万葉集の歌碑めぐり

万葉歌碑をめぐり、歌の背景等を可能な限り時間的空間的に探索し、万葉集の万葉集たる所以に迫っていきたい!

万葉歌碑を訪ねて(その1887~1889)―松山市御幸町 護国神社・万葉苑(52~54)―万葉集 巻十 一八四八、巻八 一四六〇、巻十六 三八八六

―その1887―

●歌は、「山の際に雪は降りつつしかずがにこの川楊は萌えにけるかも」である。

松山市御幸町 護国神社・万葉苑(52)万葉歌碑<プレート>(作者未詳)

●歌碑(プレート)は、松山市御幸町 護国神社・万葉苑(52)にある。

 

●歌をみていこう。

 

◆山際尓 雪者零管 然為我二 此河楊波 毛延尓家留可聞

       (作者未詳 巻十 一八四八)

 

≪書き下し≫山の際(ま)に雪は降りつつしかすがにこの川楊(かはやぎ)は萌えにけるかも

 

(訳)山あいに雪は降り続いている。それなのに、この川の楊(やなぎ)は、もう青々と芽を吹き出した。(伊藤 博 著 「万葉集 二」 角川ソフィア文庫より)   

(注)しかすがに【然すがに】副詞:そうはいうものの。そうではあるが、しかしながら。※上代語。 ⇒参考:副詞「しか」、動詞「す」の終止形、接続助詞「がに」が連なって一語化したもの。中古以降はもっぱら歌語となり、三河の国(愛知県東部)の歌枕(うたまくら)「志賀須賀(しかすが)の渡り」と掛けて用いることも多い。一般には「しか」が「さ」に代わった「さすがに」が多く用いられるようになる。(weblio古語辞典 学研全訳古語辞典)

 

 この歌については、万葉集巻十の部立「春雑歌」の「詠柳」<柳を詠む>八首とともにブログ拙稿「万葉歌碑を訪ねて(その203改)」で紹介している。

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 静岡県浜松市北区細江町気賀の小森橋近くの「霰(あられ)降(ふ)り遠江(とほつあふみ)の吾跡川楊(あとかわやなぎ) 刈れどもまたも生(お)ふといふ吾跡川楊」を刻した旧碑は、明治時代に立てられたようである。

 これについては、ブログ拙稿「万葉歌碑を訪ねて(その1592)」で紹介している。

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―その1888―

●歌は、「戯奴がため我が手もすまに春の野に抜ける茅花ぞ食して肥えませ」である。

松山市御幸町 護国神社・万葉苑(53)万葉歌碑<プレート>(紀女郎)

●歌碑(プレート)は、松山市御幸町 護国神社・万葉苑(53)にある。

 

●歌をみていこう。

 

◆戯奴<變云和氣>之為 吾手母須麻尓 春野尓 抜流茅花曽 御食而肥座

        (紀女郎 巻八 一四六〇)

 

≪書き下し≫戯奴(わけ)<変して「わけ」といふ>がため我が手もすまに春の野に抜ける茅花(つばな)ぞ食(め)して肥(こ)えませ

 

 

(訳)そなたのために、私が手も休めずに春の野で抜き採った茅花(つばな)ですよ、これは。食(め)し上がってお太りなさいませよ。(同上)

(注)「変して」:訓じての意(伊藤脚注)

(注)てもすまに【手もすまに】分類連語:手を働かせて。一生懸命になって。(学研)

 

 紀女郎と家持の贈答歌四首についてはブログ拙稿「万葉歌碑を訪ねて(487)」で紹介している。

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 紀女郎の歌は万葉集には十二首収録されている。これについては、ブログ拙稿「万葉歌碑を訪ねて(その1114)」で紹介している。

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―その1889―

●歌は、「おしてるや・・・あしひきのこの片山のもむ楡を五百枝剥き垂れ・・・」である。

松山市御幸町 護国神社・万葉苑(54)万葉歌碑<プレート>(乞食者の歌)

●歌碑(プレート)」は、松山市御幸町 護国神社・万葉苑(54)にある。

 

●歌をみていこう。

 

◆忍照八 難波乃小江尓 廬作 難麻理弖居 葦河尓乎 王召跡 何為牟尓 吾乎召良米夜 明久 若知事乎 歌人跡 和乎召良米夜 笛吹跡 和乎召良米夜 琴引跡 和乎召良米夜 彼此毛 命受牟跡 今日ゝゝ跡 飛鳥尓到 雖置 ゝ勿尓到 雖不策 都久怒尓到   東 中門由 参納来弖 命受例婆 馬尓己曽 布毛太志可久物 牛尓己曽 鼻縄波久例 足引乃 此片山乃 毛武尓礼乎 五百枝波伎垂 天光夜 日乃異尓干 佐比豆留夜 辛碓尓舂 庭立 手碓子尓舂 忍光八 難波乃小江乃 始垂乎 辛久垂来弖 陶人乃 所作▼乎 今日徃 明日取持来 吾目良尓 塩柒給 腊賞毛 腊賞毛

      (乞食者の詠 巻十六 三八八六)

         ▼は、「瓦+缶」で「かめ)である。

 

