万葉集の歌碑めぐり

万葉歌碑をめぐり、歌の背景等を可能な限り時間的空間的に探索し、万葉集の万葉集たる所以に迫っていきたい!

万葉歌碑を訪ねて(その1908~1910)―松山市御幸町 護国神社・万葉苑(73,74,75)―万葉集 巻一 五四、巻六 一〇四八、巻三 三九五

―その1908―

●歌は、「巨勢山のつらつら椿つらつらに見つつ偲はな巨勢の春野を」である。

松山市御幸町 護国神社・万葉苑(73)万葉歌碑<プレート>(坂門人足

●歌碑(プレート)は、松山市御幸町 護国神社・万葉苑(73)にある。

 

●歌をみていこう。

 

題詞は、「大寳元年辛丑秋九月太上天皇幸于紀伊國時歌」<大宝(だいほう)元年辛丑(かのとうし)の秋の九月に、太上天皇(おほきすめらみこと)、紀伊の国(きのくに)に幸(いでま)す時の歌>である。

(注)大宝元年:701年

(注)太上天皇:持統上皇

 

◆巨勢山乃 列ゝ椿 都良ゝゝ尓 見乍思奈 許湍乃春野乎

       (坂門人足 巻一 五四)

 

≪書き下し≫巨勢山(こせやま)のつらつら椿(つばき)つらつらに見つつ偲はな巨勢の春野を

 

(訳)巨勢山のつらつら椿、この椿の木をつらつら見ながら偲ぼうではないか。椿花咲く巨勢の春野の、そのありさまを。(伊藤 博 著 「万葉集 一」 角川ソフィア文庫より)

(注)こせやま【巨勢山】:奈良県西部、御所(ごせ)市古瀬付近にある山。(コトバンク 小学館デジタル大辞泉

(注)つらつらつばき 【列列椿】名詞:数多く並んで咲いているつばき。(weblio古語辞典 学研全訳古語辞典)

(注)しのぶ 【偲ぶ】:①めでる。賞美する。②思い出す。思い起こす。思い慕う。(学研)

 

 この歌については「『つらつら椿』の名所として知られる巨勢寺の子院の一つ阿吽寺」の歌碑とともにブログ拙稿「万葉歌碑を訪ねて(その441)」で紹介している。

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歌に詠まれている「巨勢山」、持統上皇が吉野行幸の道でもある「巨勢道」についてみてみよう。

 

 「巨勢山」:奈良県御所市古瀬と高市郡高取町の境にある丘陵。西側のふもとに巨勢野がある。歌枕。(コトバンク 精選版 日本国語大辞典

 

 「巨勢の道」に関しては、奈良県HP「地域情報 ~御所市の概要~」に次の様に書かれている。

「巨勢の道 飛鳥から高取町を経由して、現御所市戸毛・古瀬の曽我川を遡り、重坂峠を越えて吉野や和歌山県へ至る古道です。大宝元年(701)太上天皇(持統)行幸の時、つき従った、坂門人足が詠んだ歌が有名です。巨勢山のつらつら椿つらつらに見つつ偲ばな巨勢の春野を・・・また、この道は持統天皇が30数回に亘って吉野へ行幸した道です。巨勢道は万葉集に数多く詠まれています。― 直に行かず此ゆ巨勢道から石瀬踏み求めそわが来し恋ひてすべなみ(巻-13)―」

 

 「巨勢山」、「巨勢道」を詠った歌をみてみよう。

■■巨勢山■■

■巻一 五六歌■

 

◆河上乃 列ゝ椿 都良ゝゝ尓 雖見安可受 巨勢能春野者

       (春日蔵首老 巻一 五六)

 

≪書き下し≫川の上(うへ)のつらつら椿(つばき)つらつらに見れども飽(あ)かず巨勢の春野は 

 

(訳)川のほとりに咲くつらつら椿よ、つらつらに見ても見飽きはしない。椿花咲くこの巨勢の春野は。(同上)

