万葉集の歌碑めぐり

万葉歌碑をめぐり、歌の背景等を可能な限り時間的空間的に探索し、万葉集の万葉集たる所以に迫っていきたい!

万葉歌碑を訪ねて(その1941、1942)―岐阜県養老町 滝前広場「続日本紀等銘文碑」、「養老美泉辨碑」―万葉集 巻六 一〇三四、一〇三五

●歌は、「いにしへゆ人の言い来る老人のをつという水ぞ名に負ふ滝の瀬(大伴東人)」ならびに「田跡川の滝を清みかいにしへゆ宮仕へけむ多芸の野の上に(大伴旅人)」である。

 

―その1941―

岐阜県養老町 滝前広場「続日本紀等銘文碑」

 

●歌碑は、岐阜県養老町 滝前広場「続日本紀等銘文碑」である。

 

―その1942―

岐阜県養老町 「養老美泉辨碑」

●歌碑は、岐阜県養老町 「養老美泉辨碑」である。

 

 

●歌をみてみよう。歌は、前稿(その1940)と同じである。

 

題詞は、「美濃國多藝行宮大伴宿禰東人作歌一首」<美濃(みの)の國の多芸(たぎ)の行宮(かりみや)にして、大伴宿禰東人(おほとものくねあづまひと)が作る歌一首>

(注)多芸(たぎ)の行宮(かりみや):岐阜県養老郡養老町付近か。(伊藤脚注)

 

◆従古 人之言来流 老人之  變若云水曽 名尓負瀧之瀬

       (大伴東人 巻六 一〇三四)

 

≪書き下し≫いにしへゆ人の言ひ来(け)る老人(おいひと)のをつといふ水ぞ名に負ふ滝の瀬 

 

(訳)遠く古い時代から人が言い伝えて来た、老人の若返るという神聖な水であるぞ、名にし負うこの滝の瀬は。(伊藤 博 著 「万葉集 二」 角川ソフィア文庫より)

(注)をつ【復つ】自動詞:元に戻る。若返る。(weblio古語辞典 学研全訳古語辞典)

 

 家持の歌もみてみよう。

 

 題詞は、「大伴宿祢家持作歌一首」<大伴宿禰家持が作る歌一首>である。

 

◆田跡河之 瀧乎清美香 従古 官仕兼 多藝乃野之上尓

      (大伴家持 巻六 一〇三五)

 

≪書き下し≫田跡川(たどかわ)の瀧を清みかいにしへゆ宮仕(みやつか)へけむ多芸(たぎ)の野の上(へ)に 

 

(訳)田跡川(たどかわ)の滝が清らかなので、遠く古い時代からこうして宮仕えしてきたのであろうか。ここ多芸の野の上で。(伊藤 博 著 「万葉集 二」 角川ソフィア文庫より) 

注)田跡川:養老川。養老の滝に発し揖斐川に注ぐ。(伊藤脚注)

(注)みやづかふ【宮仕ふ】自動詞:①宮殿の造営に奉仕する。②宮中や貴人に奉公する。(学研)

 

 この両歌については、天平十二年(740年)の藤原広嗣の乱に端を発し、聖武天皇は、十月二十九日平城京を出発、伊勢・美濃。近江を経て久邇の宮に帰着、ここを都としたその間の歌(一〇二九から一〇三七歌)とともに、ブログ拙稿「万葉歌碑を訪ねて(その184改)」で紹介している。

 ➡ 

tom101010.hatenablog.com

 

 

 

■大伴東人・家持万葉歌碑→滝前広場「続日本紀等銘文碑」■

 1週間前に「滝まで400m」の所でギブアップした苦い経験があるので、作戦を変え、養老公園入口駐車場から養老の滝駐車場に移動し、滝前広場を目指すことにした。

養老の滝駐車場は、駐車料金500円が必要である。入り口で料金を支払うと、おばさんが「一番奥に停めると良いですよ。そこから階段を下りて行くと滝にちかいですよ。」と教えてくれた。この駐車場から滝までは約200mである。

滝まであと100m!

濃尾平野の遠望



 途中濃尾平野もながめながら階段を下りて行く。足腰の悪い家内もストックや手すりを使いながらゆっくりと下りて行く。

 

 ようやく滝が見える広場に到着。今までの疲れが吹っ飛ぶ。

 独特の形をした「続日本紀等銘文碑」をまず撮影することが出来た。

この碑文の最後に「一九六八年明治百年十一月十七日 養老観光協会 建之」とある。

その前に、この両歌が刻されている。

養老公園石碑コース(養老町教育委員会HP)」によると、「続日本紀銘文碑は、・・・明治百年記念事業として、養老観光協会が鋳銅製円柱標識を建立したものです。銘文は続日本紀、古今著聞集(ここんちょもんじゅう)、頼山陽(らいさんよう)記述の養老関係文書が刻印されています。」と書かれている。

 

 

■滝前広場「続日本紀等銘文碑」→「養老美泉辨碑」■

 「養老美泉辨碑」は、滝つぼ近くに立てられている。このような所に立てるとはと驚いたが、「碑の解説案内板を読み納得したのであった。

歌碑と歌碑説明案内板



 現在の「養老美泉辨碑」は明治三十一年(1898年)に再建されたもので、初期の碑は文化十三年(1816年)という。

 

養老町教育委員会HP「養老町の歴史文化資源」の「養老美泉論争」に、この歌碑にまつわる出来事が次の様に興味深く書かれている。長いが引用させていただきます。

養老町の名前の由来にもなっている、元正天皇が訪れた養老の美泉ですが、実はその候補は『養老の滝』と『菊水泉』の2つがあり、今もはっきりとした結論が出ていません。そして、このことについては、江戸時代にも高名な学者同士で論争になり、大人げない意地の張り合いに発展したことがありました。それが、国学者である田中大秀(たなかおおひで)と、儒学者である秦鼎(はたかなえ)の間で、交わされた論争です。

田中大秀は養老の滝派、秦鼎は菊水泉派でした。

田中大秀は、『養老美泉録』(1814)や、『養老美泉辯註(ようろうびせんべんちゅう)』(1815)を著し、さらに滝のそばに『養老美泉辯碑(ようろうびせんべんひ)』という石碑を建て、持論の正当性をアピールしました。

これに対し、秦鼎は、文化13年(1816)菊水泉に『菊水銘碑』を建てています。さらに、養老の弟子へ田中大秀を誹謗する手紙も送るといったこともありました。

対立は、2人が亡くなったあとも続き、秦鼎の弟子達が『養老美泉辯碑』を壊したり、『養老美泉辯註』の版木の一部を削ってしまう事件が起きました。

現在の『養老美泉辯碑』は明治31年(1898)に再建されたものです。

この2つの候補は、いずれも養老公園内にあります。訪れた際には、どちらが妥当か、ぜひ皆さんも考えてみて下さい。」

滝つぼ近くの養老美泉辯碑


 養老公園の万葉歌碑は、すべて撮り終えることが出来たのである。

 

 

 

(参考文献)

★「萬葉集」 鶴 久・森山 隆 編 (桜楓社)

★「万葉集 二」 伊藤 博 著 (角川ソフィア文庫

★「weblio古語辞典 学研全訳古語辞典」

★「養老公園石碑コース」 (養老町教育委員会HP)

★「養老町の歴史文化資源>『養老美泉論争』」 (養老町教育委員会HP)