万葉集の歌碑めぐり

万葉歌碑をめぐり、歌の背景等を可能な限り時間的空間的に探索し、万葉集の万葉集たる所以に迫っていきたい!

万葉歌碑を訪ねて(その1959)―鳥取県倉吉市国府 伯耆国分寺跡北側―万葉集 巻五 八〇二、八〇三

●歌は、「瓜食めば子ども思ほゆ栗食めばまして偲はゆいづくより・・・(八〇二歌)」ならびに「銀も金も玉も何せむにまされる宝子にしかめやも(八〇三歌)」である。

鳥取県倉吉市国府 伯耆国分寺跡北側万葉歌碑(山上憶良

●歌碑は、鳥取県倉吉市国府 伯耆国分寺跡北側にある。

 

●歌をみていこう。

 

◆宇利波米婆 胡藤母意母保由 久利波米婆 麻斯堤葱斯農波由 伊豆久欲利 枳多利斯物能曽 麻奈迦比尓 母等奈可利堤 夜周伊斯奈佐農

     (山上憶良 巻五 八〇二)

 

≪書き下し≫瓜食(うりはめ)めば 子ども思ほゆ 栗(くり)食めば まして偲(しの)はゆ いづくより 来(きた)りしものぞ まなかひに もとなかかりて 安寐(やすい)し寝(な)さぬ

 

(訳)瓜を食べると子どもが思われる。栗を食べるとそれにも増して偲(しの)ばれる。こんなにかわいい子どもというものは、いったい、どういう宿縁でどこ我が子として生まれて来たものなのであろうか。そのそいつが、やたら眼前にちらついて安眠をさせてくれない。(「万葉集 一」 伊藤 博 著 角川ソフィア文庫より)

(注)まなかひ【眼間・目交】名詞:目と目の間。目の辺り。目の前。 ※「ま」は目の意、「な」は「つ」の意の古い格助詞、「かひ」は交差するところの意。(weblio古語辞典 学研全訳古語辞典)

(注)もとな 副詞:わけもなく。むやみに。しきりに。 ※上代語。(学研)

(注)やすい【安寝・安眠】名詞:安らかに眠ること。安眠(あんみん)。 ※「い」は眠りの意(学研)

 

 

 

◆銀母 金母玉母 奈尓世武尓 麻佐礼留多可良 古尓斯迦米夜母

      (山上憶良 巻五 八〇三)

 

≪書き下し≫銀(しろがね)も金(くがね)も玉も何せむに)まされる宝子にしかめやも

 

(訳)銀も金も玉も、どうして、何よりすぐれた宝である子に及ぼうか。及びはしないのだ。(同上)

(注)なにせむに【何為むに】分類連語:どうして…か、いや、…ない。▽反語の意を表す。 ※なりたち代名詞「なに」+サ変動詞「す」の未然形+推量の助動詞「む」の連体形+格助詞「に」(学研)

 (注)しかめやも【如かめやも】分類連語:及ぼうか、いや、及びはしない。※なりたち動詞「しく」の未然形+推量の助動詞「む」の已然形+係助詞「や」+終助詞「も」(学研)

 

 八〇二、八〇三歌については、拙稿ブログ「万葉歌碑を訪ねて(その1934、1935)」で紹介している。

 ➡ 

tom101010.hatenablog.com

 

歌碑と歌の解説案内板(左は土屋文明の歌碑)

歌碑説明案内板




 

憶良が唐で詠んだ歌が、「日本人が外国で詠んだ最初の歌」である

山上憶良については、鳥取県HPに「奈良時代初期の下級貴族出身の官人であり、歌人として名高く、万葉集に80首の歌が収められている。・・・憶良は、42歳で遣唐使書記に抜擢され、貴族になったが、出世に恵まれず、54歳の時に上級官人になり、716年(霊亀2年)に57歳で初めての国司として、伯耆守に任命された。その後、726年(神亀3年)ごろに67歳で筑前守として赴任。その地で大宰府の長官に着任した大伴旅人大伴家持の父)と交流があったとされ、赴任4年後の730年(天平2年)に令和の典拠となった梅花の歌32首が詠まれた大伴旅人の邸宅で開かれた梅花の宴に出席している。

