万葉集の歌碑めぐり

万葉歌碑をめぐり、歌の背景等を可能な限り時間的空間的に探索し、万葉集の万葉集たる所以に迫っていきたい!

万葉集の世界に飛び込もう(その2588)―書籍掲載歌を中軸に―

●歌は、「いざ子ども早く日本へ大伴の御津の浜松待ち恋ひぬらむ(山上憶良 1-63)」、「士やも空しくあるべき万代に語り継ぐべき名は立てずして(山上憶良 6-978)」、「松浦県佐用姫の子が領巾振りし山の名のみや聞きつつ居らむ(山上憶良 5-868)」、「風交じり雨降る夜の雨交じり雪降る夜はすべもなく寒くしあれば堅塩を取りつづしろひ・・・山上憶良   5-892」、「神代より言ひ伝て来らくそらみつ大和の国は皇神の厳しき国言霊の幸はふ国と・・・山上憶良 5-894」である。

 

 「古代史で楽しむ 万葉集」 中西 進 著 (角川ソフィア文庫)の「山上憶良」を詠み進もう。

 「旅人の周辺の人物として、もっともすぐれた作をのこしたのは、いうまでもなく山上憶良である。・・・憶良は持統の死の年に遣唐少録として海を渡り、慶雲のころに帰国する。その帰国に際しての歌が(巻一、六三)(歌は省略)である。・・・大和思慕のこころである。このとき無位であった憶良は渡唐の功によって正六位下(のち従五位下)となり臣(おみ)という姓(かばね)もあたえられ、霊亀二年(七一六)四月、元正の時代には伯耆守(ほうきのかみ)となる。・・・大宰府に下ったのはその後、神亀三年(七二六)にころで、旅人にやや遅れて天平四年(七三二)に帰京したらしい。筑前国司がその任であった。」(同著)

 

 巻一、六三歌をみてみよう。

■巻一 六三歌■

題詞は、「山上臣憶良在大唐時憶本郷作歌」<山上臣憶良(やまのうへのおみおくら)、大唐(だいたう)に在る時に、本郷(ほんがう)を憶(おも)ひて作る歌>である。

(注)ほんがう【本郷】:①その人の生まれた土地。故郷。②ある郷の一部で、最初に開けた土地。③郡司の庁、また、郷役所のあった場所。(weblio辞書 デジタル大辞泉)ここでは①の意

 

◆去来子等 早日本邊 大伴乃 御津乃濱松 待戀奴良武

       (山上憶良 巻一 六三)

 

≪書き下し≫いざ子ども早く日本(やまと)へ大伴(おほとも)の御津(みつ)の浜松待ち恋ひぬらむ

 

(訳)さあ者どもよ、早く日の本の国、日本(やまと)へ帰ろう。大伴(おおとも)の御津の浜辺の松も、われらを待ち焦がれていることであろう。(伊藤 博 著 「万葉集 一」 角川ソフィア文庫より)

(注)こども【子供・子等】名詞:①(幼い)子供たち。▽自分の子にも、他人の子にもいう。②(自分より)若い人たちや、目下の者たちに、親しみをこめて呼びかける語。 ⇒参考:「ども」は複数を表す接尾語。現代語の「子供」は単数を表すが、中世以前に単数を表す例はほとんど見られない。(weblio古語辞典 学研全訳古語辞典)ここでは②の意

(注)御津:難波津。遣唐使の発着した港。(伊藤脚注)

 

「42歳で遣唐使書記に抜擢され」遣唐使の一員として唐に渡り、日本へ帰国する折の送別の宴会で詠まれたという憶良の巻一 六三歌は、『日本人が外国で詠んだ最初の歌』」(辰巳正明氏「山上憶良」<笠間書院>)である。

 

 この歌については、拙稿ブログ「万葉歌碑を訪ねて(その1959)」で紹介している。

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 「万葉集は憶良についてもこの大宰府時代の歌を中心として載せ、帰京後は数編の長歌、漢文を付け加えている。その天平五年の死に近く、重病に沈んだときの歌、(巻六、九七八)(歌は省略)の悲痛な一首を最後として長い生涯をおえる。・・・もはや死を覚悟した憶良の『須(しまらく)ありて』という、しばらくの沈黙は、その生涯への回想の無限の感慨を物語っていよう。その物思いの後に口吟した一首であれば、これは空しく死んでいく士われへの、悔恨の一首だったのであろう。」(同著)

