●歌は、「立山の雪し来らしも延槻の川の渡り瀬鐙漬かすも(大伴家持 17-4024)」、「高御座天の日継と天の下知らしめしけるすめろきの神の命の畏くも始めたまひて貴くも定めたまへるみ吉野の・・・(大伴家持 18-4098)」、「見まく欲り思ひしなへにかづらかけかぐはし君を相見つるかも(大伴家持 18-4120)」である。
前稿で家持の内舎人時代の最大の出来事は、反藤原の希望の星だった安積皇子が仲麻呂によって暗殺されたことであり、京都府相楽郡和束町に安積皇子の墳墓は穏やかな茶畑に囲まれて佇んでいると引用記述したが、本日、安積皇子の墳墓を訪ねて家から約30分のミニドライブして来たのである。
和束の郷の駐車場に車を停め、歩いて陵墓に。雄大な広がりをみせる茶畑のなかでこんもり小山の頂に陵墓はあった。
「古代史で楽しむ 万葉集」 中西 進 著 (角川ソフィア文庫)を読み進もう。
「越中の風土は家持にあい反する二つの働きかけをしたようである。都とは異なった風土に目をこらす一方、都ではほととぎすが立夏の日に鳴くことにきまっているのに、越中では鳴かず、また橙橘(とうきつ)もまれにしかないといって、鳴かないほととぎすを待ちかねている。都の鋳型(いがた)をあてはめて、そぐわないことを嘆くのである。しかしこの背反する二律は、まず天平二十年春、出挙(すいこ)の途上におけるすぐれた短歌となって結晶した。(巻一七、四〇二四)(歌は省略) 立山山中の雪どけの水を湛(たた)えた延槻川の早春を馬の鐙に感じたときに、家持の越中の歌は第一の到達点を得た。家持は三十歳を迎えていた。」(同著)
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歌をみてみよう。
■巻十七 四〇二四歌■
題詞は、「新川郡渡延槻河時作歌一首」<新川(にひかは)の郡(こほり)にして延槻川(はひつきかは)を渡る時に作る歌一首>である。
(注)新川郡:越中の東半分を占める大郡。(伊藤脚注)
◆多知夜麻乃 由吉之久良之毛 波比都奇能 可波能和多理瀬 安夫美都加須毛
(大伴家持 巻十七 四〇二四)
≪書き下し≫立山(たちやま)の雪し来らしも延槻の川の渡り瀬(せ)鐙(あぶみ)漬(つ)かすも
(訳)立山の雪が解けてやって来たのであるらしい。この延槻の、川の瀬でも、ふえた水かさで鐙(あぶみ)を浸すばかりだ。(伊藤 博 著 「万葉集 四」 角川ソフィア文庫より)
(注)雪し来らしも:雪が早くも消えてやって来たのであるらしい、の意。(伊藤脚注)
(注)あぶみ【鐙】名詞:馬具の一つ。鞍(くら)の両脇(りようわき)に垂らして、乗る人が足を踏みかけるもの。(weblio古語辞典 学研全訳古語辞典)
(注)「漬かすも」:「漬く」に対する使役性動詞。浸らせる。(伊藤脚注)
この歌については、拙稿ブログ「万葉歌碑を訪ねて(その2317)」で紹介している。
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この歌が刻された魚津総合公園万葉歌碑は、高さ4.5mと、富山県内に100か所以上ある万葉歌碑の中で最大といわれている。
これについては、拙稿ブログ「万葉歌碑を訪ねて(その2322)」で紹介している。
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四〇二一から四〇二九歌のは、左注にあるように「右件歌詞者 依春出擧巡行諸郡 當時當所属目作之 大伴宿祢家持」<右の件(くだり)の歌詞は、依春の出挙(すいこ)によりて、諸郡を巡行し、時に当り所に当りて、属目(しよくもく)して作る。大伴宿禰家持>である。
