万葉集の歌碑めぐり

万葉歌碑をめぐり、歌の背景等を可能な限り時間的空間的に探索し、万葉集の万葉集たる所以に迫っていきたい!

万葉歌碑を訪ねて(その2073~2075)―高知県大豊町粟生 土佐豊永万葉植物園(79~81)―万葉集 巻十七 三九二一、三九六七、巻十八 四〇八七

―その2073―

●歌は、「かきつはた衣の摺り付けますらをの着襲ひ猟する月は来にけり」である。

 

●歌碑は、高知県大豊町粟生 土佐豊永万葉植物園(79)である。

 

●歌をみていこう。

高知県大豊町粟生 土佐豊永万葉植物園(79)万葉歌碑(大伴家持

題詞は、「十六年四月五日獨居平城故宅作歌六首」<十六年の四月の五日に、独り平城(なら)の故宅(こたく)に居(を)りて作る歌六首>である。

 

◆加吉都播多 衣尓須里都氣 麻須良雄乃 服曽比獦須流 月者伎尓家里

       (大伴家持 巻十七 三九二一)

 

≪書き下し≫かきつはた衣(きぬ)に摺(す)り付けますらをの着(き)襲(そ)ひ猟(かり)する月は来にけり

 

(訳)杜若(かきつばた)、その花を着物に摺り付け染め、ますらおたちが着飾って薬猟(くすりがり)をする月は、今ここにやってきた。(伊藤 博 著 「万葉集 四」 角川ソフィア文庫より)

(注)きそふ【着襲ふ】他動詞:衣服を重ねて着る。(weblio古語辞典 学研全訳古語辞典)

 

左注は、「右六首天平十六年四月五日獨居於平城故郷舊宅大伴宿祢家持作」<右の六首の歌は、天平十六年の四月の五日に、独り平城(なら)故郷(こきゃう)の旧宅(きうたく)に居(を)りて、大伴宿禰家持作る。>である。

 

 この歌を含めカキツバタ六首については、拙稿ブログ「万葉歌碑を訪ねて(その1322)」で紹介している。

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 三九一六から三九二一歌は拙稿ブログ「万葉歌碑を訪ねて(その339)」で紹介している。

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 題詞、左注の「独り平城(なら)に居り」、「平城(なら)故郷(こきゃう)の旧宅(きうたく)」から、藤原仲麻呂により暗殺されたといわれる安積親王の喪に服していたと考えられるのである。家持は、天平十年から十六年、内舎人(うどねり)であった。

(注)天平十六年:744年

(注)うどねり【内舎人】名詞:律令制で、「中務省(なかつかさしやう)」に属し、帯刀して、内裏(だいり)の警護・雑役、行幸の警護にあたる職。また、その人。「うとねり」とも。 ※「うちとねり」の変化した語。(学研)

 

 

 

―その2074―

●書簡の一部は、「・・・蘭蕙藂を隔て琴罇用ゐるところなからむとは空しく令節を過ぐさば・・・」である。

高知県大豊町粟生 土佐豊永万葉植物園(80)万葉歌碑(三月二日の大伴池主の書簡の一部)

●歌碑は、高知県大豊町粟生 土佐豊永万葉植物園(80)である。

 

●書簡をみていこう。

 

◆(書簡)忽辱芳音翰苑凌雲 兼垂倭詩詞林舒錦 以吟以詠能蠲戀緒春可樂 暮春風景最可怜 紅桃灼ゝ戯蝶廻花舞 翠柳依ゝ嬌鸎隠葉歌 可樂哉 淡交促席得意忘言 樂矣美矣 幽襟足賞哉豈慮乎蘭蕙隔藂琴罇無用 空過令節物色軽人乎 所怨有此不能黙已 俗語云以藤續錦聊擬談咲耳

 

≪書簡の書き下し≫たちまちに芳音(ほういん)を辱(かたじけな)みし、翰苑(かんゑん)雲を凌(しの)ぐ、兼(さら)に倭詩(わし)を垂れ、詞林(しりん)錦(にしき)を舒(の)ぶ。もちて吟じもちて詠じ、能(よ)く恋緒(れんしよ)を蠲(のぞ)く。春は樂しぶべく、暮春の風景はもとも怜(あはれ)ぶべし。紅桃(こうたう)灼々(しゃくしゃく)、戯蝶(きてふ)は花を廻(めぐ)りて舞ひ、 翠柳(すいりう)は依々(いい)、嬌鶯(けうあう)は葉に隠(かく)れて歌ふ。楽しぶべきかも。淡交(たんかう)に席(むしろ)を促(ちかづ)け、意を得て言を忘る。楽しきかも美(うるは)しきかも。幽襟(いうきん)賞(め)づるに足れり。あに慮(はか)らめや、蘭蕙(らんけい)藂(くさむら)を隔て、琴罇(きんそん)用ゐるところなからむとは。空(むな)しく、令節を過ぐさば、物色(ぶつしよく)人を軽(かろ)みせむかとは。怨(うら)むるところここに有あり、黙(もだ)してやむこと能(あた)はず。俗(よ)の語(ことば)に云はく、藤を以もちて錦に続(つ)ぐといふ。いささかに談笑(だんせう)に擬(なそ)ふらくのみ。

