万葉集の歌碑めぐり

万葉歌碑をめぐり、歌の背景等を可能な限り時間的空間的に探索し、万葉集の万葉集たる所以に迫っていきたい!

万葉歌碑を訪ねて(その2174)―島根県(1)松江市・大田市・邑智郡―

松江市

島根県松江市東出雲町 阿太加夜神社万葉歌碑(巻三 三七一)■

島根県松江市東出雲町 阿太加夜神社万葉歌碑(門部王) 20221108撮影

●歌をみていこう。

 

 題詞は、「出雲守門部王思京歌一首 後賜大原真人氏也」<出雲守(いづものかみ)門部王(かどへのおほきみ)、京を思(しの)ふ歌一首 後に大原真人の氏を賜はる>である。

 

◆飫海乃 河原之乳鳥 汝鳴者 吾佐保河乃 所念國

    (門部王 巻三 三七一)

 

≪書き下し≫意宇(おう)の海の川原(かはら)の千鳥汝(な)が鳴けば我(わ)が佐保川の思ほゆらくに)

 

(訳)意宇(おう)の海まで続く川原の千鳥よ、お前が鳴くと、わが故郷の佐保川がしきりに思いだされる。(「万葉集 一」 伊藤 博 著 角川ソフィア文庫より) 

(注)おう【意宇・淤宇・飫宇】:出雲国北東端の古地方名。現在の島根県松江・安来の両市、能義・八束の両郡にあたる。(広辞苑無料検索 日本国語大辞典

(注)意宇(おう)の海:ここは島根県の中海。(伊藤脚注)

(注)おもほゆ【思ほゆ】自動詞:(自然に)思われる。 ※動詞「思ふ」+上代の自発の助動詞「ゆ」からなる「思はゆ」が変化した語。「おぼゆ」の前身。(weblio古語辞典 学研全訳古語辞典)

(注の注)思ほゆらくに:「思ほゆ」のク活用。

(注の注の注)【ク活用】:文語形容詞の活用形式の一。語尾が「く・く・し・き・けれ・○」と変化するもの。これに補助活用のカリ活用を加えて、「く(から)・く(かり)・し・き(かる)・けれ・かれ」とすることもある。「よし」「高し」など。連用形の語尾「く」をとって名づけたもの。情意的な意を持つものの多いシク活用に対し、客観的、状態的な意味を表すものが多い。(weblio辞書 デジタル大辞泉

 

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感想(1件)

 この歌ならびに歌碑については、拙稿ブログ「万葉歌碑を訪ねて(その1962)」で紹介している。

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阿太加夜神社境内の面足山万葉公園には次のような歌碑(プレート)が立てられていた。



島根県松江市東出雲町 面足山万葉公園万葉歌碑<プレート>(巻三 三七一、巻四 五三六)■

島根県松江市東出雲町 面足山万葉公園万葉歌碑<プレート>(門部王)
 20221108撮影

●歌をみていこう。

 

プレート右の巻三 三七一歌は、上述の歌碑と同じであるので省略させていただきます。

 

 プレート左の歌をみてみよう。」

 

題詞は、「門部王戀歌一首」<門部王が恋の歌一首>である。

 

◆飫宇能海之 塩干乃鹵之 片念尓 思哉将去 道之永手呼

      (門部王 巻四 五三六)

 

≪書き下し≫意宇(おう)の海の潮干の潟(かた)の片思(かたもひ)に思ひや行かむ道の長手(ながて)を

 

(訳)意宇の海の潮干の干潟ではないが、片思いにあの子のことを思いつめながら辿(たど)ることになるのか。長い長いこの道のりを。(同上)

(注)上二句は序。同音で「片思」を起こす。(伊藤脚注)

(注)ながて【長手】名詞:「ながぢ」に同じ。(学研)

(注の注)ながぢ【長道】名詞:長い道のり。遠路。長手(ながて)。「ながち」とも。(学研)

 

 左注は、「右門部王任出雲守時娶部内娘子也 未有幾時 既絶徃来 累月之後更起愛心 仍作此歌贈致娘子」<右は、門部王(かどへのおほきみ)、任出雲守(いづものかみ)に任(ま)けらゆ時に、部内の娘子(をとめ)娶(めと)る。いまだ幾時(いくだ)もあらねば、すでに徃来を絶つ。月を累(かさ)ねて後に、さらに愛(うつく)しぶ心を起こす。よりて、この歌を作りて娘子に贈り致す。>である。

(注)幾時(いくだ)もあらねば:どれほどの時間もたたないのに。(伊藤脚注)

 

