―その1244―
●歌は、「風早の三穂の浦みの白つつじ見れどもさぶなき人思へば」である。
●歌碑は、加古郡稲美町 稲美中央公園万葉の森(42)にある。
●歌をみていこう。
題詞は、「和銅四年辛亥河邊宮人見姫嶋松原美人屍哀慟作歌四首」<和銅四年辛亥(かのとゐ)に、河辺宮人(かはへのみやひと)、姫島(ひめしま)の松原の美人(をとめ)の屍(しかばね)を見て、哀慟(かな)しびて作る歌四首>である。
(注)和銅四年:711年
(注)姫島:ここは、紀伊三穂の浦付近の島
◆加座皤夜能 美保乃浦廻之 白管仕 見十方不怜 無人念者 <或云見者悲霜 無人思丹>
(河辺宮人 巻三 四三四)
≪書き下し≫風早(かざはや)の美穂(みほ)の浦みの白(しら)つつじ見れどもさぶしなき人思へば <或いは「見れば悲しもなき人思ふに」といふ>
(訳)風早の三穂(みほ)の海辺に咲き匂う白つつじ、このつつじは、いくら見ても心がなごまない。亡き人のことを思うと。<見れば見るほどせつない。亡き人を思うにつけて>(伊藤 博 著 「万葉集 一」 角川ソフィア文庫より)
(注)かざはや【風早】:風が激しく吹くこと。(weblio辞書 三省堂 大辞林 第三版)
(注の注)風早の:風の激しい意の枕詞的用法。
(注)白つつじ:娘子が死んで白つつじと化したという伝説によるという。
(注)さぶし【寂し・淋し】形容詞:心が楽しまない。物足りない。 ※中古以後は「さびし」。上代語。(学研)
この歌群ならびに河辺宮人なる類歌についてはブログ拙稿「万葉歌碑を訪ねて(その1095)」で紹介している。
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和歌山県日高郡美浜町三尾海岸にある万葉歌碑については、ブログ拙稿「万葉歌碑を訪ねて(その1197)」で紹介している。
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―その1245―
●歌は、「筑波嶺の新桑繭の衣はあれど君が御衣しあやに着欲しも」である。
●歌碑は、加古郡稲美町 稲美中央公園万葉の森(43)にある。
●歌をみていこう。
◆筑波祢乃 尓比具波波麻欲能 伎奴波安礼杼 伎美我美家思志 安夜尓伎保思母
或本歌日 多良知祢能 又云 安麻多氣保思母
(作者未詳 巻十四 三三五〇)
≪書き下し≫筑波嶺(つくはね)の新桑繭(にひぐはまよ)の衣(きぬ)はあれど君が御衣(みけし)しあやに着(き)欲(ほ)しも
或本の歌には「たらちねの」といふ。また「あまた着(き)欲しも」といふ。
(訳)筑波嶺一帯の、新桑で飼った繭の着物はあり、それはそれですばらしいけれど、やっぱり、あなたのお召がむしょうに着たい。(伊藤 博 著 「万葉集 三」 角川ソフィア文庫より)
(注)新桑繭(読み)にいぐわまよ :新しい桑の葉で育った繭。今年の蚕の繭。(コトバンク デジタル大辞泉)
(注)みけし【御衣】名詞:お召し物。▽貴人の衣服の尊敬語。 ※「み」は接頭語。(weblio古語辞典 学研全訳古語辞典)
(注)あやに【奇に】副詞:むやみに。ひどく。(学研)
万葉集には、「桑」が詠み込まれているのは三首である。うち一首は「桑子(くわこ)」となっており、植物でなく「蚕」のことを詠っているのである。
この歌ならびに他の二首についてはブログ拙稿「万葉歌碑を訪ねて(472)」で紹介している。
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この歌は、巻十四 東歌の巻頭五歌の一首である。
巻頭五歌は次の通りである。原文・書き下し・左注にとどめた。
◆奈都素妣久 宇奈加美我多能 於伎都渚尓 布袮波等杼米牟 佐欲布氣尓家里
(作者未詳 巻十四 三三四八)
≪書き下し≫夏麻引く海上潟の沖つ洲に舟は留めむさ夜更けにけり
左注は、右一首上総國歌
◆可豆思加乃 麻萬能宇良未乎 許具布祢能 布奈妣等佐和久 奈美多都良思母
(作者未詳 巻十四 三三四九)
≪書き下し≫葛飾の真間の浦みを漕ぐ舟の舟人騒く波立つらしも
左注は、右一首下総國歌
◆筑波祢乃 尓比具波麻欲能 伎奴波安礼杼 伎美我美家思志 安夜尓伎保思母
(作者未詳 巻十四 三三五〇)
