万葉集の歌碑めぐり

万葉歌碑をめぐり、歌の背景等を可能な限り時間的空間的に探索し、万葉集の万葉集たる所以に迫っていきたい!

万葉集の世界に飛び込もう(その2574)―書籍掲載歌を中軸に―

「古代史で楽しむ 万葉集」 中西 進 著 (角川ソフィア文庫)の「人麻呂の生涯」の項には、歌そのものではなく、流れのなかで「巻十、二〇三三」、「巻二、一七一の題詞」が紹介されている。人麻呂が生れた地と考えられている奈良県天理市櫟本の和爾下神社の歌碑とともに本稿で紹介いたします。

 

●歌は、「さし鍋に湯沸かせ子ども櫟津の檜橋より来む狐に浴むさむ(長忌寸意吉麻 16-3824)」、「天の川安川原定而神競者磨待無(柿本人麻呂歌集 10-2033)」ならびに「高光る我が日の御子の万代に国知らさまし島の宮はも(皇子尊宮舎人等 2-171)」である。

奈良県天理市櫟本町 和爾下神社社号碑・万葉歌碑・解説案内板 20190412撮影

●歌碑は、奈良県天理市櫟本町 和爾下神社にある。

 

●歌を追ってみていこう。

■和爾下神社歌碑(長忌寸意吉麻 16-3824)■

題詞は、「長忌寸意吉麻呂歌八首」<長忌寸意吉麻呂(ながのいみきおきまろ)が歌八首>であり、三八二四~三八三一歌の歌群となっている。

 

◆刺名倍尓 湯和可世子等 櫟津乃 檜橋従来許武 狐尓安牟佐武

        (長忌寸意吉麻呂 巻十六 三八二四)

 

≪書き下し≫さし鍋(なべ)に湯沸(わ)かせ子ども櫟津(いちひつ)の檜橋(ひばし)より来(こ)む狐(きつね)に浴(あ)むさむ

 

(訳)さし鍋の中に湯を沸かせよ、ご一同。櫟津(いちいつ)の檜橋(ひばし)を渡って、コムコムとやって来る狐に浴びせてやるのだ。(「万葉集 三」 伊藤 博 著 角川ソフィア文庫より)

(注)さしなべ【差し鍋】名詞:弦(つる)のついた、注(つ)ぎ口のある鍋。(学研)

(注)櫟津:天理市櫟本付近の川津か。雑器「櫃」を隠す。(伊藤脚注)

(注)檜橋:檜製の河橋。(伊藤脚注)

(注)来む:狐声コムを隠す。(伊藤脚注)

 

 左注は、「右一首傳云 一時衆集宴飲也 於時夜漏三更 所聞狐聲 尓乃衆諸誘奥麻呂曰關此饌具雜器狐聲河橋等物 但作謌者 即應聲作此謌也」<右の一首は、伝へて云はく、ある時、衆(もろもろ)集(つど)ひて宴飲す。時に、夜漏三更(やらうさんかう)にして、狐の声聞こゆ。すなはち、衆諸(もろひと)意吉麻呂(おきまろ)を誘(いざな)ひて曰はく、この饌具、雜器、(ざうき)狐聲(こせい)河橋(かけう)等の物の関(か)けて、ただに歌を作れ といへれば、すなはち、声に応へてこの歌を作るといふ>

(注)やろう【夜漏】:夜の時刻をはかる水時計。転じて、夜の時刻。(weblio辞書 デジタル大辞泉

(注)さんかう【三更】名詞:時刻の名。「五更(ごかう)」の第三。午後十二時。また、それを中心とする二時間。「丙夜(へいや)」とも。(学研)

 

 この歌については、拙稿ブログ「万葉歌碑を訪ねて(その53改)」で紹介している。

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柿本人麻呂歌集 10-2033■

◆天漢 安川原 定而神競者磨待無

       (柿本人麻呂歌集 巻十 二〇三三)

 

≪書き下し≫天の川安の川原定而神競者磨待無

 

(訳)第二句以下定訓がない。よって口語訳を付さない。(伊藤脚注)

 

左注は、「此歌一首庚辰年作之  右柿本朝臣人麻呂之歌集出」<この歌一首は、庚辰(かのえたつ)の年に作る。  右は、柿本朝臣人麻呂が歌集に出づ>である。

(注)庚辰:天武九年(六八〇)らしい。(伊藤脚注)

(注)「萬葉集」 鶴 久・森山 隆 編 (桜楓社)には、「第三句以下定訓ヲ得ズ さだまりてかみしきほへばとしまたなくに(増訂萬葉集全註釋) さだまりてかみしきほへばまろもまたなく(萬葉集註釋) とどまりて(四五句訓ナシ)(岩波古典文学大系萬葉集) しづまりてこころきほへばときまたなくに(万葉集私注)」とある。

