●歌は、「苦しくも降り来る雨か神の崎狭野の渡りに家もあらなくに(長忌寸意吉麿 3-265)」である。
【佐野・三輪崎】
「長奥麻呂(ながのおきまろ)(巻三‐二六五)(歌は省略) 作者の長奥麻呂は万葉第二期の持統朝のころの人だが、どういう事情の旅であるかはわからない。『みわのさき』『さの』は古く大和説近く大阪府説があるが、遠く熊野の地に来なかったともかぎらないから、諸注のように、いまの新宮市三輪崎(みわざき)・佐野(さの)とみられよう。佐野はもとは東牟婁(むろ)郡三輪崎村にふくまれていた。・・・晴れた日には・・・目もあざやかな熊野灘の海景だが、ひとたび雨となれば全国でもきこえた熊野の多雨地帯、ことに佐野・三輪崎間のさえぎるもののない海浜の雨は強烈で知られ、とうてい奈良の都のそれではない。『苦しくも降り来る雨か』の訴えにつづいて、大地名から小地名へとしぼってきてみわたすかぎりやどるべき家一つない茫漠たる景観に託して、旅情と苦難をうち出してゆくのも当然である。この歌を本歌とした後代の藤原定家の歌とくらべて、風土との関連の深さが思われる。」(「万葉の旅 中 近畿・東海・東国」 犬養 孝 著 平凡社ライブラリーより)
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巻三 二六五歌をみていこう。
■巻三 二六五歌■
◆苦毛 零来雨可 神之崎 狭野乃渡尓 古所念
(長忌寸意吉麿 巻三 二六五)
≪書き下し≫苦しくも降り来る雨か三輪の崎狭野の渡りに家もあらなくに
(訳)何とも心せつなく降ってくる雨であることか。三輪の崎の佐野の渡し場に、くつろげる我が家があるわけでもないのに。(伊藤 博 著 「万葉集 一」角川ソフィア文庫より)
(注)三輪の崎狭野:新宮市三輪崎および佐野一帯という。(伊藤脚注)
(注)家:くつろげる我が家。(伊藤脚注)
この歌については、拙稿ブログ「万葉歌碑を訪ねて(その92改)」で、奈良県桜井市三輪ヶ崎の万葉歌碑とともに紹介している。
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犬養著の解説にあった「この歌を本歌とした後代の藤原定家の歌」とは、「駒とめて袖うちはらふかげもなし佐野のわたりの雪の夕暮」である。
「三輪崎村(読み)みわさきむら」については、「日本歴史地名大系 『三輪崎村』の解説」に、次のように書かれている。
「和歌山県:新宮市三輪崎村 [現在地名]新宮市三輪崎・三輪崎一―三丁目 広津野(ひろつの)の南にあり、東南部は岬状に熊野灘に突出る。大部分は山地で集落は熊野灘沿岸部に点在する。南は佐野(さの)村。景勝の地で海上には鈴(すず)島・孔(く)島がある。孔島は浜木綿の自生地。村内を佐野川が南流して熊野灘に注ぎ、村の北の高森たかもりに小集落がある。『続風土記』は『地形に依るに三輪の三は真と同しく美称の詞、輪は湾の義にて三輪崎は大湾の岬の義なるへし』と記す。『万葉集』巻三に『神(みわ)の埼(さき)狭野(さの)の渡り』と詠まれ、また巻七に『神の崎荒磯も見えず(以下略)』とあるのも、当地にあてる説もある。」(コトバンク 平凡社「日本歴史地名大系」)
(注)巻七『神の崎荒磯も見えず(以下略)』:巻七 一二二六歌である。
一二二六歌については、拙稿ブログ「万葉歌碑を訪ねて(その1197)」で紹介している。
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(参考文献)
★「萬葉集」 鶴 久・森山 隆 編 (桜楓社)
★「万葉の旅 中 近畿・東海・東国」 犬養 孝 著 (平凡社ライブラリー)
★「weblio古語辞典 学研全訳古語辞典」