●歌は、「み吉野の山のあらしの寒けくにはたや今夜も我がひとり寝む(文武天皇? 1-74)」である。
「この歌は、題詞によって文武天皇が吉野宮に行幸の時の歌であることはわかるが、作者は誰かわからない。ただ左註に『右一首、或云、天皇御製歌』とあるので、これによれば文武天皇の作となる。天皇の吉野行幸は『続日本紀』によると、大宝元年二月と同二年七月とが見えるがどちらの時かわからない。『懐風藻』には漢詩三首をのせている。歌はこの一首のほかにない。」「万葉の旅 上 大和」 犬養 孝 著 平凡社ライブラリーより)
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七四歌をみてみよう。
■巻一 七四歌■
題詞は、「大行天皇幸于吉野宮時歌」<大行天皇(さきのすめらみこと)、吉野の宮に幸(いでま)す時の歌>である。
◆見吉野乃 山下風之 寒久尓 為當也今夜毛 我獨宿牟
(文武天皇? 巻一 七四)
≪書き下し≫み吉野の山のあらしの寒けくにはたや今夜(こよひ)も我(あ)がひとり寝む
(訳)み吉野の山おろしの風がこんなにも肌寒いのに、ひょっとして今夜も、私はたった独りで寝ることになるのであろうか。(伊藤 博 著 「万葉集 一」 角川ソフィア文庫より)
左注は、「右一首或云 天皇御製歌」<右の一首は、或(ある)いは「天皇の御製歌」といふ。
文武天皇 (もんむてんのう):「生没年:683-707(天武12-慶雲4)第42代に数えられる天皇。在位697-707年。本名は軽(珂瑠)、和風諡号(しごう)は天之真宗豊祖父(あめのまむねとよおおじ)。天武天皇の孫。父は草壁皇子、母は阿閉皇女(のち元明天皇)。689年(持統3)7歳のとき皇太子であった父と死別。祖母の持統天皇の保護のもとで成長し、,持統は697年2月、「反対者を抑えて軽皇子を皇太子とし,同年8月に譲位、702年(大宝2)に没するまで文武の政治を助ける。文武は即位のとき15歳、藤原不比等の娘宮子を夫人(ぶにん)、紀竈門娘(かまどのいらつめ)、石川刀子娘を嬪(ひん)とし,宮子は首皇子(聖武天皇)を生む。事績としては刑部(おさかべ)親王、藤原不比等らをして大宝律令を作らしめ、701年に完成、翌年にかけて施行したこと、702年に33年ぶりに遣唐使を派遣したこと、705年(慶雲2)に中納言を置き、706年に官人考選の年限を短縮し庸を半減したことなどがある。また698年(文武2)に南西諸島に使者を派遣して領土を広め、702年に薩摩・多褹(たね)を征討した。その資質については《続日本紀》に、寛仁にして博く経史に渉り、射芸をよくしたとある。《懐風藻》に詩3編、《万葉集》に文武の作かとする歌1首がある。没後遺骸は火葬し,高市郡檜隈安古山陵に葬った。 執筆者:直木 孝次郎(コトバンク 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」)
「在位前には、宇陀の安騎野(あきの)に亡父追慕の旅があって、人麻呂が名歌をのこす機縁となった。」(同著)
四五から四九歌をみてみよう。
■■巻一 四五~四九歌■■
題詞は、「軽皇子宿干安騎野時柿本朝臣人麻呂作歌」<軽皇子、安騎(あき)の野に宿ります時に、柿本朝臣人麻呂が作る歌>である。
(注)軽皇子:草壁皇子の子。天武・持統の孫。後の文武天皇。歌の時一〇歳。(伊藤脚注)
(注)持統六年の冬に安騎野に「遊猟(みかり)」が行われている。
■巻一 四五歌■
◆八隅知之 吾大王 高照 日之皇子 神長柄 神佐備世須等 太敷為 京乎置而 隠口乃 泊瀬山者 真木立 荒山道乎 石根 禁樹押靡 坂鳥乃 朝越座而 玉限 夕去来者 三雪落 阿騎乃大野尓 旗須為寸 四能乎押靡 草枕 多日夜取世須 古昔念而
(柿本人麻呂 巻一 四五)
≪書き下し≫やすみしし 我(わ)が大君 高照らす 日の御子(みこ) 神ながら 神さびせすと 太(ふと)敷(し)かす 都を置きて こもくりの 泊瀬(はつせ)の山は 真木(まき)立つ 荒山道(あらやまみち)を 岩が根 禁樹(さへき)押しなべ 坂鳥(さかとり)の 朝越えまして 玉かぎる 夕(ゆふ)さりくれば み雪降る 安騎(あき)の大野(おほの)に 旗(はた)すすき 小竹(しの)を押しなべ 草枕 旅宿(たびやど)りせす いにしへ思ひて
(訳)あまねく天の下を支配せられるわれらが大君、天上高く照らしたまう日の神の皇子(みこ)は、神であられるままに神々しく振る舞われるとて、揺るぎなく治められている都さえもあとにして、隠り処(こもりく)の泊瀬の山は真木の茂り立つ荒々しい山道なのに、その山道を岩や遮(さえぎ)る木々を押し伏せて、朝方、坂鳥のように軽々とお越えになり、光かすかな夕方がやってくると、み雪降りしきる安騎の荒野(あらの)で、旗のように靡くすすきや小竹(しん)を押し伏せて、草を枕に旅寝をなさる。過ぎしいにしえのことを偲んで。(同上)
