万葉集の歌碑めぐり

万葉歌碑をめぐり、歌の背景等を可能な限り時間的空間的に探索し、万葉集の万葉集たる所以に迫っていきたい!

万葉歌碑を訪ねて(その1981)―島根県益田市 県立万葉公園(1)―万葉集 巻三 二六四

●歌は、「もののふの八十宇治川網代木にいさよふ波のゆくへ知らずも」である。

島根県益田市 県立万葉公園(1)万葉歌碑(柿本人麻呂

●歌碑は、島根県益田市 県立万葉公園(1)にある。

 

●歌をみていこう。

 

題詞は、「柿本朝臣人麻呂従近江國上来時至宇治河邊作歌一首」<柿本朝臣人麻呂、近江の国より上り来る時に、宇治の川辺に至りて作る歌一首>である。  

 

◆物乃部能 八十氏河乃 阿白木尓 不知代経浪乃 去邊白不母

         (柿本人麻呂 巻三 二六四)

 

≪書き下し≫もののふの八十(やそ)宇治川(うぢがわ)の網代木(あじろき)にいさよふ波のゆくへ知らずも             

 

(訳)もののふの八十氏(うじ)というではないが、宇治川網代木に、しばしとどこおりいさよう波、この波のゆくえのいずかたとも知られぬことよ。(伊藤 博 著 「万葉集 一」 (角川ソフィア文庫より)

(注)もののふの【武士の】分類枕詞:「もののふ」の「氏(うぢ)」の数が多いところから「八十(やそ)」「五十(い)」にかかり、それと同音を含む「矢」「岩(石)瀬」などにかかる。また、「氏(うぢ)」「宇治(うぢ)」にもかかる。(weblio古語辞典 学研全訳古語辞典)

(注)あじろき【網代木】名詞:「網代①」の網を掛けるための杭(くい)。「あじろぎ」とも。[季語] 冬。(学研)

(注の注)あじろ【網代】名詞:①漁具の一つ。川の流れの中に杭(くい)を立て並べ、竹・木などを細かく編んで魚を通れなくし、その端に、水面に簀(す)を置いて魚がかかるようにしたもの。宇治川などで、冬期、氷魚(ひお)(=鮎(あゆ)の稚魚)を取るのに用いたのが有名。[季語] 冬。 ◇和歌で「宇治」「寄る」の縁語として用いることが多い。②檜皮(ひわだ)・竹・葦(あし)などを薄く削って斜めに編んだもの。垣根・屛風(びようぶ)・天井・車の屋形・笠(かさ)などに用いる。③「あじろぐるま」に同じ。(学研)ここでは①の意

(注)いさよふ【猶予ふ】自動詞:ためらう。たゆたう。 ※鎌倉時代ごろから「いざよふ」。(学研)

 

 この歌については、拙稿ブログ「万葉歌碑を訪ねて(その229)」で紹介している。

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tom101010.hatenablog.com

 

 

益田市西平原町 鎌手公民館→同市高津町 県立万葉公園■

 2022年10月12日に県立万葉公園を訪れているが、帰ってから写してきた歌碑をチェックしてみると人麻呂展望広場の「大和・旅の広場」の二六四歌と一〇八八歌の歌碑を撮り洩らしていることが分かったのである。さらに同公園の「石の広場」の家持の歌碑も見逃していたのであった。

 ありがたいことに全国旅行支援が行われているので、これを利用しリベンジすることができたのである。

 三つともゲットし次の喜河弥町 ふれあい広場に向かった。

 

■二六四歌で詠まれているのは無常感ではない■

 この歌を紹介している拙稿ブログ「万葉歌碑を訪ねて(その229)」において、この歌に関して、「近江荒都の廃墟を見た驚きと深い物思いで、波の行方を見つめている歌である(中西 進 著 『万葉の心』 毎日新聞社)」、また、「人麻呂が近江(おうみ)の国(滋賀県)から上京する際の歌。世の中の無常を詠んだ歌とする説もある(webllio古語辞典 学研全訳古語辞典)」、別冊國文學万葉集必携」の中で、稲岡耕二氏は、「人麻呂は、旅の愁いや喜びを一面的主観的に表現するのでなく、対象と一体化しつつ心の底からゆらぎ出る重厚な調べに託して歌う」というような一般的な解釈に触れている。

