万葉集の歌碑めぐり

万葉歌碑をめぐり、歌の背景等を可能な限り時間的空間的に探索し、万葉集の万葉集たる所以に迫っていきたい!

万葉歌碑を訪ねて(その1800)―愛媛県西予市 三滝公園万葉の道(12)―万葉集 巻二十 四四四八

●歌は、「あぢさゐの八重咲くごとく八つ代にをいませ我が背子見つつ偲はむ」である。

愛媛県西予市 三滝公園万葉の道(12)万葉歌碑(橘諸兄

●歌碑は、愛媛県西予市 三滝公園万葉の道(12)にある。

 

●歌をみていこう。

 

◆安治佐為能 夜敝佐久其等久 夜都与尓乎 伊麻世和我勢故 美都ゝ思努波牟

        (橘諸兄 巻二十 四四四八)

 

≪書き下し≫あぢさいの八重(やへ)咲くごとく八(や)つ代(よ)にをいませ我が背子(せこ)見つつ偲ばむ

 

(訳)あじさいが次々と色どりを変えてま新しく咲くように、幾年月ののちまでもお元気でいらっしゃい、あなた。あじさいをみるたびにあなたをお偲びしましょう。(伊藤 博 著 「万葉集 四」 角川ソフィア文庫より)

(注)八重(やへ)咲く:次々と色どりを変えて咲くように

(注)八(や)つ代(よ):幾久しく。「八重」を承けて「八つ代」といったもの。

(注)います【坐す・在す】[一]自動詞:①いらっしゃる。おいでになる。▽「あり」の尊敬語。②おでかけになる。おいでになる。▽「行く」「来(く)」の尊敬語。(weblio古語辞典 学研全訳古語辞典)

 

 左注は、「右一首左大臣寄味狭藍花詠也」≪右の一首は、左大臣、味狭藍(あじさゐ)の花に寄せて詠(よ)む。>である。

 

この歌についてはブログ拙稿「万葉歌碑を訪ねて(その967)」で紹介している。

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橘諸兄(たちばなのもろえ)については、「コトバンク 旺文社日本史事典 三訂版」に、「684~757 光明皇后の異父兄。母は橘三千代。初め葛城 (かずらぎ) 王と称し、736年臣籍に下り橘宿禰諸兄と改めた。翌年藤原不比等の4子が疫病により相ついで死んだのち、大納言・右大臣から正一位左大臣にすすみ、玄昉 (げんぼう) ・吉備真備 (きびのまきび) らと結んで新興勢力となった。しかし藤原広嗣の乱(740年)、恭仁京 (くにきよう) 造営失敗、大仏造立の困難などのため、新たに台頭した藤原仲麻呂に押されて、晩年はふるわず756年官を辞した。」と書かれている。

 

 大伴家持橘諸兄の接点は、大伴家持が、天平十年(738年)内舎人(うどねり)に任官された時であるといわれている。

 万葉集とも深く関わり、大伴家持をはじめ大伴氏族が心の支えにしてきた橘諸兄について、万葉集に収録されている歌を中心に、題詞、左注など(旧国家大観番号順)に顔をだす諸兄を追ってみよう。標題の橘諸兄の歌は太字で表した。

 

 

■巻六 一〇〇九歌の題詞・左注■

 題詞は、「冬十一月左大辨葛城王等賜姓橘氏之時御製歌一首」<冬の十一月に、左大弁(さだいべん)葛城王等(かづらきのおほきみたち)、姓橘の氏(たちばなのうぢ)を賜はる時の御製歌一首>である。

 

(注)左大弁(さだいべん)葛城王橘諸兄

 

◆橘者 實左倍花左倍 其葉左倍 枝尓霜雖降 益常葉之樹

       (聖武天皇 巻六 一〇〇九)

 

≪書き下し≫橘は実さへ花さへその葉さへ枝(え)に霜降れどいや常葉(とこは)の樹

 

(訳)橘の木は、実も花もめでたく、そしてその葉さえ、冬、枝に霜が降っても、ますます栄えるめでたい木であるぞ。(伊藤 博 著 「万葉集 二」 角川ソフィア文庫より)

(注)いや 感動詞:①やあ。いやはや。▽驚いたときや、嘆息したときに発する語。②やあ。▽気がついて思い出したときに発する語。③よう。あいや。▽人に呼びかけるときに発する語。④やあ。それ。▽はやしたてる掛け声。(weblio古語辞典 学研全訳古語辞典)