 この歌ならびに歌碑については、拙稿ブログ「万葉歌碑を訪ねて(その1965)」で紹介している。

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太田市

島根県大田市静間町 静之窟説明案内板(巻三 三五五)■

島根県大田市静間町 静之窟説明案内板(生石村主真人) 20211013撮影

●歌をみていこう。

 

◆大汝 小彦名乃 将座 志都乃石室者 幾代将經

      (生石村主真人 巻三 三五五)

 

≪書き下し≫大汝(おおなむち)少彦名(すくなびこな)のいましけむ志都(しつ)の石室(いはや)は幾代(いくよ)経(へ)ぬらむ

 

(訳)大国主命(おおくにぬしのみこと)や少彦名命が住んでおいでになったという志都の岩屋は、いったいどのくらいの年代を経ているのであろうか。(「万葉集 一」 伊藤 博 著 角川ソフィア文庫より)

(注)おおあなむちのみこと【大己貴命】:「日本書紀」が設定した国の神の首魁(しゅかい)。「古事記」では大国主神(おおくにぬしのかみ)の一名とされる。「出雲風土記」には国土創造神として見え、また「播磨風土記」、伊予・尾張・伊豆・土佐各国風土記逸文、また「万葉集」などに散見する。後世、「大国」が「大黒」に通じるところから、俗に、大黒天(だいこくてん)の異称ともされた。大穴牟遅神(おおあなむぢのかみ)。大汝神(おほなむぢのかみ)。大穴持命(おほあなもちのみこと)。(コトバンク 精選版 日本国語大辞典

(注)少彦名命 すくなひこなのみこと:記・紀にみえる神。「日本書紀」では高皇産霊尊(たかみむすびのみこと)の子、「古事記」では神産巣日神(かみむすびのかみ)の子。常世(とこよ)の国からおとずれるちいさな神。大国主神(おおくにぬしのかみ)と協力して国作りをしたという。「風土記」や「万葉集」にもみえる。穀霊,酒造りの神,医薬の神,温泉の神として信仰された。「古事記」では少名毘古那神(すくなびこなのかみ)。(コトバンク 講談社デジタル版 日本人名大辞典+Plus)

(注)志都の石室:島根県大田市静間町の海岸の岩窟かという。(伊藤脚注)

(注の注)静之窟(しずのいわや):「静間川河口の西、静間町魚津海岸にある洞窟です。波浪の浸食作用によってできた大きな海食洞で、奥行45m、高さ13m、海岸に面した二つの入口をもっています。『万葉集』の巻三に『大なむち、少彦名のいましけむ、志都(しず)の岩室(いわや)は幾代経ぬらむ』(生石村主真人:おおしのすぐりまひと)と歌われ、大巳貴命(おおなむちのみこと)、少彦名命(すくなひこなのみこと)2神が、国土経営の際に仮宮とされた志都の石室はこの洞窟といわれています。洞窟の奥には、大正4年(1915)に建てられた万葉歌碑があります。現在崩落により、立入禁止となっています。」(しまね観光ナビHP)

 

 この歌ならびに歌碑については、拙稿ブログ「万葉歌碑を訪ねて(その1342)」で紹介している。

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島根県大田市三瓶町 浮布池万葉歌碑(巻七 一二四九)■

島根県大田市三瓶町 浮布池万葉歌碑(柿本人麻呂歌集)

●歌をみていこう。

 

◆君為 浮沼池 菱採 我染袖 沾在哉

 (柿本人麻呂歌集 巻七 一二四九)

 

≪書き下し≫君がため浮沼(うきぬ)の池の菱(ひし)摘むと我(わ)が染(そ)めし袖濡れにけるか

 

(訳)あの方に差し上げるために、浮沼の池の菱の実を摘もうとして、私が染めて作った着物の袖がすっかり濡れてしまいました。(伊藤 博 著 「万葉集 二」 角川ソフィア文庫より)

(注)浮沼(うきぬ)の池;所在未詳(伊藤脚注)

 

 

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 この歌ならびに歌碑については、拙稿ブログ「万葉歌碑を訪ねて(その1341)」で紹介している。

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島根県邑智郡>

島根県邑智郡美郷町 湯抱温泉温泉橋袂「柿本人麻呂終焉之地碑」(巻二 二二三)■

島根県邑智郡美郷町 湯抱温泉温泉橋袂 柿本人麻呂終焉之地碑(柿本人麻呂

●歌をみていこう。

 

◆鴨山之 磐根之巻有 吾乎鴨 不知等妹之 待乍将有

       (柿本人麻呂 巻二 二二三)

 

≪書き下し≫鴨山(かもやま)の岩根(いはね)しまける我(わ)れをかも知らにと妹(いも)が待ちつつあるらむ

 