 筑前守を退官した後、733年(天平5年)に病気により74歳でその生涯を閉じたとされている・・・716年(霊亀2年)4月に伯耆国(現在の鳥取県中部・西部)の国守として赴任し、約5年間を伯耆の地で過ごしたとされる。伯耆国赴任中の歌は、確認されていないが、赴任した間に体験、見聞した伯耆の自然、文化がこの後の歌づくりに影響したと考えられている。後に因幡国(現在の鳥取県東部)の国守として万葉集の最後を飾る歌を詠んだ大伴家持も憶良の影響を強く受けていると言われ、憶良の『士やも 空しくあるべき 万代に 語り継ぐべき 名は立てずして(男子として、空しく人生を終わってよいものだろうか。万代の後まで語り継いでいくよう名を立てずに。)』に対して、大伴家持は『大夫は 名をし立つべし 後の世に 聞き継ぐ人も 語り継ぐがね(大夫はりっぱな名をたてるべきである。後の世に聞き継ぐ人もまた語り継ぐように。)』と追和したとされている。」と書かれている。

 

 上記にあるように、「42歳で遣唐使書記に抜擢され」遣唐使の一員として唐に渡り、日本へ帰国する折の送別の宴会で詠まれたという憶良の巻一 六三歌は、「日本人が外国で詠んだ最初の歌」(辰巳正明氏「山上憶良」<笠間書院>)である。

 六三歌をみてみよう。

 

題詞は、「山上臣憶良在大唐時憶本郷作歌」<山上臣憶良(やまのうへのおみおくら)、大唐(だいたう)に在る時に、本郷(ほんがう)を憶(おも)ひて作る歌>である。

(注)ほんがう【本郷】:①その人の生まれた土地。故郷。②ある郷の一部で、最初に開けた土地。③郡司の庁、また、郷役所のあった場所。(weblio辞書 デジタル大辞泉)ここでは①の意

 

◆去来子等 早日本邊 大伴乃 御津乃濱松 待戀奴良武

       (山上憶良 巻一 六三)

 

≪書き下し≫いざ子ども早く日本(やまと)へ大伴(おほとも)の御津(みつ)の浜松待ち恋ひぬらむ

 

(訳)さあ者どもよ、早く日の本の国、日本(やまと)へ帰ろう。大伴(おおとも)の御津の浜辺の松も、われらを待ち焦がれていることであろう。(同上)

(注)こども【子供・子等】名詞:①(幼い)子供たち。▽自分の子にも、他人の子にもいう。②(自分より)若い人たちや、目下の者たちに、親しみをこめて呼びかける語。 ⇒参考:「ども」は複数を表す接尾語。現代語の「子供」は単数を表すが、中世以前に単数を表す例はほとんど見られない。(学研)ここでは②の意

(注)御津:難波津。遣唐使の発着した港。(伊藤脚注)

 

 

 

倉吉市南昭和町 深田公園→倉吉市国府 伯耆国分寺跡■

 深田公園から約30分のドライブ。グーグルストリートビューを使って事前に場所を特定できたので簡単に見つけることができた。

 車を国分寺跡と法華寺畑遺跡跡の間のスペースに停め、歌碑と畑遺跡跡を巡った。

歌碑と国分寺跡、法華寺畑遺跡跡、国庁跡方面案内碑

法華寺畑遺跡



 

(参考文献)

★「萬葉集」 鶴 久・森山 隆 編 (桜楓社)

★「万葉集 一」 伊藤 博 著 (角川ソフィア文庫

★「山上憶良」 辰巳正明 著 (笠間書院

★「weblio古語辞典 学研全訳古語辞典」

★「weblio辞書 デジタル大辞泉

★「鳥取県HP」