【大伴坂上郎女の怨恨歌】
「つまり、『待つ女の文芸』は、次の二つによって支えられているのです。一つは当時の婚姻関係であり、もう一つは中国の閏怨詩です。そういう『待つ女の文芸』の系譜に連なる作品を、坂上郎女も残しています。その名も『怨恨歌』といいます。
(相聞 巻四の六一九)(同 同六二〇)(いずれも歌は省略)
・・・男は『年深く 長く』といったようなのです。つまり、君との付き合いは永遠だよ、といって口説いたのです。・・・女は、一点の曇りもなく磨かれた鏡のように心を研ぎ澄ましていたのに、といっています。・・・女は『年深く 長く』という言葉を信じ、心を許したといっています。ところが、・・・男は通ってこなくなりました。・・・通ってこなくなった当初は、使いが来て弁解だけはしていたようです。ところが、後には使いも来なくなりました。そうすると、どうすることもできません。女にできることは、ただ、煩悶し、嘆き、泣くだけです。それでも、わたしは使いを待っている、と長歌では歌い納めます。
反歌では、こうなってしまった原因を、もう一人の自分が顔を出して、分析して、こう述べるのです。『長く』という言葉を信じなかったら、こんな思いもするはずがなかったのに、と。」(「万葉集の心を読む」 上野 誠著 角川ソフィア文庫より)
相聞 巻四の六一九歌ならびに六二〇歌をみていこう。
■■巻四 六一九・六二〇歌■■
題詞は、「大伴坂上郎女怨恨歌一首 幷短歌」<大伴坂上郎女の怨恨(うらみ)の歌)一首〔幷(あは)せて短歌〕>である。
(注)怨恨歌:女の恋の怨恨を主題とする歌。(伊藤脚注)
■巻四 六一九歌■
◆押照 難波乃菅之 根毛許呂尓 君之聞四手 年深 長四云者 真十鏡 磨師情乎 縦手師 其日之極 浪之共 靡珠藻乃 云々 意者不持 大船乃 憑有時丹 千磐破 神哉将離 空蝉乃 人歟禁良武 通為 君毛不来座 玉梓之 使母不所見 成奴礼婆 痛毛為便無三 夜干玉乃 夜者須我良尓 赤羅引 日母至闇 雖嘆 知師乎無三 雖念 田付乎白二 幼婦常 言雲知久 手小童之 哭耳泣管 俳徊 君之使乎 待八兼手六
(大伴坂上郎女 巻四 六一九)
≪書き下し≫おしてる 難波(なには)の菅(すげ)の ねもころに 君が聞こして 年深く 長くし言へば まそ鏡 磨(と)ぎし心を 許してし その日の極(きは)み 波のむた なびく玉藻(たまも)の かにかくに 心は持たず 大船(おほぶね)の 頼める時に ちはやぶる 神か放(さ)けけむ うつせみの 人か障(さ)ふらむ 通(かよ)はしし 君も来(き)まさず 玉梓(たまづさ)の 使ひも見えず なりぬれば いたもすべなみ ぬばたまの 夜(よる)はすがらに 赤らひく 日も暮るるまで 嘆けども 験(しるし)をなみ 思へども たづきを知らに たわやめと 言はくも著(しる)く 手童(たわらは)の 音(ね)のみ泣きつつ たもとほり 君が使ひを 待ちやかねてむ
(訳)おしてる 難波の菅にも根があるが そのねんごろに あなたはいった いつまでも 末永くとあなたはいった だから わたしは 真澄の鏡のように 研ぎ澄まして 誰のも気を許さなかった心 その心を許した その日からとは…… 波間に漂い なびく玉藻のように あれこれと 迷う心は捨て去って 大きな大きな船のように あなたを頼りにしていたのに それなのに ちはやぶる 神がわたしたちを引き裂いたのでしょうか うつせみの人がわたしたちを引き裂いたのでしょうか 通ってきてくれた あなたも来なくなりました 玉梓の お使いすらもよこしてくれなくなりましたね そうなってしますと どうすることもできません ぬばたまの 夜は夜どおし あからひく 日は暮れるまで 嘆きます でもそのかいもなく 思い悩みます でもどうしてよいのかわかりませんたわやめ かよわき女というその名のとおり 赤ん坊のように 声をあげて泣き ゆきつもどりつ あなたのお使いを わたしは待ちかねている(「万葉集の心を読む」 上野 誠著 角川ソフィア文庫より)
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(注)おしてる難波の菅の:序。「ねもころに」を起す。(伊藤脚注)
(注)まそ鏡:「磨ぐ」(張りつめる)の枕詞。(伊藤脚注)
(注)日の極み:その日を極限として。その日以来。(伊藤脚注)
(注の注)きはみ【極み】名詞:(時間や空間の)極まるところ。極限。果て。(weblio古語辞典 学研全訳古語辞典)
(注)波の共:波のまにまに。以下二句は序。「かにかくに」(あちらこちらとためらう)を起す。(伊藤脚注)
(注)かにかくに 副詞:あれこれと。何かにつけて。(学研)
(注)すがらに 副詞:途切れることなく、ずっと。 ⇒参考:ふつう「夜」について用いる。(学研)
(注)あからひく【赤ら引く】分類枕詞:赤い色を帯びて輝く意から「肌」「日」「朝」などにかかる。(学研)
(注)げん【験】名詞:①(仏道の修行を積んだしるしとしての)効験。また、(加持・祈禱(きとう)や祈願などの)効き目。霊験。②効果。効き目。(学研)ここでは②の意
(注)たわや女と言はくもしるく:たわや女と言うその名のとおりはっきりと。(伊藤脚注)
(注の注)もしるく【も著く】分類連語:予想どおりで。まさにそのとおりで。(学研)
(注)たわらはの:ききわけのない子供のように。(伊藤脚注)
(注の注)た- 接頭語:名詞・副詞・動詞・形容詞の上に付いて、語調を整え、意味を強める。「たわらは」「たゆたに」「たやすし」「たもとほる」(学研)
(注)待ちやかねてむ:待ちあぐんでいなければならぬのか。(伊藤脚注)
■巻四 六二〇歌■
◆従元 長謂管 不令恃者 如是念二 相益物歟
(大伴坂上郎女 巻四 六二〇)
≪書き下し≫はじめより 長く言ひつつ 頼めずは かかる思ひに あはましものか
(訳)出逢ったはじめに 「末永く」などとあなたがいって わたしの心を開かなかったら こんな思いも しなくてすんだのに(同上)
(注)頼めずは:頼りにさせなかったら。(伊藤脚注)
(注)逢はましものか:逢わなかっただろうに。モノカは反語。(伊藤脚注)
(注の注)ものか 分類連語:①…ものか。…ていいものか。▽非難の意をこめて問い返す意を表す。②(なんとまあ)…ことよ。(驚いたことに)…ではないか。▽意外な事態に驚いたときの強い感動を表す。 ⇒参考:活用語の連体形に接続する。 ⇒なりたち:形式名詞「もの」+係助詞「か」(学研)ここでは①の意
この怨恨歌については、拙稿ブログ「万葉集の世界に飛び込もう(その2594の4)―書籍掲載歌を中軸に―」で宗像大社第二駐車場万葉歌碑(大伴坂上郎女 6-963、作者未詳 7-1230)とともに紹介している。
➡ こちら2594の4

20201118撮影
(参考文献)
★「萬葉集」 鶴 久・森山 隆 編 (桜楓社)
★「weblio古語辞典 学研全訳古語辞典」