万葉集の歌碑めぐり

万葉歌碑をめぐり、歌の背景等を可能な限り時間的空間的に探索し、万葉集の万葉集たる所以に迫っていきたい!

万葉集の世界に飛び込もう(その2707)―書籍掲載歌を中軸に(Ⅱ)―

●歌は、「そらみつ 大和の国 あをによし 奈良の都ゆ おしてる 難波に下り 住吉の 御津に船乗り 直渡り 日の入る国に・・・(作者未詳 19-4245)」である。

 

【住吉の大神】

 「作者未詳(巻十九‐四二四五)(歌は省略) 住吉は、当時はすべて『スミノエ』(須美乃延)とよばれていた。およそこんにちの大阪市の南部の住吉(すみよし)区一帯で、・・・住吉神社は海神の底筒之男(そこつつのお)・中筒(なかつつ)之男・上筒(うわつつ)之男の三神に神功皇后を合祀しており(四座)、古来、海上を支配する神として、遣唐使など官船の出入につけて航海の安全が祈られてきた。・・・当時は付近に住吉(すみのえ)の御津(みつ)があり、海岸の好風地で行幸も多く、『万葉集』中で、『住吉(すみのえ)』の地名は延て四一を数えるほどである。

 この歌は、天平五年(七三三)多治比広成(たじひのひろなり)が遣唐大使でゆくときの歌で、『懸けまくの・・・』以下の語は、天平十一年(七三九)石上乙麻呂(いそのかみのおとまろ)が土佐配流のときの歌にも類語が見られ、ともに乙麻呂の作ではないかとする説もあるが、あるいは祈願のときの類語用語であるかもしれない。」(「万葉の旅 中 近畿・東海・東国」 犬養 孝 著 平凡社ライブラリーより)

 

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巻十九 四二四五~四二四七歌をみていこう。

■■巻十九 四二四五~四二四七歌■■

題詞は、「天平五年贈入唐使歌一首 幷短歌 作主未詳」<天平五年に、入唐使に贈る歌一首 幷(あは)せて短歌 作主未詳>である。

(注)入唐使:丹比広成を大使とする遣唐使。(伊藤脚注)

 

■巻十九 四二四五歌■

◆虚見都 山跡乃國 青丹与之 平城京師由 忍照 難波尓久太里 住吉乃 三津尓舶能利 直渡 日入國尓 所遣 和我勢能君乎 懸麻久乃 由々志恐伎 墨吉乃 吾大御神 舶乃倍尓 宇之波伎座 船騰毛尓 御立座而 佐之与良牟 礒乃埼々 許藝波底牟 泊々尓 荒風 浪尓安波世受 平久 率而可敝理麻世 毛等能國家尓

       (作者未詳 巻十九 四二四五)

 

≪書き下し≫そらみつ 大和(やまと)の国 あをによし 奈良の都ゆ おしてる 難波(なには)に下(くだ)り 住吉(すみのえ)の 御津(みつ)に船乗(ふなの)り 直渡(ただわた)り 日の入る国に 任(ま)けらゆる 我が背(せ)の君を かけまくの ゆゆし畏(かしこ)き 住吉の 我が大御神(おほみかみ) 船(ふな)の舳(へ)に 領(うしは)きいまし 船艫(ふなども)に み立たしまして さし寄らむ 礒の崎々(さきざき) 漕(こ)ぎ泊(は)てむ 泊(とま)り泊(とま)りに 荒き風 波にあはせず 平(たひら)けく 率(ゐ)て帰りませ もとの朝廷(みかど)に

 

(訳)そらみつ大和の国、この奈良の都から、おしてる難波に下って、その住吉の御津で船に乗り、まっすぐに海を渡って、日の入る唐の国に遣わされる我が背の君よ、その君を、口にかけて申すもはばかり多い住吉のわれらが大御神よ、行く船の舳先に鎮座ましまし、船の艫(とも)にお立ちになって、立ち寄るどの磯の崎々でも、船を泊めるどの港でも、荒い風や波に遭わせず、どうか無事に導いて帰してやって下さい。もとのこの大和の国に。(「万葉集 四」 伊藤 博 著 角川ソフィア文庫より)

(注)そらみつ 分類枕詞:国名の「大和」にかかる。語義・かかる理由未詳。「そらにみつ」とも。「そらみつ大和の国」(weblio古語辞典 学研全訳古語辞典)

(注)御津:航海の神を祭る住吉大社の近くにあった、遣唐使発着の港。(伊藤脚注)

