●歌は、「風早の三穂の浦みを漕ぐ舟の舟人騒く波立つらしも」である。
●歌をみていこう。
◆風早之 三穂乃浦廻乎 榜舟之 船人動 浪立良下
(作者未詳 巻七 一二二八)
≪書き下し≫風早(かざはや)の三穂(みほ)の浦(うら)みを漕ぐ舟の舟人(ふなびと)騒(さわ)く波立つらしも
(訳)風早の三穂の浦のあたりを漕いでいる舟の舟人たちが大声をあげて動き廻っている。波が立ちはじめたらしい。(「万葉集 二」 伊藤 博 著 角川ソフィア文庫より)
(注)かざはや【風早/風速】:風が強く吹くこと。多く「かざはやの」の形で、風の激しい土地の形容として用いる。(weblio辞書 デジタル大辞泉)
伊藤 博氏は、その著「万葉集 二」(角川ソフィア文庫)のこの歌の脚注で、(一二二六から一二二八歌)「三首連鎖し、紀州の歌としてまとまる。時間的には前歌群の舟が、夜半磯に寄り着き、明けて朝出で立つ趣。」と書いておられる。
前歌二首をみてみよう。
◆神前 荒石毛不所見 浪立奴 従何處将行 与奇道者無荷
(作者未詳 巻七 一二二六)
≪書き下し≫三輪(みわ)の崎(さき)荒磯(ありそ)も見えず波立ちぬいづくゆ行かむ避(よ)き道(ぢ)はなしに
(訳)三輪の崎の荒磯も見えないほど、波が高く立ってきた。どこを通って行ったらよいのか。避(よ)けて行く道もないのに。(同上)
(注)三輪の崎:新宮市三輪崎か。
「神之埼」と書いて「みわのさき」と読む例は、長忌寸奥麻呂の二六五歌にもみられる。日本最古の神社である「大神神社」は「おおみわじんじゃ」と読む。三輪の神は、神の神と言ったところからかかる読み方が定着したのであろう。
二六五歌についてはブログ拙稿「万葉歌碑を訪ねて(その92改)」で紹介している。
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次をみてみよう。
◆礒立 奥邊乎見者 海藻苅舟 海人榜出良之 鴨翔所見
(作者未詳 巻七 一二二七)
≪書き下し≫礒に立ち沖辺(おきへ)を見れば藻刈(めか)り舟(ぶね)海人(あま)漕(こ)ぎ出(づ)らし鴨(かも)翔(かけ)る見ゆ
(訳)岩の多い海岸に立ってはるか沖の方(かた)を見やると、海藻を刈る舟の海人たちが漕ぎ出したのであるらしい、鴨が群れて飛び交っている。(同上)
道路を挟んだ海岸線の反対側切通しの雑草に埋もれていた歌碑説明板には、「万葉集には、三穂の地にかかわりある歌が六首あり、この歌はその一首である。古来三穂の沖合は風波が甚だしく、そのため三穂の地名には「風早」という枕詞がついた。歌の作者は明らかではないが、詠まれた風景は一三〇〇年を経た今も変わらない。(後略)」と書かれている。
海岸にある巨大な岩に歌のプレートをはめ込んだ実に豪快な歌碑である。
「三穂の地」に関わりのある歌をみてみよう。
題詞は、「博通法師徃紀伊國見三穂石室作歌三首」<博通法師(はくつうほふし)、紀伊の国(きのくに)に徃き、三穂(みほ)の石室(いはや)を見て作る歌三首>である。
◆皮為酢寸 久米能若子我 伊座家留 <一云 家牟> 三穂乃石室者 雖見不飽鴨 <一云 安礼尓家留可毛>
(博通法師 巻三 三〇七)
≪書き下し≫はだ薄(すすき)久米の若子(わくご)がいましける<一には「けむ」といふ>三穂(みほ)の石室(いはや)は見れど飽(あ)かぬかも<一には「荒れにけるかも」といふ>
(訳)久米の若子がその昔おられたという三穂の岩屋、この岩屋は、見ても見ても見飽きることがない。<今やまったく人気がなくなってしまった>(「万葉集 一」 伊藤 博 著 角川ソフィア文庫より)
(注) はだすすき【はだ薄】分類枕詞:すすきの穂の意から「穂」「末(うれ)(=穂の先)」「うら」にかかる。(学研)
