万葉集の歌碑めぐり

万葉歌碑をめぐり、歌の背景等を可能な限り時間的空間的に探索し、万葉集の万葉集たる所以に迫っていきたい!

万葉歌碑を訪ねて(その2102)―広島県廿日市市大野高畑 高庭駅家跡・濃唹駅跡―万葉集 巻五 八九〇

●歌は、「出でて行きし日を数へつつ 今日今日と我を待たすらむ 父母らはも」である。

広島県廿日市市大野高畑 高庭駅家跡・濃唹駅跡万葉歌碑(山上憶良

●歌碑は、広島県廿日市市大野高畑 高庭駅家跡・濃唹駅跡にある。

 

●歌をみていこう。

 

◆出弖由伎斯 日乎可俗閇都ゝ 家布々々等 阿袁麻多周良武 知々波々良波母 <一云 波々我迦奈斯佐>

       (山上憶良 巻五 八九〇)

 

≪書き下し≫出(い)でて行きし日(ひ)を数(かぞ)へつつ今日(けふ)今日(けふ)と我(あ)を待たすらむ父母(ちちはは)らはも <一には「母が悲しさ」といふ>

 

(訳)旅立った日を指折り数えながら、今日こそは今日こそはと私の帰りを待っておられるであろう父上母上は、ああ。<母上のいたわしさよ>(伊藤 博 著 「万葉集一」 角川ソフィア文庫より)

 

 ここの歌群は、題詞、序、長歌(八八六歌)、短歌(八八七から八九一歌)という構成になっている。

 順を追ってみてみよう。

 

題詞は、「敬和為熊凝述其志歌六首 幷序   筑前國守山上憶良」<熊凝(くまごり)のためにその志を述ぶる歌に敬和する六首 幷せて序   筑前國守山上憶良>である。

(注)志:男子の思い。(伊藤脚注)

(注)敬和する:陽春の歌に和する。(伊藤脚注)

 

◆序

大伴君熊凝者 肥後國益城郡人也 年十八歳 以天平三年六月十七日為相撲使某國司官位姓名従人 参向京都 為天不幸在路獲疾 即於安藝國佐伯郡高庭驛家身故也 臨終之時 長歎息曰 傳聞 假合之身易滅 泡沫之命難駐 所以千聖已去 百賢不留 况乎凡愚微者何能逃避 但我老親並在菴室 侍我過日 自有傷心之恨 望我違時 必致喪明之泣 哀哉我父痛哉我母 不患一身向死之途 唯悲二親在生之苦 今日長別 何世得覲 乃作歌六首而死 其歌曰

 

≪序 書き下し≫

大伴君(おほとものきみ)熊凝(くまごり)は、肥後(ひのみちのしり)の国(くに)益城 (ましき)の郡(こほり)の人なり。年十八歳にして、天平三年の六月の十七日をもちて、相撲使(すまひのつかひ)某国司(それのくにのつかさ)官位姓名の従人(ともびと)となり、都(みやこ)に参(ま)ゐ向(むか)ふ。天に幸(さき)はひせられず、路に在(あ)りて疾(やまひ)を獲(え)、すなはち安芸(あき)の国佐伯(さへき)の郡(こほり)高庭(たかには)の駅家(うまや)にして身故(みまか)りぬ。臨終(みまか)る時に、長嘆息して曰(い)はく、「伝へ聞くに、『仮合(けがふ)の身は滅びやすく、泡沫(ほうまつ)の命は駐(とど)めかたし』と。このゆゑに、千聖(せんせい)もすでに去(さ)り、百賢(ひやくけん)も留(とど)まらず。いはむや凡愚(ぼんぐ)の微(いや)しき者、いかにしてかよく逃(のが)れ避(さ)らむ。ただし、我(わ)が老いたる親、ともに庵室(あんしつ)に在(いま)す。我れを侍ちて日を過ぐさば、おのづからに傷心(しやうしん)の恨(うら)みあらむ、我れを望みて時に違(たが)はば、かならず喪明(さうめい)の泣(なみた)を致さむ。哀(かな)しきかも我が父、痛(いた)きかも我が母。一身の死に向ふ途(みち)は患(うれ)へず、ただ二親(にしん)の生(よ)に在(いま)す苦しびを悲しぶるのみ。今日(けふ)長(とこしなへ)に別れなば、いづれの世にか覲(まみ)ゆること得む」といふ。すなはち歌六首を作りて死ぬ。 その歌に曰はく、

(注)相撲使>相撲部領使(すまひのことりつかひ):相撲人を引率する官。この頃から宮中で七夕に相撲の節会が行われ、諸国から相撲人が集められた。(伊藤脚注)

(注)高庭:広島県廿日市市大野高畑か。(伊藤脚注)

(注)うまや 名詞:①【馬屋・廏・廐】馬小屋。馬を飼っておく小屋。②【駅・駅家】律令制で、中央政府と地方諸国の連絡のために、街道の三十里(=現在の四里)ごとに置かれ、馬・宿舎・食料などの公用に供した設備。駅長や駅子がいて管理した。鎌倉時代以降は宿(しゆく)・宿場(しゆくば)として発達した。※「むまや」とも。(学研)ここでは②の意

