万葉集の歌碑めぐり

万葉歌碑をめぐり、歌の背景等を可能な限り時間的空間的に探索し、万葉集の万葉集たる所以に迫っていきたい!

万葉歌碑を訪ねて(その1872~1874)―松山市御幸町 護国神社・万葉苑(37~39)―万葉集 巻十一 二七六二、巻四 五二四

―その1872―

●歌は、「葦垣の中のにこ草にこやかに我れと笑まして人に知らゆな」である。

松山市御幸町 護国神社・万葉苑(37)万葉歌碑<プレート>(作者未詳)

●歌碑(プレート)は、松山市御幸町 護国神社・万葉苑(37)にある。

 

●歌をみていこう。

 

◆蘆垣之 中之似兒草 尓故余漢 我共咲為而 人尓所知名

       (作者未詳 巻十一 二七六二)

 

≪書き下し≫葦垣(あしかき)の中のにこ草(ぐさ)にこよかに我(わ)れと笑(ゑ)まして人に知らゆな

 

(訳)葦垣の中に隠れているにこ草、その名のように、にこやかに私にだけほほ笑みかけて、まわりの人にそれと知られないようにして下さいね。(「万葉集 三」 伊藤 博 著 角川ソフィア文庫より)

(注)上二句は序。「にこよかに」を起こす。(伊藤脚注)

(注)にこぐさ【和草】:葉や茎の柔らかい草。一説に、ハコネシダの古名とも。多く序詞に用いられる。(weblio辞書 デジタル大辞泉

(注)人に:周りの人に。(伊藤脚注)

(注)ゆ 助動詞下二段型《接続》四段・ナ変・ラ変の動詞の未然形に付く。⇒語法(2):①〔受身〕…れる。…られる。②〔可能〕…できる。③〔自発〕自然と…するようになる。…れる。 ⇒語法:(1)上代に限って用いられ、助動詞「る」の発達に伴って衰退した。⇒らゆ(2)「射ゆ」「見ゆ」という語のあることから、古くは上一段活用の未然形にも接続した。

注意助動詞「る」に対応するが尊敬の意はない。 ⇒参考:(1)「おもほゆ」「おぼゆ」「聞こゆ」「見ゆ」などの「ゆ」も、もと、この助動詞であったが、これらは「ゆ」と複合した一語の動詞と考えられる。(2)現代語の連体詞「あらゆる」「いわゆる」は、「あり」「言ふ」の未然形に、連体形の「ゆる」が接続して固定化したものである。(weblio古語辞典 学研全訳古語辞典)

 

 この歌についてはブログ拙稿「万葉歌碑を訪ねて(その1117)」で紹介している。

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 「にこぐさ」は万葉集では、四首で詠われている。これについては、ブログ拙稿「万葉歌碑を訪ねて(その1080)」で紹介している。

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―その1873―

●歌は、「むし衾なごやが下に伏せれども妹とし寝ねば肌し寒しも」である。

松山市御幸町 護国神社・万葉苑(38)万葉歌碑<プレート>(藤原麻呂

●歌碑(プレート)は、松山市御幸町 護国神社・万葉苑(38)にある。

 

●歌をみていこう

 

◆蒸被 奈胡也我下丹 雖臥 与妹下宿者 肌之寒霜

         (藤原麻呂 巻四 五二四)

 

≪書き下し≫むし衾なごやが下に伏せれども妹とし寝ねば肌し寒しも

 

(訳)むしで作ったふかふかと暖かい夜着にくるまって横になっているけれども、あなたと一緒に寝ているわけではないから、肌寒くて仕方がない。(伊藤 博 著 「万葉集 一」 角川ソフィア文庫より)

(注)むし【苧/枲/苧麻】:イラクサ科の多年草。原野にみられ、高さ1~2メートル。茎は木質。葉は広卵形で先がとがり、裏面が白い。夏、淡緑色の小花を穂状につける。茎から繊維をとって織物にする。真麻(まお)。ちょま。(コトバンク 小学館 デジタル大辞泉