 

左注は、「右冬十一月九日 従三位葛城王従四位上佐為王等 辞皇族之高名賜外家之橘姓已訖 於時太上天皇ゝ后共在于皇后宮以為肆宴而即御製賀橘之歌并賜御酒宿祢等也 或云 此歌一首太上天皇御歌 但天皇ゝ后御歌各有一首者其歌遺落未得探求焉 今檢案内 八年十一月九日葛城王等願橘宿祢之姓上表 以十七日依表乞賜橘宿祢」<右は、冬の十一月の九日に、従三位葛城王従四位上佐為王等(さゐのおほきみたち)、皇族の高き名を辞(いな)び、外家(ぐわいか)の橘の姓を賜はること已訖(をは)りぬ。その時に、太上天皇(おほきすめらのみこと)・皇后(おほきさき)、ともに皇后の宮に在(いま)して、肆宴(とよのあかり)をなし、すなはち橘を賀(ほ)く歌を御製(つく)らし、并(あは)せて御酒(みき)を宿禰等(すくねたち)に賜ふ。或(ある)いは「この歌一首は太上天皇の御歌。ただし、天皇・皇后の御歌おのもおのも一首あり」といふ。その歌遺(う)せ落(お)ちて、いまだ探(たづ)ね求むること得ず。今案内(あんない)に検(ただ)すに、「八年の十一月の九日に、葛城王等、橘宿禰の姓を願ひて表(へう)を上(たてまつ)る。十七日をもちて、表の乞(ねがひ)によりて橘宿禰を賜ふ」。と>

 

 左注の意味は、「右の歌は、冬11月9日、従三位葛城王橘諸兄)、従四位上佐為王(橘佐為)等、皇族の高名ある地位を辞して、外家之橘の姓を賜わる。このとき、太上天皇(たいじょうてんのう: 元正天皇)、皇后が共に皇后宮においでになり、宴を催されて橘を祝う歌をお作りになり、併(あわ)せて橘宿祢(たちばなのすくね)らに御酒を賜わる。また、この歌は太上天皇の歌とも云われている。但し、聖武天皇と皇后の歌がそれぞれ一首あったとのこと。その歌は無くなっており、探し求めることができない。今、調べてみると、天平八年十一月九日に葛城王(かつらぎのおおきみ)たちが橘宿祢(たちばなのすくね)の姓を申請し、一七日に橘宿祢を賜わったとある。」

 

橘諸兄は、光明皇后の異父兄で葛城王と称する皇族であったが、天平八年(736年)、一〇〇九歌の題詞ならびに左注にもあるように橘宿禰姓を賜わり、名を諸兄と改めたのである。

 

 

■巻六 一〇二四~一〇二七歌の題詞ならびに一〇二五歌左注及び一〇二六歌左注■

 題詞、「(天平十年)秋の八月の二十日に、右大臣橘家にして宴(うたげ)する歌四首」のうちの一首である。

(注)右大臣橘家:橘諸兄邸。

 

◆奥真経而 吾乎念流 吾背子者 千年五百歳 有巨勢奴香聞

       (橘諸兄 巻六 一〇二五)

 

≪書き下し≫奥(おく)まへて我(わ)れを思へる我(わ)が背子(せこ)は千年(ちとせ)五百年(いほとせ)ありこせぬかも

 

(訳)心の奥深くに秘めて私を思っていて下さるあなたこそ、五百年も千年も生きていて欲しいものです。(同上)

(注)奥まへて:心の奥に深く秘めて。

(注)こせぬかも 分類連語:…してくれないかなあ。 ※動詞の連用形に付いて、詠嘆的にあつらえ望む意を表す。 ⇒ なりたち 助動詞「こす」の未然形+打消の助動詞「ず」の連体形+疑問の係助詞「か」+詠嘆の終助詞「も」(学研)

 

 左注は、「右の一首は右大臣が和(こた)ふる歌」である。

 一〇二六歌の左注に「右の一首は、右大臣伝えて、「故豊島采女(うねめ)が歌」といふ」とある。

 

