万葉集の歌碑めぐり

万葉歌碑をめぐり、歌の背景等を可能な限り時間的空間的に探索し、万葉集の万葉集たる所以に迫っていきたい!

万葉歌碑を訪ねて(その1823)―愛媛県西予市 三滝公園万葉の道(35)―万葉集 巻二 九〇

●歌は、「君が行き日長くなりぬ山たづの迎へを行かむ待つには待たじ」である。

愛媛県西予市 三滝公園万葉の道(35)万葉歌碑(衣通王)

●歌碑は、愛媛県西予市 三滝公園万葉の道(35)にある。

 

●歌をみていこう。

 

 題詞は、「古事記曰 軽太子奸軽太郎女 故其太子流於伊豫湯也 此時衣通王不堪戀慕而追徃時謌曰」<古事記に曰はく 軽太子(かるのひつぎのみこ)、軽太郎女(かるのおほいらつめ)に奸(たは)く。この故(ゆゑ)にその太子を伊予の湯に流す。この時に、衣通王(そとほりのおほきみ)、恋慕(しの)ひ堪(あ)へずして追ひ徃(ゆ)く時に、歌ひて曰はく>である。

(注)軽太子:十九代允恭天皇の子、木梨軽太子。

(注)軽太郎女:軽太子の同母妹。当時、同母兄妹の結婚は固く禁じられていた。

(注)たはく【戯く】自動詞①ふしだらな行いをする。出典古事記 「軽大郎女(かるのおほいらつめ)にたはけて」②ふざける。(weblio古語辞典 学研全訳古語辞典)

(注)伊予の湯:今の道後温泉

(注)衣通王:軽太郎女の別名。身の光が衣を通して現れたという。

 

◆君之行 氣長久成奴 山多豆乃 迎乎将徃 待尓者不待  此云山多豆者是今造木者也

       (衣通王 巻二 九〇)

 

≪書き下し≫君が行き日(け)長くなりぬ山たづの迎へを行かむ待つにはまたじ ここに山たづといふは、今の造木をいふ

 

(訳)あの方のお出ましは随分日数が経ったのにまだお帰りにならない。にわとこの神迎えではないが、お迎えに行こう。このままお待ちするにはとても堪えられない。(伊藤 博 著 「万葉集 一」 角川ソフィア文庫より)

(注)やまたづの【山たづの】分類枕詞:「やまたづ」は、にわとこの古名。にわとこの枝や葉が向き合っているところから「むかふ」にかかる。(学研)

(注)みやつこぎ【造木】: ニワトコの古名。(weblio辞書 三省堂大辞林第三版)

 

 この歌は、巻二の巻頭歌、「磐姫皇后、天皇を思ひて作らす歌四首」のうちの八五歌の類歌として収録されており、左注には、古事記と類聚歌林との相違を日本書記をベースに検証したことなどが左注に書かれている。歌ならびに左注についてはブログ拙稿「万葉歌碑を訪ねて(その番外200531)」で紹介している。

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 巻頭歌は、巻五から巻八をみてみよう。

 

■■巻頭歌 巻五~八■■

■巻五 七九三歌■

 題詞は、「大宰帥大伴卿報凶問歌一首」<大宰帥(だざいのそち)大伴卿(おほとものまへつきみ)、凶問(きょうもん)に報(こた)ふる歌一首>である。

(注)凶問(きょうもん)〘名〙: 凶事の知らせ。死去の知らせ。凶音。一説に、凶事を慰問すること。(コトバンク 精選版 日本国語大辞典

 

前文は、「禍故重疊 凶問累集 永懐崩心之悲 獨流断腸之泣 但依兩君大助傾命纔継耳<  筆不盡言 古今所歎>」である。

 

≪前文の書き下し≫禍故重疊(くわこちようでふ)し、凶問累集(るいじふ)す。永(ひたふる)に崩心(ほうしん)の悲しびを懐(むだ)き、獨(もは)ら断腸(だんちやう)の泣(なみた)を流す。ただ、両君の大助(たいじよ)によりて、傾命(けいめい)をわづかに継げらくのみ。    <筆の言を盡さぬは、古今歎くところ>

 

≪前文訳≫不幸が重なり、悪い報(しら)せが続きます。ひたすら崩心の悲しみに沈み、ひとり断腸の涙を流しています。ただただ、両君のこの上ないお力添えによって、いくばくもない余命をようやく繋ぎ留めているばかりです。<筆では言いたいことも尽くせないのは、昔も今も一様に嘆くところです。>(「同上)

(注)禍故重疊:不幸が重なる。

(注)ひたぶるなり【頓なり・一向なり】形容動詞:①ひたすらだ。いちずだ。②〔連用形の形で、下に打消の語を伴って〕いっこうに。まったく。(学研)

(注)両君:庶弟稲公と甥胡麻呂か。

(注)傾命:余命

 

◆余能奈可波 牟奈之伎母乃等 志流等伎子 伊与余麻須万須 加奈之可利家理

       (大伴旅人 巻五 七九三)

 

≪書き下し≫世の中は空(むな)しきものと知る時しいよよますます悲しかりけり

 

