万葉集の歌碑めぐり

万葉歌碑をめぐり、歌の背景等を可能な限り時間的空間的に探索し、万葉集の万葉集たる所以に迫っていきたい!

万葉歌碑を訪ねて(その2108)―奈良市高畑町 南都鏡神社―万葉集 巻八 一四五六

●歌は、「この花の一節のうちに百種の言ぞ隠れるおほろかにすな」である。

南都鏡神社 絵馬掛け横の万葉歌碑(プレート)(藤原広嗣


●歌碑(プレート)は、奈良市高畑町 南都鏡神社にある。

 

●歌をみていこう。

 

題詞は、「藤原朝臣廣嗣櫻花贈娘子歌一首」<藤原朝臣広嗣(ふぢはらのあそみひろつぐ)、桜花(さくらばな)を娘子(をとめ)に贈る歌一首>である。

 

◆此花乃 一与能内尓 百種乃 言曽隠有 於保呂可尓為莫

      (藤原広嗣 巻八 一四五六)

 

≪書き下し≫この花の一節(ひとよ)のうちに百種(ももくさ)の言(こと)ぞ隠(こも)れるおほろかにすな

 

(訳)この花の一枝の中には、私の言いたいたくさんの言葉がずっしりとこもっています。おろそかに扱って下さるなよ。(伊藤 博 著 「万葉集 二」 角川ソフィア文庫より)

(注)一節(ひとよ):一枝。「よ」は節(ふし)。(伊藤脚注)

(注)ももくさ【百種】名詞:多くの種類。いろいろな種類。(weblio古語辞典 学研全訳古語辞典)

(注)おほろかなり【凡ろかなり】形容動詞:いいかげんだ。なおざりだ。「おぼろかなり」とも。 ※上代語(学研)

 

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 藤原広嗣の歌はこの一首のみである。

 

 一四五七歌は、広嗣の歌に和えた娘子の歌である。

 こちらもみてみよう。

 

題詞は、「娘子和歌一首」<娘子が和(こた)ふる歌一首>である。

 

◆此花乃 一与能裏波 百種乃 言持不勝而 所折家良受也

       (娘子 巻八 一四五七)

 

≪書き下し≫この花の一節(ひとよ)のうちは百種(ももくさ)の言待ちかねて折らえけらずや

 

(訳)この花の一枝は、その中にあまりにもたくさんこめられたお言葉を支えきれなくなって、このように簡単に折れてしまったのではありませんか。(同上)

(注)折らえけらずや:折れてしまったのではありませんか。相手への戯れ。エは自発。(伊藤脚注)

 

南都鏡神社名碑

南都鏡神社本殿

本殿説明案内板




 南都鏡神社の御祭神は、天照皇大神藤原広嗣・地主神である。

 

 乱を起し処刑された藤原広嗣が祀られていることについて、同神社のHPの「御由緒」欄に次のように書かれている。

 「藤原広嗣公は、式部卿左大臣宇合(うまかい)の長男で、母は右大臣石川麻呂の娘であった。幼いころより文武の才に長け、管弦歌舞の道、天文陰陽の技に精しかった。従五位大倭守、右近衛少将を経て、天平10年大宰少弐(だざいのしょうに)に任ぜられた。

この頃、橘諸兄(たちばなのもろえ)が右大臣となり、長らく唐で修行していた僧玄昉と下道真備(吉備真備)が朝廷の要職に登用され勢力を得ていた。しかし、地震、疫病などで都は乱れ、さらに、玄昉は非行多く僧にあるまじき所行があった。

純清・剛直な広嗣公はこれを黙視できず、天平12年(740年)、災いの起こる悪い政治の原因は、玄昉や真備にあるとして、その上表文(じょうひょうぶん)を天皇に送り、自らの考えを採用するようにもとめた。しかし、朝廷はただちにこれを謀反(むほん)と断定し、7日後、広嗣公を討つ軍が出発した。

同9月、広嗣公はやむなく兵を集めて遠賀郡(おんがぐん)に軍を構えた。広嗣公率いる大宰府軍は広嗣公、綱手、多胡古麻呂など1万、官軍は大野東人、紀飯麻呂、佐伯常人、安部虫麻呂など1万7千であった。10月上旬、広嗣軍は官軍と筑後板櫃川(いたびつがわ)に戦い、たちまち破られ肥前長野村にて捕えられ、松浦郡にて討たれた。

義志かなわず、反乱の汚名をこうむって討ち取られたことで、広嗣公の怨霊があらわれたという。」

 

九州で処刑されたのであるが、南都鏡神社で祀られているのは、「奈良まちあるき風景紀行HP」に「創建にあたっては、現在の佐賀県唐津市にある『鏡神社』から奈良時代に謀反を起こしたとして処刑された藤原広嗣を御祭神として勧請を受けたものとされており、この神社は藤原広嗣の怨霊・御霊を鎮める神社としての役割を果たしてきました。」と書かれている。

藤原広嗣の乱とは、「奈良中期、藤原広嗣が北九州でおこした反乱。740年、大宰少弐藤原広嗣左大臣橘諸兄 (もろえ) ・玄昉 (げんぼう) ・吉備真備 (きびのまきび) を排して藤原氏の権力をもり返そうとしておこしたが、大野東人 (あずまひと) らの追討軍に敗れ、処刑された。乱後、大宰府が一時停止され、聖武天皇が動揺し同年恭仁京に都が移され、5年の間転々と都を変えるなど、乱の影響が大きかった。」(コトバンク 旺文社日本史事典 三訂版)

(注)5年の間転々と都を変える:「彷徨の五年」と言われている。

「彷徨の五年」については、拙稿ブログ「万葉歌碑を訪ねて(その1225)」で触れている。

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tom101010.hatenablog.com

 

 

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 梅原 猛氏は、その著「水底の歌 柿本人麿論 上」(新潮文庫)のなかで、「・・・日本において死後まもなく神になるのは、ほとんど非業(ひごう)の死をとげた人であった。非業の死をとげた人の復讐(ふくしゅう)が、怨恨(えんこん)が恐ろしいので、その亡霊をなぐさめ、怨恨を押えるためにそのような人を神と祀(まつ)る。・・・」と書かれている。

 

 南都鏡神社に藤原広嗣が祀られているのはこのような背景があったのである。

 

 また、同神社の「御由緒」に「攝社 比売神社 十市皇女・市寸嶋姫命(昭和56年5月9日鎮座)」と書かれている。

 比売神社については、十市皇女伊勢神宮に赴く途中、お供をしていた吹芡刀自が波多(はた)の横山の巌を見て作った歌とともに拙稿ブログ「万葉歌碑を訪ねて(その38改)」で紹介している。

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tom101010.hatenablog.com

 

 

 

(参考文献)

★「萬葉集」 鶴 久・森山 隆 編 (桜楓社)

★「万葉集 二」 伊藤 博 著 (角川ソフィア文庫

★「水底の歌 柿本人麿論 上」 梅原 猛 著 (新潮文庫

★「weblio古語辞典 学研全訳古語辞典」

★「コトバンク 旺文社日本史事典 三訂版」

★「南都鏡神社HP」

★「奈良まちあるき風景紀行HP」