万葉集の歌碑めぐり

万葉歌碑をめぐり、歌の背景等を可能な限り時間的空間的に探索し、万葉集の万葉集たる所以に迫っていきたい!

万葉歌碑を訪ねて(その1836~1838)―松山市御幸町 護国神社・万葉苑(1~3)―万葉集 巻十 二三一五、巻五 八一〇書簡、巻五 七九八

―その1836―

●歌は、「あしひきの山道も知らず白橿の枝もとををに雪の降れれば」である。

松山市御幸町 護国神社・万葉苑(1)万葉歌碑<プレート>(柿本人麻呂歌集)

●歌碑(プレート)は、松山市御幸町 護国神社・万葉苑(1)にある。

 

●歌をみていこう。

 

◆足引 山道不知 白牫牱 枝母等乎ゞ乎 雪落者  或云 枝毛多和ゝゝ

      (柿本人麻呂歌集 巻十 二三一五)

 

 ≪書き下し≫あしひきの山道(やまぢ)も知らず白橿(しらかし)の枝もとををに雪の降れれば  或いは「枝もたわたわ」といふ

 

(訳)あしひきの山道のありかさえもわからない。白橿の枝も撓(たわ)むほどに雪が降り積もっているので。<枝もたわわに>(伊藤 博 著 「万葉集 二」 角川ソフィア文庫より)

(注)とををなり【撓なり】形容動詞:たわみしなっている。(学研)

(注)たわたわ【撓 撓】( 形動ナリ ):たわみしなうさま。(weblio辞書 三省堂 大辞林 第三版)

 

 この歌についてはブログ拙稿「万葉歌碑を訪ねて(その871)」で紹介している。

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―その1837―

●八一〇歌の題詞は、「梧桐の日本琴一面 対馬の結石の山の孫枝なり」である。

松山市御幸町 護国神社・万葉苑(2)万葉歌碑<プレート>(大伴旅人

●歌碑(プレート)は、松山市御幸町 護国神社・万葉苑(2)にある。

 

●書簡ならびに歌をみていこう。

 

 書状の内容をみていこう。

 

 書状の書き出しは、「大伴淡等謹状 梧桐日本琴一面 對馬結石山孫枝」<大伴淡等(おほとものたびと)謹状(きんじょう) 梧桐(ごとう)の日本(やまと)琴(こと)一面 対馬の結石(ゆひし)の山の孫枝(ひこえ)なり>である。

(注)ごとう【梧 桐】: アオギリの異名。(weblio辞書 三省堂 大辞林 第三版)

(注)「淡等」:旅人を漢字音で書いたもの(伊藤脚注)

(注)結石(ゆひし)の山:対馬北端の山(伊藤脚注)

(注)孫枝(読み)ヒコエ:枝からさらに分かれ出た小枝。(コトバンク デジタル大辞泉

 

 書簡は、「此琴夢化娘子曰 余託根遥嶋之崇巒 晞▼九陽之休光 長帶烟霞逍遥山川之阿 遠望風波出入鴈木之間 唯恐 百年之後空朽溝壑 偶遭良匠散為小琴 不顧質麁音少 恒希君子左琴 即歌曰」<この琴、夢(いめ)に娘子(をとめ)に化(な)りて日(い)はく、『余(われ)、根(ね)を遥島(えうたう)の崇巒(すうらん)に託(よ)せ、幹(から)を九陽(きうやう)の休光(きうくわう)に晒(さら)す。長く煙霞(えんか)を帯びて、山川(さんせん)の阿(くま)に逍遥(せうえう)す。遠く風波(ふうは)を望みて、雁木(がんぼく)の間(あひだ)に出入す。ただに恐る、百年の後(のち)に、空(むな)しく溝壑(こうかく)に朽(く)ちなむことのみを。たまさかに良匠に遭(あ)ひ、斮(き)られて小琴(せうきん)と為(な)る。質麁(あら)く音少なきことを顧(かへり)みず、つねに君子の左琴(さきん)を希(ねが)ふ』といっふ。すなはち歌ひて曰はく>である。

 ▼=幹?

 

(訳)この琴が、夢に娘子(おとめ)になって現れて言いました。「私は、遠い対馬(つしま)の高山に根をおろし、果てもない大空の光に幹をさらしていました。長らく雲や霞(かすみ)に包まれ、山や川の蔭(かげ)に遊び暮らし、遥かに風や波を眺めて、物の役に立てるかどうかの状態でいました。たった一つの心配は、寿命を終えて空しく谷底深く朽ち果てることでありました。ところが、偶然にも立派な工匠(たくみ)に出逢い、伐(き)られて小さな琴になりました。音質は荒く音量も乏しいことを顧(かえり)みず、徳の高いお方の膝の上に置かれることをずっと願うております。」と。次のように歌いました。

(注)遥島:はるか遠い島。ここでは対馬のことをいう。(伊藤脚注)

(注)崇巒:高い嶺。結石山をいう。(伊藤脚注)

(注)九陽(読み)きゅうよう〘名〙:太陽。日。(コトバンク 精選版 日本国語大辞典)(注)休光:うるわしい光。(伊藤脚注)