(訳)世の中とは空しいものだと思い知るにつけ、さらにいっそう深い悲しみがこみあげてきてしまうのです。(同上)

(注)上二句は「世間空」の翻案。

(注)いよよ【愈】副詞:なおその上に。いよいよ。いっそう。(学研)

 

 この歌についてはブログ拙稿「万葉歌碑を訪ねて(その909)」で紹介している。

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■巻六 九〇七歌■

題詞は、「養老七年癸亥夏五月幸于芳野離宮時笠朝臣金村作歌一首 幷短歌」<養老七年癸亥夏五月幸于芳野離宮時笠朝臣金村作歌一首 幷短歌>である。

(注)養老七年:723年

(注)幸す:元正天皇行幸。(伊藤脚注)

 

◆瀧上之 御舟乃山尓 水枝指 四時尓生有 刀我乃樹能 弥継嗣尓 萬代 如是二二知三 三芳野之 蜻蛉乃宮者 神柄香 貴将有 國柄鹿 見欲将有 山川乎 清々 諾之神代従 定家良思母

       (笠金村 巻六 九〇七)

 

≪書き下し≫滝(たき)の上(うへ)の 三船(みふね)の山に 瑞枝(みずえ)さし 繁(しじ)に生(お)ひたる 栂(とが)の木の いや継(つ)ぎ継ぎに 万代(よろづよ)に かくし知らさむ み吉野の 秋津(あきづ)の宮は 神(かむ)からか 貴(たふと)くあるらむ 国からか 見(み)が欲(ほ)しからむ 山川(やまかは)を 清みさやけみ うべし神代(かみよ)ゆ 定めけらしも

 

(訳)み吉野の激流のほとりの三船の山に瑞々(みずみず)しい枝をさし延べて生い茂っている栂(とが)の木、その栂の木のとがという名のようにつぎつぎと、代々の天皇がこのように万代(よろづよ)の末までもお治めになる、ここみ吉野の秋津の宮は、国つ神の神々しさのせいかまことに尊い、国柄が立派なせいか誰もが見たいと心引かれる。山も川も清くさわやかであるので、なるほど、遠い神代以来、ここみ吉野を宮所と定められたのであるらしい。(「万葉集 二」 伊藤 博 著 角川ソフィア文庫より)

(注)三船の山:吉野離宮の左向かいの山。(伊藤脚注)

(注)秋津の宮:吉野離宮のあった地域一帯か。(伊藤脚注)

(注)かむから【神柄】名詞:神の性格。神の本性。「かみから」とも。 ※多く副詞的に用いられて「神の性格がすぐれているために」の意。(学研)

(注)うべし【宜し】副詞:いかにももっとも。なるほど。 ※「し」は強意の副助詞。(学研)

 

 

■巻七 一〇六八歌■

題詞は、「詠天」である。

 

◆天海丹 雲之波立 月船 星之林丹 榜隠所見

       (柿本人麻呂歌集 巻七 一〇六八)

 

≪書き下し≫天(あめ)の海に雲の波立ち月の舟星の林に漕(こ)ぎ隠(かく)る見(み)ゆ

 

(訳)天空の海に白雲が立って、月の舟が、星の林の中に、今しも漕ぎ隠れて行く。(同上)

 

左注は、「右一首柿本朝臣人麻呂之歌集出」<右の一首は、柿本朝臣人麻呂が歌集の出づ>である。

(注)柿本人麻呂歌集:万葉集編纂の資料となった私家集の一つ。巻七・九・十・十一・十二では、奈良遷都以前(白鳳期)の歌として高く遇されている。(伊藤脚注)

 

 

■巻八 一四一八歌■

 題詞は、「志貴皇子懽御歌一首」<志貴皇子(しきのみこ)の懽(よろこび)の御歌一首>である。

(注)志貴皇子天智天皇の子。光仁天皇湯原王らの父

 

◆石激 垂見之上野 左和良妣乃 毛要出春尓 成来鴨

       (志貴皇子 巻八 一四一八)

 

≪書き下し≫石走(いはばし)る垂水(たるみ)の上(うえ)のさわらびの萌(も)え出(い)づる春になりにけるかも

 

(訳)岩にぶつかって水しぶきをあげる滝のほとりのさわらびが、むくむくと芽を出す春になった、ああ(同上)             

 

この歌については、志貴皇子六首とともにブログ拙稿「万葉歌碑を訪ねて(その1216)」で紹介している。

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 光仁天皇の東陵についてはブログ拙稿「万葉歌碑を訪ねて(その1091)」で紹介している。

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(参考文献)

★「萬葉集」 鶴 久・森山 隆 編 (桜楓社)

★「万葉集 一」 伊藤 博 著 (角川ソフィア文庫

★「万葉集 二」 伊藤 博 著 (角川ソフィア文庫

★「weblio古語辞典 学研全訳古語辞典」

★「weblio辞書 三省堂大辞林第三版」

★「コトバンク 精選版 日本国語大辞典

★「三滝自然公園 万葉の道」 (せいよ城川観光協