万葉集の歌碑めぐり

万葉歌碑をめぐり、歌の背景等を可能な限り時間的空間的に探索し、万葉集の万葉集たる所以に迫っていきたい!

万葉歌碑を訪ねて(その1946)―兵庫県淡路市野島 海若の宿―万葉集 巻六 九三四

新年明けましておめでとうございます。本年もよろしくお願い申し上げます。

 

●歌は、「朝なぎに楫の音聞こゆ御食つ国野島の海人の舟にしあるらし」である。

兵庫県淡路市野島 「海若の宿」万葉歌碑(山部赤人

●歌碑は、兵庫県淡路市野島 海若の宿にある。

 

●歌をみていこう。

 

◆朝名寸二 梶音所聞 三食津國 野嶋乃海子乃 船二四有良信

       (山部赤人 巻六 九三四)

 

≪書き下し≫朝なぎに楫(かぢ)の音(おと)聞こゆ御食(みけ)つ国野島(のしま)の海人(あま)の舟(ふめ)にしあるらし

 

(訳)朝凪に櫓(ろ)の音が聞こえてくる。あれは大御食の国淡路(あわじ)の、野島の海人たちの舟であるらしい。(「万葉集 二」 伊藤 博 著 角川ソフィア文庫より)

(注)みけつくに【御食つ国】名詞:天皇の食料を献上する国。 ※「つ」は「の」の意の上代の格助詞。(weblio古語辞典 学研全訳古語辞典)

(注)野島:淡路島西岸、北端近くの地名。(伊藤脚注)

 

 この歌については、前稿(その1945)で紹介している。

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■「御食国(みけつくに)」とは■

「御食国(みけつくに)」については、「 フリー百科事典『ウィキペディアWikipedia)』 」に、「御食国(みけつくに)は、日本古代から平安時代まで、贄(にえ)の貢進国、すなわち皇室・朝廷に海水産物を中心とした御食料(穀類以外の副食物)を貢いだと推定される国を指す言葉。律令制のもと租・庸・調の税が各国に課せられたが、これとは別に贄の納付が定められていたと考えられる。『万葉集』にある郷土礼讃の歌に散見され、『延喜式』の贄の貢進国の記述、平城京跡から出土した木簡の記述などから、若狭国志摩国淡路国などへの該当が推定されている。」と書かれている。

 

■御食国(みけつくに)淡路国

一般社団法人「淡路島くにうみ協会HP」「淡路島の紹介」の「食・特産『御食国の宝』に次の様に書かれている。

「御食国(みけつくに)とは、日本古代から平安時代まで、贄(にえ)の貢進国、すなわち皇室・朝廷に海水産物を中心とした御食料を貢いだと推定される国のことです。若狭、志摩と並び、多くの食材に恵まれた淡路島もまた、古くから朝廷に数々の食材を納めてきました。古事記仁徳天皇の項には『旦夕淡路島の寒水を酌みて、大御水献りき』とあり、毎日飲む水までもが、ここ淡路島から朝廷に運ばれていた事は注目に値します。 いわば朝廷からのお墨付きを頂いていた淡路島の食材。・・・」

 

 

■御食国(みけつくに)志摩国

 「御食国(みけつくに)志摩」に関しては、三重県HP「歴史の情報蔵」の「古代の『御食つ国』志摩」に、「・・・三重県は広く海に面し、海の幸には大変恵まれたところです。中でも、志摩地方は、その種類も豊富で、古代には『御食つ国』、すなわち天皇の食料を献上する国として知られていました。『万葉集』には、大伴家持(おおとものやかもち)が詠んだ歌で『御食つ国 志摩の海女ならし真熊野(まくまの)の小舟に乗りて 沖へ漕ぐ見ゆ』という歌があります。・・・また、平城宮跡からは、鰒(あわび)6斤(名錐(なきり)郷)、海松(みる)6斤(船越郷)、海鼠(なまこ)(船越郷)・海藻六斤(和具郷)等が記された木簡が出土しており、志摩国から朝廷に海産物を納めていたことが裏付けられます。さらに、平安時代初期の法律書である『延喜式』には、志摩国に税として鰒や海藻・ところてん・真珠等を納める義務のあることが記されています。こうした朝廷への食料の献上は、飛鳥・奈良時代以前にも行われていたようで、『古事記』の中にも『島之速贄(しまのはやにえ)』という言葉が出てきます。この『贄』という言葉も『朝廷(神)に捧げるみやげの魚など』という意味です・・・)と書かれている。