 

 巻六、九七八歌をみてみよう。

■巻六 九七八歌■

題詞は、「山上臣憶良沈痾之時歌一首」<山上臣憶良(やまのうえのおみおくら)、沈痾(ちんあ)の時の歌一首>である。

 

◆士也母 空應有 萬代尓 語継可 名者不立之而

       (山上憶良 巻六 九七八)

 

≪書き下し≫士(をのこ)やも空(むな)しくあるべき万代(よろづよ)に語り継(つ)ぐべき名は立てずして

 

(訳)男子たるもの、無為に世を過ごしてよいものか。万代までも語り継ぐにたる名というものを立てもせずに。(「万葉集 二」 伊藤 博 著 角川ソフィア文庫より))

(注)「名をたてる」ことを男子たる者の本懐とする、中国の「士大夫思想」に基づく考え。

 

左注は、「右一首山上憶良臣沈痾之時 藤原朝臣八束使河邊朝臣東人 令問所疾之状 於是憶良臣報語已畢 有須拭涕悲嘆口吟此歌」<右の一首は、山上憶良の臣が沈痾(ちんあ)の時に、藤原朝臣八束(ふじはらのおみやつか)、河辺朝臣東人(かはへのあそみあづまひと)を使はして疾(や)める状(さま)を問はしむ。ここに、憶良臣、報(こた)ふる語(ことば)已(を)畢(は)る。しまらくありて、涕(なみた)を拭(のご)ひ悲嘆(かな)しびて、この歌を口吟(うた)ふ>である。

 

 この歌については、拙稿ブログ「万葉歌碑を訪ねて(その1152)」で紹介している。

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 「憶良のノートだったと思われる巻五という一巻は、元来途中までだった憶良のノートのあとに、単独に残された憶良の作をつけ加えたものだが、その単独の憶良の漢文や漢詩、貧窮(びんぐ)について問答の形をとって作った長歌(巻五、八九二・八九三)や遣唐使におくる長歌(巻五、八九四~八九六)は、すべて時の政府の高官に対して提出されたものらしい。ことに貧・老・病は、時の政府が積極的に取り上げて救恤(きゅうじゅつ)しようとした対象であり、憶良はこのときすでに筑前国守の任を離れていたにもかかわらず、心ある某(なにがし)にあえてこれをさし出して訴えたものらしい。伯耆守をふり出しにすごした十余年の国司生活は、その退職後もなお、このように訴えずにはおかなかったのである。いわば、骨太な男―硬骨漢(こうこつかん)といった姿を憶良の中に認めることができる。」(同著)

 

巻五、八九二・八九三歌ならびに巻五、八九四~八九六歌をみてみよう。

 

■■巻五 八九二・八九三歌■■

■巻五 八九二歌■

 題詞は、「貧窮問答歌一首 幷短歌」<貧窮問答(びんぐうもんだふ)の歌一首 幷せて短歌>である。

 

◆風雑雨布流欲乃雨雑雪布流欲波為部母奈久寒之安礼婆堅塩乎取都豆之呂比糟湯酒宇知須ゝ呂比弖之叵夫可比鼻毗之毗之尒志可登阿良農比宜可伎撫而安礼乎於伎弖人者安良自等富己呂倍騰寒之安礼婆麻被引可賀布利布可多衣安里能許等其等伎曽倍騰毛寒夜須良乎和礼欲利母貧人乃父母波飢寒良牟妻子等波乞ゝ泣良牟此時者伊可尒之都〻可汝代者和多流天地者比呂之等伊倍杼安我多米波狭也奈里奴流日月波安可之等伊倍騰安我多米波照哉多麻波奴人皆可吾耳也之可流和久良婆尒比等ゝ波安流乎比等奈美尒安礼母作乎綿毛奈伎布可多衣乃美留乃其等和〻氣佐我礼流可ゝ布能尾肩尒打懸布勢伊保能麻宜伊保乃内尒直土尒藁解敷而父母波枕乃可多尒妻子等母波足乃方尒囲居而憂吟可麻度柔播火氣布伎多弖受許之伎尒波久毛能須可伎弖飯炊事毛和須礼提奴延鳥乃能杼与比居尒伊等乃伎提短物乎端伎流等云之如楚取五十戸長我許恵波寝屋度麻イ弖来立呼比奴可久婆可里須部奈伎物可世間乃道

