万葉集の歌碑めぐり

万葉歌碑をめぐり、歌の背景等を可能な限り時間的空間的に探索し、万葉集の万葉集たる所以に迫っていきたい!

万葉歌碑を訪ねて(その2181)―鳥取県

 鳥取県といえば、因幡国守であった大伴家持伯耆国守であった山上憶良があげられる。

 家持は天平宝字二年(758年)に赴任、憶良は霊亀二年(716年)伯耆守、神亀三年(726年)筑前守となっている。

 家持の父大伴旅人は、大宰帥として着任後間もなく妻を亡くしたが、従来の都の歌ぶりにとらわれない漢倭混淆の報凶問歌(七九三歌)を作っている。これに対して憶良は、「日本挽歌」を旅人に贈っている。このやり取りが、筑紫歌壇のきっかけといわれている。大宰府には、家持も行っていたので、父旅人を通して、憶良との接点は有形無形にあったと思われる。

 その後、家持は、憶良に追和した歌(四一六四、四一六五歌)を作るなど、多大な影響を受けていたと考えられる。

 万葉集という歴史の舞台のなかで二人はそれぞれのドラマを演じていたのであった。

 

 

鳥取市国府町庁 史跡「万葉の歌碑」(巻二十 四五一六)■

鳥取市国府町庁 史跡「万葉の歌碑」(大伴家持) 20221108撮影

●歌をみていこう。

 

 題詞は、「三年春正月一日於因幡國廳賜饗國郡司等之宴歌一首」<三年の春の正月の一日に、因幡(いなば)の国(くに)の庁(ちやう)にして、饗(あへ)を国郡の司等(つかさらに)賜ふ宴の歌一首>である。

(注)三年:天平宝字三年(759年)。

(注)庁:鳥取県鳥取市にあった。(伊藤脚注)

(注)あへ【饗】名詞※「す」が付いて自動詞(サ行変格活用)になる:食事のもてなし。(weblio古語辞典 学研全訳古語辞典)

(注の注)あへ【饗】:国守は、元日に国司・郡司と朝拝し、その賀を受け饗を賜うのが習い。(伊藤脚注)

 

◆新 年乃始乃 波都波流能 家布敷流由伎能 伊夜之家餘其騰

       (大伴家持 巻二十 四五一六)

 

≪書き下し≫新(あらた)しき年の初めの初春(はつはる)の今日(けふ)降る雪のいやしけ吉事(よごと)

 

(訳)新しき年の初めの初春、先駆けての春の今日この日に降る雪の、いよいよ積もりに積もれ、佳(よ)き事よ。(「万葉集 四」 伊藤 博 著 角川ソフィア文庫より)

(注)上四句は実景の序。「いやしけ」を起す。正月の大雪は豊年の瑞兆とされた。(伊藤脚注)

(注)よごと【善事・吉事】名詞:よい事。めでたい事。(学研)

 

左注は、「右一首守大伴宿祢家持作之」<右の一首は、守(かみ)大伴宿禰家持作る>である。

伊藤 博氏は同歌の脚注で「将来への予祝をこめるこの一首をもって万葉集は終わる。天皇と娘子との成婚を通して御代の栄えを与祝する巻一の巻頭歌に応じて、万葉集が万代の後までもと伝わることを祈りながら、ここに据えられたらしい。」と、さらに、「この時、家持、従五位上、四二歳。以後、数奇な人生をたどって、延暦四年(785年)八月二十八日に、中納言従三位、六八歳をもって他界。その間、いくつか歌詠をなしたらしい。だが、万葉集最終編者と見られる家持は、万代予祝の右の一首をもって、万葉集を閉じた。」と書かれている。

 

新版 万葉集 四 現代語訳付き (角川ソフィア文庫) [ 伊藤 博 ]

価格:1,068円
(2023/6/2 21:12時点)
感想(1件)

この歌ならびに歌碑については、拙稿ブログ「万葉歌碑を訪ねて(その1953)」で紹介している

 ➡ 

tom101010.hatenablog.com

 

 

 

鳥取市国府町庁 史跡「万葉の歌碑」の歌碑(巻十 一九四四)■

鳥取市国府町庁 史跡「万葉の歌碑」の歌碑(作者未詳) 20221108撮影

●歌をみていこう。

 

◆藤浪之 散巻惜 霍公鳥 今城岳▼ 鳴而越奈利

   ▼「口(くちへん)+リ」である。「今城岳▼」=今城の岡を

       (作者未詳 巻十 一九四四)

 

≪書き下し≫藤波の散らまく惜しみほととぎす今城の岡を鳴きて越ゆなり

 

(訳)藤の花の散るのを惜しんで、時鳥が今城の岡の上を鳴きながら越えている。(伊藤 博 著 「万葉集 二」 角川ソフィア文庫より)

(注)ふぢなみ【藤波・藤浪】名詞:藤の花房の風に揺れるさまを波に見立てていう語。転じて、藤および藤の花。(学研)