橘諸兄は、天平十年(738年)一月に右大臣に就任。天平九年(737年)天然痘が大流行し藤原不比等の四子(房前、麻呂、武智麻呂、宇合)が相次いで没し藤原政権が一時的に崩壊し王族出身者が新政権を担い、旧氏族(大野・巨勢・大伴・県犬養氏)が活気づいたのである。

 

 

一五七四・一五七五歌・題詞

題詞「右大臣橘家にして宴(うたげ)する歌七首」の内の二首である。

 

◆雲上尓 鳴奈流鴈之 雖遠 君将相跡 手廻来津

       (橘諸兄 巻八 一五七四)

 

≪書き下し≫雲の上(うへ)に鳴くなる雁(かり)の遠けども君に逢はむとた廻(もとほ)り来(き)つ

 

(訳)雲の上で鳴いている雁のように、遠い所ではありますが、あなた様にお目にかかろうと、めぐりめぐりしてやって参りました。(同上)

(注)上二句は序。「遠けども」を起す。

(注)たもとほる【徘徊る】自動詞:行ったり来たりする。歩き回る。 ※「た」は接頭語。上代語。(学研)

(注の注)た廻(もとほ)り来(き)つ:遠路はるばるやって来た。宴は、奈良京から離れた井出(京都府綴喜郡)の別邸で行われた。

 

 

◆雲上尓 鳴都流鴈乃 寒苗 芽子乃下葉者 黄變可毛

       (橘諸兄 巻八 一五七五)

 

≪書き下し≫雲の上(うへ)に鳴きつる雁の寒きなへ萩の下葉(したば)はもみちぬるかも

 

(訳)雲の上で鳴いた雁の声が寒々と感じられる折も折、お屋敷一帯の萩の下葉はすっかり色づきましたね。何と見事なことでしょう。(同上)

 

 

一五七四~一五八〇の歌群の左注は、「天平十年戌寅(つちのえとら)の秋の八月二十日」となっている。先の一〇二五歌の題詞と同じ日付であり、どうも分けて編纂収録されたようである。

 

 

■一五八一~一五九一歌群左注■

歌群の左注は、「以前冬十月十七日集於右大臣橘卿之舊宅宴飲也」<以前(さき)は、冬の十月の十七日い、右大臣橘卿が旧宅に集(つど)ひて宴飲(えんいん)す。>である。

(注)旧宅:橘諸兄の奈良の旧宅か。

 

 大伴家持は、天平十年(738年)内舎人(うどねり)に任官され、右大臣橘諸兄に接近するようになり、同冬十月、長子の奈良麻呂の主催する宴に招かれたのである。この宴のメンバーには、大伴家持、弟の書持、歌友の大伴池主がいた。この時奈良麻呂は十七歳か十八歳。家持二十一歳である。

天平十八年(746年)弟の書持が亡くなっている。

 さらに、後の橘奈良麻呂の変という歴史の波に家持・池主が飲み込まれるとは誰が想像しえたであろうか。

 

 この歌群の歌のすべては、ブログ拙稿「万葉歌碑を訪ねて(その939)」で紹介している。

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三九二二歌 題詞ならびに左注■

序は、「天平十八年正月白雪多零積地數寸也 於時左大臣橘卿率大納言藤原豊成朝臣及諸王諸臣等参入太上天皇御在所 ≪中宮西院」供奉掃雪 於是降詔大臣参議并諸王者令侍于大殿上諸卿大夫者令侍于南細殿 而則賜酒肆宴勅曰汝諸王卿等聊賦此雪各奏其歌 」<天平十八年の正月に、白雪(はくせつ)多(さは)に零(ふ)り、地(つち)に積(つ)むこと数寸(すすん)なり。時に、左大臣橘卿(たちばなのまへつきみ)、大納言(だいなごん)藤原豊成朝臣(ふづはらのとよなりあそん)また諸王諸臣(しよわうしよしん)たちを率(ゐ)て、太上天皇(おほきすめらみこと)の御在所 ≪中宮の西院≫に参入(まゐ)り、仕(つか)へまつりて雪を掃く。ここに詔(みことのり)を降(くだ)し、大臣参議幷(あは)せて諸王は、者令侍于大殿(おほどに)の上に侍(さもら)はしめ、諸卿大夫(しよきやうだいぶ)は、南の細殿(ほそどの)に侍はしめて、すなはち于酒を賜ひ肆宴(とよのあかり)したまふ。勅(みことのり)して曰(のちたま)はく、「汝(いまし)ら諸王卿たち、いささかにこの雪を賦(ふ)して、おものおものその歌を奏せ」とのりたまふ。>である。

