万葉集の歌碑めぐり

万葉歌碑をめぐり、歌の背景等を可能な限り時間的空間的に探索し、万葉集の万葉集たる所以に迫っていきたい!

万葉歌碑を訪ねて(その2094~2096)―高知県大豊町粟生 土佐豊永万葉植物園(100~102)―万葉集 巻二十 四四九三、四五一三、巻十六 三八七二

―その2094―

●歌は、「初春の初子の今日の玉箒手に取るからに揺らく玉の緒」である。

高知県大豊町粟生 土佐豊永万葉植物園(100)万葉歌碑(大伴家持

●歌碑は、高知県大豊町粟生 土佐豊永万葉植物園(100)である。

 

●歌をみていこう。

 

◆始春乃 波都祢乃家布能 多麻婆波伎 手尓等流可良尓 由良久多麻能乎

        (大伴家持 巻二十 四四九三)

 

≪書き下し≫初春(はつはる)の初子(はつね)の今日(けふ)の玉箒(たまばはき)手に取るからに揺(ゆ)らく玉の緒

 

(訳)春先駆けての、この初春の初子の今日の玉箒、ああ手に取るやいなやゆらゆらと音をたてる、この玉の緒よ。(「万葉集 四」 伊藤 博 著 角川ソフィア文庫より)

(注)ゆらく【揺らく】自動詞:(玉や鈴が)揺れて触れ合って、音を立てる。 ※後に「ゆらぐ」とも。(weblio古語辞典 学研全訳古語辞典)

 

左注は、「右一首右中辨大伴宿祢家持作 但依大蔵政不堪奏之也」<右の一首は、右中弁大伴宿禰家持作る。ただし、大蔵の政(めつりごと)によりて、奏し堪(あ)へず>

(注)大蔵の政によりて;右中弁として大蔵省の激務に追われていたことをいう。(伊藤脚注)

(注)奏し堪へず:予め作っておいたが奏上しえなかった、の意。(伊藤脚注)

 

 この歌については、拙稿ブログ「万葉歌碑を訪ねて(その1869)」で紹介している。

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tom101010.hatenablog.com

 

 

「玉箒」については、拙稿ブログ「万葉歌碑を訪ねて(その2067)」で紹介している。

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tom101010.hatenablog.com

 

 

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感想(1件)

 

―その2095―

●歌は、「磯影の見ゆる池水照るまでに咲ける馬酔木の散らまく惜しも」である。

 高知県大豊町粟生 土佐豊永万葉植物園(101)万葉歌碑(甘南備伊香真人)



●歌碑は、高知県大豊町粟生 土佐豊永万葉植物園(101)である。

 

●歌をみていこう。

 

四五一一から四五一三歌の歌群の題詞は、「属目山齋作歌三首」<山齋(しま)を属目(しよくもく)して作る歌三首>である。

(注)しょくもく【嘱目・属目】( 名 ):① 人の将来に期待して、目を離さず見守ること。② 目に入れること。目を向けること。③ 俳諧で、即興的に目に触れたものを吟ずること。嘱目吟。(weblio辞書 三省堂 大辞林 第三版) ここでは③の意

(注)しま【島】名詞:①周りを水で囲まれた陸地。②(水上にいて眺めた)水辺の土地。③庭の泉水の中にある築山(つきやま)。また、泉水・築山のある庭園。 ※「山斎」とも書く。(学研)

 

◆伊蘇可氣乃 美由流伊氣美豆 氐流麻泥尓 左家流安之婢乃 知良麻久乎思母

          (大蔵大輔甘南備伊香真人 巻二〇 四五一三)

 

≪書き下し≫磯影(いそかげ)の見ゆる池水(いけみづ)照るまでに咲ける馬酔木(あしび)の散らまく惜しも

 

(訳)磯の影がくっきり映っている池の水、その水も照り輝くばかりに咲きほこる馬酔木の花が、散ってしまうのは惜しまれてならない。(「万葉集 四」 伊藤 博 著 角川ソフィア文庫より)

 

 左注は、「右一首大蔵大輔甘南備伊香真人」<右の一首は大蔵大輔(おほくらのだいふ)甘南備伊香真人(かむなびのいかごのまひと)>である。

 

 