(訳)鴨山の山峡(やまかい)の岩にして行き倒れている私なのに、何も知らずに妻は私の帰りを今日か今日かと待ち焦がれていることであろうか。(「万葉集 一」 伊藤 博 著 角川ソフィア文庫より)

(注)鴨山:石見の山の名。所在未詳。(伊藤脚注)

(注)いはね【岩根】名詞:大きな岩。「いはがね」とも。(学研)

(注)まく【枕く】他動詞:①枕(まくら)とする。枕にして寝る。②共寝する。結婚する。※②は「婚く」とも書く。のちに「まぐ」とも。上代語。(学研)ここでは①の意

((注)しらに【知らに】分類連語:知らないで。知らないので。 ※「に」は打消の助動詞「ず」の古い連用形。上代語。(学研)

 

 この歌ならびに歌碑については、拙稿ブログ「万葉歌碑を訪ねて(その1340)」で紹介している。

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ここ湯抱温泉の地は、斎藤茂吉柿本人麻呂終焉の地と断定したのである。

 

 江津駅から約1時間のドライブである。途中の石見銀山道路(国道375号線)は、結構山道であるが道は整備されている。

湯抱温泉700m」の標識のところからさらに山奥に入っていく。途中の斎藤茂吉鴨山記念館を左手に見ながら山道を上って行く。

 

終焉の地に関する有識者の考えは考えとして、単純に思うのは、この歌がどのようにして妻依羅娘子に伝わったかという疑問である。ある意味「死に臨む時に、自ら傷みて作る歌」が「鴨山の岩根」を枕にして人麻呂が詠ったとしても、誰にどのようにして伝えられ、それが妻の元に届いたのかである。この地は、今でさえ通りすがりの人と出会わない。万葉時代の出会う確率を考えるとほとんどゼロに近いのではと思う。お供がいたとは考えにくいなどと考えてみる。通りすがりか、何らかの理由で傍にいた人が伝えたとして、「口誦の時代」である。人麻呂が今でいうメモのような物に書き残していたとして、それを読むことができ且つ人麻呂と認識できる人と出会うのは、とうてい考えられない。

 現地と言われる所に行ってみないとこのような疑問は起こらないであろう。

 

 また題詞に「自(みずか)ら傷(いた)みて作る歌」とある。

梅原 猛氏は、その著「水底の歌 柿本人麿論 上」の中で、「ここで『自傷』という言葉がつかわれているが、この同じ言葉が詞書につかわれているのは、同じこの巻の挽歌の最初の歌のみである。」と書かれ、題詞「有間皇子、自(みづか)ら傷(いた)みて松が枝(え)を結ぶ歌二首」と一四一、一四二歌を挙げて柿本人麻呂の終焉の地に対する疑問を呈しておられる。

拙稿ブログ(その1340)」では、このことにもふれている。

 

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島根県邑智郡邑南町 志都岩屋神社万葉歌碑(巻三 三五五)■

島根県邑智郡邑南町 志都岩屋神社万葉歌碑(生石村主真人) 20221109撮影

●この歌は、前述の静之窟説明案内板の歌と同じなので省略させていただきます。

 

 この歌ならびに歌碑については、拙稿ブログ「万葉歌碑を訪ねて(その1979)」で紹介している。

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島根県西部公式観光サイト なつかしの国石見」に、「志都の岩屋(しづのいわや)」は、知る人ぞ知る隠れパワースポットと書かれ、さらに「本殿裏から弥山頂上にかけての巨岩や奇岩が迫るその景観は、自然の作り出した貴重な文化財として昭和54年に島根県指定の『天然記念物及び名勝』に指定を受けた。神殿の後ろにある『鏡岩』は御神体ともいわれ、別名『願かけ石』とも呼ばれ、岩表面の小さな穴に紙縒(こより)を通して結ぶと願いが叶うと言われている。神社の周りは秋の紅葉も見応えあり」と書かれている。

浜田市内から片道約2時間のドライブであるがお勧めしたいスポットである。

 

 

 

 

 

(参考文献)

★「萬葉集」 鶴 久・森山 隆 編 (桜楓社)

★「万葉集 一」 伊藤 博 著 (角川ソフィア文庫

★「万葉集 二」 伊藤 博 著 (角川ソフィア文庫

★「水底の歌 柿本人麿論 上」 梅原 猛 著 (新潮文庫

★「weblio古語辞典 学研全訳古語辞典」

★「weblio辞書 デジタル大辞泉

★「広辞苑無料検索 日本国語大辞典

★「島根県西部公式観光サイト なつかしの国石見」