万葉集の歌碑めぐり

万葉歌碑をめぐり、歌の背景等を可能な限り時間的空間的に探索し、万葉集の万葉集たる所以に迫っていきたい!

万葉歌碑を訪ねて(その2165)―香川県(1)高松市・坂出市―

高松市

高松市庵治町鎌野 鎌野海岸万葉歌碑(巻十一 二七四七)■

高松市庵治町鎌野 鎌野海岸万葉歌碑(作者未詳)

●歌をみていこう。

 

◆味鎌之 塩津乎射而 水手船之 名者謂手師乎 不相将有八方

           (作者未詳 巻十一 二七四七)

 

≪書き下し≫あぢかまの塩津(しほつ)をさして漕ぐ舟の名は告(の)りてしを逢はずあらめやも

 

(訳)あじかまの塩津を目指して漕ぎ進む舟が大声で名を告げるように、はっきりと私の名はうち明けたのだもの。逢って下さらないなんていうことがあるはずはない。(伊藤 博 著 「万葉集 三」 角川ソフィア文庫より)

(注)あぢかまの:未詳。塩津の枕詞か。(伊藤脚注)

(注)塩津:琵琶湖北東端の港。北陸道の入り口。

(注)上三句は「名は告(の)りてし」を起こす序。出航に際して大声で舟の名を告げる慣習によるものか。(伊藤脚注)

 

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 この歌ならびに歌碑については、拙稿ブログ「万葉歌碑を訪ねて(その1782)」で紹介している。

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 「庵治鎌野の塩津(地名でなく港をさす)」と解釈し鎌野海岸に歌碑が立てられたのであろう。

 犬養 孝 著「万葉の旅 下 山陽・四国・九州・山陰・北陸」(平凡社ライブラリー)の万葉全地名の解説には「庵治・鎌野」は載っていなかった。    

 

 

 

高松市東山崎町 石清水八幡宮万葉歌碑(巻十九 四一三九)■

 

 高松市東山崎町 石清水八幡宮万葉歌碑(大伴家持

●歌をみてみよう。

 

◆春苑 紅尓保布 桃花 下照道尓 出立▼嬬

     (大伴家持 巻十九  四一三九)

     ※▼は、「女」+「感」、「『女』+『感』+嬬」=「をとめ」

 

≪書き下し≫春の園(その)紅(くれなゐ)にほふ桃の花下照(したで)る道に出で立つ娘子(をとめ)

 

(訳)春の園、園一面に紅く照り映えている桃の花、この花の樹の下まで照り輝く道に、つと出で立つ娘子(おとめ)よ。(伊藤 博 著 「万葉集 四」 角川ソフィア文庫より)

 

四一三九、四一四〇歌の題詞は、「天平勝寳二年三月一日之暮眺曯春苑桃李花作二首」<天平(てんぴやう)勝宝(しようほう)二年の三月の一日の暮(ゆうへ)に、春苑(しゆんゑん)の桃李(たうり)の花を眺曯(なが)めて作る歌二首>である。     

 

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この歌ならびに歌碑については、拙稿ブログ「万葉歌碑を訪ねて(その1781)」で紹介している。

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高松市朝日町 NEXCO西日本四国支所玄関前植込み万葉歌碑(巻二 二二〇)■

高松市朝日町 NEXCO西日本四国支所玄関前植込み万葉歌碑(柿本人麻呂

●歌をみていこう。

 

 この歌は、題詞「讃岐狭岑嶋視石中死人柿本朝臣人麿作歌一首并短歌」<讃岐(さぬき)の狭岑(さみねの)島にして、石中(せきちゅう)の死人(しにん)を見て、柿本朝臣人麻呂が作る歌一首并(あは)せて短歌>の長歌(二二〇歌)である。

(注)狭岑(さみねの)島:香川県塩飽諸島中の沙弥島。今は陸続きになっている。

(注)石中の死人:海岸の岩の間に横たわる死人。

 

◆玉藻吉 讃岐國者 國柄加 雖見不飽 神柄加 幾許貴寸 天地 日月與共 満将行・・・

       (柿本人麻呂 巻二 二二〇)

