万葉集の歌碑めぐり

万葉歌碑をめぐり、歌の背景等を可能な限り時間的空間的に探索し、万葉集の万葉集たる所以に迫っていきたい!

万葉集の世界に飛び込もう(その2573)―書籍掲載歌を中軸に―

「古代史で楽しむ 万葉集」 中西 進 著 (角川ソフィア文庫)の「文武天皇の即位」・「大内陵合葬」の項には万葉歌そのものの紹介がなかった。持統天皇薬師寺造営の件が書かれているので、参考までに本薬師寺跡の歌碑を紹介いたします。

●歌は、「忘れ草我が紐に付く香具山の古りにし里を忘れむがため(大伴旅人 3-334)」である。

奈良県橿原市城殿町 本薬師寺跡万葉歌碑(大伴旅人) 20190606撮影

●歌碑は、奈良県橿原市城殿町 本薬師寺跡にある。

 

●歌をみていこう。

 

◆萱草 吾紐二付 香具山乃 故去之里乎 忘之為

        (大伴旅人 巻三 三三四)

 

≪書き下し≫忘れ草我が紐に付く香具山の古(ふ)りにし里を忘れむがため

 

(訳)忘れ草、憂いを忘れるこの草を私の下紐につけました。香具山のあのふるさと飛鳥の里を、いっそのことわすれてしまうために。(伊藤 博 著 「万葉集 一」 角川ソフィア文庫

(注)忘れ草:萱草。憂いを忘れるとされた。(伊藤脚注)

(注)わすれぐさ【忘れ草】名詞:草の名。かんぞう(萱草)の別名。身につけると心の憂さを忘れると考えられていたところから、恋の苦しみを忘れるため、下着の紐(ひも)に付けたり、また、垣根に植えたりした。歌でも恋に関連して詠まれることが多い。(weblio古語辞典 学研全訳古語辞典)

 

 三三一から三三五歌の題詞は、「帥大伴卿歌五首」<帥(そち)大伴卿(おほとものまへつきみ)が歌五首>である。大宰府の長官大伴旅人の望郷の歌である。

 

 この歌については、拙稿ブログ「万葉歌碑を訪ねて(その135改)で奈良県橿原市城殿町本薬師寺跡万葉歌碑とともに紹介している。

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tom101010.hatenablog.com

 

 

 



「古代史で楽しむ 万葉集」 中西 進 著 (角川ソフィア文庫)の「文武天皇の即位」をみていこう。

 「・・・持統の即位は、草壁という次期天子の死去にともなう、臨時の措置であった。いずれはしかるべき皇子を天子に立てねばならないのだが、持統の草壁にかけた執念から考えれば、それは当然、草壁の子、軽(かる)皇子であっただろう。しかし草壁の薨時に軽はまだ八歳の子どもであった。その成人を待つ間の中継ぎの気持が持統にあっただろうことは、想像にかたくない。・・・自分を補佐する役として高市太政大臣とし、やがておりをみて軽の即位を考えたいというのが、持統の真意だったのではないか。・・・いま軽は十五歳、その初秋に高市が薨じたのである。多少の強引さを押し切れば、軽の即位は可能である。高市薨去後のある日、持統は宮中に皇族高官を招集して、次の皇太子をどうするか議論するように命じた。『時に群臣私好を挟(はさ)み、衆議粉紜(ふんうん)たり』(勝手なことを言って、議論がまとまらなかった)と『懐風藻』では述べている。・・・その中で、持統が心ひそかに抱いた軽皇子立太子の可能性はきわめて薄いかにみえた。・・・その時である。葛野王が・・・力強く発言したのは、『わが国は神代以来子孫があい継いで天子となることに決まっている・・・』座にあった弓削が何かを言おうとした。・・・しかし、弓削の思惑はあっという間に埒外(らちがい)にとんでいった。この弓削の態度を、葛野は一喝して黙らせてしまったのである。そのタイミングをはずさず持統は言った。よし、これできまった。皇太子には軽を立てよう、と。・・・持統が単にこの発言を利用しただけではないと、わたしは思う。・・・葛野はすでに持統の胸中を見抜いていたのであろう。それに抵抗することはできないと知ると、今ここで軽以外の誰を立てても、また争乱のもととなる、と考えた。・・・血統からも地位からも上位の弓削を葛野は叱咤したのである。・・・葛野はおのが運命の嘆きに沈んできた・・・壬申の乱意による父と祖父の争い、それを遠因とする母十市の自害、その不幸が身にしみた葛野は、皇位という権力の座がいまわしい欲望の座にみえ、人間と人間との争乱を心から憎んだにちがいない。・・・持統はその八月一日、位を軽に譲った、文武天皇がこの軽皇子である。」

