●歌は、「若の浦に潮満ち来れば潟をなみ葦辺をさして鶴鳴き渡る(山部赤人 6-919)」である。
【玉津島・わかの浦(二)】
「山部赤人(巻六‐九一九)(歌は省略)この第二の反歌では、長歌と第一の反歌とに応じて、景観は一転し満潮時の実景となる。・・・すべては陸地への方向に動いてゆく姿としてとらえられ、緊密な絵画的構図を見せている。満潮時の動的変化がもたらす、そそけだった不安な気分が、単純な旅愁とむすびつかないで、絵画的な様式美の世界をつくりあげるところに赤人がある。もちろn、万葉第二期の高市黒人(たけちのくろひと)の尾張での歌、(巻三‐二七一)(歌は省略)を学んでいると思われるが、黒人の歌では、作者の生は空のひろがりを渡ってゆく鶴群と密着で音楽的諧和をとげ景観そのものになりきっているが、赤人の歌では、すでに自覚的に自然は鑑照化されて、しかも長歌・短歌の全体の構造との関連を保ちながら、わかの浦の風土の中に鮮明な美の一つの典型を創造していっているといってよい。赤人の歌以後こんにちまで、人は何らかの程度でこの歌のことを意識することなしには、和歌浦の風光を考えられなくなっていることを思えば、赤人はついに文芸的な風土を創造したといってもよい。」(「万葉の旅 中 近畿・東海・東国」 犬養 孝 著 平凡社ライブラリーより)
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巻六 九一九歌をみていこう。
■巻六 九一九歌■
◆若浦尓 塩滿来者 滷乎無美 葦邊乎指天 多頭鳴渡
(山部赤人 巻六 九一九)
≪書き下し≫若(わか)の浦(うら)に潮満ち来(く)れば潟(かた)を無み葦辺(あしへ)をさして鶴(たづ)鳴き渡る
(訳)若の浦に潮が満ちて来ると、干潟(ひがた)がなくなるので、葦の生えている岸辺をさして、鶴がしきりに鳴き渡って行く。(伊藤 博 著 「万葉集 二」 角川ソフィア文庫より)
(注)長歌の「風吹けば白波騒ぎ 潮干れば玉藻刈りつつ」を承け、満潮時の景を述べて結ぶ。「若の浦」は和歌浦湾の東、旧和歌浦。今は陸地になっている。(伊藤脚注)
左注は、「右年月不記 但偁従駕玉津嶋也 因今檢注行幸年月以載之焉」<右は、年月を記(しる)さず。ただし、「玉津島に従駕(おほみとも)す」といふ。よりて今、行幸(いでまし)の年月を検(ただ)して載す>である。
この歌については、拙稿ブログ「万葉歌碑を訪ねて(その734)」で紹介している。
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巻六 九一九歌については、拙稿ブログ「万葉歌碑を訪ねて(その735)」で、和歌山市和歌浦中 塩竈神社鳥居横万葉歌碑とともに紹介している。
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鹽竃神社については、「じゃらんnet HP」に次のように書かれている。
「万葉の時代から人々に親しまれてきた風光明媚な和歌の浦に位置し、塩槌翁尊(シオツチオキナノミコト)をお祀りしています。尊は遠く神話に登場します。兄海幸彦から借りた釣針をなくし、兄の怒りにふれて困っている弟山幸彦に「海神の所に行け」と教え、後に山幸彦は龍宮の豊玉姫を娶とられ、姫は懐妊し、安産によって御子を授けられました。このことから、現在も安産の守護として、人々に親しまれています。また、江戸時代の和歌山では「一に権現(紀州東照宮)、二に玉津島、三に下り松、四に塩竃よ」と歌われ、塩田の塩を焼く釜からこの名が付けられたといいます。神社近くの小高い丘には、干潟を望むかのように山部赤人の有名な歌碑が建っています。」
巻三 二七一歌もみてみよう。
■巻三 二七一歌■
◆櫻田部 鶴鳴渡 年魚市方 塩干二家良之 鶴鳴渡(二七一歌)
(高市黒人 巻三 二七一)
≪書き下し≫桜田 (さくらだ)へ鶴(たづ)鳴き渡る年魚市潟(あゆちがた)潮干(しほひ)にけらし鶴鳴き渡る
(訳)桜田の方へ、鶴が群れ鳴き渡って行く。年魚市潟(あゆちがた)では潮が引いたらしい。今しも鶴が鳴き渡って行く。(同上)
(注)年魚市潟:名古屋市南部の、入海であった所。(伊藤脚注)
二七〇から二七七歌の歌群の題詞は、「高市連黒人羈旅歌八首」<高市連黒人(たけちのむらじくろひと)が羈旅(きりょ)の歌八首>である。
羇旅の歌八首については、拙稿ブログ「万葉歌碑を訪ねて(その250)」で、高島市勝野 関電高島変電所前万葉歌碑(二七五歌)とともに紹介している。
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(参考文献)
★「萬葉集」 鶴 久・森山 隆 編 (桜楓社)
★「万葉の旅 中 近畿・東海・東国」 犬養 孝 著 (平凡社ライブラリー)
★「weblio古語辞典 学研全訳古語辞典」
★「じゃらんnet HP」