<福山市>
■広島県福山市蔵王 蔵王憩いの森万葉歌碑(巻十一 二四二三)■
●歌をみてみよう、
◆路後 深津嶋山 蹔 君目不見 苦有
(柿本人麻呂歌集 巻十一 二四二三)
≪書き下し≫道の後(しり)深津島山(ふかつしまやま)しましくも君が目(め)見ねば苦しかりけり
(訳)道の後(しり)の国の深津島山の、そのしまではないが、ほんのしばしもあなたの顔を見ないと、苦しくてなりません。(「万葉集 三」 伊藤 博 著 角川ソフィア文庫より)
(注)道の後:都から見て遠い国。ここは吉備の道の後で、備後。広島県東部。(伊藤脚注)
(注)深津島山:福山市あたりの山。上二句は序。「しましくも」を起こす。(伊藤脚注)
(注の注)みちのしり【道の後/道の尻】:昔、都から下る道中の地方を二つまたは三つに分けたときの、最も都から遠い地方。→道の口 →道の中(weblio辞書 デジタル大辞泉)
(注の注)深津郡:広島県(備後国)にあった郡。(weblio辞書 フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』)
(注)しましく【暫しく】副詞:少しの間。 ※上代語。(weblio古語辞典 学研全訳古語辞典)
「深津島山」については、犬養 孝 著「万葉の旅 下」(平凡社ライブラリー)に、「『深津』は『和妙称』に『備後国深津郡』とある地。いまの福山市付近。島山は市内東深津町付近で、いま陸地と化し、市内の隆起部(30メートル内外)がその後といわれる。もとは穴海(あなのうみ)の海域の内にある。」と書かれている。
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この歌ならびに歌碑については、拙稿ブログ「万葉歌碑を訪ねて(その1624)」で紹介している。
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■広島県福山市 西神島八幡神社 万葉歌碑(巻十五 三五九九)■
●歌をみていこう。
◆月余美能 比可里乎伎欲美 神嶋乃 伊素末乃宇良由 船出須和礼波
(遣新羅使人等 巻十五 三五九九)
≪書き下し≫月読(つくよみ)の光を清み神島(かみしま)の礒(いそ)みの浦ゆ船出(ふなで)す我(わ)れは
(訳)お月さまの光が清らかなので、それを頼りに、神島の岩の多い入江から船出をするのだ、われらは。(同上)
(注)つくよみ【月夜見・月読み】名詞:月。「つきよみ」とも。(学研)
(注)神島:備後(きびのみちのしり)広島県東部 ※巻十三 三三三九歌の題詞に「備後の国の神島の浜にして」とある。
(注の注)三三三九歌の題詞は、「備後(きびのみちのしり)の国の神島(かみしま)の浜にして、調使首(つきのおみのおびと)、屍(しかばね)を見て作る歌一首 幷(あは)せて短歌」である。三三三九から三三四三歌についてはブログ拙稿「万葉歌碑を訪ねて(その804)」で、また三五九九歌についてはブログ拙稿「万葉歌碑を訪ねて(その803)」で、岡山県笠岡市神島 天神社にある歌碑も紹介している。
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三五九九歌ならびに歌碑については、拙稿ブログ「万葉歌碑を訪ねて(その1623)」で紹介している。
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●歌をみていこう。
◆吾妹子之 見師鞆浦之 天木香樹者 常世有跡 見之人曽奈吉
(大伴旅人 巻三 四四六)
≪書き下し≫我妹子(わぎもこ)が見し鞆(とも)の浦のむろの木は常世(とこよ)にあれど見し人ぞなき
(訳)いとしいあの子が行きに目にした鞆の浦のむろの木は、今もそのまま変わらずにあるが、これを見た人はもはやここにはいない。(伊藤 博 著 「万葉集 一」 角川ソフィア文庫より)
(注)むろのき【室の木・杜松】分類連語:木の名。杜松(ねず)の古い呼び名。海岸に多く生える。(学研)
■広島県福山市鞆町 歴史民俗資料館 万葉歌碑(巻三 四四七)■
●歌をみてみよう。
◆鞆浦之 磯之室木 将見毎 相見之妹者 将所忘八方
(大伴旅人 巻三 四四七)
≪書き下し≫鞆の浦の磯のむろの木見むごとに相見し妹は忘らえめやも
(訳)鞆の浦の海辺の岩の上に生えているむろの木。この木をこれから先も見ることがあればそのたびごとに、行く時に共に見たあの子のことが思い出されて、とても忘れられないだろうよ。(同上)
四四六、四四七歌ならびに歌碑については、拙稿ブログ「万葉歌碑を訪ねて(その1632,1633)」で紹介している。
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●歌をみていこう。
◆磯上丹 根蔓室木 見之人乎 何在登問者 語将告可
(大伴旅人 巻三 四四八)
≪書き下し≫磯の上に根延(ねば)ふむろの木見し人をいづらと問はば語り告げむか
(訳)海辺の岩の上に根を張っているむろの木よ、行く時にお前を見た人、その人をどうしているかと尋ねたなら、語り聞かせてくれるであろうか。(伊藤 博 著 「万葉集 一」 角川ソフィア文庫より)
(注)いづら【何ら】代名詞:どこ。▽方向・場所についていう不定称の指示代名詞。(学研)
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この歌ならびに歌碑については、拙稿ブログ「万葉歌碑を訪ねて(その2104)」で紹介している。
➡ こちら2104
■福山市春日町 広島大学附属福山中・高等学校校庭万葉歌碑(巻三 四四六)■
●歌は前述の対潮楼石垣下万葉歌碑と同じであるので省略させていただきます。
広島大学附属福山中・高等学校校庭にはこの他に4基の万葉歌碑がある。
広島大学附属福山中・高等学校校庭にある5基の歌ならびに歌碑については、拙稿ブログ「万葉歌碑を訪ねて(その1626~1630)」で紹介している。
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<尾道市>
■広島県尾道市因島 文学の散歩道・つれしおの石ぶみ万葉歌碑(巻十五 三六一三)■
●歌をみていこう。
◆海原乎 夜蘇之麻我久里 伎奴礼杼母 奈良能美也故波 和須礼可祢都母
(遣新羅使人等 巻十五 三六一三)
<書き下し>海原(うなはら)を八十島隠(やそしまがく)り来(き)ぬれども奈良の都は忘れかねつも
(訳)海原を、たくさんの島々のあいだを縫いながらはるばる漕いでやって来たけれど、奈良の都は忘れようにも忘れられない。(「万葉集 三」 伊藤 博 著 角川ソフィア文庫より)
(注)やそしま【八十島】名詞:たくさんの島。(学研)
(注)しまがくる【島隠る】動:のかげに隠れる。また、島のかげに退避する。(weblio辞書 デジタル大辞泉)
(注の注)八十島隠り:多くの島々に漕ぎ隠れて。(伊藤脚注)
この歌ならびに歌碑については、拙稿ブログ「万葉歌碑を訪ねて(その1625)」で紹介している。
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(参考文献)
★「萬葉集」 鶴 久・森山 隆 編 (桜楓社)
★「万葉の旅 下」 犬養 孝 著 (平凡社ライブラリー)
★「weblio古語辞典 学研全訳古語辞典」
★「weblio辞書 フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』」