 

 この歌は、坂門人足の五四歌の原歌といわれるものである。巨勢山の野を詠っているので挙げておきました。

 

■巻七 一〇九七歌■

◆吾勢子乎 乞許世山登 人者雖云 君毛不来益 山之名尓有之

       (作者未詳 巻七 一〇九七)

 

≪書き下し≫我(わ)が背子(せこ)をこち巨勢山(こせやま)と人は言へど君も来まさず山の名にあらし

 

(訳)我が背の君をこちらに来させるという名の巨勢山、人はそう言うけれど、背の君はいっこうにおいでにならない。ただ単に、山の名だけのようだ。(「万葉集 二」 伊藤 博 著 角川ソフィア文庫より)

 

■■巨勢道■■

■巻一 五十歌■

題詞は、「藤原宮之役民作歌」<藤原の宮の役民(えきみん)の作る歌>である。

 

◆八隅知之 吾大王 高照 日乃皇子 荒妙乃 藤原我宇倍尓 食國乎 賣之賜牟登 都宮者 高所知武等 神長柄 所念奈戸二 天地毛 縁而有許曽 磐走 淡海乃國之 衣手能 田上山之 真木佐苦 檜乃嬬手乎 物乃布能 八十氏河尓 玉藻成 浮倍流礼 其乎取登 散和久御民毛 家忘 身毛多奈不知 鴨自物 水尓浮居而 吾作 日之御門尓 不知國 依巨勢道従 我國者 常世尓成牟 圖負留 神龜毛 新代登 泉乃河尓 持越流 真木乃都麻手乎 百不足 五十日太尓作 泝須郎牟 伊蘇波久見者 神随尓有之

       (藤原宮之役民 巻一 五〇)

 

≪書き下し≫やすみしし 我が大君 高照らす 日の荒田への御子(みこ) 荒栲(あらたへ)の 藤原が上(うへ)に 食(お)す国を 見(み)したまはむと みあらかは 高知(たかし)らむと 神(かむ)ながら 思ほすなへに 天地(あめつち)も 寄りてあれこそ 石走(いはばし)る 近江(あふみ)の国の 衣手(ころもで)の 田上山(たなかみやま)の 真木(まき)さく 檜(ひ)のつまでを もののふの 八十(やそ)宇治川(うぢうぢがわ)に 玉藻なす 浮かべ流せれ そを取ると 騒(さわ)く御民(みたみ)も 家忘れ 身もたな知らず 鴨(かも)じもの  水に浮き居(い)て 我が作る 日の御門(みかど)に 知らぬ国 寄し巨勢道(こせぢ)より 我(わ)が国は 常世(とこよ)にならむ 図(あや)負(お)へる くすしき亀(かめ)も  新代(あらたよ)と 泉の川に 持ち越せる 真木(まき)のつまでを 百(もも)足(た)らず 筏(いかだ)に作り 泝(のぼ)すらむ いそはく見れば 神(かむ)からならし

 

(訳)あまねく天下を支配されるわれらが大君、高く天上を照らしたまう日の御子は、荒栲(あらたえ)の藤原の地で国じゅうをお治めになろうと、宮殿をば高々とお造りになろうと、神として思し召しになるそのお考えのままに、天地(あめつち)の神も大君に心服しているからこそ、豊(ゆた)けき近江の国の、衣手の田上山(たなかみやま)の立派な檜(ひのき)丸太(まるた)、その丸太を、もののふの八十(やそ)の宇治川(うじがわ)に、玉藻のように軽々と浮かべ流しているものだから、それを引き取ろうとせわしく働く大君の民も、家のことを忘れ、我が身のこともすっかり忘れ、鴨のように軽々と水に浮きながら、われらが造る日の宮廷(みかど)に、支配の及ばぬ異国をば寄しこせというその巨勢の方から、我が国は常世の国になるであろうという瑞(みず)に兆(しるし)を背に負うた神秘の亀も、新しい代を祝福して出ずるという泉の川に持ち運んだ檜の丸太、ああその丸太をがっしり筏に組んで、川を泝(さかのぼ)らせているのであろう。天地の神も大君の民も、先を争って精出しているのを見ると、これはまさに大君の神慮のままであるらしい。(伊藤 博 著 「万葉集 一」 角川ソフィア文庫より)

