岩代、白浜とくれば、有間皇子の悲劇の地である。皇子の歌碑からみていこう。
●歌をみていこう。
◆磐白乃 濱松之枝乎 引結 真幸有者 亦還見武
(有間皇子 巻二 一四一)
≪書き下し≫岩代(いはしろ)の浜松が枝(え)を引き結びま幸(さき)くあらばまた帰り見む
(訳)ああ、私は今、岩代の浜松の枝と枝を引き結んでいく、もし万一この願いがかなって無事でいられたなら、またここに立ち帰ってこの松を見ることがあろう。(伊藤 博 著 「万葉集 一」 角川ソフィア文庫より)
光照寺横には、もう一基「中皇命(なかつすめらみこと)の巻一 一〇歌」の歌碑がある。
「みなべ町指定文化財 万葉の故郷(岡と結<むすび>)題する説明案内板に「斉明四(六五八)年十月、斉明天皇の一行が紀の湯旅をされた。そのとき中皇命(なかつすめらみこと)<宝皇女・間人(はしひと)皇女・倭姫説あり>が、この地(岡)付近で二首の和歌を詠まれた。同年十一月には、謀反の罪で斉明天皇の旅先の紀の湯に護送される途次の有間皇子が、当地の南二〇〇mの結の地で、自分の平安無事を祈って二首の和歌を詠まれたが、皇子の願い空しく帰途十九歳で処刑された。(後略)」と書かれている。
光照寺正面から200mほどの国道42線沿いに「有間皇子結松記念碑」が立てられている。その碑の前の「史跡 岩代の結松」の立て札には、有間皇子の一四一・一四二歌が書かれている。
有間皇子、中皇命の歌ならびに歌碑については、拙稿ブログ「万葉歌碑を訪ねて(その1193,1194)」で、結松記念碑については、同「同(その番外岩代)」で紹介している。
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白浜の中心地・白良浜近くは、「有間皇子之碑」が立てられている。和歌山県公式サイトHPには、「日本三古湯として古くから世に知られる白浜温泉だが、きっかけとなったのは、有間皇子が斉明天皇に温泉地のよさをすすめたという故事による。その功績を称える顕彰碑が建てられており、悲劇の皇子は町の恩人として、今もこの地では大切な存在とされている。」と書かれている。
さらに、フィッシャーマンズワーフの駐車場の出口付近には、ホンカクジヒガイを抱いた真白良媛像が建てられておりその台座に、「万葉悲話」と題し、有間皇子の死を知らずに待ち続けたという真白良媛にまつわる話とともに有間皇子の一四一歌が刻されている。
真白良媛像、有間皇子之碑については、拙稿ブログ「万葉歌碑を訪ねて(その1188,白浜番外)」で紹介している。
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■日高郡印南燈印南原 おたき瀧法寺万葉歌碑(巻三 四一二)■
●歌をみていこう。
題詞は、「市原王歌一首」<市原王(いちはらのおおきみ)が歌一首>である。
◆伊奈太吉尓 伎須賣流玉者 無二 此方彼方毛 君之随意
(市原王 巻三 四一二)
≪書き下し≫いなだきにきすめる玉は二つなしかにもかくにも君がまにまに
(訳)頭上に束ねた髪の中に秘蔵しているという玉は、二つとない大切な物です。どうぞこれをいかようにもあなたの御心のままになさって下さい。(同上)
(注)いなだき 〘名〙:いただき (コトバンク 精選版 日本国語大辞典)
(注)きすむ【蔵む】他動詞:大切に納める。秘蔵する。隠す。(同上)
(注)かにもかくにも 副詞:とにもかくにも。どうであれ。(学研)
(注の注)かくにも君がまにまに:いかようにもご随意に。大切にしてほしい意がこもる。(伊藤脚注)
大伴駿河麻呂が大伴坂上郎女の二嬢(おといらつめ)を娉(つまど)ふ歌のやり取りをしている時に、市原王が、玉(二嬢の譬え)を大切にしてほしいと坂上郎女に成り代わって和(こた)、思いやりの気持ちがこもる心優しい歌である。
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この歌ならびに歌碑については、拙稿ブログ「万葉歌碑を訪ねて(その1195)」で紹介している。市原王の歌八首も紹介している。
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■和歌山県白浜町 平草原公園万葉歌碑(巻四 四九六~四九九)■
●歌をみていこう。
題詞は、「柿本朝臣人麻呂歌四首」<柿本朝臣人麻呂(かきのもとのあそみひとまろ)が歌四首>である。
◆三熊野之 浦乃濱木綿 百重成 心者雖念 直不相鴨
(柿本人麻呂 巻四 四九六)
≪書き下し≫み熊野の浦の浜木綿(はまゆふ)百重(ももへ)なす心は思(も)へど直(ただ)に逢はぬかも
(訳)み熊野(くまの)の浦べの浜木綿(はまゆう)の葉が幾重にも重なっているように、心にはあなたのことを幾重にも思っているけれど、じかには逢うことができません。(同上)
(注)み熊野の浦:紀伊半島南部一帯。「み」は美称。