 

≪書き下し≫風交(まじ)り 雨降る夜(よ)の 雨交(まじ)り 雪降る夜(よ)は すべもなく 寒くしあれば 堅塩(かたしほ)を とりつづしろひ 糟湯酒(かすゆざけ) うちすすろひて しはぶかひ 鼻びしびしに しかとあらぬ ひげ掻(か)き撫(な)でて 我(あ)れをおきて 人はあらじと 誇(ほこ)ろへど 寒くしあれば 麻衾(あさぶすま) 引き被(かがふ)り 布肩衣(ぬのかたぎぬ) ありのことごと 着襲(きそ)へども 寒き夜すらを 我(わ)れよりも 貧(まづ)しき人の 父母(ちちはは)は 飢(う)ゑ寒(こ)ゆらむ 妻子(めこ)どもは 乞(こ)ふ乞(こ)ふ泣くらむ この時は いかにしつつか 汝(な)が世(よ)は渡る 天地(あめつち)は 広しといへど 我(あ)がためは 狭(さ)くやなりぬる 日月(ひつき)は 明(あか)かしといへど 我(あ)がためは 照りやたまはぬ 人皆か 我(あ)のみやしかる わくらばに 人とはあるを 人並(なみ)に 我(あ)れも作(つく)るを 綿もなき 布肩衣(ぬのかたぎぬ)の 海松(みる)のごと わわけさがれる かかふのみ 肩にうち掛け 伏廬(ひせいほ)の 曲廬(まげいほ)の内に 直土(ひたつち)に 藁(わら)解(と)き敷きて 父母(ちちはは)は 枕(まくら)の方(かた)に妻子(めこ)どもは 足(あと)の方に 囲(かく)み居(ゐ)て 憂(うれ)へさまよひ かまどには 火気(ほけ)吹き立てず 甑(こしき)には 蜘蛛(くも)の巣(す)かきて 飯炊(いひかし)く ことも忘れて ぬえ鳥(どり)の のどよひ居(を)るに いとのきて 短き物を 端(はし)切ると いへるがごとく しもと取る 里長(さとをさ)が声は 寝屋処(ねやど)まで 来立ち呼ばひぬ かくばかり すべなきものか 世の中の道(みち)

 

(訳)風にまじって雨の降る夜、その雨にまじって雪の降る夜は、何とも処置なく寒くてならぬので、堅塩をかじったり糟汁(かすじる)をすすったりして、しきりに咳きこみ鼻をぐすぐす鳴らし、ろくすっぽありもしないひげをかき撫でては、おれほどの人物はほかにあるまいと力み返ってみつけれど、それでも寒くてやりきれないので、麻ぶとんをひっかぶり、布の袖無(そでなし)をありったけを着重ねるのだが、それでもやっぱり寒い夜であるのに、我らよりもっと貧しい人の父母は、さぞかしひもじくて寒がっていることであろう。妻や子は、きっと物をせがんで泣いていることであろう。こんな時には、いったいどのようにして、そなたはこの世を凌(しの)いでいるのか。ようぞ問うてくださった、天地は広いというが、私のためには狭くなっているのか。日月は明るいというが、私のためには照っては下さらないのか。世の人みんながそうなのか。私だけがそうなのか。幸いにも人として生まれたのに、人並みに私も働いているのに、綿もない布の袖無の海松(みる)のように破れ下がったぼろだけを肩にうちかけ、つぶれたような傾(かし)いだ家の中で、地べたに藁を解いて敷き、父や母は私の枕の方に、妻や子は足の方に、お互い身を寄せ合って愚痴を言ったりうめき合ったりし、かまどには火の気を吹き立てることもできず、甑(こしき)には蜘蛛の巣を懸けて、飯を炊くことなどとっくに忘れてしまって、とらつぐみが鳴くようにひいひい悲鳴をあげている、それなのに、格別に短い物のその端をさらに切り詰めるという諺(ことわざ)のように、笞(むち)をかざす里長(さとおさ)の声は、寝屋の戸までやって来てわめき立てている。この世の中、こんな所はいやなところ、身も細るような所と思う次第でありますが、捨ててどこかに飛び去るわけにもゆきません。私ども人間は、所詮(しよせん)鳥ではありませんので。(伊藤 博 著 「万葉集 一」 角川ソフィア文庫より)

