万葉集の歌碑めぐり

万葉歌碑をめぐり、歌の背景等を可能な限り時間的空間的に探索し、万葉集の万葉集たる所以に迫っていきたい!

万葉歌碑を訪ねて(その1835)―松山市御幸町 護国神社・万葉苑―万葉集 巻一 八

●歌は、「熟田津に船乗りせむと月待てば潮もかなひぬ今は漕ぎ出でな」である。

松山市御幸町 護国神社・万葉苑万葉歌碑(額田王

●歌碑は、松山市御幸町 護国神社・万葉苑にある。

 

●歌をみていこう。

 

 題詞は、「額田王歌」<額田王が歌>である。

 

◆熟田津尓 船乗世武登 月待者 潮毛可奈比沼 今者許藝乞菜

       (額田王 巻一 八)

 

≪書き下し≫熟田津(にきたつ)に船(ふな)乗(の)りせむと月待てば潮(しほ)もかなひぬ今は漕ぎ出(い)でな

 

(訳)熟田津から船出をしようと月の出を待っていると、待ち望んでいたとおり、月も出(で)、潮の流れもちょうどよい具合になった。さあ、今こそ漕(こ)ぎ出そうぞ。(「万葉集 一」 伊藤 博 著 角川ソフィア文庫より)

(注)熟田津:松山市和気町・堀江町付近。(伊藤脚注)

(注)かなふ【適ふ・叶ふ】自動詞:適合する。ぴったり合う。(weblio古語辞典 学研全訳古語辞典)

 

 左注は、「右檢山上憶良大夫類聚歌林曰 飛鳥岡本宮御宇天皇元年己丑九年丁酉十二月己巳朔壬午天皇大后幸于伊豫湯宮 後岡本宮馭宇天皇七年辛酉春正月丁酉朔壬寅御船西征 始就于海路 庚戌御船泊于伊豫熟田津石湯行宮 天皇御覧昔日猶存之物 當時忽起感愛之情 所以因製歌詠為之哀傷也 即此歌者天皇御製焉 但額田王歌者別有四首」<右は、山上憶良大夫が類聚歌林に検すに、曰(い)はく、「飛鳥(あすか)岡本の宮に天の下知らしめす天皇の元年己丑(うちのとうし)の、九年丁酉(ひのととり)の十二月己巳(つちのとみ)の朔(つきたち)の壬午(みづのえうま)に、天皇・大后、(おほきさき)、伊予(いよ)の湯の宮に 幸(いでま)す。後(のち)の岡本の宮に天の下知らしめす天皇の七年辛酉(かのととり)の春の正月丁酉(ひのととり)の朔(つきたち)の壬寅(みづのえとら)に、御船西つかたに征(ゆ)き、始めて海路(うみぢ)に就(つ)く。 庚戌(かのえいぬ)に、御船伊予の熟田津の石湯(いはゆ)の行宮(かりみや)に泊(は)つ。 天皇、昔日(むかし)のなほし存(のこ)れる物を御覧(みそこなは)して、その時にたちまち感愛の情(こころ)を起したまふ。この故(ゆゑ)によりて歌詠(みうた)を製(つく)りて哀傷(かな)しびたまふ」といふ。すなはち、この歌は天皇の御製なり。ただし、額田王が歌は別に四首あり>である。

(注)飛鳥(あすか)岡本の宮に天の下知らしめす天皇:三四代舒明天皇

(注)壬午;舒明九年(637年)十二月十四日。

(注)壬寅:斉明七年(661年)正月六日。

(注)庚戌:正月十四日

(注)泊(は)つ:斉明天皇疲労により道後温泉で静養したらしい。三月二十五日近くまでここにいた。(伊藤脚注)

(注)昔日:亡き夫君舒明と来た昔日。(伊藤脚注)

(注)歌詠(みうた)を製(つく)りて哀傷(かな)しびたまふ:類聚歌林には、斉明天皇の哀傷歌を載せ、滞在中の歌、さらに船出宣言の歌を載せていたらしい。(伊藤脚注)

(注)天皇の御製:額田王が「熟田津(にきたつ)に・・・」の歌を代作したのでこの伝えがある。(伊藤脚注)

(注)別に四首あり;この四首は今に伝わらず不明となっている。(伊藤脚注)