(注)天平十八年:746年

 

題詞は、「左大臣橘宿祢應詔歌一首」<左大臣宿禰(たちばなのすくね)、詔(みことのり)の応(こた)ふる歌一首>である。

 

◆布流由吉乃 之路髪麻泥尓 大皇尓 都可倍麻都礼婆 貴久母安流香

       (橘諸兄 巻十七 三九二二)

 

≪書き下し≫降る雪の白髪までに大君に仕へまつれば貴くもあるか

 

(訳)降り積もる雪のようにまっ白な髪になるまでも、大君にお仕(つか)へまつれば貴(たふと)くもあるか。(「万葉集 四」 伊藤 博 著 角川ソフィア文庫より)

 

左注は、

藤原豊成朝臣     巨勢奈弖麻呂朝臣

大伴牛養宿祢     藤原仲麻呂朝臣

三原王        智奴王

船王         邑知王

小田王        林王

穂積朝臣老      小田朝臣諸人

小野朝臣綱手     高橋朝臣國足

朝臣徳太理     高丘連河内

秦忌寸朝元      楢原造東人

右件王卿等 應詔作歌依次奏之 登時不記其歌漏失 但秦忌寸朝元者 左大臣橘卿謔云 靡堪賦歌以麝贖之 因此黙已也

 

藤原豊成朝臣(ふぢはらのとよなりのあそみ)、巨勢奈弖麻呂朝臣(こせのなてまろのあそみ)、大伴牛養宿禰(おほとものうしかひのすくね)、藤原仲麻呂朝臣(ふぢはらのなかまろのあそみ)、三原王(みはらのおほきみ)、智奴王(ちぬのおおほきみ)、船王(ふねのおほきみ)、邑知王(おほちのおほきみ)、小田王(をだのおほきみ)、林王(はやしのおほきみ)、穂積朝臣老(ほづみのあそみおゆ)、小田朝臣諸人(をだのあそみもろひと)、小野朝臣綱手(をのあそみつなて)、高橋朝臣國足(たかはしのあそみくにたり)、太朝臣徳太理     (おほのあそみとこたり)、高丘連河内(たかをかのむらじかふち)、秦忌寸朝元(はたのいみきてうぐわん)、楢原造東人(ならはらのみやつこあづまひと)

 

右の件(くだり)の王卿等 詔(みことのり)に応(こた)へて歌を作り、次(つぎて)によりて奏す。その時に記さずして、その歌漏(も)り失(う)せたり。ただし、秦忌寸朝元は、左大臣橘卿謔(たはぶ)れて云はく、「歌を賦(ふ)するに堪(あ)へずは、麝(じや)をもちてこれを贖(あがな)へ」といふ。これによりて黙(もだ)してやみぬ。」である。

(注)麝(じや)をもちてこれを贖(あがな)へ:中国南部からチベットにかけて棲むじゃこうじかの雄の腹にある香嚢から製した香料。薬用にも供し極めて高価。唐国帰りの朝元はこれを秘蔵しているはずだとからかったもの。

(注)黙(もだ)してやみぬ:朝元は歌を奉らずに終わった。

 

天平十六年(744年)安積親王が亡くなり、藤原仲麻呂の手によるものと言われている。親王は、聖武天皇のただ一人の息子でありながら皇太子に立てられていなかった。

天平十八年の正月に開かれたこの肆宴(とよのあかり)には、藤原仲麻呂も参加し歌(歌は記録されていない)を披露している。橘奈良麻呂の変への導火線はこのころもくすぶり続けていたのであろう。

家持が越中の国の守に任ぜられたのは七月である。これについても橘諸兄の意向とする考えもあるが、藤原仲麻呂の意図がより反映されたとみる考えが強い。

 

 この歌群の歌についてはブログ拙稿「万葉歌碑を訪ねて(その1706)」で紹介している。

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■四〇三二から四〇三五の歌群の題詞■

題詞は、「天平廿年春三月廾三日左大臣橘家之使者造酒司令史田邊福麻呂饗于守大伴宿祢家持舘爰作新歌幷便誦古詠各述心緒」<天平(てんびやう)二十年の春の三月の二十三日に、左大臣橘家の使者、造酒司(さけのつかさ)の令史(さくわん)田辺史福麻呂(たなべのふびとさきまろ)に、守(かみ)大伴宿禰家持が舘(たち)にして饗(あへ)す。ここに新(あらた)いき歌を作り、幷(あは)せてすなはち古き詠(うた)を誦(うた)ひ、おのもおのも心緒(おもひ)を述ぶ>である。