≪書き下し≫筑波嶺の新桑繭の衣はあれど君が御衣しあやに着欲しも
◆筑波祢尓 由伎可母布良留 伊奈乎可母 加奈思吉兒呂我 尓努保佐流可母
(作者未詳 巻十四 三三五一)
≪書き下し≫筑波嶺に雪かも降らるいなをかも愛しき子ろが布乾さるかも
左注は、右二首常陸國歌
◆信濃奈流 須我能安良能尓 保登等藝須 奈久許恵伎氣婆 登伎須疑尓家里
(作者未詳 巻十四 三三五二)
≪書き下し≫信濃なる須我の荒野に霍公鳥鳴く声聞けば時過ぎにけり
左注は、右一首信濃國歌
この五歌についてはいろいろと議論されてきたようである。巻十四東歌の理解のためにもすこしながめてみよう。
江戸後期の「万葉考」(賀茂真淵著)に、「ここにのする五首の中、初二首と末一首は東ぶりならず。京に久しく仕奉て帰りをる人東にての歌故に是に入しなるべし。かかる類下に多かり。」と、書かれている。
「東ぶり」とは、民謡的色彩が濃いものを指しているように思える。「東ぶり」とは、古典文学大系(岩波書店)に「生(なま)で粗野で力強い読み振り。農民生活に密着した素材、豊富な方言などの醸し出すもの」とあるが、「東ぶり」であることが巻十四の歌であるべきと考えてしまうのは如何なものであろうか。「東歌」として収録されているという事実、万葉集編集者のこれを「東歌」とした事実に対しかかる議論は時間的経過とともに真実性から乖離してしまうことを考えると、絶対的真実性からかけ離れてしまった相対的真実性下の議論になってしまうように思える。
また、三三五二歌に詠われている「霍公鳥」は巻十四では唯一であり、風雅の鳥を詠っているから「東ぶり」ならずというのも理解しがたい。
三三五〇、三三五一歌は「東ぶり」たる歌であるというのであるが、確かに三三五一歌では「尓努(にの)」(布の訛り)、「保佐流(ほさる)(ほせるの東国形)が使われている。両歌とも「筑波嶺」というご当地名が詠われている。この「筑波嶺」というご当地名をはずして詠ったと考えた場合、「東ぶりならず」となるのでは。
次の類歌が良い事例である。
葛飾の真間の浦みを漕ぐ舟の舟人騒く波立つらしも(巻十四 三三四九)
風早の三穂の浦みを漕ぐ舟の舟人騒く波立つらしも(巻七 一二二八)
巻十四の巻頭五歌を巡る議論は、議論としては面白いのであるが、常になにかしらのもやもや感が付いて回るのである。
このもやもや感を払拭できたのは、「万葉集講義 最古の歌集の素顔」(上野 誠著 中公新書)に出逢ったからである。
氏は次のようにおっしゃっている。「東歌も・・・都との交流の中で生まれた歌々なのであって・・・『東歌』といっても、東国に関わる歌とのみ考えればよいのであって、東国に住む人びとの歌だけでなく、東国を旅した人びとの歌々も含まれているとみてよいのである。」
「・・・なぜ東国関係歌だけが、一巻にまとめられるのかという問題は、都の人びとにとって、東国がどのようなイメージを喚起する場所であったか、という観点から考えねばならない。・・・遠い東国の国々に対する関心が、万葉時代に高まった・・・一つ目の理由は、防人が難波に集結し、東国との交流が盛んになった・・・もう一つの理由は、日本の古代社会には、文化は西から東下するという意識が・・・強かったからである。」
(東ぶりをという)「方言が使用された素朴な歌を東国に求めるのは、都びとの側の方なのである。だから、それは、都びとが求める東国の歌々のイメージしかない。しかしながら、そういった素朴な歌々は、都の歌々の規範からは、大きく外れた歌々となる。東国らしいという点では好まれはしても、巻頭に置くには重さに欠ける歌となるわけで、東歌の巻頭五首は、都の歌と差異のない歌が採用されたのであろう。だから、巻頭五首には、地名以外に東歌らしさを示すものは、ほとんどないのである。」
万葉集は、幾多の編纂を経ながら時間軸に、時代の要請やニーズを掛け合わせながらしたたかに自己増殖的に作り上げられて来た歌物語なのである。恐るべし万葉集・・・。
(参考文献)
★「萬葉集」 鶴 久・森山 隆 編 (桜楓社)
★「万葉集講義 最古の歌集の素顔」 上野 誠 著 (中公新書)
★「万葉集東歌論」 高橋静雄 著 (桜楓社)
★「万葉の人びと」 犬養 孝 著 (新潮文庫)
★「weblio古語辞典 学研全訳古語辞典」