(注)逍遥(読み)ショウヨウ [名]:気ままにあちこちを歩き回ること。そぞろ歩き。散歩。(コトバンク デジタル大辞泉

(注)雁木の間:古代中国の思想家、荘子が旅の途中、木こりが木を切り倒していた。「立派な木だから、いい材料になる」。しばらく行くと、親切な村人がごちそうしてくれた。「この雁はよく鳴かないので殺しました」。役に立つから切られるものと、役に立たないから殺されるもの。荘子いわく、「役に立つとか立たないとか考えず生きるのが一番いい」(佐賀新聞LIVE)

(注)百年:人間の寿命➡百年の後>寿命を終えて(伊藤脚注)

(注)溝壑(読み)こうがく:みぞ。どぶ。谷間。(コトバンク 大辞林 第三版)

(注)君子の左琴:『白虎通』に「琴、禁也、以禦二止淫邪_、正二人心,.一也。」、つまり琴が君子の身を修め心を正しくする器であるといい、そのゆえに『風俗通義』に「君子の常に御する所のもの、琴、最も親密なり、身より離さず」という、「君子左琴」「右書左琴」などの、“君子の楽器としての琴”という通念が生まれて来た。(明治大学大学院紀要 第28集1991.2)

 

 書簡ならびに八一〇、八一一歌についてはブログ拙稿「万葉歌碑を訪ねて(その番外200513⁻2)」で紹介している。

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 大伴旅人が都の藤原房前に宛てた書簡であるが、これに対して房前が旅人に贈った返答書簡ならびに歌についてはブログ拙稿「万葉歌碑を訪ねて(その1472)」で紹介している。

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―その1838―

●歌は、「妹が見し楝の花は散りぬべし我が泣く涙いまだ干なくに」である。

松山市御幸町 護国神社・万葉苑(3)万葉歌碑<プレート>(山上憶良

●歌碑(プレート)は、松山市御幸町 護国神社・万葉苑(3)にある。

 

●歌をみていこう。

 

◆伊毛何美斯 阿布知乃波那波 知利奴倍斯 和何那久那美多 伊摩陁飛那久尓

       (山上憶良 巻五 七九八)                             

 

≪書き下し≫妹(いも)が見し棟(あふち)の花は散りぬべし我(わ)が泣く涙(なみた)いまだ干(ひ)なくに

 

(訳)妻が好んで見た棟(おうち)の花は、いくら奈良でももう散ってしまうにちがいない。。妻を悲しんで泣く私の涙はまだ乾きもしないのに。(同上)

 

 この歌ならびに「楝」を詠んだ歌についてはブログ拙稿「万葉歌碑を訪ねて(その893)」で紹介している。

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■■11月10日山口→岡山■■

下関市内ホテル→角島小学校(廃校)→神田小学校(廃校)→毘沙の鼻→倉敷市ホテル

 

下関市内ホテル→角島小学校(廃校)■

 以前より、一度は渡ってみたいと思っていた角島大橋である。万葉歌碑巡りで廻ることになるとは思っても見なかった。

角島大橋


 角島にある今は廃校になった角島小学校の校庭に歌碑がたっている。次に行く予定の神田小学校も廃校になっており、念のために観光協会に確認を入れておいたのである。廃校になっていても校庭には入れるし歌碑は存続していると。

 角島大橋も、本土側の海人ヶ瀬(あまがせ)公園と島側の瀬崎陽(あかり)公園の展望台からの眺めを堪能することが出来た。

角島大橋(海人が瀬公園展望台から)

角島大橋(瀬崎陽公園展望台から)



 角島小学校は廃校とは思えないほど管理が行き届いており、現役そのものといった風情である。ブランコなどにロープが結び付けられていて廃校を意識する位である。

角島小学校(廃校)

角島小学校校庭の万葉歌碑

瀬崎陽(あかり)公園の展望台に「平城宮若海藻上進之地」の石碑がある。天平の時代に角島のワカメが平城宮に送られていた旨が書かれている。時間的空間的に接近した気持ちになった。

平城宮若海藻上進之地」の石碑

 

 

■角島小学校(廃校)→神田小学校(廃校)■

 神田小学校も廃校といったイメージはなく、子供の声がしない、チャイムの音が聞こえないので廃校になっているのだと認識させられるのである。

 時の流れの寂しさを感じつつも管理が行き届いていることになぜかホッとさせられる。

神田小学校(廃校)

 

■神田小学校(廃校)→毘沙の鼻■

 本州最西端の地である。ウイークデイであるので、この地も独占。ゆっくりと歌碑をそして最西端の地を満喫したのである。

本州最西端毘沙の鼻

 

 

(参考文献)

★「萬葉集」 鶴 久・森山 隆 編 (桜楓社)

★「万葉集 一」 伊藤 博 著 (角川ソフィア文庫

★「万葉集 二」 伊藤 博 著 (角川ソフィア文庫

★「weblio古語辞典 学研全訳古語辞典」

★「weblio辞書 三省堂 大辞林 第三版」

★「コトバンク 精選版 日本国語大辞典

★「コトバンク デジタル大辞泉