(注)かたしほ【堅塩】名詞:未精製の固まっている塩。「きたし」とも。[反対語] 泡塩(あわしほ)。(学研)

(注)つづしろふ【嘰ろふ】他動詞:少しずつ食べ続ける。 ⇒参考:動詞「つづしる」の未然形に古い反復継続の助動詞「ふ」が付いた「つづしらふ」の転。(学研)

(注)かすゆざけ【糟湯酒】名詞:酒かすを湯にとかした飲み物。貧しい者が酒の代用とした。(学研)

(注)しはぶく【咳く】自動詞:①せきをする。②(訪問などの合図に)せきばらいをする。(学研)ここでは①の意

(注)びしびし 副詞:ぐすぐすと。▽鼻水をすすり上げる音の形容。 ⇒参考:上代語。上代の和語には濁音で始まる語はなかったとされるが、擬声語・擬態語は例外(学研)

(注)あさぶすま【麻衾】名詞:麻製の粗末な寝具。(学研)

(注)ぬのかたぎぬ【布肩衣】名詞:「布」で作った、袖(そで)のない衣服。下層階級の人が用いた。(学研)

(注)飢ゑ寒ゆらむ:飢え凍えているだろう。「寒ゆ」はヤ行上二段動詞。(伊藤脚注)

(注)乞ふ乞ふ:物をせがみながら。動詞終止形を重ねると継続態となる。(伊藤脚注)

(注)汝が世は渡る:ここまで問。次句から答え。(伊藤脚注)

(注)天地は:以下八句、よくぞお尋ね下さったという気息がこもる。(伊藤脚注)

(注)わくらばなり【邂逅なり】形容動詞:たまたまだ。偶然だ。まれだ。▽多く「わくらばに」の形で副詞的に用い、めったにないさまを表す。 ⇒参考:「わくらばに」の形で副詞とする説があるが、これは、用例がほとんど「わくらばに」という連用形であること、しかも、和歌によく用いられる歌語であって、他の活用形がほとんどないことによる。しかし、「わくらばの立ち出(い)でも絶えて」(『更級日記』)〈まれな外出もなくなって。〉のような例も、少ないながら見られるので、形容動詞とする。(学研)

(注)我れも作るを:せっせと働いているのに。(伊藤脚注)

(注)わわく 自動詞:破れ乱れる。ぼろぼろになる。 ※上代語。(学研)

(注)かかふ【襤褸】名詞:ぼろ布。(学研)

(注)伏廬:竪穴住居の掘立小屋か。(伊藤脚注)

(注)曲廬:柱の歪んだ小屋か。(伊藤脚注)

(注)囲み居て:互いに身を寄せ合って。(伊藤脚注)

(注)憂へさまよひ:愚痴を言ったりうめき合ったりして。(伊藤脚注)

(注)ほけ【火気】①火の気。また、煙。②湯気 (ゆげ) 。(goo辞書)ここでは①の意

(注)ぬえどりの【鵼鳥の】分類枕詞:鵼鳥の鳴き声が悲しそうに聞こえるところから、「うらなく(=忍び泣く)」「のどよふ(=か細い声を出す)」「片恋ひ」にかかる。(学研)

(注)いとのきて 副詞:とりわけ。特別に。 ※上代語。(学研)

(注)しもと 名詞:【笞・楚】(木の細い枝などで作った)刑罰に用いる、むち。また、杖(つえ)。(学研)

(注)さとをさ【里長】名詞:「里(さと)」の長。 ※上代語。(学研)

(注)世の中の道:このはかない世の中を生きて行くということは。(学研)

 

 

 

■巻五 八九三歌■

◆世間乎 宇之等夜佐之等 於母倍杼母 飛立可祢都 鳥尓之安良祢婆

       (山上憶良 巻五 八九三)

 

≪書き下し≫世の中を厭(う)しと恥(やさ)しと思へども飛び立ちかねつ鳥にしあらねば

 