 

≪書き下し≫玉藻(たまも)よし 讃岐(さぬき)の国は 国からか 見れども飽かぬ 神(かむ)からか ここだ貴(たふと)き 天地(あめつち) 日月(ひつき)とともに 足(た)り行(ゆ)かむ・・・

 

(訳)玉藻のうち靡(なび)く讃岐の国は、国柄が立派なせいかいくら見ても見飽きることがない。国つ神が畏(かしこ)いせいかまことに尊い。天地・日月とともに充ち足りてゆくであろう・・・(伊藤 博 著 「万葉集 一」 角川ソフィア文庫より)

(注)たまもよし【玉藻よし】分類枕詞:美しい海藻の産地であることから地名「讚岐(さぬき)」にかかる。(学研)

 

 

この歌ならびに歌碑については、拙稿ブログ「万葉歌碑を訪ねて(その1780)」で紹介している。

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高松市香南町 冠纓神社万葉歌碑(巻十五 三六六八)■

高松市香南町 冠纓神社万葉歌碑(阿倍継麻呂)

●歌をみていこう。

 

題詞は、「到筑前國志麻郡之韓亭舶泊經三日於時夜月之光皎々流照奄對此華旅情悽噎各陳心緒聊以裁歌六首」<筑前(つくしのみちのくち)の国の志麻(しま)の郡(こおり)の韓亭(からとまり)に到り、舶泊(ふなどま)りして三日を経ぬ。時に夜月(やげつ)の光、皎々流照(けうけうりうせう)す。奄(ひさ)しくこの華(くわ)に対し、旅情悽噎(せいいつ)す。おのもおのも心緒(しんしよ)を陳(の)べ、いささかに裁(つく)る歌六首>である。

(注)【筑前国】ちくぜんのくに:旧国名。筑州。現在の福岡県北西部。古くは筑紫(つくし)国と呼ばれたものが,7世紀末の律令制成立とともに筑前筑後の2国に分割された。当初は筑紫前(つくしのみちのくち)国と呼ばれた。(コトバンク 株式会社平凡社世界大百科事典 第2版より)

(注)韓亭:福岡市西区宮浦付近。「亭」は船の停泊する所、またはそこの宿舎。(伊藤脚注)

(注)けうけう【皎皎】形動: 白々と光り輝くさま。光を反照させるさま。こうこう。(コトバンク 精選版 日本国語大辞典

(注)奄しくこの華に対し:「奄しく」は、静かにじっと、「華」は、月光。(伊藤脚注)

(注)悽噎:悲しみで一杯。(伊藤脚注)

 

◆於保伎美能 等保能美可度登 於毛敝礼杼 氣奈我久之安礼婆 古非尓家流可母

        (阿倍継麻呂 巻十五 三六六八)

 

≪書き下し≫大君(おほきみ)の遠(とほ)の朝廷(みかど)と思へれど日(け)長くしあれば恋ひにけるかも

 

(訳)大君の遠の官人(つかさびと)であるがゆえに、遣新羅使(けんしらきし)としての本来のありようを保たなければと考える。だが、旅のある日があまりにも久しいので、その気持ちを貫くこともかなわずに、つい都が恋しくなってしまうのだ。(「万葉集 三」 伊藤 博 著 角川ソフィア文庫より)

 

左注は、「右一首大使」<右の一首は大使>である。

 

 この歌ならびに歌碑については、拙稿ブログ「万葉歌碑を訪ねて(その1779)」で紹介している。

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坂出市

坂出市高屋町 白峰展望台万葉歌碑(巻一 五、六)■

坂出市高屋町 白峰展望台万葉歌碑(軍王)

●歌をみていこう。

 

 題詞は、「幸讃岐國安益郡之時軍王見山作歌」<讃岐(さぬき)の国の安益(あや)の郡(こほり)に幸(いでます)時に、軍王(こにきしのおほきみ)が山を見て作る歌>である。