 そして「大内陵合葬」で、「・・・新しい孫の天子が十五歳であれば、文武の即位は形式をととのえただけで、実質は持統太上(だじょう)天皇の政治がおこなわれていたという感が深い。」

 「持統は文武二年(六九八)十月に薬師寺の造営をほぼ完了させている。薬師寺はさかのぼって天武九年(六八〇)十一月・・・天武が着工した寺であった。最初の薬師寺は雷(いかずち)廃寺あとだとする説もあるが、ふつうは本(もと)薬師寺をそれと考えている。そしてそれが現在の西の京の薬師寺に移建されたか別に新建されたかも議論がある。・・・万葉集においても、五年間は持統の行幸につぐ行幸によって大量の歌をのこす結果となった。行幸は難波・吉野そして三河へとつづく。吉野は天武ゆかりの土地である。東海道諸国の巡幸にも『諸神を鎮め祭らむと』(大宝二年十月、続紀)するほかに、やはり壬申の追憶があったのだろう。万葉集はこの従駕(じゅうが)の歌と、人麻呂による諸皇子・皇女の死の挽歌とをもってこの時代を飾る。持統は・・・大宝二年十二月三日に崩ずる亡骸は火葬に付され、その骨は・・・天武の眠る大内の陵の隣に合わせて葬られた。」(同著)

 

 檜隈大内陵(ひのくまおおうちりよう)については、「コトバンク 平凡社『日本歴史地名大系』」に次のように書かれている。

奈良県高市郡明日香村野口村檜隈大内陵 [現在地名]明日香村大字野口

野口(のぐち)集落の西方の丘陵上に位置する壮大な古墳で、天武持統合葬陵に治定。大内陵は持統天皇元年一〇月、草壁皇子以下により築造され、翌二年一一月一一日天武天皇を葬り(日本書紀)、天皇として初めて火葬された持統天皇が大宝三年(七〇三)一二月二六日合葬された(続日本紀)。「延喜式」(諸陵寮)に「檜隈大内陵飛鳥浄御原宮御宇天武天皇、在大和国高市郡、兆域東西五町、南北四町、陵戸五烟」「同大内陵藤原宮御宇持統天皇、合葬檜隈大内陵、々戸更不重充」とある。古くは王(おう)(皇)ノ墓とよばれたこの古墳は、江戸時代から明治初年にかけてはむしろ文武天皇の檜隈安古岡上(ひのくまのあこのおかのへ)陵とみなされることが多かったが(天武持統合葬陵は現橿原市五条野町の丸山古墳にあてられていた)、明治一四年(一八八一)になってそれぞれ現在のように治定された。」

 

 

 

 

 

 

 

(参考文献)

★「萬葉集」 鶴 久・森山 隆 編 (桜楓社)

★「万葉集 一」 伊藤 博 著 (角川ソフィア文庫

★「古代史で楽しむ 万葉集」 中西 進 著 (角川ソフィア文庫

★「weblio古語辞典 学研全訳古語辞典」

★「コトバンク 平凡社『日本歴史地名大系』」