(注)はまゆふ【浜木綿】名詞:浜辺に生える草の名。はまおもとの別名。歌では、葉が幾重にも重なることから「百重(ももへ)」「幾重(いくかさ)ね」などを導く序詞(じよことば)を構成し、また、幾重もの葉が茎を包み隠していることから、幾重にも隔てるもののたとえともされる。よく、熊野(くまの)の景物として詠み込まれる。(学研)
(注)上三句は「心は思へど」の譬喩。(伊藤脚注)
この歌および続く三首ならびに歌碑については、拙稿ブログ「万葉歌碑を訪ねて(その1187)」で紹介している。
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■和歌山県白浜町 バス停「瀬戸の浦」傍万葉歌碑(巻十二 三一六四)■
●歌をみていこう。
◆室之浦之 瑞門之埼有 鳴嶋之 磯越浪尓 所沾可聞
(作者未詳 巻十二 三一六四)
≪書き下し≫室(むろ)の浦(うら)の瀬戸(せと)の崎(さき)なる鳴島(なきしま)の磯(いそ)越す波に濡れにけるかも
(訳)室の浦の瀬戸の崎にある鳴島、その島の泣く涙だというのか、磯を越す波にすっかり濡れてしまった。(伊藤 博 著 「万葉集 三」 角川ソフィア文庫より)
(注)鳴島:「泣く島」を懸ける。(伊藤脚注)
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この歌ならびに歌碑については、拙稿ブログ「万葉歌碑を訪ねて(その1189)」で紹介している。
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相生市HP「万葉の岬」には、この歌に関して「『室の浦』は室津藻振鼻から金ヶ崎にかけての湾入。『鳴島』は金ヶ崎眼下の君島、金ヶ崎と鳴島の間が『湍門』、磯波のしぶきに濡れる舟行旅愁の歌。」と解説が記されている。
相生市相生金ヶ崎 HOTEL万葉岬前の同歌の歌碑については、拙稿ブログ「万葉歌碑を訪ねて(その686)」で紹介している。
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●歌をみていこう。
一六六七から一六七四歌の歌群の題詞は、「大寳元年辛丑冬十月太上天皇大行天皇幸紀伊國時歌十三首」<大宝(だいほう)元年辛丑(かのとうし)の冬の十月に、太上天皇(おほきすめらみこと)・大行天皇(さきのすめらみこと)、紀伊の国(きのくに)に幸(いでま)す時の歌十三首>である。
(注)ここでは太上天皇は持統天皇、大行天皇は文武天皇をさす。
◆風莫乃 濱之白浪 徒 於斯依久流 見人無 <一云 於斯依来藻>
(作者未詳 巻九 一六七三)
≪書き下し≫風莫(かぎなし)の浜の白波いたづらにここに寄せ来(く)る見る人なしに <一には「ここに寄せ来も」と云ふ>
(訳)風莫(かざなし)の浜の静かな白波、この波はただ空しくここに寄せてくるばかりだ。見て賞(め)でる人もないままに。(「万葉集 二」 伊藤 博 著 角川ソフィア文庫より)
(注)風莫(かざなし)の浜:波静かな黒牛潟の称か。(伊藤脚注)
左注は、「右一首山上臣憶良類聚歌林曰 長忌寸意吉麻呂應詔作此歌」<右の一首は、山上臣憶良(やまのうえおみおくら)が類聚歌林(るいじうかりん)には「長忌寸意吉麻呂(ながのいみきおきまろ)、詔(みことのり)に応(こた)へてこの歌を作る」といふ>である。
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この歌ならびに歌碑については、拙稿ブログ「万葉歌碑を訪ねて(その1190)」で紹介している。
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「風莫(かざなし)」の次は「風早(かざはや)」の歌碑である。
●歌をみていこう。
◆風早之 三穂乃浦廻乎 榜舟之 船人動 浪立良下
(作者未詳 巻七 一二二八)
≪書き下し≫風早(かざはや)の三穂(みほ)の浦(うら)みを漕ぐ舟の舟人(ふなびと)騒(さわ)く波立つらしも
(訳)風早の三穂の浦のあたりを漕いでいる舟の舟人たちが大声をあげて動き廻っている。波が立ちはじめたらしい。(同上)
(注)かざはや【風早/風速】:風が強く吹くこと。多く「かざはやの」の形で、風の激しい土地の形容として用いる。(weblio辞書 デジタル大辞泉)
海岸の巨石に歌碑プレートが埋め込まれ巨大な歌碑が形成されている。このような形の歌碑はいままで見たことがなかった。
この歌ならびに歌碑については、拙稿ブログ「万葉歌碑を訪ねて(その1197)」で紹介している。
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(参考文献)
★「萬葉集」 鶴 久・森山 隆 編 (桜楓社)
★「weblio古語辞典 学研全訳古語辞典」
★「和歌山県公式サイトHP」
★「相生市HP」