(注)軍王 いくさのおおきみ:飛鳥(あすか)時代の歌人。舒明(じょめい)天皇にしたがい、讃岐(さぬき)でよんだ歌を「万葉集」にのこす。斉明天皇七年(661年)百済(くだら)(朝鮮)に帰国した百済の王子余豊璋(よ-ほうしょう)とする説、文武天皇のころの人物とする説などがある。「こにきしのおおきみ」ともよむ。(コトバンク 講談社デジタル版 日本人名大辞典+Plus)

(注)安益(あや)の郡:香川県綾歌群東部。(伊藤脚注)

(注)山を見て作る歌:山を見て望郷の念を述べる歌。(伊藤脚注)

 

◆霞立 長春日乃 晩家流 和豆肝之良受 村肝乃 心乎痛見 奴要子鳥 卜歎居者 珠手次 懸乃宜久 遠神 吾大王乃 行幸能 山越風乃 獨座 吾衣手尓 朝夕尓 還比奴礼婆 大夫登 念有我母 草枕 客尓之有者 思遣 鶴寸乎白土 網能浦之 海處女等之 焼塩乃 念曽所焼 吾下情

    (軍王 巻一 五)

 

≪書き下し≫霞立つ 長き春日(はるひ)の 暮れにける わづきも知らず むらきもの 心を痛み ぬえこ鳥(どり) うら泣け居(を)れば 玉たすき 懸(か)けのよろしく 遠(とほ)つ神(かみ) 我(わ)が大君の 行幸(いでまし)の 山越(やまこ)す風の ひとり居(を)る 我(わ)が衣手(ころもで)に 朝夕(あさよひ)に 返らひぬれば ますらをと 思へる我(わ)れも 草枕 旅にしあれば 思ひ遣(や)る たづきを知らに 網(あみ)の浦の 海人娘子(あまをとめ)らが 焼(や)く塩の 思ひぞ焼くる 我(あ)が下心(したごころ)

 

(訳)霞(かすみ)立ちこめる、長い春の日がいつ暮れたのかわけもわからぬほど、この胸のうちが痛むので、ぬえこ鳥のように忍び泣きをしていると、玉襷(たまたすき)を懸(か)けるというではないが、心に懸けて想うのに具合よろしく、遠い昔の天つ神そのままにわれらが大君のお出(で)ましの地の山向こうの故郷の方から神の運んでくる風が、家を離れてたったひとりでいる私の衣の袖(そで)に、朝な夕な、帰れ帰れと吹き返るものだから、立派な男子だと思っている私としてからが、草を枕の遠い旅空にあることとて、思いを晴らすすべも知らず、網(あみ)の浦(うら)の海人娘子(あまおとめ)たちが焼く塩のように、故郷への思いにただ焼(や)け焦(こ)がれている。ああ、切ないこの我が胸のうちよ。(「万葉集 一」 伊藤 博 著 角川ソフィア文庫より)

(注)かすみたつ【霞立つ】分類枕詞:「かす」という同音の繰り返しから、地名の「春日(かすが)」にかかる。「かすみたつ春日の里」(学研)

(注)わづき:区別。孤語で、他に例がない。(伊藤脚注)

(注)むらきもの【群肝の】分類枕詞:「心」にかかる。心は内臓に宿るとされたことからか。「むらぎもの」とも。(学研)

(注)ぬえこどり【鵼小鳥】分類枕詞:悲しげな鳴き声から「うらなく(=忍び泣く)」にかかる。(学研)

(注の注)ぬえ【鵼・鵺】名詞:鳥の名。とらつぐみ。夜、ヒョーヒョーと鳴く。鳴き声は、哀調があるとも、気味が悪いともされる。「ぬえことり」「ぬえどり」とも。(学研)

(注)たまだすき【玉襷】名詞:たすきの美称。たすきは、神事にも用いた。 ※「たま」は接頭語。(学研)

(注の注)たまだすき【玉襷】分類枕詞:たすきは掛けるものであることから「掛く」に、また、「頸(うな)ぐ(=首に掛ける)」ものであることから、「うなぐ」に似た音を含む地名「畝火(うねび)」にかかる。(学研)

(注)かけ【掛け・懸け】名詞:心や口の端にかけること。口に出して言うこと。(学研)

