万葉集の歌碑めぐり

万葉歌碑をめぐり、歌の背景等を可能な限り時間的空間的に探索し、万葉集の万葉集たる所以に迫っていきたい!

万葉歌碑を訪ねて(その2187)―富山県(3)高岡市<1>―

高岡市1⃣>

高岡市伏木古国府 伏木気象資料館万葉歌碑(巻十九 四一五〇)■

高岡市伏木古国府 伏木気象資料館万葉歌碑(大伴家持)   

  

越中国守館址」の碑(この裏に歌が刻されている)

●歌をみていこう。

 

 題詞は、「遥聞泝江船人之唱歌一首」<遥(はる)かに、江(こう)を泝(さかのぼ)る舟人(ふなびと)の唱(うた)ふを聞く歌一首>である。

 

◆朝床尓 聞者遥之 射水河 朝己藝思都追 唱船人

        (大伴家持 巻十九 四一五〇)

 

<書き下し>朝床(あさとこ)に聞けば遥けし射水川(いみずかは)朝漕(こ)ぎしつつ唄(うた)ふ舟人

 

(訳)朝床の中で耳を澄ますと遠く遥かに聞こえて来る。射水川、この川を朝漕ぎして泝(さかのぼ)りながら唱(うた)う舟人の声が。(「万葉集 四」 伊藤 博 著 角川ソフィア文庫より)

(注)射水川:小矢部川の名前は、小矢部市の上流に小矢部という村があったことに由来し、(中略)射水川とは、庄川と合流していた小矢部川のことで、当時は今よりも水の量が多く、流れもゆったりしていたため、むかしから、舟の往来が盛んだったと考えられます。(国土交通省HP)

 

 

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感想(1件)

 この歌ならびに歌碑については、拙稿ブログ「万葉歌碑を訪ねて(その819)」で紹介している。

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tom101010.hatenablog.com

 

 

 

 高岡市は万葉歌碑のメッカである。事前の調べで見つけた「越中万葉おすすめコース(伏木万葉歌碑満腹コース)」(所要時間80分)に基づき、勝興寺(国庁跡)、高岡市万葉歴史館を中心に散策した。

駐車場を探したり、細い道に苦労することが多かったこれまでの経験を踏まえて、伏木駅前観光駐車場(無料)に車を留め歩きを選択したのであった。

しかし実際は、資料が略地図ベースで土地勘がない悲しさで無駄な歩きが結構あり、予想以上に時間をくってしまった。また、高岡市内は道路も比較的整備されており、また駐車場も充実していることから、車による移動の方が効率的だったように思った。

 

 駐車場から伏木気象資料館に行くときの胸の高まりは今でもよみがえってくる。

 

 上記の「越中万葉おすすめコース(伏木万葉歌碑満腹コース)」(所要時間80分)はリニューアルされているようである。下記URLを参照してください。

富山県/越中万葉歌碑まっぷ (pref.toyama.jp)

 

 

■勝興寺前寺内町ポケットパーク万葉歌碑(巻十九 四二五〇)■

勝興寺前寺内町ポケットパーク万葉歌碑(大伴家持

●歌をみていこう。

 

 題詞は、「便附大帳使取八月五日應入京師 因此以四日設國厨之饌於介内蔵伊美吉縄麻呂舘餞之 于時大伴宿祢家持作歌一首」<すなはち、大帳使(だいちやうし)に付き、八月の五日を取(と)りて京師(みやこ)に入らむとす。これによりて、四日をもちて、国厨(こくちゆう)の饌(そなへ)を介内蔵伊美吉縄麻呂(すけくらのいみきつなまろ)が館(たち)に設(ま)けて餞(せん)す。 時に大伴宿禰家持が作る歌一首>である。

(注)すなはち、大帳使に付き:その時に兼ねて大帳使に任ぜられて。

(注)大帳使:律令(りつりょう)時代、地方政治の実態を中央政府に報告するため上京した四度使(よどのつかい)の一つ。計帳使ともよばれる。毎年8月30日以前(陸奥(むつ)・出羽(でわ)両国と大宰府(だざいふ)は9月30日以前)に上京して、大(計)帳とその関連公文(くもん)(枝文(えだふみ))を中央政府に提出して監査を受ける。(コトバンク 小学館 日本大百科全書<ニッポニカ>)

