万葉集の歌碑めぐり

万葉歌碑をめぐり、歌の背景等を可能な限り時間的空間的に探索し、万葉集の万葉集たる所以に迫っていきたい!

万葉歌碑を訪ねて(その1863~1865)―松山市御幸町 護国神社・万葉苑(28~30)―万葉集 巻十四 三四九四、巻二 一六六、巻一 二〇

―その1863―

●歌は、「児毛知山若かへるでのもみつまで寝もと我は思ふ汝はあどか思ふ」である。

松山市御幸町 護国神社・万葉苑(28)万葉歌碑<プレート>(作者未詳)



●歌碑(プレート)は、松山市御幸町 護国神社・万葉苑(28)にある。

 

●歌をみていこう。

 

◆兒毛知夜麻 和可加敝流弖能 毛美都麻弖 宿毛等和波毛布 汝波安杼可毛布

       (作者未詳    巻十四 三四九四)

 

≪書き下し≫児毛知山(こもちやま)若(わか)かへるでのもみつまで寝(ね)もと我(わ)は思(も)ふ汝(な)はあどか思(も)ふ

 

(訳)児毛知山、この山の楓(かえで)の若葉がもみじするまで、ずっと寝たいと俺は思う。お前さんはどう思うかね。(伊藤 博 著 「万葉集 三」 角川ソフィア文庫より)

(注)児毛知山:上野国群馬県)の子持山をさす。陸奥国とする説も。

(注)かへるで:楓(かえで)は、葉がカエルの手に似ていることから、古くは「かへるで」と呼ばれていた。(「植物で見る万葉の世界」)

 

(注)寝も:「寝む」の東国形

(注)あど 副詞:どのように。どうして。 ※「など」の上代の東国方言か。(weblio古語辞典 学研全訳古語辞典)

(注)もふ【思ふ】他動詞:思う。 ※「おもふ」の変化した語。(学研)

 

 この歌については、「かへるで」を詠ったもう一首(坂上大嬢の歌)とともに、ブログ拙稿「万葉歌碑を訪ねて(その468)」で紹介している。

 ➡ 

tom101010.hatenablog.com

 

 

 

―その1864―

●歌は、「磯の上に生ふる馬酔木を手折らめど見すべき君が在りと言はなくに」である。

松山市御幸町 護国神社・万葉苑(29)万葉歌碑<プレート>(大伯皇女)

●歌碑(プレート)は、松山市御幸町 護国神社・万葉苑(29)にある。

 

●歌をみていこう。

 

◆磯之於尓 生流馬酔木乎 手折目杼 令視倍吉君之 在常不言尓

      (大伯皇女 巻二 一六六)

 

≪書き下し≫磯(いそ)の上(うえ)に生(お)ふる馬酔木(あしび)を手折(たを)らめど見(み)すべき君が在りと言はなくに

 

(訳)岩のあたりに生い茂る馬酔木の枝を手折(たお)りたいと思うけれども。これを見せることのできる君がこの世にいるとは、誰も言ってくれないではないか。(伊藤 博 著 「万葉集 一」 角川ソフィア文庫より)

 

 この歌についてはブログ拙稿「万葉歌碑を訪ねて(その1209)」で紹介している。ここでは、大伯皇女の歌を時系列的に紹介している。

 ➡ 

tom101010.hatenablog.com

 

 斎王の宮についてはブログ拙稿「万葉歌碑を訪ねて(その429)」で紹介している。

 ➡ 

tom101010.hatenablog.com

 

 

 

―その1865―

●歌は、「あかねさす紫野行き標野行き野守は見ずや君が袖振る」である。

松山市御幸町 護国神社・万葉苑(30)万葉歌碑<プレート>(額田王

●歌碑(プレート)は、松山市御幸町 護国神社・万葉苑(30)にある。

 

●歌をみていこう。

 

題詞は、「天皇遊獦蒲生野時額田王作歌」<天皇(すめらみこと)、蒲生野(かまふの)に遊猟(みかり)したまふ時に、額田王(ぬかたのおほきみ)が作る歌>である。

 

◆茜草指 武良前野逝 標野行 野守者不見哉 君之袖布流

        (額田王 巻一 二〇)

 

≪書き下し≫あかねさす紫野行き標野(しめの)行き野守(のもり)は見ずや君が袖振る

 

(訳)茜(あかね)色のさし出る紫、その紫草の生い茂る野、かかわりなき人の立ち入りを禁じて標(しめ)を張った野を行き来して、あれそんなことをなさって、野の番人が見るではございませんか。あなたはそんなに袖(そで)をお振りになったりして。(同上)

(注)あかねさす【茜さす】分類枕詞:赤い色がさして、美しく照り輝くことから「日」「昼」「紫」「君」などにかかる。

(注)むらさき 【紫】①草の名。むらさき草。根から赤紫色の染料をとる。②染め色の一つ。①の根で染めた色。赤紫色。古代紫。古くから尊ばれた色で、律令制では三位以上の衣服の色とされた。

(注)むらさきの 【紫野】:「むらさき」を栽培している園。

(注)しめ【標】:神や人の領有区域であることを示して、立ち入りを禁ずる標識。また、道しるべの標識。縄を張ったり、木を立てたり、草を結んだりする。

 

 この歌については、滋賀県竜王町 妹背の里の歌碑でブログ拙稿「万葉歌碑を訪ねて(その1702)」で、また大海人皇子の二一歌については、同1703で紹介している。

 ➡ 

tom101010.hatenablog.com

 

 二〇、二一歌に関して、上野誠氏は、その著「万葉集講義」(中公新書)のなかで。「袖を振るという行為は、宮廷社会においては、親愛の情を示す行為であったが、上位者の妻に袖を振れば、あらぬ誤解を招くので、宮廷人ならば避けるべき行為であった、と推定される。しかし、宴の席であるならば、そういう歌のやりとりも、許されたのであろう。・・・むしろ、宴の歌としては宴を盛り上げる歌となるのである。こういった解釈に先鞭をつけたのは、山本健吉(やまもとけんきち)・池田彌三郎(いけだやさぶろう)『萬葉百歌』であるが、今日ではなかば通説となっている。この二首が、相聞の部に入っていないのは、狩の場における宴の歌と認識されていたからなのである。」

 

 万葉集がもつ歌物語的要素を考えあわせると、かかる大胆な歌は、ある意味読者にはうけたと思われる。

 後の壬申の乱への伏線とみるのもありかと思える。

 万葉集万葉集たる魅力を如何なく引き出させる両歌である。

 

 

 

(参考文献)

★「萬葉集」 鶴 久・森山 隆 編 (桜楓社)

★「万葉集 一」 伊藤 博 著 (角川ソフィア文庫)

★「万葉集 三」 伊藤 博 著 (角川ソフィア文庫)

★「万葉集講義」 上野 誠 著 (中公新書

★「植物で見る万葉の世界」 國學院大學 萬葉の花の会 著 (同会 事務局)

★「weblio古語辞典 学研全訳古語辞典」