第五章 労働と家族
【万葉貴族も二重生活だった】
「万葉時代の貴族もまた二重生活者だったのです。万葉貴族は、いわゆる官僚ですから、平城京内の『邸宅』に住むことが義務づけられていました。・・・彼らは、ミヤの周辺に住み、イへ(邸宅)からミヤに出勤して働き、またイへに戻ったのでしょう。それが、彼らのミヤコでの生活でした。『万葉集』を読むと、大伴家持を代表とする名門貴族大伴氏も、平城京の東北の佐保(さほ)に、邸宅を持っていたことがわかります。」
【大伴氏の庄】
「万葉貴族は、京の外に自らが経営する田圃(たんぼ)や菜園を持っていました。それが『庄』です。一般には、これを『タドコロ』と読んでいます。『万葉集』をひもとくと、大伴氏の場合、確認できるだけでも、二ヶ所の『庄(たどころ)』を持っていたことがわかります。
跡見(とみ)……現、奈良県桜井市外山(とび)付近。三輪山山麓。
・・・大伴坂上郎女は、『跡見』のことを『ふるさと』とも表現していますから、父祖伝来の領地というような意識があったのかもしれません。(巻四の七二三)・・・彼らは平城京のミヤコの邸宅に住んでいますから、・・・管理人が、日常的にには庄を管理していたはずです。」
「日ごろは管理人にまかせている庄にも、おそらく春と秋には出向いた・・・作付けと収穫には、立ち会う必要があったからです。・・・『万葉集』をひもとくことによって、大伴坂上郎女が天平十一(七三九)年の秋八月と九月に、竹田の庄に赴いたことを知ることができます。・・・」
【家族再会】
平城京での勤務のある家持に代わって竹田の庄に赴いたのは、坂上郎女でした。そこに、家持がやって来ます。
(秋の相聞 巻八の一六一九)(同 巻八の一六二〇)(いずれも歌は省略)
家持の歌の『妹(イモ)』は、通常は男性から見て恋人に対して呼び掛ける言葉です。・・・では、なぜそういう異例な言い方をしたのでしょうか?それは、少しふざけて、『庄』への訪問を逢引きにやって来たかのように表現したのです。叔母はそれを受けて、男を待ちわびた女として返歌したのです。簡単にいえば、切り返したのです。
『道のりは遠いが、わざわざやって来ました』という家持の丁重な表現に対して、坂上郎女は『月が変わってもやって来やしないから、夢にまで見てしまいましたよ!』と答えています。」
【皮肉を言われた家持】
「・・・家持にしてみれば、平城京での勤務もあったでしょうし、『宅』を留守にするわけにもいかなかったでしょう。・・・そんななかで、延び延びになっていた竹田の庄への顔見せがようやく実現したのでしょう。『月が変わるまでいらっしゃらないので……』という表現は、延び延びになっていた訪問を、明らかに皮肉った表現です(恋人にすねるように)。・・・」
【「玉鉾の 道は遠けど」という距離】
「『玉鉾の 道は遠けど』という表現は、おそらく『苦労シテ来タンデスヨ!』ということをいわんがための家持の予防線だと思うのです。家持は、延び延びになっていた訪問に対する叔母の非難を予想して、誇張表現で予防線を張ったのでしょう。・・・」(「万葉集の心を読む」 上野 誠著 角川ソフィア文庫より)
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巻八の一六一九歌ならびに一六二〇歌をみてみよう。
■巻八 一六一九歌■
題詞は、「大伴家持至姑坂上郎女竹田庄作歌一首」<大伴家持、姑(をば)坂上郎女の竹田(たけた)の庄(しやう)に至りて作る歌一首>とある。
(注)姑:叔母の意。(伊藤脚注)
◆玉桙乃 道者雖遠 愛哉師 妹乎相見尓 出而曽吾来之
(大伴家持 巻八 一六一九)
≪書き下し≫玉桙(たまぼこ)の 道は遠(とほ)けど はしきやし 妹(いも)を相見(あひみ)に 出(い)でてぞ我(あ)が来(こ)し
(訳)玉鉾の道 その道は遠かったけれど 愛する あなたさまにお目にかかるために ミヤコからわたくしは出てまいりましたよ(こちらに顔を出すのも大変なんですから)(「万葉集の心を読む」 上野 誠著 角川ソフィア文庫より)
(注)はしきやし 【愛しきやし】分類連語:ああ、いとおしい。ああ、なつかしい。ああ、いたわしい。「はしきよし」「はしけやし」とも。 ※上代語。 ⇒参考:愛惜や追慕の気持ちをこめて感動詞的に用い、愛惜や悲哀の情を表す「ああ」「あわれ」の意となる場合もある。「はしきやし」「はしきよし」「はしけやし」のうち、「はしけやし」が最も古くから用いられている。 ⇒なりたち:形容詞「は(愛)し」の連体形+間投助詞「やし」(weblio古語辞典 学研全訳古語辞典)
■巻八 一六二〇歌■
題詞は、「大伴坂上郎女の和(こた)ふる歌一首」である。
◆荒玉之 月立左右二 来不益者 夢而見乍 思曽吾勢思
(大伴坂上郎女 巻八 一六二〇)
≪書き下し≫あらたまの 月立つまでに 来(き)まさねば 夢(いめ)にし見つつ 思ひそ我(あ)がせし
(訳)あらたまの月 その月がわりするまで お見えにならないから…… 夢に見ながらわたくしめは 恋いこがれておりましたぞ(「万葉集の心を読む」 上野 誠著 角川ソフィア文庫より)
(注)思ひぞ我がせし:私はあなたのことをひどく恋しく思っていたのですよ。前歌の結句と同じ形式を用いて答えたもの。(伊藤脚注)
左注は、「右二首天平十一年己卯秋八月作」<右の二首、天平十一年己卯(きぼう)の秋八月に作る>
一六一九・一六二〇歌については、拙稿ブログ「万葉歌碑を訪ねて(その119)」で奈良県橿原市常磐町春日神社境内万葉歌碑(大伴家持 8-1619)とともに紹介している。
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「橿原の万葉歌碑めぐり」<パンフレット:橿原市観光政策課・橿原市観光協会 発行>に東竹田町 竹田神社の万葉歌碑(大伴坂上郎女 4-760)と常磐町 春日神社(大伴家持 8-1619)が掲載されている。

(参考文献)
★「萬葉集」 鶴 久・森山 隆 編 (桜楓社)
★「weblio古語辞典 学研全訳古語辞典」
★「橿原の万葉歌碑めぐり<パンフレット>」 (橿原市観光政策課・橿原市観光協会 発行)