 

 

■皇子尊宮舎人等 2-171)■

 一七一~一九三歌の歌群の題詞は、「皇子尊宮舎人等慟傷作歌廿三首」<皇子尊(みこのみこと)の宮の舎人等(とねりら)、慟傷(かな)しびて作る歌二三首>である。

 

 冒頭歌をみてみよう。

◆高光 我日皇子乃 萬代尓 國所知麻之 嶋宮波母

(皇子尊宮舎人等 巻二 一七一)

 

≪書き下し≫高光る我(わ)が日の御子(みこ)の万代(よろづよ)に国知らさまし島の宮はも

 

(訳)輝き照らすわが日の皇子(みこ)が、万代(よろずよ)かけて国土を治められる島の宮なのに、ああ。(「万葉集 一」 伊藤 博 著 角川ソフィア文庫より)

(注)はも 分類連語:…よ、ああ。▽文末に用いて、強い詠嘆の意を表す。 ※上代語。 ⇒なりたち:係助詞「は」+終助詞「も」(学研)

 

全二十三首についてh、拙稿ブログ「万葉歌碑を訪ねて(その502)」で紹介している。

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「古代史で楽しむ 万葉集」 中西 進 著 (角川ソフィア文庫)の「人麻呂の生涯」の項を読み進もう。

 「柿本人麻呂、この名はあまりにも名高い。・・・古典和歌においてまず第一等の座を彼にあたえることは、多くの賛成者得るだろう。ある時代には人麻呂は歌聖ですらあった。しかしこの人麻呂は、その名声の輝かしさにくらべて、実体がはっきりしない。柿本氏は孝昭(こうしょう)天皇の皇子、天帯彦国押人命(あまたらしひこくにおしひとのみこと)の子孫だと『新撰姓氏録(しんせんしょうじろく)』に記されている。そして命は『日本書紀』では『和珥(わに)臣らの始祖なり』と書かれる。和珥氏は古代大和の東北に蟠居(ばんきょ)した一大豪族であり、和爾(わに)を本貫(本籍地)とするであろう。いま和爾の字(あざ)名を残し、式内社和邇下神社がある櫟本(いちのもと)(天理市)に人麻呂が生れたという考えが古くからある。和邇下神社の傍(かたわら)には柿本寺(しほんじ)あとと称するところと、人麻呂塚と呼ばれる塚があって歌塚の碑を遺している。」(同著)

 

 

 



 

 「それにしても山の辺の地に人麻呂が生れたのはいつか。人麻呂歌集の中に、『庚辰(こうしん)の年に作った』という注のある歌(巻一〇、二〇三三)があり、この庚辰をもし天武九年とし、この時をかりに二十歳とすれば、まさしく和銅三年は五十歳で斉明六年(六六〇)の出生となる。また壬申の乱の時(六七二年)二十歳ごろと考えることも可能で、それならば六五二年ごろとなる。」(同著)

 

 「人麻呂が宮廷にあって作歌し、時としてそれを献上したことは万葉集に明らかで、その姿を宮廷歌人と称するのが常である。しかしそう呼ばれるような官職が存在するのではない。それでは人麻呂はどのような立場で宮廷歌人だったのか。ひとつの推測として、彼が舎人(とねり)であったろうという考えが古くからおこなわれている。『とねり』とは高官や皇子たちに朝廷から賜わる資人(しじん)・帳内(ちょうない)らをふくめて側近に奉仕する役をいう。万葉集(巻一、一七一の題詞)に『皇子尊宮(みこのみことのみや)舎人等』という一団が知られ、歌を作った状況が人麻呂と似通っているから、舎人説は捨てがたい。このように人麻呂の生身は謎の中にあるが、ただ彼が持統三年から文武四年までの間に歌を作ったことはたしかである。草壁の死、つまり持統の即位の時から、ほぼ翌々年大宝二年の持統の死までの間である。持統と命運を共にした歌人であったことだけはわかる。」(同著)

 

 

 

 

 

 

 

(参考文献)

★「萬葉集」 鶴 久・森山 隆 編 (桜楓社)

★「万葉集 一」 伊藤 博 著 (角川ソフィア文庫

★「万葉集 三」 伊藤 博 著 (角川ソフィア文庫

★「古代史で楽しむ 万葉集」 中西 進 著 (角川ソフィア文庫

★「weblio古語辞典 学研全訳古語辞典」

★「weblio辞書 デジタル大辞泉