(注)しょくもく【嘱目/属目】[名](スル):①今後どうなるか、関心や期待をもって見守ること。②目を向けること。③俳諧で、指定された題でなく即興的に目に触れたものを詠むこと。(weblio辞書 デジタル大辞泉)ここでは③の意
四〇二一から四〇二九歌については、拙稿ブログ「万葉歌碑を訪ねて(その1354)」で紹介している。
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「田辺福麻呂(たなべのさきまろ)が来越したのは、この年の三月である。以後翌年五月には都の僧平栄(ひようえい)が来、陸奥から黄金が出た報(しら)せとともに聖武がとくに先祖以来の大伴の忠誠をねぎらった詔(みことのり)を下したことを知る。史生尾張少咋(ししようおわりのおぐい)の妻が下って来、池主の後任の掾久米広縄も都から帰って来た。こうした都との往来が家持を刺激したのか、この間に彼は吉野従駕(じゅうが)を予想したり(巻一八、四〇九八~四一〇〇)上京の旅を空想したり(巻一八、四一二〇・四一二一)して、あらかじめその折の歌を作っている。」(同著)
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歌をみてみよう。
■■巻十八 四〇九八~四一〇〇歌■■
題詞は、「為幸行芳野離宮之時儲作歌一首 幷短歌」<吉野の離宮(とつみや)に幸行(いでま)す時のために、儲(ま)けて作る歌一首 幷(あは)せて短歌>である。
(注)吉野の離宮:奈良県吉野の宮滝にあった離宮。(伊藤脚注)
(注)儲けて作る歌:予め用意して作った歌。(伊藤脚注)
(注の注)まうけ【設け・儲け】名詞:①準備。用意。②食事のもてなし。ごちそうの用意。③食べ物。 ⇒注意:現代語の「利益」の意味はない。(weblio古語辞典 学研全訳古語辞典
◆多可美久良 安麻乃日嗣等 天下 志良之賣師家類 須賣呂伎乃 可未能美許等能 可之古久母 波自米多麻比弖 多不刀久母 左太米多麻敝流 美与之努能 許乃於保美夜尓 安里我欲比 賣之多麻布良之 毛能乃敷能 夜蘇等母能乎毛 於能我於弊流 於能我名負弖 大王乃 麻氣能麻尓ゝゝ 此河能 多由流許等奈久 此山能 伊夜都藝都藝尓 可久之許曽 都可倍麻都良米 伊夜等保奈我尓
(大伴家持 巻十八 四〇九八)
≪書き下し≫高御座(たかみくら) 天(あま)の日継(ひつぎ)と 天(あめ)の下(した) 知らしめしける 天皇の 神(かみ)の命(みこと)の 畏(かしこ)くも 始めたまひて 貴くも 定めたまへる み吉野の この大宮に あり通(がよ)ひ 見(め)したまふらし もののふの 八十伴(やそとも)の男(を)も おのが負(お)へる おのが名負ひて 大君の 任(ま)けのまにまに この川の 絶ゆることなく この山の いや継(つ)ぎ継ぎに かくしこそ 仕(つか)へまつらめ いや遠長(とほなが)に
(訳)高き御位のいます日の神の後継ぎとして、天の下を治めてこられた古(いにしえ)の天皇、その神の命が、恐れ多くもお始めになり、尊くもお定めになられた、み吉野の大宮、そんな大宮だと、我が大君はここに通い続けては、尊いありさまをご覧になっておられる。われらもろもろの宮仕え人どもも、我が身に負い持つおのおのの家名をしっかと背にしつつ、大君の仰せのままに、この川が絶えないように絶えることなく、この山が幾重にも重なり続くように子から孫へと次々に、今お仕えするままにお仕え申し上げよう。いついつまでもずっと。(同上)
(注)たかみくら【高御座】名詞:即位や朝賀などの重大な儀式のとき、大極殿(だいごくでん)または紫宸殿(ししんでん)の中央の一段高い所に設ける天皇の座所。玉座。(学研)
(注)すめろきの:古く応神紀・雄略紀にも吉野行幸の記事がある。それを踏まえる。(伊藤脚注)
(注)あり通ひ:いつも通っては尊いさまをご覧になっている。以下二句、主語は聖武天皇。(伊藤脚注)