(訳)この世の中、こんな所はいやな所、身も細るような所と思う次第でありますが、捨ててどこかに飛び去るわけにもゆきません。私ども人間は、所詮(しょせん)鳥ではありませんので。(同上)

 

左注は、「山上憶良頓首謹上」<山上憶良頓首(とんしゅ)謹上

(注)とんしゅ【頓首】[名](スル)《「とんじゅ」とも》:①中国の礼式で、頭を地面にすりつけるように拝礼すること。ぬかずくこと。②手紙文の末尾に書き添えて、相手に対する敬意を表す語。「—再拝」(weblio辞書 デジタル大辞泉

 

 

 

 

■■巻五 八九四~八九六歌■■

題詞は、「好去好來歌一首 反歌二首」<好去好來(かうきよかうらい)の歌一首 反歌二首>である。

 

■巻五 八九四■

 ◆神代欲理 云傳久良久 虚見通 倭國者 皇神能 伊都久志吉國 言霊能 佐吉播布國等 加多利継 伊比都賀比計理 今世能 人母許等期等 目前尓 見在知在 人佐播尓 満弖播阿礼等母 高光 日御朝庭 神奈我良 愛能盛尓 天下 奏多麻比志 家子等 撰多麻比天 勅旨<反云大命> 載持弖 唐能 遠境尓 都加播佐礼 麻加利伊麻勢 宇奈原能 邊尓母奥尓母 神豆麻利 宇志播吉伊麻須 諸能 大御神等 船舳尓 <反云布奈能閇尓> 道引麻志遠 天地能 大御神等 倭 大國霊 久堅能 阿麻能見虚喩 阿麻賀氣利 見渡多麻比 事畢 還日者 又更 大御神等 船舳尓 御手行掛弖 墨縄遠 播倍多留期等久 阿遅可遠志 智可能岫欲利 大伴 御津濱備尓 多太泊尓 美船播将泊 都々美無久 佐伎久伊麻志弖 速歸坐勢

       (山上憶良 巻五 八九四)

 

≪書き下し≫神代より 言ひ伝(つ)て来(く)らく そらみつ 大和の国は 皇神(すめかみ)の 厳(いつく)しき国 言霊の 幸(さき)はふ国と 語り継ぎ 言ひ継がひけり 今の世の 人もことごと 目の前に 見たり知りたり 人さはに 満ちてはあれども 高光る 日の大朝廷(おほみかど) 神(かむ)ながら 愛(め)での盛りに 天(あめ)の下(した) 奏(まを)したまひし 家の子と 選ひたまひて 勅旨(おほみこと)<反(かへ)して「大命」といふ> 戴き持ちて 唐国(からくに)の 遠き境に 遣はされ 罷(まか)りいませ 海(うみ)原の 辺(へ)にも沖にも 神(かひ)づまり うしはきいます もろもろの 大御神(おほみかみ)たち 船舳(ふなのへ)に<反して「ふなのへに」といふ> 導きまをし 天地(あめつち)の 大御神たち 大和の 大国御魂(おほくにみたま) ひさかたの 天(あま)のみ空ゆ 天翔(あまがけ)り 見わたしたまひ 事終(をは)り 帰らむ日には またさらに 大御神たち 船舳(ふなのへ)に 御手(みて)うち懸けて 墨縄(すみなは)を 延(は)へたるごとく あぢかをし 値嘉(ちか)の崎より 大伴の 御津(みつ)の浜びに 直(ただ)泊てに 御船は泊てむ 障(つつ)みなく 幸(さき)くいまして 早(はや)帰りませ

 

(訳)神代の昔から言い伝えて来たことがある。この大和の国は、皇祖の神の御霊(みたま)の尊敬極まりない国、言霊(ことだま)が幸いをもたらす国と、語り継ぎ言い継いで来た。このことは今の世の人も悉く目のあたりに見、かつ知っている。大和の国には人がいっぱい満ち満ちているけれども、その中から、畏(かしこ)くも日の御子天皇(すめらのみこと)の、とりわけ盛んな御愛顧のままに、天下の政治をお執りになった名だたるお家の子としてお取立てになったので、あなたは勅旨(おおみこと)を奉じて、大唐の遠い境に差し向けられて御出発になる。ご出発になると、岸にも沖にも鎮座して大海原を支配しておられるもろもろの大御神たちは、御船の舳先に立ってお導き申し、天地の大御神たち、中でも大和の大国魂の神は、天空をくまなく駆けめぐってお見わたしになり、使命を終えてお帰りになる日には、再び大御神たちが御船の舳先に御手を懸けてお引きになり、墨縄をぴんと張ったように、値嘉岬から大伴の御津の浜辺に、真一文字に御船は到着するであろう。障りなく無事においでになって、一刻も早くお帰りくださいませ。(同上)