(注 参考)ふぢなみの【藤波の・藤浪の】( 枕詞 )① 藤のつるが物にからまりつくことから「(思ひ)まつはる」にかかる。 ② 「ただ一目」にかかる。かかり方未詳。枕詞とはしない説もある。③ 波の縁語で、「たつ」にかかる。(weblio辞書 三省堂 大辞林 第三版)

(注)今城の岡:所在未詳。「今来」を匂わすか。(伊藤脚注)

 

新版 万葉集 二 現代語訳付き (角川ソフィア文庫) [ 伊藤 博 ]

価格:1,100円
(2023/6/2 21:13時点)
感想(0件)

 この歌ならびに歌碑については、拙稿ブログ「万葉歌碑を訪ねて(その1954)」で紹介している。

 ➡ 

tom101010.hatenablog.com

 

 

 

鳥取市国府町町屋 水辺の楽校万葉歌碑(巻二十 四五一六)■

鳥取市国府町町屋 水辺の楽校万葉歌碑(大伴家持) 20221108撮影

●この歌は、上述の「鳥取市国府町庁 史跡『万葉の歌碑』(大伴家持)」と同じなので省略させていただきます。

 

 

鳥取市国府町町屋 水辺の楽校万葉歌碑(巻十 一九四四)■

鳥取市国府町町屋 水辺の楽校万葉歌碑(作者未詳) 20221108撮影

●この歌は、前述の「鳥取市国府町庁 史跡『万葉の歌碑』の歌碑(作者未詳)」と同じなので省略させていただきます。

 

 家持の歌ならびに歌碑については、拙稿ブログ「万葉歌碑を訪ねて(その1955)」で、作者未詳の歌ならびに歌碑については、同「同(その1956)」で紹介している。

 ➡ 

tom101010.hatenablog.com

 

 

 

 

鳥取市国府町町屋 因幡万葉歴史館万葉歌碑(巻二十 四五一六)■

鳥取市国府町町屋 因幡万葉歴史館万葉歌碑(大伴家持

●この歌は上述の家持の歌と同じなので省略させていただきます。

 

 この歌ならびに歌碑については、拙稿ブログ「万葉歌碑を訪ねて(その1957)」で紹介している。

 ➡ 

tom101010.hatenablog.com

 

 

 

鳥取県倉吉市南昭和町 深田公園万葉歌碑(巻五 八〇三)■

鳥取県倉吉市南昭和町 深田公園万葉歌碑(山上憶良

●歌をみていこう。

 

◆銀母 金母玉母 奈尓世武尓 麻佐礼留多可良 古尓斯迦米夜母

       (山上憶良 巻五 八〇三)

 

≪書き下し≫銀(しろがね)も金(くがね)も玉も何せむに)まされる宝子にしかめやも

 

(訳)銀も金も玉も、どうして、何よりすぐれた宝である子に及ぼうか。及びはしないのだ。(同上)

(注)なにせむに【何為むに】分類連語:どうして…か、いや、…ない。▽反語の意を表す。 ※なりたち代名詞「なに」+サ変動詞「す」の未然形+推量の助動詞「む」の連体形+格助詞「に」(学研)

 (注)しかめやも【如かめやも】分類連語:及ぼうか、いや、及びはしない。※なりたち動詞「しく」の未然形+推量の助動詞「む」の已然形+係助詞「や」+終助詞「も」(学研)

 

 この歌ならびに歌碑については、拙稿ブログ「万葉歌碑を訪ねて(その1958)」で紹介している。

 ➡ 

tom101010.hatenablog.com

 

 

 

鳥取県倉吉市国府 伯耆国分寺跡北側万葉歌碑(巻五 八〇二、八〇三)■

鳥取県倉吉市国府 伯耆国分寺跡北側万葉歌碑(山上憶良) 20221108撮影

●歌をみていこう。

 

◆宇利波米婆 胡藤母意母保由 久利波米婆 麻斯堤葱斯農波由 伊豆久欲利 枳多利斯物能曽 麻奈迦比尓 母等奈可利堤 夜周伊斯奈佐農

     (山上憶良 巻五 八〇二)

 

≪書き下し≫瓜食(うりはめ)めば 子ども思ほゆ 栗(くり)食めば まして偲(しの)はゆ いづくより 来(きた)りしものぞ まなかひに もとなかかりて 安寐(やすい)し寝(な)さぬ

 

(訳)瓜を食べると子どもが思われる。栗を食べるとそれにも増して偲(しの)ばれる。こんなにかわいい子どもというものは、いったい、どういう宿縁でどこ我が子として生まれて来たものなのであろうか。そのそいつが、やたら眼前にちらついて安眠をさせてくれない。(「万葉集 一」 伊藤 博 著 角川ソフィア文庫より)

(注)まなかひ【眼間・目交】名詞:目と目の間。目の辺り。目の前。 ※「ま」は目の意、「な」は「つ」の意の古い格助詞、「かひ」は交差するところの意。(学研)