 

(略私訳)早速、御手紙を頂戴し、その文の勢いは雲を凌ぐばかりです。さらに和歌を詠っておられますが、その詞は錦を織ったかのようです。その歌をくりかえし吟じ、今までのあなた様の思いと違う思いにおどろかされました。春は楽しむべきと思います。三月の風景には、いっそうの感動があります。紅の桃花は光輝き、戯れ飛ぶ蝶は花を舞い、青柳の葉はなよなおと、なまめかしい声の鴬は葉に隠れて鳴いています。何と楽しいことでしょう。君子とのお付き合いでお心が通じ合い、言葉も数多くはいりません。じつに楽しいし麗しいことです。お付き合いで知る奥深いお心はなんとすばらしいことでしょう。ところが、どうしたことなのでしょうか、蘭や蕙といった芳しい花々が叢にうずめ隠され、宴での琴や酒樽を使うこともないとは。空しくこのすばらしい季節をやり過ぎては、自然に侮られてしまいませんか。怨む気持ちになりませんか。語らいもできずにいるとは。世間でいうまるで藤を錦に継ぐといいますような拙い手紙の内容です。すこしでもあなた様のお笑い草にでもなればとの思いです。

(注)たちまち(に)【忽ち(に)】副詞:①またたく間(に)。すぐさま。たちどころ(に)。②突然(に)。にわか(に)。③現(に)。実際(に)。 ※古くは「に」を伴って用いることが多い(学研)

(注)芳音(ほういん):有り難いお便り(伊藤脚注)

(注)翰苑(かんゑん)雲を凌(しの)ぐ:文章は勢いがあって雲を凌ぐよう。「翰苑」は文壇のこと。転じて文章。(伊藤脚注)

(注)詞林(しりん)錦(にしき)を舒(の)ぶ:言葉の綾は錦を織ったよう。「詞林」は詩歌の譬え。(伊藤脚注)

(注)ぼしゅん【暮春】:① 春の終わり。春の暮れ。晩春。② 陰暦3月の異称。(goo辞書)ここでは②の意

(注)「紅桃」、「戯蝶(きてふ)」、「翠柳(すいりう)」、「嬌鶯(けうあう)」等は遊仙窟にみえる語。(伊藤脚注)

(注の注)遊仙窟:中国唐代の小説。張鷟(ちょうさく)(字(あざな)は文成)著。主人公の張生が旅行中に神仙窟に迷い込み、仙女の崔十娘(さいじゅうじょう)と王五嫂(おうごそう)の歓待を受け、歓楽の一夜を過ごすという筋。四六文の美文でつづられている。中国では早く散逸したが、日本には奈良時代に伝来して、万葉集ほか江戸時代の洒落本などにも影響を与えた。古写本に付された傍訓は国語資料として貴重。遊僊窟。(コトバンク 小学館デジタル大辞泉

(注)いい【依依】:[文][形動タリ]思い慕うさま。離れがたいさま。(goo辞書)⇒なよなよした様

(注)淡交(たんかう)に席(むしろ)を促(ちかづ)け、意を得て言を忘る:淡々たる君子の交際においては席を近づけただけで、互いの心は通じ合い、ことばは不要となる。(伊藤脚注)

(注)幽襟(いうきん):交わって知られる奥深い心。(伊藤脚注)

(注)蘭蕙(らんけい)藂(くさむら)を隔て:蘭と蕙との香草が叢(くさむら)を隔てているように交際もかなわず。(伊藤脚注)

(注)琴樽(読み)きんそん:〘名〙 琴と酒樽。琴を奏したり酒を飲んだりすること。楽しく遊ぶこと。(コトバンク 精選版 日本国語大辞典

(注)物色(ぶつしよく)人を軽(かろ)みせむかとは:自然の風情が人を軽んじることになりはしまいか。自然に侮られることをいう。(伊藤脚注)

(注)藤を以もちて錦に続(つ)ぐ:駄作を秀作に継ぐことの譬え。(伊藤脚注)。

(注)談笑(だんせう)に擬(なそ)ふらくのみ:お笑い草に当てようとするのみ。(伊藤脚注)。

 

 この書簡に、三九六七、三九六八歌が添えられている。

 

 左注は、「沽洗二日掾大伴宿祢池主」<沽洗(こせん)の二日、掾(じょう)大伴宿禰池主>である。

(注)姑洗・沽洗(読み)こせん 〘名〙中国の音楽、十二律の姑洗を三月にあてるところから) 陰暦三月の異称。《季・春》(コトバンク 精選版 日本国語大辞典

 