(注)あらたへの 【荒妙の】分類枕詞:藤(ふじ)の繊維で作った粗末な布を「あらたへ」というところから、「藤江」「藤原」などの地名にかかる。(学研)

(注)をす【食す】他動詞:①お召しになる。召し上がる。▽「飲む」「食ふ」「着る」「(身に)着く」の尊敬語。②統治なさる。お治めになる。▽「統(す)ぶ」「治む」の尊敬語。 ※上代語。(学研)

(注)みあらか 【御舎・御殿】名詞:御殿(ごてん)。「み」は接頭語。 ※上代語(学研)

(注)たかしらす 【高知らす】分類連語:立派に造り営みなさる。(学研)

(注)なへ 接続助詞:《接続》活用語の連体形に付く。〔事柄の並行した存在・進行〕…するとともに。…するにつれて。…するちょうどそのとき。(学研)

(注)いはばしる【石走る・岩走る】:水がしぶきを上げながら岩の上を激しく流れる。

いはばしる【石走る・岩走る】分類枕詞:動詞「いはばしる」の意から「滝」「垂水(たるみ)」「近江(淡海)(あふみ)」にかかる。(学研)

(注)ころもでの【衣手の】分類枕詞:①袂(たもと)を分かって別れることから「別(わ)く」「別る」にかかる。②袖(そで)が風にひるがえることから「返る」と同音の「帰る」にかかる。③袖の縁で導いた「手(た)」と同音を含む地名「田上山(たなかみやま)」にかかる。(学研)

(注)まき【真木・槙】:杉や檜(ひのき)などの常緑の針葉樹の総称。多く、檜にいう(学研)  

(注)たなしる【たな知る】〔「たな」は接頭語〕:十分によく知る。 (weblio辞書 三省堂大辞林

(注)かもじもの【鴨じもの】副詞:鴨のように。(学研)

(注)ももたらず【百足らず】分類枕詞:①百に足りない数であるところから「八十(やそ)」「五十(いそ)」に、また「や」や「い」の音から「山田」「筏(いかだ)」などにかかる。(学研)

 

 左注は、「右日本紀日 朱鳥七年癸巳秋八月幸藤原宮地 八年甲午春正月幸藤原宮 冬十二月庚戌朔乙卯遷居藤原宮」<右は、日本紀には「朱鳥(あかみとり)七年癸巳(みづのとみ)の秋の八月に、藤原の宮地(みやところ)に幸(いでま)す。 八年甲午(きのえうま)の春の正月に、藤原の宮に幸す。冬の十二月庚戌(かのえうま)の朔(つきたち)の乙卯(きのとう)に、藤原の宮に遷(うつ)る」といふ>である。

 

 この歌についてはブログ拙稿「万葉歌碑を訪ねて(その246改)」で紹介している。

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■巻十三 三二五七歌■

◆直不来 自此巨勢道柄 石椅跡 名積序吾来 戀天窮見

       (作者未詳 巻十三 三二五七)

 

≪書き下し≫直(ただ)に来(こ)ずこゆ巨勢道(こせぢ)から石橋(いしばし)踏(ふ)みなづみぞ我(わ)が来(こ)し恋ひてすべなみ

 

(訳)まっすぐに来ないで、こっちからお越しという巨勢道(こせじ)の方から、飛石を踏み踏み、難儀しながら私はやって来てしまった。恋しさのあまりどうしようもなくて。(「万葉集 三」 伊藤 博 著 角川ソフィア文庫より)