(補注)「むし」は「虫」すなわち「蚕」のことで、それから作った絹の夜具という説もある。

(注)ふすま【衾・被】名詞:寝るときに身体にかける夜具。かけ布団・かいまきなど。(学研)

(注)なごや【和や】名詞:やわらかいこと。和やかな状態。※「や」は接尾語。(学研)

 

 五二二から五二四歌までの三首の題詞は、「京職藤原大夫贈大伴郎女歌三首 卿諱日麻呂也」<京職(きやうしき)藤原大夫が大伴郎女(おほとものいらつめ)に贈る歌三首 卿、諱を麻呂といふ>である。

(注)藤原大夫:藤原麻呂不比等の第四子(伊藤脚注)

(注)大伴郎女:大伴坂上郎女(伊藤脚注)

(注)いみな【諱・謚・諡】名詞:①(貴人の生前の)実名。②死後に贈る称号。(学研)

 

 この歌ならびに五二三、五二四歌についてはブログ拙稿「万葉歌碑を訪ねて(その345)」で紹介している。

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―その1874―

●九〇歌の左注は、「・・・三十年の秋の九月乙卯の朔の乙丑に、皇后紀伊国に遊行まして熊野の岬に到りてその処の御綱葉を取りて還る・・・」である。

松山市御幸町 護国神社・万葉苑(39)万葉歌碑<プレート>(巻一 九〇左注)

●左注のプレートは、松山市御幸町 護国神社・万葉苑(39)にある。

 

●左注をみていこう。

 

左注は、「右一首歌古事記与類聚歌林所説不同歌主亦異焉 因檢日本紀曰 難波高津宮御宇大鷦鷯天皇廿二年春正月天皇語皇后納八田皇女将為妃 時皇后不聴 爰天皇歌以乞於皇后云ゝ 卅年秋九月乙卯朔乙丑皇后遊行紀伊國到熊野岬取其處之御綱葉而還 於是天皇伺皇后不在而娶八田皇女納於宮中 時皇后到難波濟聞天皇合八田皇女大恨之云ゝ 亦曰 遠飛鳥宮御宇雄朝嬬稚子宿祢天皇廿三年春三月甲午朔庚子木梨軽皇子為太子 容姿佳麗見者自感 同母妹軽太娘皇女亦艶妙也云ゝ 遂竊通乃悒懐少息廿四年夏六月御羮汁凝以作氷 天皇異之卜其所由 卜者曰 有内乱 盖親ゝ相奸乎云ゝ 仍移太娘皇女於伊豫者 今案二代二時不見此歌也」

 

≪左注の書き下し≫右の一首の歌は、古事記と類聚歌林と説(い)ふ所同じくあらず、歌の主(ぬし)もまた異(こと)なり。よりて日本紀(にほんぎ)に検(ただ)すに、曰はく、『難波の高津の宮に天の下知らしめす大鷦鷯天皇(おほさぎきのすめらみこと)の二十二年の春の正月に、天皇、皇后(おほきさき)に語りて、八田皇女(やたのひめみこ)を納(めしい)れて妃(きさき)とせむとしたまふ。時に、皇后聴(うけゆる)さず。ここに天皇、歌(みうた)よみして皇后に乞ひたまふ云々(しかしか)。三十年の秋の九月乙卯(きのとう)の朔(つきたち)の乙丑(きのとうし)に、皇后紀伊国(きのくに)に遊行(いで)まして熊野(くまの)の岬(みさき)に到りてその処の御綱葉(みつなかしは)を取りて還(まゐかへ)る。ここに天皇、皇后の在(いま)さぬを伺(うかか)ひて八田皇女(やたのひめみこ)を娶 (め)して宮(おほみや)の中(うち)に納(めしい)れたまふ。時に、皇后難波(なには)の済(わたり)に到りて、天皇の八田皇女を合(め)しつと聞きて大きに恨みたまふ云々』といふ。また曰はく、『遠つ飛鳥の宮に天の下知らしめす雄朝嬬稚子宿禰天皇(をあさづまわくごのすくねのすめらみこと)の二十三年の春の三月甲午(きのえうま)の朔(つきたち)の庚子(かのえね)に、木梨軽皇子(きなしのかるのみこ)を太子(ひつぎのみこ)となす。容姿(かほ)佳麗(きらきら)しく見る者(ひと)おのずから感(め)づ。同母妹(いろも)軽太娘皇女(かるのおほいらつめのひめみこ)もまた艶妙(かほよ)し云々。つひに竊(ひそ)かに通(あ)ふ。すなはち悒懐(いきどほり)少しく息(や)む。二十四年の夏の六月に、御羮(みあつもの)の汁凝(こ)りて氷(ひ)となる。天皇異(あや)しびてその所由(よし)を卜(うら)へしめたまふ。卜者(うらへ)の曰(まを)さく、『内の乱(にだれ)有り。けだしくは親々(はらから)相(どち)奸(たは)けたるか云々』とまをす。よりて、太娘皇女を伊与に移す」といふ。今案(かむが)ふるに、二代二時(ふたとき)にこの歌を見ず。(同上)

