●歌は、「衾ぢを引手の山に妹を置きて山道を行けば生けりともなし(柿本人麻呂 2-212)7」である。
「(柿本人麻呂 巻二‐二一二)(歌は省略) 景行・崇神陵をすぎて、山の辺の道は、長岳寺付近から中山町・萱生(かよう)町・・・と、竜王山の西麓を北にのびていたらしい。竜王山(五八五メートル)は穴師山の北につづく山塊で、これが『引手の山』であろうといわれている。中山・萱生付近一帯は、萱生千塚でもきこえているように古墳が累々としていて、ちょっと小高いところにあがってみれば、まったく壮観といってもよい。その中で、ひときわ大きく、こんもりと松樹におおわれた前方後円墳が、仁賢天皇皇女、手白香(たしらか)皇女の衾田(ふすまだ)墓である。・・・この歌の『衾道を』は枕詞説と地名説がある・・・衾道は衾田墓付近と考えられる。墓の付近の丘陵をゆく道などをいうものではなかろうか。この歌は、人麻呂が亡妻をこの地に葬って、山路を帰ってくるときの、生きた心地もしないわびしさをうたったものである。」(「万葉の旅 上 大和」 犬養 孝 著 平凡社ライブラリーより)
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二一二歌をみてみよう。
■巻二 二一二歌■
◆衾道乎 引手乃山尓 妹乎置而 山徑往者 生跡毛無
(柿本人麻呂 巻二 二一二)
≪書き下し≫衾道(ふすまぢ)を引手(ひきで)の山に妹を置きて山道(やまぢ)行けば生けりともなし
(訳)衾道よ、その引手の山にあの子を置き去りにして、山道をたどると、生きているとも思えない。(伊藤 博 著 「万葉集 一」 角川ソフィア文庫より)
(注)衾道:天理市南の衾田といわれた一帯か。ヲは間投助詞。(伊藤脚注)
(注の注)ふすまぢを【衾道を】:[枕]地名「引手の山」にかかる。かかり方未詳。「衾道」を地名と見なし、これを枕詞とはしない説もある。(コトバンク デジタル大辞泉)
(注)引手の山:長歌の「羽がひの山」の当たる。「衾」「引手」は「妹」の縁語。(伊藤脚注)
(注)山道:山を内にした表現。作者は去りがたく山中をさすらっている。(伊藤脚注)
この歌は、題詞「柿本朝臣人麻呂妻死之後泣血哀慟作歌二首幷短歌」(柿本朝臣人麻呂、妻死にし後に、泣血哀慟(きふけつあいどう)して作る歌二首幷(あは)せて短歌)とあり、二群の長反歌になっているうちの一首である。「二〇七(長歌)、二〇八、二〇九(反歌)」と「二一〇(長歌)、二一一、二一二(反歌)」の二群である。さらに「或本の歌に日はく」とあり、長歌一首と短歌三首が収録されている。
歌群は「泣血哀慟歌」と呼ばれている。
二一二歌については、拙稿ブログ「万葉歌碑を訪ねて(その58改)」で紹介している。
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二〇七(長歌)、二〇八、二〇九(反歌)については、拙稿ブログ「万葉歌碑を訪ねて(140改)」で紹介している。
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二一〇(長歌)、二一一(反歌)については、拙稿ブログ「万葉歌碑を訪ねて(その1278)」で紹介している。
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二一二(反歌)および「或本の歌に日はく」の、長歌一首(二一三)と短歌三首(二一四~二一六)については、拙稿ブログ「万葉歌碑を訪ねて(その1279)」で紹介している。
➡ こちら1279
「萱生から西に下ると街道に沿うて大和(おおやまと)神社がある。大和の地主神であって山上憶良の好去好来歌(巻五‐八九四)の『倭(やまと)の大国霊(おほくにみたま)』である。また、その西南方、新泉(にいずみ)は『穂積(ほづみ)』(巻十三‐三二三〇)かといわれ、西北の長柄(ながら)にかけては『長屋原(ながやのはら)』(巻一‐七八題詞)かといわれる。」(同著)
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八九四歌については、拙稿ブログ「万葉歌碑を訪ねて(その57改)」で奈良県天理市新泉町の大和神社の歌碑とともに紹介している。
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三二三〇歌については、拙稿ブログ「万葉歌碑を訪ねて(その330)」で紹介している。
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七八歌の題詞については、拙稿ブログ「万葉歌碑を訪ねて(その2107)」で紹介している。
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(参考文献)
★「萬葉集」 鶴 久・森山 隆 編 (桜楓社)
★「万葉の旅 上 大和」 犬養 孝 著 (平凡社ライブラリー)
★「weblio古語辞典 学研全訳古語辞典」