 大伴家持越中に赴任して初めて迎えた新春であったが、二月下旬に病に倒れたのである。二月の二十日の三九六二歌の題詞に、「たちまちに枉疾(わうしつ)に沈み、ほとほとに泉路(せんろ)に臨む・・・」とある。「枉疾」の「枉」には、道理をゆがめる等の意味があるから、思いもかけない煩わしい病にかかり、「泉路」(黄泉へのみち。死出の旅路。<goo辞書>)をさまようほどの不安感にさいなまれていることがわかる。

 万葉時代の、極寒の鄙ざかる越中で病に倒れた家持の心中がうかがい知れる。小生も単身赴任が長かったが、熱がありふらふらになると不安感におしつぶされそうになる。夜中の部屋の暗さは重みを感じる。水を飲みたいと思っても誰も助けてはくれない。自分で台所まで這って行かなければならない。みじめにもなる。

家持はお付きの人がいたであろうが、それでも不安な気持ちはいたたまれなかったのであろう。

 家持は、病床にあり不安と悲しみのなか歌を作り池主に贈っている。その時の家持と池主のやりとりは次のよに三月五日まで及んでいる。

 

天平十九年二月二十日、大伴家持→大伴池主、病に臥して悲傷しぶる歌一首(三九六二歌)ならびに短歌(三九六三、三九六四歌)

◇同二月二十九日、家持→池主 書簡ならびに悲歌二首(三九六五.三九六六歌)

三月二日、池主→家持 書簡ならびに歌二首(三九六七、三九六八歌)

◇三日、家持→池主 書簡ならびに短歌三首(三九六九~三九七二歌)

◇四日、池主書簡ならびに七言漢詩

◇五日、池主→家持 書簡ならびに歌一首(三九七三歌)幷せて短歌(三九七四・三九七五歌)

◇五日、家持→池主、書簡、七言一首ならびに短歌二首(三九七六、三九七七歌)

 

 三九六七歌は、上記の二日の池主から家持に贈った書簡ならびに歌二首(三九六七、三九六八歌)の一首である

 書簡ならびに三九六八歌については、拙稿ブログ「万葉歌碑を訪ねて(その959)」で紹介している。

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―その2075―

●歌は、「燈火の光に見ゆるさ百合花ゆりも逢はむと思ひそめて」である。

高知県大豊町粟生 土佐豊永万葉植物園(81)万葉歌碑(内蔵伊美吉縄麻呂)

●歌碑は、高知県大豊町粟生 土佐豊永万葉植物園(81)である。

 

●歌をみていこう。

 

 題詞は、「同月九日諸僚會少目秦伊美吉石竹之舘飲宴 於時主人造白合花縵三枚疊置豆器、捧贈賓客 各賦此縵作三首」<同じき月の九日に、諸僚、少目(せうさくわん)秦伊美吉石竹(はだのいみきいはたけ)が館(たち)会(あ)ひて飲宴(うたげ)す。時に、主人(あろじ)、白合(ゆり)の花縵(はなかづら)三枚を造りて、豆器(とうき)に畳(かさ)ね置き、賓客(ひんきやく)に捧げ贈る。おのもおのもこの縵(かづら)を賦(ふ)して作る三首>である。

(注)諸僚:ここでは越中国府の役人たち。(伊藤脚注)

(注)豆器:「豆」は、足付食器の象形文字。ここは高坏の類。(伊藤脚注)

(注の注)たかつき【高坏】名詞:①四角または円形の盆に一本の足台の付いた、食物を盛る器。古くは土製で、のちに木製となり、漆塗りが施されたものもある。②「高坏灯台(とうだい)」の略。①を逆さにして、底に灯明皿を置き、灯台の代わりとするもの。通常の灯台よりも低い所を照らす。(学研)

 

 

◆等毛之火能 比可里尓見由流 左由理婆奈 由利毛安波牟等 於母比曽米弖伎

       (内蔵伊美吉縄麻呂 巻十八 四〇八七)

 

≪書き下し≫燈火(ともしび)の光りに見ゆるさ百合花(ゆりばな)ゆりも逢(あ)はむと思ひそめてき

 

(訳)燈火の光の中に浮かんで見える百合の花、その名のようにゆり―将来もきっと逢おうと思いはじめたことでした。(同上)

(注)「ゆりも逢(あ)はむと思ひそめてき」:後にでも逢おうと思い始めました。恋歌調に仕立てて楽しんでいる。(伊藤脚注)

(注の注)ゆり【後】名詞:後(のち)。今後。 ※上代語(学研)

 

 左注は、「右一首介内蔵伊美吉縄麻呂」<右の一首介(すけ)内蔵伊美吉縄麻呂(くらのいみきつなまろ)>である。

 

 四〇八六から四〇八八歌については、拙稿ブログ「万葉歌碑を訪ねて(その833)」で紹介している。

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(参考文献)

★「萬葉集」 鶴 久・森山 隆 編 (桜楓社)

★「万葉集 四」 伊藤 博 著 (角川ソフィア文庫

★「大伴家持 波乱にみちた万葉歌人の生涯」 藤井一二 著 (中公新書

★「weblio古語辞典 学研全訳古語辞典」」

★「コトバンク 精選版 日本国語大辞典