(注)おのが負へるおのが名負ふ負ふ:それぞれの身にしっかと持つ自らの家名を背に。(伊藤脚注)
(注)まけ【任け】名詞:官や職に任命すること。特に、地方官に任命して派遣すること。 ※上代語。(学研)
■巻十八 四〇九九歌■
◆伊尓之敝乎 於母保須良之母 和期於保伎美 余思努乃美夜乎 安里我欲比賣須
(大伴家持 巻十八 四〇九九)
≪書き下し≫いにしへを思ほすらしも我ご大君吉野の宮をあり通ひ見す
(訳)遠い古の世に思いを馳せてのことであるらしい。われらが大君は、この吉野の宮に通い続けては、ここをいつもご覧になっていらっしゃる。(同上)
(注)いにしへを思ほすらしも:遠い古を思われてのことらしい。長歌前半「見したまふらし」までを承ける。(伊藤脚注)
■巻十八 四一〇〇歌■
◆物能乃布能 夜蘇氏人毛 与之努河波 多由流許等奈久 都可倍追通見牟
(大伴家持 巻十八 四一〇〇)
≪書き下し≫もののふの八十氏人(やそうぢひと)も吉野川(よしのがは)絶ゆることなく仕へつつ見む
(訳)もろもろの氏の名を負い持つわれら宮仕え人どもも、吉野川、この川の絶えることのないように、いついつまでもお仕えしてこの地を見よう。(同上)
(注)もののふの:長歌後半「もののふの」以下を承ける。(伊藤脚注)
(注)吉野川:初句とともに枕詞。ただしこれは、行幸先の景を利用したもの。(伊藤脚注)
■■巻十八 四一二〇・四一二一歌■■
題詞は、「為向京之時見貴人及相美人飲宴之日述懐儲作歌二首」<為向京に向ふ時に見貴人を見、また美人に相(あ)ひて、飲宴(うたげ)する日のために、懐(おもひ)を述べ、儲(ま)けて作る歌二首>である。
(注)京に向かふ時に:都に出かけての意。「飲宴する日のために」まで全体にかかる。(伊藤脚注)
(注)作る:広縄の帰任に触発されての詠。この年の秋、大帳使として上京する予定のあったことも関係するか。(伊藤脚注)
■巻十八 四一二〇歌■
◆見麻久保里 於毛比之奈倍尓 賀都良賀氣 香具波之君乎 安比見都流賀母
(大伴家持 巻十八 四一二〇)
≪書き下し≫見まく欲(ほ)り思ひしなへにかづらかげかぐはし君を相見(あひみ)つるかも
(訳)お逢いしたいものだと思っていたちょうどその折しも、縵(かずら)をつけた、お姿のすばらしいあなた様にお逢いすることができました。(同上)
(注)かづらかげ:蘰の冠。「かぐはし」の枕詞的用法。(伊藤脚注)
この歌については、拙稿ブログ「万葉歌碑を訪ねて(その1516)」で紹介している。
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■巻十八 四一二一歌■
◆朝参乃 伎美我須我多乎 美受比左尓 比奈尓之須米婆 安礼故非尓家里 <一云 波之吉与思 伊毛我須我多乎>
(大伴家持 巻十八 四一二一)
≪書き下し≫朝参(てうさむ)の君が姿を見ず久(ひさ)に鄙(ひな)にし住めば我(あ)れ恋ひにけり<一には、「はしきよし妹が姿を」といふ>
(訳)朝参(ちょうさん)をされる時のあなた様のお姿、そのお姿を拝見しないで長らく、鄙の地に住んでおりましたので、私は恋しくて恋しくて仕方がありませんでした。<いとしく立派なお連れ合いのお姿、そのお姿を>(同上)
(注)朝参:朝、天皇の前に並び立って行う礼。(伊藤脚注)
(注)はしきよし妹が姿を:上二句の異文。宴席に女性も参加している場合のための表現。題詞の「また美人に相ひて」に対応する。(伊藤脚注)
左注は、「同閏五月廿八日大伴宿祢家持作之」<同じき閏(うるう)の五月の二十八日に、大伴宿禰家持作る>である。
(参考文献)
★「萬葉集」 鶴 久・森山 隆 編 (桜楓社)
★「古代史で楽しむ 万葉集」 中西 進 著 (角川ソフィア文庫)
★「weblio古語辞典 学研全訳古語辞典」