―その1955―
●歌は、「新しき年の初めの初春の今日降る雪のいやしけ吉事」である。
●歌をみていこう。
題詞は、「三年春正月一日於因幡國廳賜饗國郡司等之宴歌一首」<三年の春の正月の一日に、因幡(いなば)の国(くに)の庁(ちやう)にして、饗(あへ)を国郡の司等(つかさらに)賜ふ宴の歌一首>である。
(注)三年:天平宝字三年(759年)。
(注)あへ【饗】名詞※「す」が付いて自動詞(サ行変格活用)になる:食事のもてなし。(weblio古語辞典 学研全訳古語辞典)
(注の注)あへ【饗】:国守は、元日に国司・郡司と朝拝し、その賀を受け饗を賜うのが習い。(伊藤脚注)
◆新 年乃始乃 波都波流能 家布敷流由伎能 伊夜之家餘其騰
(大伴家持 巻二十 四五一六)
≪書き下し≫新(あらた)しき年の初めの初春(はつはる)の今日(けふ)降る雪のいやしけ吉事(よごと)
(訳)新しき年の初めの初春、先駆けての春の今日この日に降る雪の、いよいよ積もりに積もれ、佳(よ)き事よ。(「万葉集 四」 伊藤 博 著 角川ソフィア文庫より)
(注)上四句は実景の序。「いやしけ」を起す。正月の大雪は豊年の瑞兆とされた。(伊藤脚注)
(注)よごと【善事・吉事】名詞:よい事。めでたい事。(学研)
左注は、「右一首守大伴宿祢家持作之」<右の一首は、守(かみ)大伴宿禰家持作る>である。
この歌については、ブログ「万葉歌碑を訪ねて(その1953)」で紹介している。
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―その1956―
●歌は、「藤波の散らまく惜しみほととぎす今城の岡を鳴きて越ゆなり」である。
●歌をみていこう。
◆藤浪之 散巻惜 霍公鳥 今城岳▼ 鳴而越奈利
▼「口(くちへん)+リ」である。「今城岳▼」=今城の岡を
(作者未詳 巻十 一九四四)
≪書き下し≫藤波の散らまく惜しみほととぎす今城の岡を鳴きて越ゆなり
(訳)藤の花の散るのを惜しんで、時鳥が今城の岡の上を鳴きながら越えている。(伊藤 博 著 「万葉集 二」 角川ソフィア文庫より)
(注)ふぢなみ【藤波・藤浪】名詞:藤の花房の風に揺れるさまを波に見立てていう語。転じて、藤および藤の花。(weblio古語辞典 学研全訳古語辞典)
(注 参考)ふぢなみの【藤波の・藤浪の】( 枕詞 )① 藤のつるが物にからまりつくことから「(思ひ)まつはる」にかかる。 ② 「ただ一目」にかかる。かかり方未詳。枕詞とはしない説もある。③ 波の縁語で、「たつ」にかかる。(weblio辞書 三省堂 大辞林 第三版)
(注)今城の岡:所在未詳。「今来」を匂わすか。(伊藤脚注)
この歌については、ブログ「万葉歌碑を訪ねて(その1954)」で紹介している。
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■鳥取市国府町庁 史跡「万葉の歌碑」→同町町屋 袋川水辺の楽校■
先達のブログには、河川敷公園・水辺の楽校として家持歌(巻20-4516)と作者未詳歌(巻10-1944)の歌碑が紹介されていた。
いろいろと検索したがヒットせずじまいであった。閉鎖になったのだろうと勝手に想像していた。
因幡国庁跡ならびに史跡「万葉の歌碑」を見終えたがまだ8時前であった。次の予定は、因幡万葉歴史館であるが、開場は9時である。
時間があるので駄目元で「河川敷公園・水辺の楽校」を尋ねることにしたのである。ナビを頼りに現地に向かったのである。
堤防に突き当たる感じのナビの案内どおりに車を進める。左手にちょっとした車を停められるスペースがあった。そこに「桜づつみ 水辺の楽校」の看板が立っている。川辺を見わたすと川沿いの小径には石碑らしいものが点在している。
川の方に下りて行くと「袋川 水辺の楽校」の石碑があった。(流れている川の名前が袋川であると知ったのは帰宅後の検索による)
歌碑をひとつひとつ見て周り、漸く石碑群のなかに万葉集の二基を見つけたのである。
「水辺の楽校」というのは聞き慣れない言葉であった。検索してみると、国土交通省HPに「水辺の楽校プロジェクト」として次の様に書かれている。
「人間と環境の関わりについての理解を深め、豊かな人間性を育んでいくために、市民団体や河川管理者、教育関係者などが一体となって、地域の身近な水辺における環境学習や自然体験活動を推進するため、国土交通省、文部科学省、環境省の3省が連携して、『「子どもの水辺」再発見プロジェクト』に取り組んでいます。 この取組に対し国土交通省では、子どもが安全に水辺に近づけ、環境学習や地域交流などの活動を推進するために必要な、親水護岸などのハード整備を『水辺の楽校』プロジェクトとして実施し支援するものです。」
万葉歌碑巡りのおかげで、初めて「水辺の楽校」なるものを知り得たのである。
(参考文献)
★「萬葉集」 鶴 久・森山 隆 編 (桜楓社)
★「weblio古語辞典 学研全訳古語辞典」
★「国土交通省HP」