るごと たぐひてもがも

 

(訳)遠くにいる妻がこの地にはいないので、といって妻のいる所へは道のりが遠いので、逢(あ)う手だてもないまま、妻を思ってとても平静ではいられないし、嘆きに胸を苦しめるばかりでどうにもできない。ああ、大空を流れて行く雲にでもなりたい、空高く飛ぶ鳥にでもなりたい。明日にでも行き着いてあの子と語り合い、私のためにあの子もとがめられることなく、あの子のために私もとがめられることなく、今も面影に見えるようにぴったり寄り添っていたいものだ。(同上)

(注)とほづま【遠妻】:遠く離れている妻。会うことのまれな妻。また七夕の織女星。(weblio辞書 デジタル大辞泉

(注)そら【空】名詞:①大空。空。天空。②空模様。天気。③途上。方向。場所。④気持ち。心地。▽多く打消の語を伴い、不安・空虚な心の状態を表す。 ⇒参考 地上の広々とした空間を表すのが原義。(学研)ここでは④の意

(注)ことどひ【言問ひ】名詞:言葉を言い交わすこと。語り合うこと(学研)

(注)ことなし【事無し】形容詞:①平穏無事である。何事もない。②心配なことがない。③取り立ててすることがない。たいした用事もない。④たやすい。容易だ。⑤非難すべき点がない。欠点がない。(学研)ここでは①の意

 

 

◆敷細乃 手枕不纒 間置而 年曽經来 不相念者

     (安貴王 巻四 五三五)

 

≪書き下し≫敷栲(しきたへ)の手枕(たまくら)まかず間(あひだ)置きて年ぞ経(へ)にける逢はなく思へば

 

(訳)あの子の手を枕にして寝ることのないままに長い時間が経って、とうとう年を越してしまったものだ。あの子に逢えないでいることを思うと・・・。(同上)

 

 左注は、「右安貴王娶因幡八上釆女 係念極甚愛情尤盛 於時勅断不敬之罪退却本郷焉 于是王意悼怛聊作此歌也」<右、安貴王、因幡(いなば)の八上釆女(やかみのうねめ)を娶(めと)る。 係念(けいねん)きはめて甚しく、愛情(あいじやう)もとも盛りなり。時に勅(みことのり)して、不敬の罪に断(さだ)め、本郷(もとつくに)に退却(しりぞ)く。ここに、王の意(こころ)悼(いた)び悲(かな)しびて、いささかにこの歌を作る>である。

(注)因幡八上釆女:因幡の国八上郡出身の采女。(伊藤脚注)

(注)係念:懸想すること。(伊藤脚注)

(注)もとも【尤も・最も】副詞:「もっとも」に同じ。(学研)

(注)不敬の罪に断め:二人の恋を不敬罪と断じ。采女天皇に所属する女性で、臣下との結婚は禁じられていた。(伊藤脚注)

 

 この五三四・五三五歌ならびに安貴王が因幡の八上采女(やかみのうねめ)を娶(めと)り不敬の罪に問われた後、安貴王と離婚した時の「紀郎女怨恨歌三首」についてはブログ拙稿「万葉歌碑を訪ねて(その1362)」で紹介している。

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題詞は、「安貴王歌一首」<安貴王(あきのおほきみ)が歌一首>である。

 

◆秋立而 幾日毛不有者 此宿流 朝開之風者 手本寒母

       (安貴王 巻八 一五五五)

 

≪書き下し≫秋立ちて幾日(いくか)もあらねばこの寝(ね)ぬる朝明(あさけ)の風は手本(たもと)寒しも

 

(訳)立秋になってからまだ幾日もたっていないのに、起き抜けのこの明け方の風は、手首にひんやりと冷たい。(「万葉集 二」 伊藤 博 著 角川ソフィア文庫より)

(注)幾日もあらねば:幾日もたっていないのに。(伊藤脚注)

(注)たもと【袂】名詞:①ひじから肩までの部分。手首、および腕全体にもいう。②袖(そで)。また、袖の垂れ下がった部分。 ※「手(た)本(もと)」の意から。(学研)ここでは②の意

 

 余談ではあるが、安貴王の妻であった紀郎女の歌十二首についてはブログ拙稿「万葉歌碑を訪ねて(その1114)」で紹介している。大伴家持との接点も見えて来るのである。万葉集の面白さでもある。

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(参考文献)

★「萬葉集」 鶴 久・森山 隆 編 (桜楓社)

★「万葉集 三」 伊藤 博 著 (角川ソフィア文庫

★「別冊國文學 万葉集必携」 稲岡耕二 編 (學燈社

★「weblio古語辞典 学研全訳古語辞典」

★「フリー百科事典『ウィキペディアWikipedia)』」

★「コトバンク 小学館 日本大百科全書<ニッポニカ>」

★「コトバンク 講談社デジタル版 日本人名大辞典+Plus」

★「コトバンク 株式会社平凡社世界大百科事典 第2版」

★「三滝自然公園 万葉の道」 (せいよ城川観光協会