(注)おおさざきのみこと【大鷦鷯天皇】:仁徳天皇の名。

(注)八田皇女(やたのひめみこ):仁徳天皇の異母妹。当時は、母の違う兄弟姉妹の結婚は認められた。(伊藤脚注)

(注)きさき【后・妃】: 天皇の配偶者。皇后。中宮。また、女御などで天皇の母となった人。律令制では特に称号の第一とされた。 → 夫人・嬪(ひん)と続く。(weblio辞書 三省堂大辞林第三版)

(注)熊野の岬:和歌山県南方の海岸。熊野は古代人にとっては聖地。(伊藤脚注)

(注)みつながしは 御綱葉:ウコギ科の常緑小高木カクレミノの葉ともいうが、未詳。万葉集では「磐姫皇后、天皇を思ひて作らす歌」(1-85~90)の左注に「皇后、紀伊国に遊行(ゆ)きて、熊野の岬に至り、その処の御綱葉(みつながしは)を取りて還へる」とある。皇后磐姫が紀伊国の出かけたことは、記に「大后(おほきさき)、豊楽(とよのあかり)せむと為(し)て、御綱柏を採りに木国(きのくに)に幸出(いでま)しし間」とあり、紀に、この時期を「秋九月」としている。カシハは、「炊葉」の意であり、食物を盛ったり、覆ったりするのに用いたものであった。例えば、「皇祖の遠き御代御代はい敷折り酒飮むといふそこのほほがしは」(19-4205)のように、葉を折って酒器として用いたホホガシハ(もくれん科)のような例もある。当該のミツナガシハは、その採取の時期が秋であることや、皇后自らこれを採るために紀伊国まで出かけている樣子などを考えると、新嘗祭の神饌を盛る器として用いられるためのものであったと考えられよう。(國學院大學デジタル・ミュージアム「万葉神事語辞典」)

(注)内の乱れ:同居血縁者の不倫。(伊藤脚注)

(注)二代二時にこの歌を見ず:日本書記には、仁徳・允恭両朝のいずれにも八五・九〇のような歌は見当たらない、の意。(伊藤脚注)八五の歌は、磐姫皇后(いはのひめのおほきさき)の歌で、「君が行き日(け)長くなりぬ山尋(たづ)ね迎へか行かむ待ちにか待たむ」である。

 

 この左注についてはブログ拙稿「万葉歌碑を訪ねて(その番外200513)」で紹介している。

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 九十歌についてはブログ拙稿「万葉歌碑を訪ねて(その1834)」で、松山市姫原    軽之神社・比翼塚の歌碑とともに紹介している。

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(参考文献)

★「萬葉集」 鶴 久・森山 隆 編 (桜楓社)

★「万葉集 一」 伊藤 博 著 (角川ソフィア文庫

★「万葉集 三」 伊藤 博 著 (角川ソフィア文庫

★「weblio古語辞典 学研全訳古語辞典」

★「weblio辞書 三省堂大辞林第三版」

★「コトバンク 小学館 デジタル大辞泉

★「万葉神事語辞典」 (國學院大學デジタル・ミュージアムHP)