 一方、梅原 猛氏は、その著「水底の歌 柿本人麿論 下」(新潮文庫)の中で、「万葉集の歌を一首ずつ切り離して観賞するくせがついているが、私は、こういう観賞法は根本的にまちがっていると思う。」として、巻三 二六三から二六七歌を挙げられ、「私は、この一連の歌は、けっして単独に理解されるべきものではなく、全体として理解されることによって、一連の歴史的事件と、その事件の中なる人間のあり方を歌ったものである―その意味で、万葉集はすでに一種の歌物語である―と思う・・・」と書かれている。そして、人麿が、近江以後、「彼は四国の狭岑島(さみねのしま)、そして最後には石見の鴨島(かもしま)へ流される。流罪は、中流から遠流へ、そして最後には死へと、だんだん重くなり、高津(たかつ)の沖合で、彼は海の藻くずと消える。」と書かれている。人麻呂は最初は、近江に流されたのであり、その途上の歌という考えをとっておられる。

 二六四歌の「いさよふ波の行く方(へ)知らずも」は、「・・・詠まれているのは、無常観ではない。むしろ、どこへ行くのか分からない、自己の未来にかんする不安感である。」と流人となった人麿の嘆きとされているのである。

 

 二六三から二六七歌をみてみよう。

■二六三歌■

題詞は、「従近江國上来時刑部垂麻呂作歌一首」<近江(あふみ)の国より上(のぼ)り来(く)る時に、刑部垂麻呂(おさかべのたりまろ)が作る歌一首>である。

 

◆馬莫疾 打莫行 氣並而 見弖毛和我歸 志賀尓安良七國

       (刑部垂麻呂 巻三 二六三)

 

≪書き下し≫馬ないたく打(う)ちてな行きそ日(け)ならべて見ても我(わ)が行く志賀(しが)にあらなくに

 

(訳)これ、馬をそんなにひどく鞭(むち)打たないでおくれ、先に行かせないでおくれ。幾日もかけて見てゆける志賀の浦ではないのだから。(同上)

(注)上二句、禁止のナ・・・ソを重ねて意を強めている。(伊藤脚注)

(注)三句以下、幾日もかけてゆっくり眺められない嘆き。(伊藤脚注)

 

■二六四歌■

題詞は、「柿本朝臣人麻呂従近江國上来時至宇治河邊作歌一首」<柿本朝臣人麻呂、近江の国より上り来る時に、宇治の川辺に至りて作る歌一首>である。  

 

◆物乃部能 八十氏河乃 阿白木尓 不知代経浪乃 去邊白不母

         (柿本人麻呂 巻三 二六四)

 

≪書き下し≫もののふの八十(やそ)宇治川(うぢがわ)の網代木(あじろき)にいさよふ波のゆくへ知らずも            

 

(訳)もののふの八十氏(うじ)というではないが、宇治川網代木に、しばしとどこおりいさよう波、この波のゆくえのいずかたとも知られぬことよ。(同上)

 

 

■二六五歌■

題詞は、「長忌寸奥麻呂歌一首」<長忌寸意吉麻呂(ながのいみきおきまろ)が歌一首である>

 

◆苦毛 零来雨可 神之崎 狭野乃渡尓 古所念

            (長忌寸意吉麻呂 巻三 二六五)

 

≪書き下し≫苦しくも降り来る雨か三輪の崎狭野の渡りに家もあらなくに

 

(訳)何とも心せつなく降ってくる雨であることか。三輪の崎の佐野の渡し場に、くつろげる我が家があるわけでもないのに。(同上)