(注)もとな 副詞:わけもなく。むやみに。しきりに。 ※上代語。(学研)

(注)やすい【安寝・安眠】名詞:安らかに眠ること。安眠(あんみん)。 ※「い」は眠りの意(学研)

 

 八〇三歌は上述の「深田公園万葉歌碑」に同じなので省略させていただきます。

 

新版 万葉集 一 現代語訳付き (角川ソフィア文庫) [ 伊藤 博 ]

価格:1,056円
(2023/6/2 21:10時点)
感想(1件)

  この歌ならびに歌碑については、拙稿ブログ「万葉歌碑を訪ねて(その1959)」で紹介している。

 ➡ 

tom101010.hatenablog.com

 

 

 

 



米子市彦名町新田 米子水鳥公園万葉歌碑(巻三 三五五)■

米子市彦名町新田 米子水鳥公園万葉歌碑(生石村主真人) 20221108撮影

●歌をみていこう。

 

◆大汝 小彦名乃 将座 志都乃石室者 幾代将經

      (生石村主真人 巻三 三五五)

 

≪書き下し≫大汝(おおなむち)少彦名(すくなびこな)のいましけむ志都(しつ)の石室(いはや)は幾代(いくよ)経(へ)ぬらむ

 

(訳)大国主命(おおくにぬしのみこと)や少彦名命が住んでおいでになったという志都の岩屋は、いったいどのくらいの年代を経ているのであろうか。(「万葉集 一」 伊藤 博 著 角川ソフィア文庫より)

(注)おおあなむちのみこと【大己貴命】:「日本書紀」が設定した国の神の首魁(しゅかい)。「古事記」では大国主神(おおくにぬしのかみ)の一名とされる。「出雲風土記」には国土創造神として見え、また「播磨風土記」、伊予・尾張・伊豆・土佐各国風土記逸文、また「万葉集」などに散見する。後世、「大国」が「大黒」に通じるところから、俗に、大黒天(だいこくてん)の異称ともされた。大穴牟遅神(おおあなむぢのかみ)。大汝神(おほなむぢのかみ)。大穴持命(おほあなもちのみこと)。(コトバンク 精選版 日本国語大辞典

(注)少彦名命 すくなひこなのみこと:記・紀にみえる神。「日本書紀」では高皇産霊尊(たかみむすびのみこと)の子、「古事記」では神産巣日神(かみむすびのかみ)の子。常世(とこよ)の国からおとずれるちいさな神。大国主神(おおくにぬしのかみ)と協力して国作りをしたという。「風土記」や「万葉集」にもみえる。穀霊,酒造りの神,医薬の神,温泉の神として信仰された。「古事記」では少名毘古那神(すくなびこなのかみ)。(コトバンク 講談社デジタル版 日本人名大辞典+Plus)

(注)志都の石室:島根県大田市静間町の海岸の岩窟かという。(伊藤脚注)

(注の注)静之窟(しずのいわや):「静間川河口の西、静間町魚津海岸にある洞窟です。波浪の浸食作用によってできた大きな海食洞で、奥行45m、高さ13m、海岸に面した二つの入口をもっています。『万葉集』の巻三に『大なむち、少彦名のいましけむ、志都(しず)の岩室(いわや)は幾代経ぬらむ』(生石村主真人:おおしのすぐりまひと)と歌われ、大巳貴命(おおなむちのみこと)、少彦名命(すくなひこなのみこと)2神が、国土経営の際に仮宮とされた志都の石室はこの洞窟といわれています。洞窟の奥には、大正4年(1915)に建てられた万葉歌碑があります。現在崩落により、立入禁止となっています。」(しまね観光ナビHP)

 

 この歌ならびに歌碑については、拙稿ブログ「万葉歌碑を訪ねて(その1960)」で紹介している。

 ➡ 

tom101010.hatenablog.com

 

 



米子市彦名町 粟嶋神社万葉歌碑(巻三 三五五)■

米子市彦名町 粟嶋神社万葉歌碑(生石村主真人) 20221108撮影

●歌は、上述の「米子水鳥公園万葉歌碑」と同じなので省略させていただきます。

 

 この歌ならびに歌碑については、拙稿ブログ「万葉歌碑を訪ねて(その1961)」で紹介している。

 ➡ 

tom101010.hatenablog.com

 

 




 

 

 

(参考文献)

★「萬葉集」2鶴 久・森山 隆 編 (桜楓社)

★「万葉集 一」 伊藤 博 著 (角川ソフィア文庫

★「万葉集 二」 伊藤 博 著 (角川ソフィア文庫

★「万葉集 四」 伊藤 博 著 (角川ソフィア文庫

★「weblio古語辞典 学研全訳古語辞典」

★「weblio辞書 三省堂 大辞林 第三版」

★「コトバンク 講談社デジタル版 日本人名大辞典+Plus」

★「コトバンク 精選版 日本国語大辞典

★「しまね観光ナビHP」