(注)やすみしし【八隅知し・安見知し】分類枕詞:国の隅々までお治めになっている意で、「わが大君」「わご大君」にかかる。(weblio古語辞典 学研全訳古語辞典)
(注)たかてらす【高照らす】分類枕詞:空高く照るの意で、「日」にかかる。(学研)
(注)ふとしく【太敷く】他動詞:居を定めてりっぱに統治する。(宮殿を)りっぱに造営する。(柱を)しっかり立てる。(学研)
(注)こもりくの【隠り口の】分類枕詞:大和の国の初瀬(はつせ)の地は、四方から山が迫っていて隠れているように見える場所であることから、地名の「初(=泊)瀬」にかかる。(学研)
(注)さへき【禁樹】名詞:通行の妨げになる木。(学研)
(注)さかどりの【坂鳥の】分類枕詞:朝早く、山坂を飛び越える鳥のようにということから「朝越ゆ」にかかる。(学研)
(注)たまかぎる【玉かぎる】分類枕詞:玉が淡い光を放つところから、「ほのか」「夕」「日」「はろか」などにかかる。また、「磐垣淵(いはかきふち)」にかかるが、かかり方未詳。(学研)
(注)はたすすき【旗薄】名詞:長く伸びた穂が風に吹かれて旗のようになびいているすすき。(学研)
(注)いにしへ:亡き父草壁皇子の安騎野遊猟をいう。(伊藤脚注)
この歌についてはブログ拙稿「万葉歌碑を訪ねて(その370)」で紹介している。
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■巻一 四六歌■
◆阿騎乃野尓 宿旅人 打靡 寐毛宿良目八方 古部念尓
(柿本人麻呂 巻一 四六)
≪書き下し≫安騎の野に宿る旅人(たびひと)うち靡(なび)き寐(い)も寝(ね)らめやもいにしへ思ふに
(訳)こよい、安騎の野に宿る旅人、この旅人たちは、のびのびとくつろいで寝ることなどできようか。いにしえのことを思うにつけて。(同上)
(注)うちなびく【打ち靡く】自動詞:①草・木・髪などが、横になる。なびき伏す。②人が横になる。寝る。 ③相手の意に従う。(weblio辞書 三省堂大辞林第三版)
(注)いもぬらめやも【寝も寝らめやも】分類連語:寝ていられようか、いや、寝てはいられない。 ※なりたち名詞「い(寝)」+係助詞「も」+動詞「ぬ(寝)」の終止形+現在推量の助動詞「らむ」の已然形+係助詞「や」+終助詞「も」(学研)
■巻一 四七歌■
◆真草苅 荒野者雖有 葉 過去君之 形見跡曽来師
(柿本人麻呂 巻一 四七)
≪書き下し≫ま草刈る荒野(あらの)にはあれど黄葉(もみちば)の過ぎにし君が形見とぞ来(こ)し
(訳)廬草(いおくさ)刈る荒野ではあるけれども、黄葉(もみちば)のように過ぎ去った皇子の形見の地として、われらはここにやって来たのだ。(同上)
(注)ま草刈る:「荒野」の枕詞。(伊藤脚注)
(注)黄葉の:「過る」の枕詞。散り過ぐの意。「過ぐ」は死ぬ意の敬避表現。(伊藤脚注)
■巻一 四八歌■
◆東 野炎 立所見而 反見為者 月西渡
(柿本人麻呂 巻一 四八)
≪書き下し≫東(ひむがし)の野にかぎろひの立つ見えてけへり見すれば月かたぶきぬ
(訳)東の野辺には曙の光がさしそめて、振り返ってみると、月は西空に傾いている。(同上)
(注)かぎろひ【陽炎】名詞:東の空に見える明け方の光。曙光(しよこう)。②「かげろふ(陽炎)」に同じ。[季語] 春。※上代語。(学研)
(注)かへり見すれば:体験からの確信に基づく行為。(伊藤脚注)
この歌については、ブログ拙稿「万葉歌碑を訪ねて(その368,369)」で紹介している。
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■巻一 四九歌■
◆日雙斯 皇子命乃 馬副而 御﨟立師斯 時者来向
(柿本人麻呂 巻一 四九)
≪書き下し≫日並皇子(ひなみしみこ)の命(みこと)の馬並(な)めてみ狩(かり)立たしし時は来向(きむか)ふ
(訳)日並皇子(ひなみしみこ)の命、あのわれらの大君が馬を勢揃いしてみ猟(かり)に踏み立たれたその時刻は、今まさに到来した。(同上)
(注)日並皇子(ひなみしみこ):日に並ぶ皇子の意。草壁皇子に限っていう。(伊藤脚注)
(注)来向ふ:来て我と面と向かい合う。(伊藤脚注)
(注の注)きむかふ【来向かふ】自動詞:近づいて来る。 ※参考 こちらを主とした場合は「迎ふ」であるが、「来向かふ」は向かって来るものを主にして、その近づくのを期待する気持ちがある。(学研)
四六歌については、拙稿ブログ「万葉歌碑を訪ねて(その372)」で、四七歌は、同「同(その373)」で、四九歌は、同「同(その371)で紹介している。
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文武天皇陵も課題として浮かび上がって来た。機会をとらえて訪れたいものである。
(参考文献)
★「萬葉集」 鶴 久・森山 隆 編 (桜楓社)
★「万葉の旅 上 大和」 犬養 孝 著 (平凡社ライブラリー)
★「weblio古語辞典 学研全訳古語辞典」
★「コトバンク 株式会社平凡社『改訂新版 世界大百科事典』」