万葉集の歌碑めぐり

万葉歌碑をめぐり、歌の背景等を可能な限り時間的空間的に探索し、万葉集の万葉集たる所以に迫っていきたい!

万葉歌碑を訪ねて(その1953)―鳥取市国府町庁 史跡「万葉の歌碑」―万葉集 巻二十 四五一六

●歌は、「新しき年の初めの初春の今日降る雪のいやしけ吉事」である。

鳥取市国府町庁 史跡「万葉の歌碑」の歌碑(大伴家持

●歌碑は、鳥取市国府町庁 史跡「万葉の歌碑」にある。

 

●歌をみていこう。

 

 題詞は、「三年春正月一日於因幡國廳賜饗國郡司等之宴歌一首」<三年の春の正月の一日に、因幡(いなば)の国(くに)の庁(ちやう)にして、饗(あへ)を国郡の司等(つかさらに)賜ふ宴の歌一首>である。

(注)三年:天平宝字三年(759年)。

(注)庁:鳥取県鳥取市にあった。(伊藤脚注)

(注)あへ【饗】名詞※「す」が付いて自動詞(サ行変格活用)になる:食事のもてなし。(weblio古語辞典 学研全訳古語辞典)

(注の注)あへ【饗】:国守は、元日に国司・郡司と朝拝し、その賀を受け饗を賜うのが習い。(伊藤脚注)

 

◆新 年乃始乃 波都波流能 家布敷流由伎能 伊夜之家餘其騰

       (大伴家持 巻二十 四五一六)

 

≪書き下し≫新(あらた)しき年の初めの初春(はつはる)の今日(けふ)降る雪のいやしけ吉事(よごと)

 

(訳)新しき年の初めの初春、先駆けての春の今日この日に降る雪の、いよいよ積もりに積もれ、佳(よ)き事よ。(「万葉集 四」 伊藤 博 著 角川ソフィア文庫より)

(注)上四句は実景の序。「いやしけ」を起す。正月の大雪は豊年の瑞兆とされた。(伊藤脚注)

(注)よごと【善事・吉事】名詞:よい事。めでたい事。(学研)

 

左注は、「右一首守大伴宿祢家持作之」<右の一首は、守(かみ)大伴宿禰家持作る>である。

 

伊藤 博氏は同歌の脚注で「将来への予祝をこめるこの一首をもって万葉集は終わる。天皇と娘子との成婚を通して御代の栄えを与祝する巻一の巻頭歌に応じて、万葉集が万代の後までもと伝わることを祈りながら、ここに据えられたらしい。」と、さらに、「この時、家持、従五位上、四二歳。以後、数奇な人生をたどって、延暦四年(785年)八月二十八日に、中納言従三位、六八歳をもって他界。その間、いくつか歌詠をなしたらしい。だが、万葉集最終編者と見られる家持は、万代予祝の右の一首をもって、万葉集を閉じた。」と書かれている。

大伴家持の歌碑案内案内板

史跡「万葉の歌碑」説明案内板

 

 天平勝宝二年の正月二日に、家持は越中国守として国庁で饗を給い宴で詠っている。この歌もみてみよう。

 題詞は、「天平勝寶二年正月二日於國廳給饗諸郡司等宴歌歌一首」<天平勝宝(てんびやうしようほう)二年の正月の二日に、国庁(こくちょう)にして饗(あへ)を諸(もろもろ)の郡司(ぐんし)等(ら)に給ふ宴の歌一首>である。

(注)天平勝寶二年:750年

(注)国守は天皇に代わって、正月に国司、群詞を饗する習いがある。

 

◆安之比奇能 夜麻能許奴礼能 保与等里天 可射之都良久波 知等世保久等曽

       (大伴家持 巻十八 四一三六)

 

≪書き下し≫あしひきの山の木末(こぬれ)のほよ取りてかざしつらくは千年(ちとせ)寿(ほ)くとぞ

 

(訳)山の木々の梢(こずえ)に一面生い栄えるほよを取って挿頭(かざし)にしているのは、千年もの長寿を願ってのことであるぞ。(同上)

(注)ほよ>ほや【寄生】名詞:寄生植物の「やどりぎ」の別名。「ほよ」とも。(weblio古語辞典 学研全訳古語辞典)

 

左注は、「右一首守大伴宿祢家持作」<右の一首は、守大伴宿禰家持作る>である。

 

 この歌については、高岡市伏木古国府 勝興寺越中国庁碑とともに、ブログ「万葉歌碑を訪ねて(その822)」で紹介している。

 ➡ こちら822

高岡市伏木古国府 勝興寺にある越中国庁碑(この裏面に四一三六歌が刻されている)