(注の注)御津 分類地名:今の大阪市にあった港。難波(なにわ)の御津、大伴(おおとも)の御津ともいわれた。(学研)

(注)日の入る国:西の国、唐。東の国、日本の対。(伊藤脚注)

(注)かけまく:心にかけて思うこと。言葉に出して言うこと。 ※派生語。下にさらに係助詞「も」を伴い、副詞的に用いられることが多い。 ⇒なりたち:動詞「か(懸)く」の未然形+推量の助動詞「む」の古い未然形「ま」+接尾語「く」(学研)

(注)うしはく 【領く】他動詞:支配する。領有する。 ※上代語。(学研)

 

 

 

■巻十九 四二四六歌■

◆奥浪 邊波莫越 君之舶 許藝可敝里来而 津尓泊麻泥

       (作者未詳 巻十九 四二四六)

 

≪書き下し≫沖つ波辺波(へなみ)な越しそ君が船漕ぎ帰り来て津に泊(は)つるまで

 

(訳)沖の波も岸辺の波も、どうかたんとは立たないでおくれ。我が君のお船、その船が漕ぎ帰って来て、御津に船泊(ふなは)てするまでは。(同上)

(注)越す:波や風など気象には「越ゆ」と言わず「越す」という。(伊藤脚注)

(注)四二四五・四二四六歌、妻の立場の歌だが、某男性歌人の代作であろう。(伊藤脚注)

 

 

 

■巻十九 四二四七歌■

題詞は、「阿倍朝臣老人遣唐時奉母悲別歌一首」<阿倍朝臣老人(あへのあそみおきな)、唐に遣(つか)はさえし時に、母に奉(たてまつ)る悲別の歌一首>である。

(注)阿倍朝臣老人:伝未詳。(伊藤脚注)

(注)唐に遣はさえし時:前歌と同じ天平五年の際か。(伊藤脚注)

 

◆天雲能 曽伎敝能伎波美 吾念有 伎美尓将別 日近成奴

       (阿倍朝臣老人 巻十九 四二四七)

 

≪書き下し≫天雲(あまくも)のそきへの極(きは)み我(あ)が思へる君に別れむ日(ひ)近くなりぬ

 

(訳)天雲の果てまでも限りなく私が思っている母君に、お別れせねばならぬ日がすぐそこに来てしまいました。(同上)

(注)天雲のそきへの極み:天雲のはるばると流れて行く果てまで離れていても。「そきへ」は離れた果て。「そくへ」とも。(伊藤脚注)

(注の注)そきへ 【退き方】名詞:遠く離れたほう。遠方。果て。「そくへ」とも。(学研)

 

左注は、「右件歌者傳誦之人越中大目高安倉人種麻呂是也 但年月次者随聞之時載於此焉」<右の件(くだり)の歌、伝誦する人は越中(こしのみちのなか)の大目(だいさくわん)高安倉人種麻呂(たかやすのくらひとたねまろ)ぞ。ただし、年月の次(つぎて)は、聞きし時のまにまにここに載(の)す>である。

(注)大目:地方官の四等官越中は当時大国。大国には大目・少目があった。(伊藤脚注)

(注)高安倉人種麻呂:伝未詳。正税帳使久米広縄と共に上京し、一足先に帰って、件の歌を家持に伝えたものか。(伊藤脚注)

 

 

 

 

 次の写真は、住吉大社境内にある「遣唐使進発の地」碑である。

住吉大社境内「遣唐使進発の地」碑 20201012撮影

 

 

 

 住吉大社境内には、「住吉万葉歌碑」(出土埴輪古代船と角柱で構成)があり、万葉歌十七首が収録されている。万葉時代を推定する住吉の地形図と港にふさわしい表象として出土埴輪古代船をベースに立てられているユニークな歌碑である。

 十七首については、拙稿ブログ「万葉歌碑を訪ねて(その794-1)~(同794-17)」で紹介している。代表として794-1を紹介いたします。

 ➡ 

tom101010.hatenablog.com

 

 

 

 

万葉歌碑・御由緒・反り橋 20201012撮影



 

 

住吉大社境内「住吉万葉歌碑」(出土埴輪古代船と角柱で構成) 20201012撮影



 

 

住吉大社御由緒」と反り橋 20201012撮影



 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

(参考文献)

★「萬葉集」 鶴 久・森山 隆 編 (桜楓社)

★「万葉集 四」 伊藤 博 著 (角川ソフィア文庫

★「万葉の旅 中 近畿・東海・東国」 犬養 孝 著 (平凡社ライブラリー

★「weblio古語辞典 学研全訳古語辞典」