万葉集の歌碑めぐり

万葉歌碑をめぐり、歌の背景等を可能な限り時間的空間的に探索し、万葉集の万葉集たる所以に迫っていきたい!

万葉歌碑を訪ねて(その1939)―岐阜県養老町 養老神社―巻三 三五一・三三六

●歌は、「世間を何に譬へむ朝開き漕ぎ去にし船の跡なきごとし(巻三 三五一)

   「しらぬひ筑紫の綿は身に付けていまだは着ねど暖けく見ゆ(巻三 三三六)」である。

岐阜県養老町 養老神社万葉歌碑(沙弥満誓)

●歌碑は、岐阜県養老町 養老神社にある。

 

●歌をみていこう。

 

 題詞は、「沙弥満誓詠綿歌一首  造筑紫觀音寺別當俗姓笠朝臣麻呂也」<沙弥満誓(さみまんぜい)、綿(わた)を詠(よ)む歌一首  造筑紫觀音寺別当、俗姓は笠朝臣麻呂なり>

(注)べったう【別当】名詞:①朝廷の特殊な役所である、検非違使庁(けびいしちよう)・蔵人所(くろうどどころ)・絵所・作物所(つくもどころ)などの長官。②院・親王家・摂関家大臣家などで、政所(まんどころ)の長官。③東大寺興福寺法隆寺などの大寺で、寺務を総括する最高責任者。 ※もと、本官のある者が別の職を兼務する意。「べたう」とも。(weblio古語辞典 学研全訳古語辞典より)

 

◆世間乎 何物尓将譬 旦開 榜去師船之 跡無如

        (沙弥満誓 巻三 三五一)

 

≪書き下し≫世間(よのなか)を何(なに)に譬(たと)へむ朝開(あさびら)き漕(こ)ぎ去(い)にし船の跡なきごとし

 

(訳)世の中、これをいかなる物に譬えたらよいだろうか。それは、朝早く港を漕ぎ出て消え去って行った船の、その跡方が何もないようなものなのだ。(同上)

(注)あさびらき【朝開き】名詞:船が朝になって漕(こ)ぎ出すこと。朝の船出。(学研)

 

 

もう一首もみてみよう。

 

◆白縫 筑紫乃綿者 身箸而 未者伎袮杼 暖所見

       (沙弥満誓 巻三 三三六)

 

≪書き下し≫しらぬひ筑紫(つくし)の綿(わた)は身に付けていまだは着(き)ねど暖(あたた)けく見ゆ

 

(訳)しらぬひ筑紫、この地に産する綿は、まだ肌身に付けて着たことはありませんが、いかにも暖かそうで見事なものです。(「万葉集 一」 伊藤 博 著 角川ソフィア文庫より)

(注)しらぬひ 分類枕詞:語義・かかる理由未詳。地名「筑紫(つくし)」にかかる。「しらぬひ筑紫」。 ※中古以降「しらぬひの」とも。(学研)

(注)筑紫も捨てたものではないと私見を述べている。

 

 沙弥満誓の歌は、万葉集には上記二首を含め七首収録されている。これについては、ブログ拙稿「万葉歌碑を訪ねて(その920)」で紹介している。

 ➡ 

tom101010.hatenablog.com

 

歌の解説案内板

 

【沙弥満誓】(さみまんせい)については、「コトバンク 株式会社平凡社世界大百科事典 第2版」に次の様に書かれている。

万葉歌人。生没年不詳。俗名笠朝臣麻呂。和銅年間美濃守として政績を賞せられ、また木曾道を開き、養老年間按察使(あぜち)として尾張三河信濃3国を管し、右大弁を経,元明上皇病臥に際して出家、723年(養老7)造筑紫観世音寺別当として西下大宰帥大伴旅人らと交わり、人間味豊かな短歌7首を《万葉集》にとどめた。寺婢に子を生ませていたことが死後露顕。」

 

 沙弥満誓については、大伴旅人との交流を中心とした歌をこれまでみてきたので、養老神社に沙弥満誓の歌碑があるのが不思議に思ったが、上記人物歴を見て納得がいったのであった。

 