(注)千聖:千年に一度の聖人。下の「百賢」(百年に一度の賢人)の対。(伊藤脚注)

(注)あんじち【庵室】名詞:僧など、世を捨てた人が住む粗末な住まい。いおり。「あんじつ」とも。(学研)

(注)喪明の涙:失明に至るほどの慟哭。(伊藤脚注)

 

 

 

◆宇知比佐受 宮弊能保留等 多羅知斯夜 波々何手波奈例 常斯良奴 國乃意久迦袁 百重山 越弖須凝由伎 伊都斯可母 京師乎美武等 意母比都ゝ 迦多良比遠礼騰 意乃何身志 伊多波斯計礼婆 玉桙乃 道乃久麻尾尓 久佐太袁利 志波刀利志伎提 等許自母能 宇知計伊布志提 意母比都々 奈宜伎布勢良久 國尓阿良婆 父刀利美麻之 家尓阿良婆 母刀利美麻志 世間波 迦久乃尾奈良志 伊奴時母能 道尓布斯弖夜 伊能知周凝南 <一云 和何余須疑奈牟>

       (山上憶良 巻五 八八六)

 

≪書き下し≫うちひさす 宮へ上(のぼ)ると たらちしや 母が手(て)離(はな)れ 常(つね)知らぬ 国の奥処(おくか)を 百重山(ももへやま) 越えて過ぎ行き いつしかも 都を見むと 思ひつつ 語らひ居(を)れど おのが身し 労(いた)はしければ 玉桙(たまほこ)の 道の隈 (くま)みに 草(くさ)手折(たを)り 柴(しば)取り敷きて 床(とこ)じもの うち臥(こ)い伏して 思ひつつ 嘆き伏せらく 国にあらば 父取り見まし 家にあらば 母取り見まし 世の中は かくのみならし 犬じもの 道に伏してや 命(いのち)過ぎなむ <一には「我が世過ぎなむ」といふ>

 

(訳)光さし照る都に上るとて、いとしい母の手許を離れ、見たこともない他国の奥へ奥へと、山また山を越えて通り過ぎ、いつになったら都が見られるかと、わくわくしながらよるとさわるとそのことを話題にしていたが、我が身が大儀で仕方がないので、道の曲がり角に、草を手折り柴を取って敷き重ね、床ででもあるかのように倒れ伏し、思いに沈みながら臥し嘆くことには、「国にいたなら父上が介抱してくださるだろうに、家にいたなら母上が介抱して下さるだろうに、人の世というものはこんなにもはかなく辛(つら)いものらしい。まるで犬ころのように道ばたに行き倒れになって、私は命を終えるというのか」。<私の生涯を終えるというのか>(同上)

(注)うちひさす【打ち日さす】分類枕詞:日の光が輝く意から「宮」「都」にかかる。(学研)

(注)たらちしや【垂乳しや】分類枕詞:「母」にかかる。語義・かかる理由未詳。(学研)

(注)おくか【奥処】①奥深い所。果て。②時間的にへだたった所。将来。(weblio辞書 デジタル大辞泉)ここでは①の意

(注)いたはし【労し】形容詞:①苦労だ。②病気で苦しい。③大切にしたい。いたわってやりたい。④気の毒だ。痛々しい。(学研)ここでは②の意

(注)じもの[接尾]《形容詞語尾「じ」+名詞「もの」から》:名詞に付いて、…のようなもの(として)、…であるもの(として)などの意を表す。連用修飾句として用いられることが多い(weblio辞書 デジタル大辞泉

(注)こいふす【臥い伏す】自動詞:ころがり寝る。倒れふす。(学研)

 

 

 

◆多良知子能 波々何目美受提 意保ゝ斯久 伊豆知武伎提可 阿我和可留良武

       (山上憶良 巻十五 八八七)

 

≪書き下し≫たらちしの母が目見ずておほほしくいづち向きてか我(あ)が別(わか)るらむ

 

(訳)母上の顔を見ることもできないので、暗い暗い心のまま、いったいどちらを向いて私はお別れして行くというのか。(同上)

(注)おほほし 形容詞:①ぼんやりしている。おぼろげだ。②心が晴れない。うっとうしい。③聡明(そうめい)でない。 ※「おぼほし」「おぼぼし」とも。上代語。(学研)ここでは①の意

(注)いづち【何方・何処】代名詞:どこ。どの方向。▽方向・場所についていう不定称の指示代名詞。 ※「ち」は方向・場所を表す接尾語。⇒いづかた・いづこ・いづら・いづれ(学研)

 

 

 

◆都祢斯良農 道乃長手袁 久礼ゝゝ等 伊可尓可由迦牟 可利弖波奈斯尓 <一云 可例比波奈之尓>

       (山上憶良 巻五 八八八)

 

≪書き下し≫常(つね)知らぬ道の長手(ながて)をくれくれといかにか行(ゆ)かむ糧(かりて)はなしに<一には「干飯(かれひ)はなしに」といふ>

 