(注)そらみつ:枕詞。「大和」にかかる。語義・かかる理由未詳。「そらにみつ」とも。(学研)

(注)言霊の幸はふ国:言霊が振い立って、言葉の内容どおりに実現させる良き国。(学研)

(注の注)さきはふ 【幸ふ】自動詞:幸福になる。栄える。(学研)

(注)さはに【多に】副詞:たくさん。 ※上代語。(学研)

(注)選ひたまひて:特別お取立てになったので。(伊藤脚注)

(注)かむづまる【神づまる】自動詞:神としてとどまる。鎮座する。(学研)

(注)うしはく【領く】他動詞:支配する。領有する。 ※上代語。(学研)

(注)へ【舳】名詞:(船の)へさき。船首。[反対語] 艫(とも)。(学研)

(注)大国御魂:今も天理市新泉水町にある大和(おおやまと)神社の祭神。(伊藤脚注)

(注)御手うち懸けて:御手を懸けてお引きになり。(伊藤脚注)

(注)すみなは【墨縄】名詞:「墨壺(すみつぼ)」の糸巻き車に巻いてある麻糸。墨糸。(学研)

(注)あぢかをし:「値嘉」の枕詞か。(伊藤脚注)

(注)値嘉の崎:長崎県五島列島平戸島およびその周辺の島々。当時、ここからが故国日本とされた。(伊藤脚注)

 

 

 

■巻五 八九五歌■

◆大伴 御津松原 可吉掃弖 和礼立待 速歸坐勢

       (山上憶良 巻五 八九五)

 

≪書き下し≫大伴の御津(みつ)の松原かき掃きて我れ立ち待たむ早(はや)帰りませ          

 

(訳)大伴の御津の松原を掃き清めては、私どもはひたすらお待ちしましょう。早くお帰り下さいませ。(同上)

(注)我れ立ち待たむ:「立ち」は立ち出でての意。(伊藤脚注)

 

 

 

 

■巻五 八九六歌■

◆難波津尓 美船泊農等 吉許延許婆 紐解佐氣弖 多知婆志利勢武

       (山上憶良 巻五 八九六)

 

≪書き下し≫難波津に御船泊(は)てぬと聞こえ来(こ)ば紐解き放(さ)けて立ち走りせむ

 

(訳)難波津に御船が着いたとわかりましたなら、うれしさのあまり私は帯紐を解き放したままで、何はさておき躍り上がって喜ぶことでしょう。(同上)

 

 左注は、「天平五年三月一日良宅對面獻三日 山上憶良謹上 大唐大使卿記室」<天平五年の三月の一日に、良が宅にして対面す。献(たてまつ)るは三日なり。 山上憶良謹上   大唐大使卿(だいたうたいしのまへつきみ)記室>である。

(注)天平五年:七三三年

(注)良が宅:憶良宅で対面した。(伊藤脚注)

(注)大唐大使卿:遣唐大使丹比真人広成。天平四年八月大使、翌五年四月難波を出発。天平七年三月、憶良没後に帰京。(伊藤脚注)

 

 

 この歌群については、拙稿ブログ「万葉歌碑を訪ねて(その57改)」で紹介している。

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奈良県天理市新泉町大和神社万葉歌碑(山上憶良 5-894) 20190414撮影

 

奈良県天理市新泉町大和神社社号碑と鳥居 20190414撮影

 

 

 

 

 

 

 

(参考文献)

★「萬葉集」 鶴 久・森山 隆 編 (桜楓社)