 

 この歌群の歌についてはブログ拙稿「万葉歌碑を訪ねて(その843)」で紹介している。

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福麻呂が、越中に来た理由については、①橘氏の墾田地の獲得、②万葉集の編纂、③中央の政治情勢絡み、等々が言われている。

田辺福麻呂橘諸兄の使いで越中に来て、歌を伝えたり宴をしたり親交を深めている。橘諸兄も家持が万葉集に関する歌を収集していることや歌の力を見抜いて福麻呂を遣わしたのであろう。

 

 

 

四〇五六歌題詞■

総題詞は、「太上皇御在於難波宮之時歌七首 清足姫天皇也」 <太上皇(おほきすめらみこと)、難波(なには)の宮に御在(いま)す時の歌七首 清足姫天皇(きよたらしひめのすめらみこと)なり>である

(注)太上皇元正天皇

 

題詞は、「左大臣橘宿祢歌一首」<左大臣宿禰(たちばなのすくね)が歌一首>である。

 

◆保里江尓波 多麻之可麻之乎 大皇乎 美敷祢許我牟登 可年弖之里勢婆

       (橘諸兄 巻十八 四〇五六)

 

≪書き下し≫堀江(ほりえ)には玉敷かましを大君(おほきみ)を御船(みふね)漕(こ)がむとかねて知りせば

 

(訳)堀江には玉を敷き詰めておくのでしたのに。我が大君、大君がここで御船を召してお遊びになると、前もって存じ上げていたなら。(「万葉集 四」 伊藤 博 著 角川ソフィア文庫より)

(注)堀江:難波の堀江。今の天満橋あたりの大川。

 

 

◆多萬之賀受 伎美我久伊弖伊布 保里江尓波 多麻之伎美弖ゝ 都藝弖可欲波牟 <或云 多麻古伎之伎弖>

        (元正天皇 巻十八 四〇五七)

 

≪書き下し≫玉敷かず君が悔(く)いて言ふ堀江には玉敷き満(み)てて継ぎて通(かよ)はむ  <或いは「玉扱き敷きて」といふ>

 

(訳)玉を敷かないで、そのことをあなたが悔やんで言うこの堀江には、私が玉を一面に敷き詰めてあげて、これからの何度でも通ってきましょう。<私がこの玉を散らかして敷いてあげて>(同上)

 

左注は、「右二首件歌者御船泝江遊宴之日左大臣奏幷御製」<右の二首の件(くだり)の歌は、御船(おほみふね)江(かわ)を泝(さかのぼ)り遊宴する日に、左大臣が奏、幷(あは)せて御製>である。

(注)奏:天皇に奏上した歌

 

 四〇五六~四〇六二の歌群については、ブログ拙稿「万葉歌碑を訪ねて(その982)」で紹介している。

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■四二五六歌題詞■

題詞は、「左大臣橘卿(たちばなのまへつきみ)を寿(ほ)くために預(あらかじ)め作る歌1首」である。

 歌は家持の歌である。

 

 

四二七〇歌 題詞ならびに左注■

  題詞は、「十一月八日在於左大臣朝臣宅肆宴歌四首」<十一月の八日に、左大臣朝臣(たちばなのあそみ)が宅(いへ)に在(いま)して肆宴(しえん)したまふ歌四首>である。(注)肆宴(しえん):宮中等の公的な宴のこと。

 

◆牟具良波布 伊也之伎屋戸母 大皇之 座牟等知者 玉之可麻思乎

         (橘諸兄 巻十九 四二七〇)

 

≪書き下し≫葎(むぐら)延(は)ふ賤(いや)しきやども大君(おほきみ)の座(ま)さむと知らば玉敷かまし

 

(訳)葎の生い茂るむさくるしい我が家、こんな所にも、大君がお出まし下さると存じましたなら、前もって玉を敷きつめておくのでしたのに。(同上)

 