(注)たづき【方便】名詞:①手段。手がかり。方法。②ようす。状態。見当。 ⇒参考 古くは「たどき」ともいった。中世には「たつき」と清音にもなった。(学研)ここでは①の意

 

 次に反歌をみてみよう。

 

◆山越乃 風乎時自見 寐夜不落 家在妹乎 懸而小竹櫃

(巻一 六 軍王)

 

≪書き下し≫山越(やまこ)しの風を時じみ寝(ぬ)る夜(よ)おちず家なる妹(いも)を懸(か)けて偲ひつ

 

(訳)山越しの風が絶えず袖をひるがえすので、寝る夜は一夜(ひとよ)もおかず、家に待つ妻、あのいとしい妻を、私は吹きかえる風に事寄せては偲んでいる。(同上)

(注)ときじ【時じ】形容詞:①時節外れだ。その時ではない。②時節にかかわりない。常にある。絶え間ない。(学研) ⇒参考:上代語。「じ」は形容詞を作る接尾語で、打消の意味を持つ。

(注)おちず【落ちず】分類連語:欠かさず。残らず。(学研) ⇒なりたち:動詞「おつ」の未然形+打消の助動詞「ず」の連用形(学研)

 

 左注は、「右檢日本書紀 無幸於讃岐國 亦軍王未詳也 但山上憶良大夫類聚歌林曰 記曰 天皇十一年己亥冬十二月己巳朔壬午幸于伊与温湯宮 云々 一書 是時 宮前在二樹木 此之二樹斑鳩比米二鳥大集 時勅多挂稲穂而養之 乃作歌 云々 若疑従此便幸之歟」<右は、檢日本書紀に検(ただ)すに、讃岐の国に幸(いでま)すことなし。 また、軍王(こにきしのおほきみ)もいまだ詳(つばひ)らかにあらず。ただし、山上憶良大夫(やまのうへのおくらのまへつきみ)が類聚歌林(るいじうかりん)に曰(い)はく、「紀には『天皇の十一年己亥(つちのとゐ)の冬の十二月己巳(つちのとみ)の朔(つきたち)の壬午(みづのえうま)に、伊与(いよ)の温湯(ゆ)の宮(みや)に幸(いでま)す云々(しかしか)』といふ。 一書には『この時に宮の前に二つの樹木あり。この二つの樹(き)に斑鳩(いかるが)と比米(ひめ)との二つの鳥いたく集(すだ)く。時に勅(みことのり)して多(さは)に稲穂(いなほ)を掛けてこれを養(か)はしめたまふ。すなはち作る歌云々』といふ」と。けだし、ここよりすなはち幸(いでま)すか>である。

(注)この左注は、天平十七年(745年)の段階で大伴家持たちが付したものらしい。(伊藤脚注)

(注)壬午(みづのえうま):干支で日を数えたもの。十四日。(伊藤脚注)

(注)いかるが【斑鳩】名詞:鳥の名。もずに似た渡り鳥。まめまわし。「いかる」とも(学研)

(注の注)斑鳩:「比米」と共にスズメ科の小鳥。(伊藤脚注)

 

 

 

 



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感想(1件)

 

 巻一 五歌の歌碑は、坂出市高屋町 塩釜神社にもある。

坂出市高屋町 塩釜神社万葉歌碑(軍王)

 

 

 白峰展望台万葉歌碑の歌ならびに歌碑については、拙稿ブログ「万葉歌碑を訪ねて(その1778)」で、塩釜神社の歌と歌碑については、同「同その1777)」で紹介している。

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坂出市沙弥島 ナカンダ浜万葉歌碑(巻二 二二〇~二二二)■

坂出市沙弥島 ナカンダ浜万葉歌碑(柿本人麻呂

●歌をみていこう。

 

 この歌は、題詞、「讃岐狭岑嶋視石中死人柿本朝臣人麿作歌一首并短歌」<讃岐(さぬき)の狭岑(さみねの)島にして、石中(せきちゅう)の死人(しにん)を見て、柿本朝臣人麻呂が作る歌一首并(あは)せて短歌>の長歌(二二〇歌)と反歌二首(二二一、二二二歌)の歌群である。