(訳)見たこともない果て知れぬ道だというのに、おぼつかないままどのようにして行ったらよいのか。食糧はろくにないのに。<乾飯(ほしいい)もないままに>(同上)

(注)くれくれ(と)【暗れ暗れ(と)】副詞:①悲しみに沈んで。心がめいって。②(道中)苦労しながら。はるばる。 ※後には「くれぐれ(と)」。(学研)

 

 

 

◆家尓阿利弖 波ゝ何刀利美婆 奈具佐牟流 許々呂波阿良麻志 斯奈婆斯農等母<一云 能知波志奴等母>

       (山上憶良 巻五 八八九)

 

≪書き下し≫家にありて母が取り見ば慰(なぐさ)むる心はあらまし死なば死ぬとも<一には「後は死ぬとも」といふ>

 

(訳)私が家にいる身で、母上が介抱してくださったなら、この悲しみも和(やわ)らげられるだろうに。死ぬなら死んでしまうにしても。<ついには死ぬにしても>(同上)

 

 

◆一世尓波 二遍美延農 知ゝ波ゝ袁 意伎弖夜奈何久 阿我和加礼南 <一云 相別南>

       (山上憶良 巻五 八九一)

 

≪書き下し≫一世(ひとよ)にはふたたび見えぬ父母を置きてや長く我(あ)が別れなむ <一には「相別れなむ」といふ>

 

(訳)この世では二度と逢えない父上母上なのに、あとに残したまま、私はとこしえに別れ去らねばならぬのか。<互いに別れ別れになってしまわねばならぬのか>(同上)

 

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 これらの歌に関して、辰巳正明氏は、その著「山上憶良」(笠間書院)のなかで、「不幸な熊凝の気持ちを、憶良が代弁した作品である。序文や歌をみると、憶良の思想が色濃く表れている。たとえば『仮合の身は滅び易く、泡沫の命は駐(とど)め難し』(序文)というのは、仏教では人間の肉体は四大要素でできていて、それが変化することで滅びるのだといい、それゆえに、身体はあくまでも仮のものであり、死ぬことを当然としているのだという。・・・さらに熊凝の死を通して親への孝を問題としているのも、憶良がこのような作品を創作するための根本的なテーマである。」と書いておられる。

 

 

■■柱野小学校→広島県廿日市市大野高畑 高庭駅家跡・濃唹駅跡■■

 柱野小学校から約30分のドライブである。途中錦帯橋の近くを通るが、万葉歌碑優先であるので立ち寄らなかった。

 現地では、歌碑を挟んで「高庭駅家跡」と「濃唹駅跡」の碑が立っており、理解に苦しんだ。

史跡 高庭駅家跡・濃唹駅跡

「はつかいち観光協会HP・旅するはつかいち」の「山陽道 濃唹駅と万葉集・高庭駅家跡」の項に次のように書かれている。

廿日市大野を通る古代山陽道西暦645年・大化の改新後の日本では、律令国家として国土を区分すると、迅速かつ安全な往来のため良く知られている東海道をはじめとした7つの官道を敷きました。京の都から大陸との玄関口である下関までをつなぐため、現在の兵庫から広島、山口と瀬戸内海沿岸を通る道として敷設されたのが、山陽道(古代山陽道)です。

おおいなる古代のロマンを感じさせるこの山陽道は、廿日市大野町高畑の薬師寺堂付近を通っており、濃唹駅(のおえき)の跡であり、万葉集に『安芸国佐伯郡高庭駅家』と記されている高庭駅家(駅家・うまや)の跡だと言われています。

万葉集にのっている山上憶良(やまのうえおくら)の歌『出でて行きし日を数へつつ 今日今日と 吾を待たすらむ 父母らはも』は、肥後国益城郡(ひごのくにましきごおり)の人、大伴熊凝が役人のお供をして都にのぼる途中、天平3年(731年)6月17日に安芸国佐伯郡高庭駅で病気にかかり、18歳の若さで家郷の父母を慕い嘆き悲しみながら息を引き取ったという事実を聞いた山上憶良が、その心中を歌にしたものと言われています。現在駅家のあった場所にはこの歌を刻んだ歌碑がたっています。

駅家(うまや)には、駅馬(はゆま:公の使いをするものが乗り継いでいくために用意された急用の馬のこと)を5~20馬を置くことが定められており、廿日市・大野のこの場所には多くの古代の物語があったことでしょう。

山陽道のうち、安芸国にはその後駅家の移動が見られ、延長5年(927年)完成の延喜式には 濃唹駅(のおえき)の名が載っていますが、これは高庭駅家が廃止された後に、同所に濃唹駅が建てられたためと考えられています。」

 これで納得である。

「高庭駅家跡」案内碑



 

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(参考文献)

★「萬葉集」 鶴 久・森山 隆 編 (桜楓社)

★「万葉集一」 伊藤 博 著 (角川ソフィア文庫

★「山上憶良」 辰巳正明 著 (笠間書院

★「weblio古語辞典 学研全訳古語辞典」

★「weblio辞書 デジタル大辞泉

★「旅するはつかいち」 (はつかいち観光協会HP)