 甘南備伊香真人の歌は万葉集にはこの歌を含め四首収録されている。四首については、拙稿ブログ「万葉歌碑を訪ねて(その1226)」で紹介している。

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tom101010.hatenablog.com

 

 

四五一一から四五一三歌については、拙稿ブログ「万葉歌碑を訪ねて(その475)」で紹介している。

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tom101010.hatenablog.com

 

 

 

―その2096―

●歌は、「我が門の榎の実もり食む百千鳥千鳥は来れど君ぞ来まさぬ」である。

高知県大豊町粟生 土佐豊永万葉植物園(102)万葉歌碑(作者未詳)

●歌碑は、高知県大豊町粟生 土佐豊永万葉植物園(102)である。  

 

●歌をみていこう。

 

◆吾門之 榎實毛利喫 百千鳥 ゝゝ者雖来 君曽不来座

      (作者未詳 巻十六 三八七二)

 

≪書き下し≫我(わ)が門(かど)の榎(え)の実(み)もり食(は)む百千鳥(ももちとり)千鳥(ちとり)は来(く)れど君ぞ来(き)まさぬ

 

(訳)我が家の門口の榎(えのき)の実を、もぐように食べつくす群鳥(むらどり)、群鳥はいっぱいやって来るけれど、肝心な君はいっこうにおいでにならぬ。(伊藤 博 著 「万葉集 三」 角川ソフィア文庫より)

(注)え【榎】:エノキのこと。(weblio辞書 デジタル大辞泉

(注の注)えのき【榎/朴】:ニレ科の落葉高木。高さ20メートルに達する。葉は非相称の卵円形。初夏、淡黄色の雌花と雄花をつけ、秋に橙(だいだい)色:小豆大の甘い実を結ぶ。材は器具・薪炭用。江戸時代には街道の一里塚に植えられた。え。《季 花=夏 実=秋》(weblio辞書 デジタル大辞泉

(注)もり食む:もいでついばむ意か。(伊藤脚注)。

(注)ももちどり 【百千鳥】名詞①数多くの鳥。いろいろな鳥。②ちどりの別名。▽①を「たくさんの(=百)千鳥(ちどり)」と解していう。③「稲負鳥(いなおほせどり)」「呼子鳥(よぶこどり)」とともに「古今伝授」の「三鳥」の一つ。うぐいすのことという。(w学研)

 

 この歌については、拙稿ブログ「万葉歌碑を訪ねて(その1045)」で三八七三歌とともに紹介している。

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tom101010.hatenablog.com

 

 

「榎の実」 あきた森づくり活動サポートセンターHPより引用させていただきました。

 

今回で、土佐豊永万葉植物園の万葉歌碑の紹介は終わりである。

 改めて、同植物園をみてみよう。

 同園は、高知県長岡郡大豊町粟生158 定福寺境内にある。

定福寺HPによると、「土佐豊永万葉植物園が開園したのは、門田秀峰氏が1974年に大豊町に帰省の際、定福寺周辺に数十種の万葉植物の自生を発見したことがきっかけでした。当時の定福寺住職釣井義光師に話をし快諾を得て、1975年4月20日に全国で6番目の万葉植物園として定福寺の敷地内に開園いたしました。(現土佐豊永万葉植物保存会)」と書かれている。

万葉植物園の生い立ちについては、歌碑探索中に、先代のご住職にもお話を伺うことができた。また犬養 孝氏も同園を訪れたことがあるそうである。

門田氏という個人のご尽力があって成り立つ万葉植物園も異例と言えば異例である。

木製のプレートでなく、花崗岩の石柱碑となっているのも格調の高さを物語っている。

先達のブログなどを拝見すると150基ほどあると書かれているものもあるが、残念ながら紹介した102基しか見つけることができなかった。

 機会があればまた訪れてみたいものである。

土佐豊永萬葉植物園 定福寺境内」の碑

定福寺本堂

定福寺鐘楼と参道石段



 

(参考文献)

★「萬葉集」 鶴 久・森山 隆 編 (桜楓社)

★「万葉集 三」 伊藤 博 著 (角川ソフィア文庫

★「万葉集 四」 伊藤 博 著 (角川ソフィア文庫

★「weblio古語辞典 学研全訳古語辞典」

★「weblio辞書 デジタル大辞泉

★「weblio辞書 三省堂 大辞林 第三版」

★「あきた森づくり活動サポートセンターHP」