 左注は、「右一首左大臣橘卿」<右の一首は左大臣橘卿(たちばなのまへつきみ)>である。

 

聖武天皇が、臣下の橘諸兄宅で宴会を開いたこと自体が驚きである。また、大伴家持の歌がその宴会では、奏上されなかった、あるいは後に作成したと思われる歌を収録しているところにも、万葉集万葉集たる所以があるように思われる。

 

四二六九~四二七二の歌群については、ブログ拙稿「万葉歌碑を訪ねて(その190)」で紹介している。

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■四二八一歌左注■

左注は、「左大臣換尾云 伊伎能乎尓須流 然猶喩曰 如前誦之也 

右一首少納言大伴宿祢家持」<左大臣、尾(び)を換(か)へて、「息の緒にする」と云ふ。しかれども、なほし喩(をし)へて、「前のごとく誦(よ)め」と日(い)ふ 

右の一首は少納言大伴宿禰家持>である。

 

 橘諸兄と家持の蜜月時代を物語るエピソードである。

 

 

■四二八九歌題詞■

題詞は、「二月十九日於左大臣家宴見攀折柳條歌一首」<二月の十九日に、左大臣橘家の宴(うたげ)にして、攀(よ)ぢ折れる柳の条(えだ)を見る歌一首>である。

歌は家持の歌である。

 

■四三〇四歌 題詞ならびに左注■

題詞は、「同月廿五日左大臣橘卿宴于山田御母之宅歌一首」<同じき月の二十五日に、左大臣橘卿(たちばなのまへつきみ)、山田御母(やまだのみおも)が宅(いへ)にして宴(うたげ)する歌一首>である。

(注)橘卿:橘諸兄

(注)山田御母:山田史比売島。孝謙天皇の乳母。故に「御母」という。(伊藤脚注)

 

左注は、「右一首少納言大伴宿祢家持矚時花作 但未出之間大臣罷宴而不擧誦耳」<右の一首は、少納言(せうなごん大伴宿禰家持、時の花を矚(み)て作る。ただし、いまだ出(い)ださぬ間に、大臣宴を罷(や)めて、挙げ誦(うた)はなくのみ。>である。

 

 四三〇四歌については、ブログ拙稿「万葉歌碑を訪ねて(その1317)」で紹介している。

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■四四四六、四四四七四四四八 題詞ならびに左注■

 四四四六から四四四八歌の歌群の題詞は、「同月十一日左大臣橘卿宴右大辨丹比國人真人之宅三首」<同じ月の十一日に、左大臣橘卿(たちばなのまへつきみ)、右大弁(うだいべん)丹比國人真人(たぢひのくにひとのまひと)が宅(いへ)にして宴(うたげ)する歌三首>である。

 

 四四四八歌の左注は、「右一首左大臣寄味狭藍花詠也」<右の一首は、左大臣、味狭藍(あじさゐ)の花に寄せて詠む。>である。

 

◆麻比之都ゝ 伎美我於保世流 奈弖之故我 波奈乃未等波無 伎美奈良奈久尓

        (橘諸兄 巻二十 四四四七)

 

≪書き下し>賄(まひ)しつつ君が生(お)ほせるなでしこが花のみ問(と)はむ君ならなくに 

 

(訳)贈り物をしてはあなたがたいせつに育てているなでしこ、あなたは、そのなでしこの花だけに問いかけるようなお方ではないはずです。(同上)

 

左注は、「右一首左大臣和歌」<右の一首は、左大臣が和(こた)ふる歌>である。

 

 

■四四四九~四四五一歌群の題詞■

題詞は、「十八日左大臣宴於兵部卿橘奈良麻呂朝臣之宅歌三首」<十八日に、左大臣兵部卿(ひやうぶのきやう)橘奈良麻呂朝臣(たちばなのならまろのあそみ)が宅(いへ)にして宴(うたげ)する歌三首>である。

歌は、船王(ふねのおほきみ)一首と家持の二首である。

 

 

四四五四歌 題詞

題詞は、「十一月廿八日左大臣集於兵部卿橘奈良麻呂朝臣宅宴歌一首」<十一月の二十八日に、左大臣兵部卿橘奈良麻呂朝臣が宅(いへ)にて宴する歌一首>である。

 

◆高山乃 伊波保尓於布流 須我乃根能 祢母許呂其呂尓 布里於久白雪

       (橘諸兄 巻二十 四四五四)