(注)直(ただ)に来(こ)ず:回り道をして来たことをいう。(伊藤脚注)

(注)こゆ巨勢道:こっちからお越しという巨勢道。「巨勢」に「来す」の命令形「来せ」を懸ける。(伊藤脚注)

 

 

■巻十三 三三二〇歌■

◆直不徃 此従巨勢道柄 石瀬踏 求曽吾来 戀而為便奈見

       (作者未詳 巻十三 三三二〇)

 

≪書き下し≫直(ただ)に行かずこゆ巨勢道(こせぢ)から石瀬(いはせ)踏(ふ)み求めぞ我(わ)が来(こ)し恋ひてすべなみ

 

(訳)まっすぐには行かずにこっちからお越しという巨勢道を通って、石瀬を踏み踏み、あなたを探し求めて私はやって来ました。恋しくてどうしようもないので。(同上)

(注)こゆ巨勢道:こっちからお越しという巨勢道。「巨勢」に「来す」の命令形「来せ」を懸ける。(伊藤脚注)

(注の注)こせぢ【巨勢路・巨勢道】名詞:巨勢地方(今の奈良県御所(ごせ)市の南西部)を通る道。(学研)

(注)いはせ【岩瀬・石瀬】名詞:岩の多い川の浅瀬。(学研)

(注)求めぞ:いたたまれず、探しにやって来た(伊藤脚注)

 

 この歌についてはブログ拙稿「万葉歌碑を訪ねて(その1411)で紹介している。

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―その1909―

●歌は、「たち変り古き都となりぬれば道の芝草長く生ひにけり」である。

松山市御幸町 護国神社・万葉苑(74)万葉歌碑<プレート>(田辺福麻呂

●歌碑(プレート)は、松山市御幸町 護国神社・万葉苑(74)にある。

 

●歌をみていこう。

 

 一〇四七から一〇四九歌の題詞は、「悲寧楽故郷作歌一首并短歌」<寧楽の故郷を悲しびて作る歌一首 并(あは)せて短歌>である。

(注)故郷:古京の意。

(注)天平十三年(741年)元正天皇恭仁京遷都を行った折に詠った歌か。

 

 

◆立易 古京跡 成者 道之志婆草 長生尓異煎

       (田辺福麻呂 巻六 一〇四八)

 

≪書き下し≫たち変り古き都となりぬれば道の芝草(しばくさ)長く生(お)ひにけり

 

(訳)打って変わって、今や古びた都となってしまったので、道の雑草、ああこの草も、丈高く生(お)い茂ってしまった。(同上)

(注)たちかわり〔‐かはり〕【立(ち)代(わ)り】[副]:代わる代わる。たびたび。(weblio辞書 デジタル大辞泉

 

 一〇四七から一〇四九歌については、ブログ拙稿「万葉歌碑を訪ねて(その1083)」で紹介している。

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―その1910―

●歌は、「託馬野に生ふる紫草衣に染めいまだ着ずして色に出にけり」である。

松山市御幸町 護国神社・万葉苑(75)万葉歌碑<プレート>(笠女郎)

●歌碑(プレート)は、松山市御幸町 護国神社・万葉苑(75)にある。

 

●歌をみていこう。

 

 三九五から三九七歌の題詞は「笠女郎、大伴宿禰家持に贈る歌三首」である。

 

◆託馬野尓 生流紫 衣染 未服而 色尓出来

       (笠女郎 巻三 三九五)

 

≪書き下し≫託馬野(つくまの)に生(お)ふる紫草(むらさき)衣(きぬ)に染(し)めいまだ着ずして色に出(い)でにけり

 

(訳)託馬野(つくまの)に生い茂る紫草、その草で着物を染めて、その着物をまだ着てもいないのにはや紫の色が人目に立ってしまった。(「万葉集 一」 伊藤 博 著 角川ソフィア文庫より)