★「万葉集 一」 伊藤 博 著 (角川ソフィア文庫

★「万葉集 二」 伊藤 博 著 (角川ソフィア文庫

★「古代史で楽しむ 万葉集」 中西 進 著 (角川ソフィア文庫

★「weblio古語辞典 学研全訳古語辞典」

★「weblio辞書 デジタル大辞泉

★「goo辞書」

 

万葉集の世界に飛び込もう(その2587)―書籍掲載歌を中軸に―

●歌は、「あをによし奈良の都は咲く花のにほうがごとく今盛りなり(小野老 3-328)」、「ぬばたまの黒髪変り白けても痛き恋には逢ふ時ありけり(沙弥満誓 4-573)」、「大和へ君が発つ日の近づけば野に立つ鹿も響めてぞ鳴く(麻田陽春 4-570)」である。

 

「古代史で楽しむ 万葉集」 中西 進 著 (角川ソフィア文庫)の「旅人の周辺」を読み進もう。

 前稿で大伴旅人について紹介したが、同著では、次に、「旅人をとりまく大宰府の官人たちの歌を」紹介している。

 「小野老(おののおゆ)はのちに大宰府の大弐(だいに)(次官)になった人だが、都をたたえる歌を大宰府において作る。(巻三、三二八)(歌は省略) 『青丹が美しい奈良の都は満開の花のようにいま繁栄している』―そう言い切ったところに望京の念しきりなるものを感じる。まぶしいような都讃美である。」(同著)

 

 小野老の歌をみてみよう。

■巻三 三二八歌■

 題詞は、「大宰少弐小野老朝臣歌一首」<大宰少弐(だざいのせうに)小野老朝臣(をののおゆのあそみ)が歌一首>である。

 

◆青丹吉 寧樂乃京師者 咲花乃 薫如 今盛有

       (小野老 巻三 三二八)

 

≪書き下し≫あをによし奈良の都は咲く花のにほふがごとく今盛りなり

 

(訳)あをによし奈良、この奈良の都は、咲き誇る花の色香が匂い映えるように、今こそまっ盛りだ。(「万葉集 一」 伊藤 博 著 角川ソフィア文庫より)

 

 三二八から三三七歌までの歌群は、小野老が従五位上になったことを契機に大宰府で宴席が設けられ、その折の歌といわれている。この歌群の歌については、すべてブログ拙稿「万葉歌碑を訪ねて(その506)」で紹介している。

 ➡ こちら506

 

 

 

豊前国府跡公園万葉歌の森万葉歌碑(小野老 3-328) 20201116撮影

 

 

 「沙弥満誓(さみまんせい)は名国司として著名だった人間だが、当時観世音寺(かんぜおんじ)を造る長官として大宰府に赴任していた。旅人の上京を見送ったのちに、(巻四、五七三)(歌は省略)と歌う。・・・旅人との離別を表現しているのだが、黒白の対比や恋という大行(だいぎょう)な表現に遊び心の見られる一首だ。」(同著)

 五七二歌とともに五七三歌をみてみよう。

 

■■巻四 五七二・五七三歌■■

題詞は、「大宰帥大伴卿上京之後沙弥満誓贈卿歌二首」<大宰帥大伴卿の京に上りし後に、沙弥満誓、卿に贈る歌二首>である。

 

■巻四 五七二歌■

◆真十鏡 見不飽君尓 所贈哉 旦夕尓 左備乍将居

      (沙弥満誓 巻四 五七二)

 

≪書き下し≫まそ鏡見飽(みあ)かぬ君に後(おく)れてや朝(あした)夕(ゆうへ)にさびつつ居(を)らむ

 

(訳)いくらお逢(あ)いしても見飽きることのない君に取り残されて、何ともまあ不思議なほど、朝に夕にさびしい気持ちを抱き続けていることでございます。(同上)

(注)まそかがみ【真澄鏡】分類枕詞:鏡の性質・使い方などから、「見る」「清し」「照る」「磨(と)ぐ」「掛く」「向かふ」「蓋(ふた)」「床(とこ)」「面影(おもかげ)」「影」などに、「見る」ことから「み」を含む地名「敏馬(みぬめ)」「南淵山(みなぶちやま)」にかかる。(weblio古語辞典 学研全訳古語辞典)

(注)さぶ【荒ぶ・寂ぶ】自動詞:荒れた気持ちになる。(学研)

 