 

 

■御食国(みけつくに)若狭国

「若狭歴史博物館HP」の「郷土史講座『木簡からみた御食国・若狭』」の案内に「古代の都から出土した多くの木簡のなかには、若狭から税や贄として納められた塩や海産物が記されています。特に『御贄』と記される木簡が非常に多く、いわゆる御食国(天皇の食事を貢ぐ国)として知られています。」と書かれている。

(注)にへ【贄】名詞:①古代、豊作を感謝して、神にその年の新穀を供えること。また、その供え物。②神や朝廷に献上する供え物。穀物・野菜・魚・鳥などをさす。③貢物(みつぎもの)。贈り物。(学研)

 

 

 

■「御食国(みけつくに)志摩」を詠んだ家持の歌■

 

御食國 志麻乃海部有之 真熊野之 小船尓乗而 奥部榜所見

        (大伴家持 巻六 一〇三三)

 

≪書き下し≫御食(みけ)つ国志摩(しま)の海人(あま)ならしま熊野(くまの)の小舟(をぶね)に乗りて沖辺(おきへ)漕ぐ見ゆ 

 

(訳)あれは、御食(みけ)つ国、志摩の海人であるらしい。熊野型の小舟に乗って、今しも沖の方を漕いでいる。(同上)

(注)ま熊野の小舟:熊野製の船。熊野は良船の産地。マは接頭語。(伊藤脚注)

 

 

 「御食国:食(を)す国」、「御食向:御食(みけ)向(むか)ふ」というケースもみてみよう。

 

■「御食國」と書いても「食(を)す国」と読む場合■

◆八隅知之 吾大王乃 御食國者 日本毛此間毛 同登曽念

         (大伴旅人    巻六 九五六)

 

≪書き下し≫やすみしし我(わ)が大君(おほきみ)の食(を)す国は大和(やまと)もここも同(おな)じとぞ思ふ

 

(訳)あまねく天下を支配されるわれらの大君がお治めになる国、その国は、大和もここ筑紫(つくし)も変わりはないと思っています。(同上)

(注)やすみしし【八隅知し・安見知し】分類枕詞:国の隅々までお治めになっている意で、「わが大君」「わご大君」にかかる。

(注)をす【食す】他動詞:①お召しになる。召し上がる。▽「飲む」「食ふ」「着る」「(身に)着く」の尊敬語。②統治なさる。お治めになる。▽「統(す)ぶ」「治む」の尊敬語。 ※上代語。(学研)

 

 この歌については、拙稿ブログ「万葉歌碑を訪ねて(その921)」で紹介している。

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■御食向の場合■

御食向 南淵山之 巖者 落波太列可 削遺有

       (柿本人麻呂歌集    巻九 一七〇九)

 

≪書き下し≫御食(みけ)向(むか)ふ南淵山(みなぶちやま)の巌(いはほ)には降りしはだれか消え残りたる

 

(訳)南淵山の山肌には、いつぞや降った薄ら雪が消え残っているのであろうか。(同上)

(注)みけむかふ【御食向かふ】分類枕詞:食膳(しよくぜん)に向かい合っている「䳑(あぢ)」「粟(あは)」「葱(き)(=ねぎ)」「蜷(みな)(=にな)」などの食物と同じ音を含むことから、「味原(あぢふ)」「淡路(あはぢ)」「城(き)の上(へ)」「南淵(みなぶち)」などの地名にかかる。(学研)

(注)はだれ 【斑】名詞:「斑雪(はだれゆき)」の略。(うっすらと積る状態)(学研)

 

 題詞は、「獻弓削皇子歌一首」<弓削皇子に献る歌一首>である。

 