(注の注)ここでは久米に懸っている。穂が隠(こも)る意か。
(注)久米の若子:伝説上の人物。
(注)います【坐す・在す】自動詞:①いらっしゃる。おいでになる。▽「あり」の尊敬語。②おでかけになる。おいでになる。▽「行く」「来(く)」の尊敬語。(学研)ここでは①の意
この歌については、ブログ拙稿「万葉歌碑を訪ねて(953)」で紹介している。
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あとの二首もみてみよう。
◆常磐成 石室者今毛 安里家礼騰 住家類人曽 常無里家留
(博通法師 巻三 三〇八)
≪書き下し≫常磐(ときは)なす石室(いはや)は今もありけれど住みける人ぞ常なかりける
(訳)岩屋は、常盤のように常に変わらず今もあり続けているけれども、ここに住んでいたという人は常住不変ではあり得なかった。(同上)
(注)住みける人:久米の若子のこと。
◆石室戸尓 立在松樹 汝乎見者 昔人乎 相見如之
(博通法師 巻三 三〇九)
≪書き下し≫石室戸(いはやと)に立てる松の木汝(な)を見れば昔の人を相見(あひみ)るごとし
(訳)岩屋の戸口に立っている松の木よ、お前を見ると、ここに住んでいた昔の人と向かい合っているような気がする。(同上)
(注)昔の人:久米の若子のこと。
もう一首をみてみよう。
題詞は、「和銅四年辛亥河邊宮人見姫嶋松原美人屍哀慟作歌四首」<和銅四年辛亥(かのとゐ)に、河辺宮人(かはへのみやひと)、姫島(ひめしま)の松原の美人(をとめ)の屍(しかばね)を見て、哀慟(かな)しびて作る歌四首>である。
(注)和銅四年:711年
(注)姫島:ここは、紀伊三穂の浦付近の島
◆加座皤夜能 美保乃浦廻之 白管仕 見十方不怜 無人念者 <或云見者悲霜 無人思丹>
(河辺宮人 巻三 四三四)
≪書き下し≫風早(かざはや)の美穂(みほ)の浦みの白(しら)つつじ見れどもさぶしなき人思へば <或いは「見れば悲しもなき人思ふに」といふ>
(訳)風早の三穂(みほ)の海辺に咲き匂う白つつじ、このつつじは、いくら見ても心がなごまない。亡き人のことを思うと。<見れば見るほどせつない。亡き人を思うにつけて>(伊藤 博 著 「万葉集 一」 角川ソフィア文庫より)
(注)かざはや【風早】:風が激しく吹くこと。(weblio辞書 三省堂 大辞林 第三版)
この歌ならびに他の三首についてはブログ拙稿「万葉歌碑を訪ねて(その707)」で紹介している。
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四三五歌にも「久米の若子」が出て来るが、三〇七歌と同一人物かどうか残念ながら調べようがない。「いましける」と詠われているのはそれなりの身分の高い者であるとは思われる。
はし長水産直販部は、いけすもあり、魚介類がショーケースに今にもはねそうな感じで並べられている。果物や農産物のコーナーもある。その奥にフィッシュテラスがあり、そこで食事ができる。海が見えるテーブル席に座れた。刺身定食をゲット。こちらのテラスへの入口の駐車場の所に歌碑が建っている。
歌碑と刺身定食を満喫し「三尾海岸」に向かう。
ここも事前にストリートビューで確認しておいた。
現物は見れば見るほど惚れ惚れするスケールの歌碑である。
イソヒヨドリが歌碑の先端に止まってくれ、そのあと車の近くまで遊びに来てくれたのである。歌碑巡りを祝福してくれているみたいであった。
(参考文献)
★「萬葉集」 鶴 久・森山 隆 編 (桜楓社)
★「weblio古語辞典 学研全訳古語辞典」
※20230422三尾海岸の住所訂正