万葉集の歌碑めぐり

万葉歌碑をめぐり、歌の背景等を可能な限り時間的空間的に探索し、万葉集の万葉集たる所以に迫っていきたい!

万葉歌碑を訪ねて(その1990)―山口県下関市吉母 毘沙ノ鼻―万葉集 巻六 一〇二四

●歌は、「長門なる沖つ借島奥まへて我が思ふ君は千年にもがも」である。

山口県下関市吉母 毘沙ノ鼻万葉歌碑(巨曾倍津島)



●歌碑は、山口県下関市吉母 毘沙ノ鼻にある。

 

●歌をみていこう。

 

一〇二四から一〇二七歌の題詞は、「秋八月廿日宴右大臣橘家歌四首」<秋の八月の二十日に、右大臣橘家にして宴(うたげ)する歌四首>である。

 

長門有 奥津借嶋 奥真經而 吾念君者 千歳尓母我毛

       (巨曾倍津島 巻六 一〇二四)

 

≪書き下し≫長門(ながと)なる沖(おき)つ借島(かりしま)奥(おく)まへて我(あ)が思(おも)ふ君は千年(ちとせ)にもがも

 

(訳)わが任国、長門にある沖の借島のように、心の奥深くに秘めて私が思っているあなた様は、千年ものよわいを重ねていただきたいものです。(「万葉集 二」 伊藤 博 著 角川ソフィア文庫より)

(注)上二句は序。「奥まへて」を起す。(伊藤脚注)

(注)沖つ借島:下関市の蓋井(ふたおい)島か。(伊藤脚注)

 

左注は、「右一首長門守巨曽倍對馬朝臣」<右の一首は長門守(ながとのかみ)巨曽倍對馬朝臣(こそべのつしまのあそみ)>である。

歌碑と副碑

本州最西端毘沙ノ鼻と万葉歌碑



一〇二五から一〇二七歌もみてみよう。

 

◆奥真経而 吾乎念流 吾背子者 千年五百歳 有巨勢奴香聞

      (橘諸兄 巻六 一〇二五)

 

≪書き下し≫奥(おく)まへて我(わ)れを思へる我(わ)が背子(せこ)は千年(ちとせ)五百年(いほとせ)ありこせぬかも

 

(訳)心の奥深くに秘めて私を思っていて下さるあなたこそ、五百年も千年も生きていて欲しいものです。(同上)

(注)奥まへて:心の奥に深く秘めて。(伊藤脚注)

(注)こせぬかも 分類連語:…してくれないかなあ。 ※動詞の連用形に付いて、詠嘆的にあつらえ望む意を表す。 ⇒ なりたち 助動詞「こす」の未然形+打消の助動詞「ず」の連体形+疑問の係助詞「か」+詠嘆の終助詞「も」(学研)

 

 一〇二五歌については、拙稿ブログ「万葉歌碑を訪ねて(その1005)」で紹介している。

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◆百礒城乃 大宮人者 今日毛鴨 暇无跡 里尓不出将有

       (豊島采女 巻六 一〇二六)

 

≪書き下し≫ももしきの大宮人(おほみやびと)は今日(けふ)もかも暇(いとま)をなみと里に行(ゆ)かずあらむ

 

(訳)ももしきの大宮人は、今日もまた、宮仕えのために暇(いとま)がないからとて、田庄(いなか)に行くこともなくあれこれ務めに追われているのであろうか。(同上)

(注)里:田舎。貴族たちの生産の場。田庄。(伊藤脚注)

 

左注は、「右一首右大臣傳云 故豊嶋采女歌」<右の一首は、右大臣伝へて「故豊島采女(うねめ)が歌」といふ。

(注)豊島采女:武蔵の国豊島出身の采女。歌は宴席で口吟した古歌で、采女の自作ではなかろう。(伊藤脚注)

 

 

◆橘 本尓道履 八衢尓 物乎曽念 人尓不所知

       (三方沙弥 巻六 一〇二七)

 

≪書き下し≫橘(たちばな)の本(もと)に道踏(ふ)む八衢(やちまた)に物をぞ思ふ人に知らえず

 

(訳)橘の並木の根元を踏んで歩み行く道の、その多くの岐(わか)れ道さながらに、あれやこれやと私は物思いに悩んでいる。この思いをあの人に知ってもらえずに。(同上)

(注)上二句は序。「八衢に」を起す。(伊藤脚注)

(注)やちまた【八衢・八岐】名詞:道が幾つにも分かれている所。(学研)

(注の注)八衢に:あれやこれやと、の意(伊藤脚注)

 

 左注は、「右一首右大辨高橋安麻呂卿語云 故豊嶋采女作也 但或本云三方沙弥戀妻苑臣作歌也 然則豊嶋采女當時所口吟此歌歟」<右の一首は、右大弁(うだいべん)高橋安麻呂卿(たかはしのやすまろのまへつきみ)語りて「故豊島采女が作なり」といふ。ただし、或本には三方沙弥、妻園臣(そののおみ)に恋ひて作る歌なり」といふ。しからばすなはち、豊島采女は当時(そのとき)当所(そのところ)にしてこの歌を口吟(うた)へるか>である。

(注)「或本には三方沙弥、妻園臣に恋ひて作る歌なり」とあるのは、巻二 一二五歌(橘之 蔭履路乃 八衢尓 物乎曽念 妹尓不相而<橘(たちばな)の本(もと)に道踏(ふ)む八衢(やちまた)に物をぞ思ふ人に知らえず>)をさす。

 

 

 一二五歌ならびに一〇二七歌については、拙稿ブログ「万葉歌碑を訪ねて(その198)」で紹介している。

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tom101010.hatenablog.com

 

 

 

■神田小学校(廃校)→毘沙の鼻→倉敷市内ホテル■

 神田小学校の歌碑を巡ってから、旅行支援クーポンを使っての買い物である。クーポンも交付された日と翌日に使ってしまわなければならないので結構プレッシャーになる。チェーン店のドラッグストアで消化する。

それから本州最西端の地である毘沙の鼻に向かう。

ウイークデイであるので、この地も独占状態。ゆっくりと歌碑をそして最西端の地を満喫したのである。

 

 下関観光コンベンション協会HP「下関観光ガイドブック」の「本州最西端の地・毘沙ノ鼻( びしゃのはな)」に「北緯34度6分38秒、東経130度51分37秒。本州最西端の地。展望広場は日本海に沈む夕日を眺める絶景スポットです。」と書かれている。

 ということは、この万葉歌碑も本州最西端の万葉歌碑ということである。

 

本州最西端の地 毘沙ノ鼻

 当初は、山口県から広島県にかけて万葉歌碑巡りを予定に入れていたのであったが、角島小学校・神田小学校・毘沙の鼻を今日に回したので、倉敷までの移動距離を考え、当初の予定は後日にするという大幅な変更を行ったのである。

 

 

 

 

(参考文献)

★「萬葉集」 鶴 久・森山 隆 編 (桜楓社)

★「万葉集 二」 伊藤 博 著 角川ソフィア文庫

★「weblio古語辞典 学研全訳古語辞典」

★「下関観光コンベンション協会HP」