高岡市伏木古国府 勝興寺越中国庁碑裏面に刻された四一三六歌

 

 

■■■11月8日~11日鳥取・島根・山口・岡山万葉歌碑巡り全旅程■■■

 2022年11月8日から鳥取、島根、山口、岡山と全国旅行支援を利用して3泊4日の万葉歌碑巡りをおこなった。

 万葉集に関心がある以上、因幡伯耆の国は是が非でも行って見たいと思っていたからである。さらに島根は前回県立万葉公園の「人麻呂展望広場」で2基、「石の広場」の家持の歌碑を撮り忘れていたのでリベンジしたいと思っていた。山口県角島大橋もいつかはと考えていた。廃校になっているが角島の角島小学校にも万葉歌碑がある。願ったり叶ったりである。

 全旅程は次の通りである。

 

■■11月8日自宅→鳥取→島根■■

≪旅程≫自宅→鳥取市国府町中郷 因幡国庁跡→同町庁 大伴家持の歌碑→同町町屋 袋川水辺の楽校→同町町屋 因幡万葉歴史館→倉吉市南昭和町 深田公園→倉吉市国府 伯耆国分寺跡→米子市彦名町 米子水鳥公園駐車場→同町 粟嶋神社→島根県松江市 阿太加夜神社→益田市内ホテル

 

■■11月9日島根→山口■■

≪旅程≫益田市ホテル→島根県邑智郡邑南町 志都岩屋神社→益田市高津町 県立万葉公園→同市西平原町 鎌手公民館→同市喜河弥町 ふれあい広場→下関市内ホテル

 

■■11月10日山口→岡山■■

≪旅程≫下関市内ホテル→角島小学校(廃校)→神田小学校(廃校)→毘沙の鼻→倉敷市内ホテル

 

■■11月11日岡山→自宅■■

≪旅程≫倉敷市内ホテル→岡山市南区西紅陽台干拓記念碑→マービーふれあいセンター→自宅

 

 

 

■自宅→鳥取市国府町中郷 因幡国庁跡■

 自宅を3時に出発。順調なドライブで、途中での仮眠や休憩も十分にとることができた。7時30分ごろ因幡国庁跡に到着。朝日を浴びながら正殿跡・後殿跡を見て周る。そして南門跡まで朝の散歩と洒落込む。この地を大伴家持が歩いていたと考えると感慨深いものがある。

因幡国庁跡

因幡国庁跡正殿・後殿説明案内板

南門跡





鳥取市国府町中郷 因幡国庁跡→同町庁 史跡「万葉の歌碑」■

 因幡国庁跡の次は、史跡「万葉の歌碑」である。

 

 因幡万葉歴史館HPに、「大伴家持歌碑(鳥取市指定文化財)」について、次の様に書かれている。

国府町庁(ちょう)の集落の一角に大正11(1922)年9月建立されました。歌碑には『天平宝字三年春正月一日於因幡国庁賜饗国郡司等之宴歌一首【新年之始乃波都波流能家布敷流由伎能伊夜之家余其騰】(あらたしきとしのはじめのはつはるのきようふるゆきのいやしけよごと)右一首守大伴宿禰家持作之』と、万葉集の最後を飾る大伴家持の歌が刻まれています。この歌には、『新しい年の初めにあたって、きれいな雪が降りつづいている。この雪のように美しい良い年でありますように』という家持の思いが込められています。

また、同地には万葉集の研究家としても著名な歌人・国文学者の佐佐木信綱が詠んだ『ふる雪のいやしけ吉事ここにしてうたひあけけむ 言ほきの歌』の歌碑と、万葉集の中から因幡三山のうちの今木山を詠み込んだともいわれる『藤波の散らまくおしみほととぎす今木の丘を鳴きて越えゆなり』の歌碑が昭和39年に建立されています。建立年代は違いますが、これら3碑は鳥取市指定文化財となっています。

なお、平成9年には平安時代因幡国司を務めた在原行平の歌碑が近くに建立されました。」

左から「作者未詳 一九四四歌」、「家持 四五一六歌」、「佐々木信綱」の歌碑




 

 

 

 

(参考文献)

★「萬葉集」 鶴 久・森山 隆 編 (桜楓社)

★「万葉集 三」 伊藤 博 著 (角川ソフィア文庫

★「weblio古語辞典 学研全訳古語辞典」

★「因幡万葉歴史館HP」