 

 

■二六六歌■

題詞は、「柿本朝臣人麻呂歌一首」<柿本朝臣人麻呂が歌一首>である。

 

◆淡海乃海 夕浪千鳥 汝鳴者 情毛思努尓 古所念

     (柿本人麻呂    巻三 二六六)

 

≪書き下し≫近江の海夕波千鳥汝が鳴けば心もしのにいにしへ思ほゆ

 

(訳)近江の海、この海の夕波千鳥よ、お前がそんなに鳴くと、心も撓(たわ)み萎(な)えて、いにしえのことが偲ばれてならぬ。(同上)

(注)ゆふなみちどり【夕波千鳥】名詞:夕方に打ち寄せる波の上を群れ飛ぶちどり。(w学研)

(注)しのに 副詞:①しっとりとなびいて。しおれて。②しんみりと。しみじみと。

③しげく。しきりに。(学研)ここでは②の意

(注)いにしへ:ここでは、天智天皇の近江京の昔のこと

 

■二六七歌■

題詞は、「志貴皇子御歌一首」<志貴皇子の御歌一首>である。

 

◆牟佐ゝ婢波 木末求跡 足日木乃 山能佐都雄尓 相尓来鴨

      (志貴皇子 巻三 二六七)

 

≪書き下し≫むささびは木末(こぬれ)求(もと)むとあしひきの山のさつ男(を)にあひにけるかも

 

(訳)巣から追い出されたむささびは、梢(こずえ)を求めて幹を駆け登ろうとして、あしひきの山の猟師に捕えられてしまった。(同上)

(注)さつを(猟夫):猟師

 

 

 確かに、歌を並べてみてみるとストーリーが浮かび上がってくる。

 二六三歌の「馬疾 打行」の「二重の禁止の辞を含んだはじめの言葉は、ただごとではないのである。それは、強い否定的意志を物語っている。刑部垂麿(生没年未詳)は、柿本人麿の家来ではなかったかと思うが、この歌のように、できるだけ志賀行きをおくらせることが、せめてもの彼の抵抗の姿勢であったと思う。・・・この刑部垂麿の歌についで人麿の歌があることは意味深い。この歌も先の歌と同じく、詞書をはずして考えたほうがよいと思う。・・・ここで詠まれているのは無常感ではない。むしろ、どこへいくのか分からない、自己の未来にかんする不安感である。・・・人麿が・・・流人となったと考えると、このような人麿の嘆きはよく理解され、今まで名歌とされながら、その意味の定かでなかったこの歌は、はじめて生き生きとしてくるのである。人麿は、網代木に漂う流れの中に、しばし、流罪の身を近江に止(とど)める己れの運命をみていたのである。」(梅原前出書)

 人麿は、「政治的関心を、全く欠いた詩人ではなかったと思う。彼は、天武―持統時代の天皇親政のイデオロギーへの執着を強くもっていたばかりか、実際、宮廷である種の政治的策謀を行ったのではなかったかと思う。」(同前出書)

 そして、近江以後、四国の狭岑島(さみねのしま)、そして最後には石見の鴨島(かもしま)へ流され、そして待っているのは死である。高津(たかつ)の沖合で、海の藻くずと消されたのである。

 

 二六七歌の「むささび」は、柿本人麻呂をさしている。

 万葉集は、時の権力側からみれば反逆者である、有間皇子大津皇子らの歌も収録している。その意味では柿本人麻呂もしかりとなる。奥深い万葉集

 

 

 

(参考文献)

★「萬葉集」 鶴 久・森山 隆 編 (桜楓社)

★「万葉集 一」 伊藤 博 著 (角川ソフィア文庫

★「水底の歌 柿本人麿論 下」 梅原 猛 著 (新潮文庫

★「万葉の心」 中西 進 著  (毎日新聞社

★「別冊國文学 万葉集必携」 稲岡耕二 編 (學燈社

★「weblio辞典 学研全訳古語辞典」