 

 「熟田津」は、松山市和気町・堀江町付近と言われているので、この八歌の歌碑は、松山市内に、古三津の久枝神社、梅田町の松山梅田町郵便局、行かなかったが祓川の宮前小学校、そしてここ護国神社・愛媛万葉苑の四か所に立てられている。

 

 この歌ならびに久枝神社、松山梅田町郵便局の歌碑についてはブログ拙稿「万葉歌碑を訪ねて(その1832,1833)」で紹介している。

 ➡ 

 

tom101010.hatenablog.com

副碑

 副碑には同歌に関する地元の方々の熱い思いが書かれている。

「熟田津の歌」案内碑



 「愛媛万葉苑」は園内の説明案内板によると、昭和二八年(1953年)に護国神社境内に作られた「郷土植物園」がその始まりで、その後、園内に額田王の「熟田津の歌」の碑が立てられ、それを機に万葉植物を蒐集栽培し、昭和四三年(1968年)に「愛媛万葉苑」が開園されたとある。

 

「愛媛万葉苑」説明案内板

 

 

 

 

■■11月9日島根→山口■■

≪旅程≫益田市内ホテル→島根県邑智郡邑南町 志都岩屋神社→益田市西平原町 鎌手公民館→同市高津町 県立万葉公園→同市喜河弥町 ふれあい広場→下関市ホテル

 

益田市内ホテル→島根県邑智郡邑南町 志都岩屋神社■

 「島根県西部公式観光サイト なつかしの国石見」に、「志都の岩屋(しづのいわや)」は、知る人ぞ知る隠れパワースポットと書かれ、さらに「本殿裏から弥山頂上にかけての巨岩や奇岩が迫るその景観は、自然の作り出した貴重な文化財として昭和54年に島根県指定の『天然記念物及び名勝』に指定を受けた。神殿の後ろにある『鏡岩』は御神体ともいわれ、別名『願かけ石』とも呼ばれ、岩表面の小さな穴に紙縒(こより)を通して結ぶと願いが叶うと言われている。神社の周りは秋の紅葉も見応えあり」と書かれている。

 片道約2時間。途中の山道は霧が立ちこめ思うように進めない。ようやく到着。シーンと静まり返り、なんともいえない神秘的な雰囲気の漂う神社である。

 今日は、山口県下関市にホテルを取っているので早々に切り上げる。

「志都の岩屋」の碑

志都岩屋神社鳥居


島根県邑智郡邑南町 志都岩屋神社→益田市西平原町 鎌手公民館■

公民館は国道9号線から少し入ったところにあり、歌碑は駐車場の手前にあった。

歌碑の説明案内板には、「鎌手山あたりは人麿の時代には伎波都久の岡と呼ばれていた」と書かれている。

 

 

益田市西平原町 鎌手公民→同市高津町 県立万葉公園■

 昨年の10月12日に県立万葉公園に来たのであるが、帰ってからトレースしてみると人麻呂展望広場の「大和・旅の広場」の二六四歌と一〇八八歌の歌碑を撮り洩らしていることが分かったのである。さらに同公園の「石の広場」の家持の歌碑も見逃していたのであった。

 全国旅行支援が行われているので、これを利用しリカバリーに来たのである。

 三つともゲットし次の喜河弥町ふれあい広場に向かった。

「石の広場」家持の歌碑

 

益田市高津町 県立万葉公園→同市喜河弥町 ふれあい広場■

 国道191号線をひたすら走り続けていると、海岸縁の「ふれあい広場」の案内板が見えた。駐車場に車を停め、碑をゲット。

ふれあい広場案内板と歌碑

益田市喜河弥町 ふれあい広場→下関市内ホテル■

 予定では、この後、角島大橋を渡り廃校になった角島小学校の歌碑や本州最西端毘沙の鼻も廻ることにしていたが、志都岩屋神社で時間を食ってしまったので、これらを明日にまわし、ホテルに向かったのである。

 

 

 

(参考文献)

★「萬葉集」 鶴 久・森山 隆 編 (桜楓社)

★「万葉集 三」 伊藤 博 著 (角川ソフィア文庫)

★「weblio古語辞典 学研全訳古語辞典」

★「島根県西部公式観光サイト なつかしの国石見」

 

※20230121旅程順一部訂正