≪書き下し≫おしてるや 難波(なにわ)の小江(をえ)に 廬(いほ)作り 隠(なま)りて居(を)る 葦蟹(あしがに)を 大君召すと 何せむに 我(わ)を召すらめや 明(あきら)けく 我が知ることを 歌人(うたひと)と 我(わ)を召すらめや 笛吹(ふえふ)きと 我を召すらめや 琴弾(ことひき)きと 我を召すらめや かもかくも 命(みこと)受(う)けむと 今日今日と 飛鳥(あすか)に至り 立つれども 置勿(おくな)に至り つかねども 都久野(つくの)に至り 東(ひむがし)の 中の御門(みかど)ゆ 参入(まゐ)り来て 命(みこと)受くれば 馬にこそ ふもだし懸(か)くもの 牛にこそ 鼻(はな)縄(づな)はくれ あしひきの この片山の もむ楡(にれ)を 五百枝(いほえ)剥(は)き垂(た)れ 天照るや 日の異(け)に干(ほ)し さひづるや 韓臼(からうす)に搗(つ)き 庭に立つ 手臼(てうす)に搗き おしてるや 難波の小江(をえ)の 初垂(はつたり)を からく垂り来て 陶人(すゑひと)の 作れる瓶(かめ)を 今日(けふ)行きて 明日(あす)取り持ち来(き) 我が目らに 塩(しほ)塗(ぬ)りたまひ 腊(きた)ひはやすも 腊ひはやすも

 

(訳)おしてるや難波(なにわ)入江(いりえ)の葦原に、廬(いおり)を作って潜んでいる、この葦蟹めをば大君がお召しとのこと、どうして私なんかをお召しになるのか、そんなはずはないと私にははっきりわかっていることなんだけど・・・、ひょっとして、歌人(うたひと)にとお召しになるものか、笛吹きにとお召しになるものか、琴弾きにお召しになるものか、そのどれでもなかろうが、でもまあ、お召しは受けようと、今日か明日かの飛鳥に着き、立てても横には置くなの置勿(おくな)に辿(たど)り着き、杖(つえ)をつかねど辿りつくの津久野(つくの)にやって来、さて東の中の御門から参上して仰せを承ると、何と、馬になら絆(ほだし)を懸けて当たり前、牛なら鼻綱(はなづな)つけて当たり前、なのに蟹の私を紐で縛りつけたからに、傍(そば)の端山(はやま)の楡(にれ)の皮を五百枚も剥いで吊(つる)し、日増しにこってりお天道(てんと)様で干し上げ、韓渡りの臼で荒搗(づ)きし、庭の手臼(てうす)で粉々の搗き、片や、事もあろうに、我が故郷(ふるさと)難波入江の塩の初垂(はつた)り、その辛い辛いやつを溜めて来て、陶部(すえべ)の人が焼いた瓶を、今日一走(ひとつばし)りして明日には早くも持ち帰り、そいつに入れた辛塩を私の目にまで塗りこんで下さって、乾物に仕上げて舌鼓なさるよ、舌鼓なさるよ。(伊藤 博 著 「万葉集 三」 角川ソフィア文庫より)

(注)おしてるや【押し照るや】分類枕詞:地名「難波(なには)」にかかる。かかる理由未詳。(学研)

(注)かもかくも 副詞:ああもこうも。どのようにも。とにもかくにも。(学研)

(注)ふもだし【絆】名詞:馬をつないでおくための綱。ほだし。(学研)

(注)さいずるや〔さひづる‐〕【囀るや】[枕]:外国の言葉は聞き取りにくく、鳥がさえずるように聞こえるところから、外国の意味の「唐(から)」、または、それと同音の「から」にかかる。(weblio辞書 デジタル大辞泉

(注)はつたり【初垂り】:製塩のとき最初に垂れた塩の汁。一説に、塩を焼く直前の濃い塩水。(weblio辞書 デジタル大辞泉

(注)すえひと〔すゑ‐〕【陶人】:陶工。すえつくり。(weblio辞書 デジタル大辞泉) 堺市南部にいた須恵器の工人。

(注)腊(読み方 キタイ):まるごと干した肉。(weblio辞書 歴史民俗用語辞典)

 

 題詞は、「乞食者詠二首」<乞食者(ほかひひと)が詠(うた)ふ歌二首>である。

 

左注は、「右歌一首為蟹述痛作之也」<右の歌一首は、蟹(かに)のために痛みを述べて作る>である。

 

 この歌についてはブログ拙稿「万葉歌碑を訪ねて(その1087)」で紹介している。

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 もう一首(三八八五歌)についてはブログ拙稿「万葉歌碑を訪ねて(その1499)」で紹介している。

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 「腊(きたい)」については、廣野 卓著「食の万葉集」(中公新書)で次の様に書かれている。

 「腊 干ものである。【令義解】は、キタイと訓んで『全干魚也』と解説するので、イワシなど小魚の丸干しである。一条兼良(いちじょうかねら)による【養老令】の注釈書【令抄】は、腊を、『朝(あした)に曝(さら)し夕べには乾く』と解説するので、一夜干しである。史料には雑腊(くさぐさのきたい)と書かれている例が少なくないので、様々な小魚の干ものが貢納されている。『長屋王家木簡』にある『荒堅魚』は、いったん煮た堅魚を乾燥させたもの(【平城京 長屋王邸宅と木簡】解説)とあるので、『多比荒腊』や『牟津荒腊』も、煮て乾燥させたタイやムツなどを細かく割いたものであろう。」

 

 万葉集の歌からも当時の食文化が伝わって来るのも興味深いところである。

 

 

 

(参考文献)

★「萬葉集」 鶴 久・森山 隆 編 (桜楓社)

★「万葉集 二」 伊藤 博 著 (角川ソフィア文庫

★「万葉集 三」 伊藤 博 著 (角川ソフィア文庫

★「食の万葉集」 廣野 卓 著 (中公新書

★「weblio古語辞典 学研全訳古語辞典」

★「weblio辞書 デジタル大辞泉

★「weblio辞書 歴史民俗用語辞典」