(注)取る:吉日を選ぶ意。(伊藤脚注)

(注)国厨の饌:国庁の調理人が用意した料理。(伊藤脚注)

 

◆之奈謝可流 越尓五箇年 住ゝ而 立別麻久 惜初夜可毛

        (大伴家持 巻十九 四二五〇)

 

≪書き下し≫しなざかる越に五年住み住みて立ち別れまく惜しき宵かも

 

(訳)都を離れて山野層々たる越の国に、五年ものあいだ住み続けて、今宵かぎりに立ち別れゆかねばならぬと思うと、名残惜しい。(「万葉集 四」 伊藤 博 著 角川ソフィア文庫より)

(注) しなざかる 分類枕詞:地名「越(こし)(=北陸地方)」にかかる。語義・かかる理由未詳。(weblio古語辞典 学研全訳古語辞典)

 

 この歌ならびに歌碑については、拙稿ブログ「万葉歌碑を訪ねて(その820)」で紹介している。

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tom101010.hatenablog.com

 

 

 

高岡市伏木古国府 勝興寺境内鼓堂横万葉歌碑(巻二十 四〇九四の一部)■

高岡市伏木古国府 勝興寺境内鼓堂横万葉歌碑(大伴家持

●歌をみていこう。

 題詞は、「賀陸奥國出金 詔書歌一首并短歌」<陸奥(みちのく)の國に金(くがね)を出だす詔書を賀(ほ)く歌一首并(あは)せて短歌>である。

 

◆・・・大伴乃 遠都神祖乃 其名乎婆 大来目主等 於比母知弖 都加倍之官 海行者 美都久屍 山行者 草牟須屍 大皇乃 敝尓許曽死米 可敝里見波 勢自等許等太弖 大夫乃 伎欲吉彼名乎 伊尓之敝欲 伊麻乃乎追通尓 奈我佐敝流 於夜能子等毛曽・・・ 

        (大伴家持 巻二十 四〇九四の一部)

 

≪書き下し≫・・・大伴(おほとも)の 遠つ神(かむ)祖(おや)の その名をば 大久米(おほくめ)主(ぬし)と 負(を)ひ持ちて 仕(つか)へし官(つかさ) 海行かば 水浸(みづ)く屍(かばね) 山行かば 草(くさ)生(む)す屍(かばね) 大君(おほきみ)の 辺(へ)にこそ死なめ かへり見は せじと言立(ことだ)て ますらをの 清きその名を いにしへよ 今のをつづに 流さへる 祖(おや)の子どもぞ・・・

 

(訳)・・・大伴の遠い祖先の神、その名は大久米部の主(あるじ)という誉(ほま)れを背にお仕えしてきた役目柄、「海を行くなら水漬(みづ)く屍(かばね)、山を行くなら草生(む)す屍となり、大君の辺に死のうと本望、我が身を顧みるようなことはすまい」と言葉に唱えて誓ってきた大夫(ますらお)のいさぎよい名、その名を遠く遥かなる時代から今の今まで絶えることなく伝えてきた、祖先の末裔(まつえい)なのだ。・・・(伊藤 博 著 「万葉集 四」 角川ソフィア文庫より)

(注)大久米主:大久米部の統率者。(伊藤脚注)

(注)仕へし官:仕えて来た役目柄。(伊藤脚注)

(注)ことだて【言立て】名詞:他に対して、はっきりと口に出して言うこと。言明。(学研)

(注)をつつ【現】名詞:今。現在。「をつづ」とも。(学研)

(注)流さへる 祖(おや)の子どもぞ:言い伝えてきたその祖先の末裔なのだ。(伊藤脚注)

 

 この歌ならびに歌碑については、拙稿ブログ「万葉歌碑を訪ねて(その921)」で紹介している。

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高岡市伏木古国府 勝興寺「『越中國廳』碑」裏面(巻十八 四一三六)■ 

高岡市伏木古国府 勝興寺越中国庁碑の裏面に歌が刻されている(大伴家持
 20201105撮影



越中國廳」碑 この裏面に歌が刻されている  20201105撮影

●歌をみてみよう。

 

 題詞は、「天平勝寶二年正月二日於國廳給饗諸郡司等宴歌歌一首」<天平勝寶(てんびやうしようほう)二年の正月の二日に、国庁(こくちょう)にして饗(あへ)を諸(もろもろ)の郡司(ぐんし)等(ら)に給ふ宴の歌一首>である。