(注)狭岑(さみねの)島:香川県塩飽諸島中の沙美弥島。今は陸続きになっている。

(注)石中の死人:海岸の岩の間に横たわる死人。

 

◆玉藻吉 讃岐國者 國柄加 雖見不飽 神柄加 幾許貴寸 天地 日月與共 満将行 神乃御面跡 次来 中乃水門従 船浮而 吾榜来者 時風 雲居尓吹尓 奥見者 跡位浪立 邊見者 白浪散動 鯨魚取 海乎恐 行船乃 梶引折而 彼此之 嶋者雖多 名細之 狭岑之嶋乃 荒磯面尓 廬作而見者 浪音乃 茂濱邊乎 敷妙乃 枕尓為而 荒床 自伏君之 家知者 往而毛将告 妻知者 来毛問益乎 玉桙之 道太尓不知 鬱悒久 待加戀良武 愛伎妻等者

       (柿本人麻呂 巻二 二二〇)

 

≪書き下し≫玉藻(たまも)よし 讃岐(さぬき)の国は 国からか 見れども飽かぬ 神(かむ)からか ここだ貴(たふと)き 天地(あめつち) 日月(ひつき)とともに 足(た)り行(ゆ)かむ 神の御面(みおも)と 継ぎ来(きた)る 那珂(なか)の港ゆ 船浮(う)けて 我(わ)が漕(こ)ぎ来(く)れば 時つ風 雲居(くもゐ)に吹くに 沖見れば とゐ波立ち 辺(へ)見れば 白波騒く 鯨魚(いさな)取り 海を畏(かしこ)み 行く船の 梶引き折(を)りて をちこちの 島は多(おほ)けど 名ぐはし 狭岑(さみね)の島の 荒磯(ありそ)面(も)に 廬(いほ)りて見れば 波の音(おと)の 繁(しげ)き浜辺を 敷栲(しきたへ)の 枕になして 荒床(あらとこ)に ころ臥(ふ)す君が 家(いへ)知らば 行きても告(つ)げむ 妻知らば 来(き)も問はましを 玉桙(たまほこ)の 道だに知らず おほほしく 待ちか恋ふらむ はしき妻らは

 

(訳)玉藻のうち靡(なび)く讃岐の国は、国柄が立派なせいかいくら見ても見飽きることがない。国つ神が畏(かしこ)いせいかまことに尊い。天地・日月とともに充ち足りてゆくであろうその神の御顔(みかお)であるとして、遠い時代から承(う)け継いで来たこの那珂(なか)の港から船を浮かべて我らが漕ぎ渡って来ると、突風が雲居はるかに吹きはじめたので、沖の方を見るとうねり波が立ち、岸の方を見ると白波がざわまいている。この海の恐ろしさに行く船の楫(かじ)が折れるなかりに漕いで、島はあちこちとたくさんあるけれども、中でもとくに名の霊妙な狭岑(さみね)の島に漕ぎつけて、その荒磯の上に仮小屋を作って見やると、波の音のとどろく浜辺なのにそんなところを枕にして、人気のない岩床にただ一人臥(ふ)している人がいる。この人の家がわかれば行って報(しら)せもしよう。妻が知ったら来て言問(ことど)いもしように。しかし、ここに来る道もわからず心晴れやらぬままぼんやりと待ち焦がれていることだろう、いとしい妻は。(伊藤 博 著 「万葉集 一」 角川ソフィア文庫より)

(注)たまもよし【玉藻よし】分類枕詞:美しい海藻の産地であることから地名「讚岐(さぬき)」にかかる。(学研)

(注)那珂(なか)の港:丸亀市金倉川の河口付近。(伊藤脚注)

(注の注)金倉川:中津万象園・丸亀美術館の東側を流れる川である。

(注)ときつかぜ【時つ風】名詞:①潮が満ちて来るときなど、定まったときに吹く風。②その季節や時季にふさわしい風。順風。 ※「つ」は「の」の意の上代の格助詞(学研)