(注)託馬野:滋賀県米原市朝妻筑摩か。(伊藤脚注)

(注)「着る」は契りを結ぶことの譬え

(注)むらさき【紫】名詞:①草の名。むらさき草。根から赤紫色の染料をとる。古くから「武蔵野(むさしの)」の名草として有名。②染め色の一つ。①の根で染めた色。赤紫色。古代紫。古くから尊ばれた色で、律令制では三位以上の衣服の色とされた。(学研)

(注の注)上三句は相手が自分の心に乗り移ったことの譬え(伊藤脚注)

 

 

滋賀県米原市朝妻筑摩 朝妻公園にあるある歌碑は、馬史国人の歌(巻二十 四四五八)である。

 

こちらの歌もみてみよう。

 

◆尓保杼里乃 於吉奈我河波半 多延奴等母 伎美尓可多良武 己等都奇米也母  古新未詳

        (馬史国人 巻二十 四四五八)

 

≪書き下し≫にほ鳥(どり)の息長川(おきながかは)は絶えぬとも君に語らむ言(こと)尽(つ)きめやも   古新は未だ詳(つばび)らかならず

 

(訳)にお鳥の息長(いきなが)、息長(おきなが)の川の流れは絶えてしまおうとも、私があなたに語りかけたいと思う、その言葉の尽きることなどあるものですか。(伊藤 博 著 「万葉集 四」 角川ソフィア文庫より)

(注)にほ【鳰】名詞:水鳥のかいつぶりの別名。湖沼にすみ、水中にもぐって魚を取る。「にほどり」とも。(学研)

(注)にほどりの【鳰鳥の】分類枕詞:かいつぶりが、よく水にもぐることから「潜(かづ)く」および同音を含む地名「葛飾(かづしか)」に、長くもぐることから「息長(おきなが)」に、水に浮いていることから「なづさふ(=水に浮かび漂う)」に、また、繁殖期に雄雌が並んでいることから「二人並び居(ゐ)」にかかる。(学研)

(注)息長川:読み方 オキナガカワ 所在 滋賀県 水系 淀川水系天野川weblio辞書 河川・湖沼名辞典)

 

 左注は、「右一首主人散位寮散位馬史國人」<右の一首は主人(あろじ)散位寮(さんゐれう)の散位馬史國人(うまのふひとくにひと)>である。

(注)さんい 【散位】:律令制で、位階のみあって、それに相当する官職に就いていないもの。散官。 ⇔ 職事(しきじ) (weblio辞書 三省堂 大辞林 第三版)

 

四四五八歌についてはブログ拙稿「万葉歌碑を訪ねて(その405)」で紹介している。

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一方「託馬」を「つくま」と読む例はなく、町向かいの粟島で馬の飼育を託したことが実証され、また宅間野では紫草の生育が確認された等から、「託馬野」を「滋賀県米原市朝妻筑摩」とする考えを否定し、「たくま」と読み「詫間」町とすべきと主張する考えもある。と書かれている。(副碑は雨の影響と劣化により判読不能な箇所がある。)

 この歌碑は、ブログ拙稿「万葉歌碑を訪ねて(その1710)」で紹介している。

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(参考文献)

★「萬葉集」 鶴 久・森山 隆 編 (桜楓社)

★「万葉集 一」 伊藤 博 著 (角川ソフィア文庫)

★「万葉集 二」 伊藤 博 著 (角川ソフィア文庫)

★「万葉集 三」 伊藤 博 著 (角川ソフィア文庫)

★「万葉集 四」 伊藤 博 著 (角川ソフィア文庫)

★「weblio古語辞典 学研全訳古語辞典」

★「weblio辞書 三省堂 大辞林 第三版」

★「weblio辞書 デジタル大辞泉

★「weblio辞書 河川・湖沼名辞典」

★「コトバンク 精選版 日本国語大辞典

★「地域情報 ~御所市の概要~」 (奈良県HP)