(注)天平勝寶二年:750年

(注)国守は天皇に代わって、正月に国司、群詞を饗する習いがある。(伊藤脚注)

 

 律令では、元日に国司は同僚・属官や郡司らをひきつれて庁(都の政庁または国庁)に向かって朝拝することになっており、翌日に、新年を寿ぐ宴が開かれたのである。

 

◆安之比奇能 夜麻能許奴礼能 保与等里天 可射之都良久波 知等世保久等曽

         (大伴家持 巻十八 四一三六)

 

≪書き下し≫あしひきの山の木末(こぬれ)のほよ取りてかざしつらくは千年(ちとせ)寿(ほ)くとぞ

 

(訳)山の木々の梢(こずえ)に一面生い栄えるほよを取って挿頭(かざし)にしているのは、千年もの長寿を願ってのことであるぞ。「万葉集 四」 伊藤 博 著 角川ソフィア文庫より

(注)ほよ>ほや【寄生】名詞:寄生植物の「やどりぎ」の別名。「ほよ」とも。(学研)

 

 この歌のように、「ほよ」を頭に挿して千年を祈るということから、古代において「ほよ」は永遠の生命力を約束してくれるという信仰が存在していたと考えられる。驚くことに、おのような「ほよ(やどりぎ)」信仰は世界的にも存在していたということである。

 

左注は、「右一首守大伴宿祢家持作」<右の一首は、守大伴宿禰家持作る>である。

 

 

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この歌ならびに歌碑については、拙稿ブログ「万葉歌碑を訪ねて(その822)」で紹介している。

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高岡市伏木古国府 勝興寺寺井の跡万葉歌碑(巻十九 四一四三)■

高岡市伏木古国府 勝興寺寺井の跡万葉歌碑(大伴家持) 20201105撮影

●歌をみてみよう。

 

◆物部乃 八十▼嬬等之 挹乱 寺井之於乃 堅香子之花

       (大伴家持 巻十九 四一四三)

     ※▼は「女偏に感」⇒「▼嬬」で「をとめ」

 

≪書き下し≫もののふの八十(やそ)娘子(をとめ)らが汲(う)み乱(まが)ふ寺井(てらゐ)の上の堅香子(かたかご)の花

 

(訳)たくさんの娘子(おとめ)たちが、さざめき入り乱れて水を汲む寺井、その寺井のほとりに群がり咲く堅香子(かたかご)の花よ。(伊藤 博 著 「万葉集 四」 角川ソフィア文庫より)

(注)もののふの【武士の】分類枕詞:「もののふ」の「氏(うぢ)」の数が多いところから「八十(やそ)」「五十(い)」にかかり、それと同音を含む「矢」「岩(石)瀬」などにかかる。また、「氏(うぢ)」「宇治(うぢ)」にもかかる。(学研)

 

 「堅香子」については、「大伴家持が来た越の国 高岡市万葉歴史館HP」によると、「カタクリの花のこととされています。雪が解けて、程なくすると向かいあった二枚の葉を出し、葉の間からつぼみを一個だけつけた花茎が伸び、サクラより少し早く、薄い紅紫色をした六弁の小さな花を咲かせます。

 自然の姿では多くが群生し、家持が『大勢の乙女たち』と詠んでいるのは、かたかごの花そのもののことではないかという 説もあります。(後略)」とある。

 ユリ亜科の多年草で、その鱗茎は良質の澱粉を含む。「片栗」は当て字で「かたかご」「かたこゆり」が古いという。

 

 題詞は、「攀折堅香子草花歌一首」<堅香子草(かたかご)の花を攀(よ)ぢ折る歌一首>である。

 

 この歌ならびに歌碑については、拙稿ブログ「万葉歌碑を訪ねて(その823)」で紹介している。

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(参考文献)

★「萬葉集」 鶴 久・森山 隆 編 (桜楓社)

★「万葉集 四」 伊藤 博 著 (角川ソフィア文庫

★「植物で見る 万葉の世界」 (國學院大學[万葉の花の会])

★「weblio古語辞典 学研全訳古語辞典」

★「コトバンク 小学館 日本大百科全書<ニッポニカ>」

 

 

★「高岡市万葉歴史館HP」

★「勝興寺HP」