(注)とゐなみ【とゐ波】名詞:うねり立つ波。(学研)

(注)なぐはし【名細し・名美し】形容詞:名が美しい。よい名である。名高い。「なくはし」とも。 ※「くはし」は、繊細で美しい、すぐれているの意。上代語。(学研)

(注)狭岑(さみね)の島:今の沙弥島(しゃみじま)(香川県HP)

(注)ころふす【自伏す】:ひとりで横たわる。(weblio辞書 三省堂大辞林第三版)

(注)たまほこの【玉桙の・玉鉾の】分類枕詞:「道」「里」にかかる。かかる理由未詳。「たまぼこの」とも。(学研)

(注)おほほし 形容詞:①ぼんやりしている。おぼろげだ。②心が晴れない。うっとうしい。③聡明(そうめい)でない。※「おぼほし」「おぼぼし」とも。上代語。(学研)

 

 

◆妻毛有者 採而多宜麻之 作美乃山 野上乃宇波疑 過去計良受也

        (柿本人麻呂 巻二 二二一)

 

≪書き下し≫妻もあらば摘みて食(た)げまし沙弥(さみ)の山野(の)の上(うへ)のうはぎ過ぎにけらずや

 

(訳)せめて妻でもここにいたら、一緒に摘んで食べることもできたろうに、狭岑のやまの野辺一帯の嫁菜(よめな)はもう盛りが過ぎてしまっているではないか。(同上)

 

「うはぎ」は、古名はオハギ(『出雲風土記(いずもふどき)』)あるいはウハギで、『万葉集』にはウハギの名で二首が収録されている。春の摘み草の対象とされ、「春日野(かすがの)に煙(けぶり)立つ見ゆ娘子(おとめ)らし春野のうはぎ摘(つ)みて煮らしも」(巻十 一八七九)と詠まれているように、よく食べられていたとみられる。(コトバンク 日本大百科全書<文化史>)

 

◆奥波 来依荒磯乎 色妙乃 枕等巻而 奈世流君香聞

       (柿本人麻呂 巻二 二二二)

 

≪書き下し≫沖つ波来(き)寄(よ)る荒磯(ありそ)を敷栲(しきたへ)の枕とまきて寝る(な)せる君かも

 

(訳)沖つ波のしきりに寄せ来る荒磯なのに、そんな磯を枕にしてただ一人で寝ておられるこの夫(せ)の君はまあ。」(同上)

(注)なす【寝す】動詞:おやすみになる。▽「寝(ぬ)」の尊敬語。※動詞「寝(ぬ)」に尊敬の助動詞「す」が付いたものの変化した語。上代語。(学研)

 

 

 この歌ならびに歌碑については、拙稿ブログ「万葉歌碑を訪ねて(その1726)」で紹介している。

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 ナカンダ浜の人麻呂の歌碑から海岸に沿って万葉樹木園の歌碑(プレート)が集められている。

人麻呂歌碑と万葉樹木園の歌碑(プレート)群

 

「万葉樹木園の記」碑と歌碑(プレート)

 

 

 ナカンダ浜の人麻呂の歌碑から海岸線を歩いていくとオソゴエ浜に「柿本人麿碑」がある。

坂出市沙弥島オソゴエ浜「柿本人麿碑」

 「柿本人麿碑」については、拙稿ブログ「万葉歌碑を訪ねて(その1776)」で紹介している。

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(参考文献)

★「萬葉集」 鶴 久・森山 隆 編 (桜楓社)

★「万葉集 一」 伊藤 博 著 (角川ソフィア文庫

★「万葉集 三」 伊藤 博 著 (角川ソフィア文庫

★「万葉集 四」 伊藤 博 著 (角川ソフィア文庫

★「万葉の旅 下 山陽・四国・九州・山陰・北陸」 犬養 孝 著 (平凡社ライブラリー

★「weblio古語辞典 学研全訳古語辞典」

★「weblio辞書 三省堂大辞林第三版」

★「コトバンク 日本大百科全書<文化史>」

★「コトバンク 株式会社平凡社世界大百科事典 第2版」

★「コトバンク 精選版 日本国語大辞典