万葉集の歌碑めぐり

万葉歌碑をめぐり、歌の背景等を可能な限り時間的空間的に探索し、万葉集の万葉集たる所以に迫っていきたい!

万葉歌碑を訪ねて(その2110)―京都府綴喜郡井手町 井手の玉川歌碑の道―万葉集 巻十七 三九二二

●歌は、「降る雪の白髪までに大君に仕へまつれば貴くもあるか」である。

井手の玉川歌碑の道万葉歌碑(橘諸兄

●歌碑は、京都府綴喜郡井手町 井手の玉川歌碑の道にある。

 

●歌をみていこう。

 

◆布流由吉乃 之路髪麻泥尓 大皇尓 都可倍麻都礼婆 貴久母安流香

       (橘諸兄 巻十七 三九二二)

 

≪書き下し≫降る雪の白髪までに大君に仕へまつれば貴くもあるか

 

(訳)降り積もる雪のようにまっ白な髪になるまでも、大君にお仕えさせていただけたことは、何とまあ貴くもったいないことか。(「万葉集 四」 伊藤 博 著 角川ソフィア文庫より)

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 三九二二から三九二六歌の歌群の序は、「天平十八年正月白雪多零積地數寸也 於時左大臣橘卿率大納言藤原豊成朝臣及諸王諸臣等参入太上天皇御在所 ≪中宮西院」」供奉掃雪 於是降詔大臣参議并諸王者令侍于大殿上諸卿大夫者令侍于南細殿 而則賜酒肆宴勅曰汝諸王卿等聊賦此雪各奏其歌 」<天平十八年の正月に、白雪(はくせつ)多(さは)に零(ふ)り、地(つち)に積(つ)むこと数寸(すすん)なり。時に、左大臣橘卿(たちばなのまへつきみ)、大納言(だいなごん)藤原豊成朝臣(ふづはらのとよなりあそん)また諸王諸臣(しよわうしよしん)たちを率(ゐ)て、太上天皇(おほきすめらみこと)の御在所 ≪中宮の西院≫に参入(まゐ)り、仕(つか)へまつりて雪を掃く。ここに詔(みことのり)を降(くだ)し、大臣参議幷(あは)せて諸王は、者令侍于大殿(おほどに)の上に侍(さもら)はしめ、諸卿大夫(しよきやうだいぶ)は、南の細殿(ほそどの)に侍はしめて、すなはち于酒を賜ひ肆宴(とよのあかり)したまふ。勅(みことのり)して曰(のちたま)はく、「汝(いまし)ら諸王卿たち、いささかにこの雪を賦(ふ)して、おものおものその歌を奏せ」とのりたまふ。>である。

(注)天平十八年:746年

(注)太上天皇元正上皇

(注)大殿:正殿。下の「細殿」は繋ぎ廊下。(伊藤脚注)

(注)ふす【賦す】他動詞:題を割り当てられて詩を作る。詩歌を作る。(weblio古語辞典 学研全訳古語辞典)

 

 

題詞は、「左大臣橘宿祢應詔歌一首」<左大臣宿禰(たちばなのすくね)、詔(みことのり)の応(こた)ふる歌一首>である。

 

 左注は、「藤原豊成朝臣 巨勢奈弖麻呂朝臣 大伴牛養宿祢 藤原仲麻呂朝臣 三原王     智奴王 船王邑知王 小田王 林王 穂積朝臣老 小田朝臣諸人 小野朝臣綱手 高橋朝臣國足 太朝臣徳太理 高丘連河内 秦忌寸朝元 楢原造東人

右件王卿等 應詔作歌依次奏之 登時不記其歌漏失 但秦忌寸朝元者 左大臣橘卿謔云 靡堪賦歌以麝贖之 因此黙已也<藤原豊成朝臣(ふぢはらのとよなりのあそみ)、巨勢奈弖麻呂朝臣(こせのなてまろのあそみ)、大伴牛養宿禰(おほとものうしかひのすくね)、藤原仲麻呂朝臣(ふぢはらのなかまろのあそみ)、三原王(みはらのおほきみ)、智奴王(ちぬのおおほきみ)、船王(ふねのおほきみ)、邑知王(おほちのおほきみ)、小田王(をだのおほきみ)、林王(はやしのおほきみ)、穂積朝臣老(ほづみのあそみおゆ)、小田朝臣諸人(をだのあそみもろひと)、小野朝臣綱手(をのあそみつなて)、高橋朝臣國足(たかはしのあそみくにたり)、太朝臣徳太理(おほのあそみとこたり)、高丘連河内(たかをかのむらじかふち)、秦忌寸朝元(はたのいみきてうぐわん)、楢原造東人(ならはらのみやつこあづまひと)

右の件(くだり)の王卿等 詔(みことのり)に応(こた)へて歌を作り、次(つぎて)によりて奏す。その時に記さずして、その歌漏(も)り失(う)せたり。ただし、秦忌寸朝元は、左大臣橘卿謔(たはぶ)れて云はく、「歌を賦(ふ)するに堪(あ)へずは、麝(じや)をもちてこれを贖(あがな)へ」といふ。これによりて黙(もだ)してやみぬ。>である。

(注)麝(じや)をもちてこれを贖(あがな)へ:中国南部からチベットにかけて棲むじゃこうじかの雄の腹にある香嚢から製した香料。薬用にも供し極めて高価。唐国帰りの朝元はこれを秘蔵しているはずだとからかったもの。(伊藤脚注)

(注)黙(もだ)してやみぬ:朝元は歌を奉らずに終わった。(伊藤脚注)

 

 三九二二歌は、大殿にいた橘諸兄の歌で、応詔歌の冒頭歌である。藤原仲麻呂は、細殿におり、歌も収録されていないのである。

 下記の年表をみればわかるが、藤原仲麻呂は、この時、細殿にあって、牙をといでいたのであろう。

 

 三九二二から三九二六歌については、拙稿ブログ「万葉歌碑を訪ねて(その1706)」で紹介している。

 ➡ 

tom101010.hatenablog.com

 

 

天平十二年(740年)藤原広嗣の乱

天平十二年~天平十七年(745年)聖武天皇の「彷徨の五年」

天平十六年(744年)安積王急死(藤原仲麻呂の手によるとの説も)

天平十八年(746年)家持、越中へ赴任

天平勝宝元年(749年)聖武天皇譲位、孝謙天皇即位

            藤原仲麻呂、大納言に

天平勝宝三年(751年)家持、少納言となり都に戻る

天平勝宝八歳(756年)左大臣橘諸兄藤原仲麻呂一派の誣告により官を辞す。

            聖武太上天皇崩御

天平勝宝九歳(757年)橘諸兄死去

            橘奈良麻呂の変

天平宝字二年(758年)家持、因幡へ赴任

 

 

井手町 井手の玉川歌碑の道■ 

「井手の玉川 歌碑の道」の碑

 井手町HP「井手の自然を楽しむ」の「玉川のやまぶき」の項に「日本六玉川のひとつ、井手町の玉川では、桜の見ごろの後、次にヤマブキの花が見ごろを迎えます。井手町のヤマブキは、古くから多くの和歌に詠まれており、玉川の堤には、それらの和歌が記された歌碑が数多く設置されています。」と書かれている。

玉川の説明案内板

やまぶき橋




 

 

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(参考文献)

★「萬葉集」 鶴 久・森山 隆 編 (桜楓社)

★「万葉集 四」 伊藤 博 著 (角川ソフィア文庫

★「大伴家持 波乱にみちた万葉歌人の生涯」 藤井一二 著 (中公新書

★「weblio古語辞典 学研全訳古語辞典」

★「井手町HP]