 

≪書き下し≫高山(たかやま)の巌(いはほ)に生(お)ふる菅(すが)の根(ね)のねもころごろに降り置く白雪

 

(訳)高い山の巌に根をおろしている菅の根ではないが、ねんごろに隅々まで置いている白雪の、まあ何と鮮やかなこと(同上)

(注)上三句は序。「ねもころごろに」を起こす。

(注)ねもころごろなり【懇ごろなり】形容動詞:①細やかだ。ねんごろだ。②隅々まで行き届いている。(学研)

 

左注は、「右一首左大臣作」<右の一首は、左大臣作る>である。

 

この歌についてはブログ拙稿「万葉歌碑を訪ねて(1019)」で紹介している。

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■四四五五~四四五六 

 題詞は、「天平元年班田之時使葛城王従山背國贈薩妙觀命婦等所歌一首 副芹子褁」<天平元年の班田(はんでん)の時に、使(つかひ)の葛城王(かづらきのおほきみ)、山背の国より薩妙観命婦等(せちめうくわんみやうぶら)の所に贈る歌一首 芹子(せり)の褁に副ふ>である。

(注)天平元年:729年。この十一月に平城京畿内の班田司が任命された。

(注の注)【班田収授の法】:律令制で、人民に耕地を分割する法。中国、唐の均田法にならい、大化の改新の後に採用されたもので、6年ごとに班田を実施し、6歳以上の良民の男子に2段、良民の女子と官戸・公奴婢(くぬひ)にはその3分の2、家人・私奴婢には良民男女のそれぞれ3分の1の口分田(くぶんでん)を与えた。終身の使用を許し、死亡の際に国家に収めた。平安初期以後は実行が困難になった。(weblio辞書 デジタル大辞泉

(注)みゃうぶ【命婦】名詞:宮中や後宮(こうきゆう)の女官の一つ。五位以上の女官(内(ない)命婦)と、五位以上の役人の妻(外(げ)命婦)がある。平安時代以後は、中級の女官をいう。(学研)

 

◆安可祢佐須 比流波多ゝ婢弖 奴婆多麻乃 欲流乃伊刀末仁 都賣流芹子許礼

       (葛城王 巻二十 四四五五)

 

≪書き下し≫あかねさす昼は田(た)賜(た)びてぬばたまの夜のいとまに摘(つ)める芹子(せり)これ

 

 

(訳)日の照る昼には田を班(わか)ち与えるのに手を取られ、暗い夜の暇を盗んで摘んだ芹ですぞ、これは。(伊藤 博 著 「万葉集 四」 角川ソフィア文庫より)

(注)田(た)賜(た)びて:田を班(わか)ち与えるのに手を取られ。

 

[反対語] 手弱女(たわやめ)・(たをやめ)。 ⇒ 参考 上代では、武人や役人をさして用いることが多い。後には、単に「男」の意で用いる。(学研)

 

左注は、「右二首左大臣讀之云尓 左大臣葛城王 後賜橘姓也」<右二首は、左大臣読みてしか云ふ 左大臣はこれ葛城王にして、 後に橘の姓を賜はる>である。

 

この歌についてはブログ拙稿「万葉歌碑を訪ねて(その1213)」で紹介している。

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 万葉集の歌や、題詞・左注でも橘諸兄の姿が見えて来る。これらを踏まえて、特に家持との接点から深堀していくのもおもしろいアプローチになると考えられる。

 少し見方を変えただけで課題が見えて来る、それだけ奥の深い深い万葉集のゆえだろう。

 

 

 

(参考文献)

★「萬葉集」 鶴 久・森山 隆 編 (桜楓社)

★「万葉集 二」 伊藤 博 著 (角川ソフィア文庫

★「万葉集 三」 伊藤 博 著 (角川ソフィア文庫

★「万葉集 四」 伊藤 博 著 (角川ソフィア文庫

★「別冊國文學 万葉集必携」 稲岡耕二 編 (學燈社

★「大伴家持 波乱にみちた万葉歌人の生涯」 藤井一二 著 (中公新書

★「weblio古語辞典 学研全訳古語辞典」

★「weblio辞書 デジタル大辞泉

★「コトバンク 旺文社日本史事典 三訂版」

★「三滝自然公園 万葉の道」 (せいよ城川観光協会