●歌は、「大き海の水底ふかく思ひつつ裳引き平らしし菅原の里(石川女郎 20-4491)」である。
【菅原の里】
「石川女郎(巻二十‐四四九一)(歌は省略) 元明天皇の勅願によるといわれる喜光寺(菅原寺)・・・行基(きょうき)は、晩年この寺に住んで、その東南院で天平二一年(七四九)二月八二歳で死んだ。・・・このあたり一帯がもと菅原伏見の里といわれ、・・・平城遷都以前からの土師(はじ)氏の故地で、喜光寺すぐ北の式内菅原神社はその祖神をまつっている。平城京右京二条二坊にあたり、藤原宇合(いまかい)(不比等の子)の第二子の藤原宿奈麻呂(すくなまろ)もこの付近に住んでいたようである。
この歌の左註によると、宿奈麻呂の妻の石川女郎が『愛薄らぎ離別せられ、悲しび恨みて』作った歌という。『大きい海の水底のように深く心に思いながら、裳裾(もすそ)をひいていつもゆききした菅原の里よ』とうたって、かつての愛を得ていた日をうらめしく回想している歌だ。平城京裡、貴族生活の索漠(さくばく)とした一断面がここにのこされている感がある。」(「万葉の旅 上 大和」 犬養 孝 著 平凡社ライブラリーより)
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巻二十 四四九一歌をみていこう。
■巻二十 四四九一歌■
◆於保吉宇美能 美奈曽己布可久 於毛比都々 毛婢伎奈良之思 須我波良能佐刀
(石川女郎 巻二十 四四九一)
≪書き下し≫大(おほ)き海の水底(みなそこ)深く思ひつつ裳引(もび)き平(なら)しし菅原(すがはら)の里
(訳)大きな海の水底(みなそこ)、その心の底深く思いをこめながら、裳を引いて行きつ戻りつしてお待ちした菅原の里よ。ああかつてはそんな里であったのに。(伊藤 博 著 「万葉集 四」 角川ソフィア文庫より)
(注)大き海の:「水底」(心の底)の枕詞。(伊藤脚注)
(注)平しし菅原の里:以前は行きつ戻りつしてお待ちしたこの菅原の里なのに、今はああ。右の宴で家持が披露した歌。(伊藤脚注)
(注の注)裳引き:女性が裳の裾を長引きずること。(学研)
(注の注)も【裳】名詞:①上代、女性が腰から下を覆うようにまとった衣服。「裙(くん)」とも。◇「裙」とも書く。②平安時代、成人した女性が正装のときに、最後に後ろ腰につけて後方へ長く引き垂らすようにまとった衣服。多くのひだがあり、縫い取りをして装飾とした。③僧が、腰から下にまとった衣服。 ⇒参考:②の用例は、平安時代の貴族の女子の成人の儀式である「髪上(かみあ)げ」と「裳着(もぎ)」をいっている。⇒もぎ(学研)ここでは①の意
(注の注)ならす【均す・平す】他動詞:平らにする。(学研)
左注は、「右一首藤原宿奈麻呂朝臣之妻石川女郎薄愛離別悲恨作歌也 年月未詳」<右の一首は、藤原宿奈麻呂朝臣(ふぢはらのすくなまろのあそみ)が妻(め)石川女郎(いしかはのいらつめ)、愛を薄くし離別せらえ、悲しび恨みて作る歌 年月未詳>である。
この歌については、拙稿ブログ「万葉歌碑を訪ねて(その22改)」で紹介している。
➡ こちら22改
上記「(注)平しし菅原の里:以前は行きつ戻りつしてお待ちしたこの菅原の里なのに、今はああ。」の「右の宴」は、三形王の館での宴をさす。これについては、拙稿ブログ「万葉歌碑を訪ねて(その2302)」で紹介している。
➡ こちら2302
「喜光寺」「菅原神社」「平城宮跡歴史公園」などは下記の地図を参照してください。
(参考文献)
★「萬葉集」 鶴 久・森山 隆 編 (桜楓社)
★「万葉の旅 上 大和」 犬養 孝 著 (平凡社ライブラリー)
★「weblio古語辞典 学研全訳古語辞典」
★「グーグルマップ」