左注は、「右柿本朝臣人麻呂之歌集所出」<右は、柿本朝臣人麻呂が歌集に出づるところなり>である

 

 堀内民一氏は、その著「大和万葉―その歌の風土」の中で、「飛鳥川上の南淵山の巌とよんでいるところが重要なのである。古代の祭祀場となった南淵山を考えると、その巌に消え残った斑雪(はだれ)が、点々と白く見えるという風景には、飛鳥川の奥の霊地を想定するうえでも、きわめて貴重な歌である。『御食向う』という枕詞が、そのまま古代のまつりを暗示して、南淵山にはたらきかけている。」と述べておられる。

 

 この歌については、拙稿ブログ「万葉歌碑を訪ねて(その164改)」で紹介している。

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 「みけ」と「みをし」を改めて調べてみると、次の様になっている。

■みけ【御食・御饌】名詞:お召し上がり物。▽神または天皇にさし上げる食料の尊敬語。

※「み」は接頭語、「け」は食物・食事の意。(学研)

■みをし【御食】名詞:お食事。▽食事の尊敬語。 ※「み」は接頭語。(学研)

 

 歴史的、風土的背景を見ながら歌に接する必要性を痛感させられる。ああ万葉集

 

 

■■淡路市野島「大川公園」⇒淡路市野島「海若(わたつみ)の宿」■■

 「海若(わたつみ)の宿」は。淡路サンセットライン(県道31号線)沿いにある。歌碑は、玄関脇の坪庭風の一角に建てられていた。

 前日、寝られなかったので、淡路島の万葉歌碑についていろいろと先達のブログなどを見ている時に、最近立てられたとの記事を目にし、急きょ計画に織り込んだ歌碑である。

 

 「海若の宿HP」に名前の由来が書かれている。

「『海に若い』と書いて『わたつみ』と読む『海若の宿』の名称は、古代文学研究の第一人者で文学博士の中西進先生(京都市立芸術大学長・奈良県立万葉文化館長)により命名されました。万葉の時代、淡路島は塩や海の幸などの食材を天皇家に献上する土地として『御食つ国(みけつくに)』と呼ばれ、日本書紀万葉集の歌には、その献上品のひとつである塩の精製所・塩田がこの野島付近にあったと残されています。その野島の海人の存在を立証する貴重な遺跡が、旅館建設中の工事現場から発見されたのです。発掘調査は工事をストップして行われ、この遺跡は弥生時代末および古墳時代の住居跡であるとの見解が北淡町教育委員会より発表されました。(2004年8月)この遺跡は『畑田(はただ)遺跡』と名付けられ、『野島』には、柿本人麻呂が九州に赴くときに一夜を過ごした場所ではないかと思わせる歌が残っています。また、野島ヶ崎、野島の港、野島川などを見渡せることから『野島の海人』の集落拠点、あるいは淡路島にある大きな柱跡の太さから、豪族の館跡ではないかといわれています。

玉藻刈る 敏馬を過ぎて 夏草の 野島の崎に舟近づきぬ

淡路の 野島の崎の 浜風に 妹が結びし 紐吹きかへす

万葉集には 『海若は 霊しきものか 淡路島……』という言葉で始まる長歌もあります。

『若』という文字は万葉仮名で『神さま』、現代文字の『海神』と同じ意味を持ち、『わたつみ』と発音していたそうです。

このように、淡路島・野島が万葉集に縁が深いことから、『海若の宿』と命名されました。」

(注)『海若は 霊しきものか 淡路島……』は、巻三 三八八歌である。

 

 

 

(参考文献)

★「萬葉集」 鶴 久・森山 隆 編 (桜楓社)

★「万葉集 二」 伊藤 博 著 (角川ソフィア文庫

★「大和万葉―その歌の風土」 堀内民一 著 (創元社

★「weblio古語辞典 学研全訳古語辞典」

★「 フリー百科事典『ウィキペディアWikipedia)』」

★「若狭歴史博物館HP」

★「歴史の情報蔵」 (三重県HP)

★「海若の宿HP」