 「養老神社」については、「養老町観光協会HP」に「養老公園内にあり、古くは養老明神といい、菊理媛命が祭神とも伝えますが、永正元年(1504年)菅原道真を合祀し、養老天神といわれていました。境内には、今もこんこんと湧いている清水があり、孝子源丞内が汲んで老父にすすめたところ酒になったという伝説の水は、実はこの水であるともいわれ、菊水泉と名付けられています。毎年『春分の日』に春を告げる『若水取り』の神事が行われます。」と書かれている。

養老神社名碑

「元正太上万葉歌碑」を探すのに結構時間を食ってしまった。

養老神社参道石段

諦めて養老神社に向かう。長い石段の参道前に到着。腰の悪い家内はもう限界と言う。石段の上り口近くに四阿があるので、そこで待っていてもらうことにし単独行である。

石段を上り「笠萬誓萬葉歌碑」に出会う。

養老神社扁額

養老神社拝殿


 そこから滝までのルートは「養老公園マップ」によると橋が3つある。あみだくじのようなルートで、どのルート上に万葉歌碑があるのか見当がつかない。

 歌碑がありそうなところを感覚で上って行く。歌碑はあったが万葉歌碑ではない。しばらく行くと、滝まで「あと400m」とあった。上り坂がまるで90度直角のように思えて来る。もう限界である。「あと400m」と目の前の坂道の現実的な400mを考えると引き返す勇気も必要と、結局諦めたのである。

 

 四阿の所で家内と合流、駐車場へ戻る途中、工事現場に県の職員の方がおられたので「元正太上帝万葉歌碑」を聞いてみた。この辺りの開発に携わっていたので、以前見たような気がすると、おっしゃった上に、「よろしかったら、行ってみましょう。」と、何とその方の車に乗せていただき再び遺跡近くまで戻ったのである。そして、心当りを、車で探していただいたのであるが、結局分からずじまいに終わった。

 「養老公園マップ」も、旅行者の目線になってないと、までおっしゃり、見つからなかったことに「お役に立てずに・・・」と申し訳なさそうにおっしゃっていただいた。こちらの方が、かえって恐縮してしまった。有り難いことである。

 わざわざ一緒になり探していただいたことに、この紙面を借りてあらためて心から御礼申し上げます。ありがとうございました。

 

 万葉歌碑巡りではいろいろな良い方との出会いがあるが、これも万葉歌碑ならではかもしれない。

 養老公園の万葉歌碑は予定では六基巡ることになっていたが、結局、三基という残念な結果であったが、なぜか充実感あふれる気持ちで、満足感に浸ることが出来たのである。

 

 たかが万葉歌碑、されど万葉歌碑。

 

■番外編 近江八幡市の「水茎の岡の万葉歌碑」■

 養老の滝まで行かなかったことで少し時間的に余裕ができた。名神経由で帰ることにし、これまで二度挑戦し、見つけることが出来なかった近江八幡市の「水茎の岡の万葉歌碑」に三度目の挑戦をしたのである。

 近江八幡市の総合政策部観光政策課の方にお送りいただいた資料をもとに、ひょっとして歌碑に出会えるのではと密かに期待して行ったのである。

 前回挑戦した時に問い合わせたが、なんとその日に現地に行って

 現場は、笹が身の丈ほどに伸びており、ここではと見当をつけ少し笹をかき分け、足で踏みつけ道を作りつつ進むが、笹、笹、笹。今回も徒労に終わったのである。

 先達のブログ等の歌碑の写真では美しい姿で写っているのに・・・。幻の歌碑である。

 また、機会をみて来よう。いつか出逢える日を夢見て。

近江八幡市の総合政策部観光政策課から送っていただいた資料

 

(参考文献)

★「萬葉集」 鶴 久・森山 隆 編 (桜楓社)

★「万葉集 一」 伊藤 博 著 (角川ソフィア文庫

★「weblio古語辞典 学研全訳古語辞典」

★「コトバンク 株式会社平凡社世界大百科事典 第2版」

★「近江八幡市の総合政策部観光政策課資料」

★「養老町観光協会HP」

★「養老公園マップ」