 

 

■巻四 五七三歌■

◆野干玉之 黒髪變 白髪手裳 痛戀庭 相時有来

        (沙弥満誓 巻四 五七三)

 

≪書き下し≫ぬばたまの黒髪変り白けても痛き恋には逢(あ)ふ時ありけり

 

(訳)黒髪が変わって真っ白になる年になっても、こんなに恋にさいなまれることもあるものなのですね。(同上)

(注)しらく【白く】自動詞:①白くなる。色があせる。②気分がそがれる。興がさめる。しらける。③間が悪くなる。気まずくなる。(学研)ここでは①の意

 

 

 

 五七二、五七三歌は、女の恋歌のような歌に仕立てている。

 

 満誓の五七二・五七三歌に旅人が和(こた)ふる歌二首が五七四・五七五歌である。

 この四首については、拙稿ブログ「万葉歌碑を訪ねて(その916)」で紹介している。

 ➡ こちら916

 

 

 

 旅人の五七四歌の歌碑は、太宰府市石坂 九州国立博物館にある。

太宰府市石坂 九州国立博物館万葉歌碑(大伴旅人 4-574) 20201117撮影

 

 

 さらに同著では麻田陽春(あさだのやす)が取り上げられている。

 「旅人を蘆城(あしき)の駅家(うまや)まで見送って来て、(巻四、五七〇)(歌は省略)という一首を贈っている。陽春はこのとき大典(だいてん)(四等官)として在任していた・・・『懐風藻』にも詩をのこす文人である。そのゆえの『立つ』『立つ』という技巧が目につくが、『離別を鹿までも悲しむのか、そのとよもしの中で君を送る』という一首は惜別の情を歌いえているだろう。」(同著)

 

 巻四、五七〇をみてみよう。

■巻四 五七〇歌■

 題詞は、「大宰帥大伴卿被任大納言臨入京之時府官人等餞卿筑前國蘆城驛家歌四首」< 大宰帥(だざいのそち)大伴卿、大納言(だいなごん)に任(ま)けらえて京(みやこ)に入る時に臨み、府の官人ら、卿を筑前(つくしのみちのくち)の国蘆城(あしき)の駅家(うまや)にして餞(せん)する歌四首>である。

 

◆山跡邊 君之立日乃 近付者 野立鹿毛 動而曽鳴

       (麻田連陽春 巻四 五七〇)

 

≪書き下し≫大和(やまと)へ君が発(た)つ日の近づけば野に立つ鹿も響(とよ)めてぞ鳴く

 

(訳)大和へと君が出発される日が近づいたので、心細いのか、野に立つ鹿までがあたりを響かせて鳴いています。(同上)

(注)旅人の帰京は天平二年(730年)十二月である。鹿は十一月、十二月には鳴かない。かつての遊んだ時を連想したものか。

 

五六九・五七〇歌の左注は、「右二首大典麻田連陽春」<右の二首は、大典(だいてん)麻田連陽春(あさだのむらぢやす)>である。

 

五六八~五七一の歌群については、拙稿ブログ「万葉歌碑を訪ねて(その899)」で紹介している。

➡ こちら899

 

 

 

 「このように見てくると、旅人の歌がある現実の空しさを歌ったのは、それが単に辺境にあったからだというだけでは足りないことに気づく。旅人も右の陽春同様懐風藻に一篇の漢詩をのこす文人である。またその和歌はたくみに漢文学の素養をとり入れたもので、かつそれをいささかも露骨にしない点に、より深い素養を思わせるものがある。それでいてこれらの人と比較したときの和歌の心深さは、旅人がすぐれた詩人だったことを示している。その詩魂があってこそ、辺境が旅人により高き文芸の境地を拓(ひら)かせたのである。」(同著)

 

 

 

 

 

 

 

 

(参考文献)

★「萬葉集」 鶴 久・森山 隆 編 (桜楓社)

★「万葉集 一」 伊藤 博 著 (角川ソフィア文庫

★「古代史で楽しむ 万葉集」 中西 進 著 (角川ソフィア文庫

★「weblio古語辞典 学研全訳古語辞典」

 

万葉集の世界に飛び込もう(その2586の4)―書籍掲載歌を中軸に―

●歌は、「遠つ人松浦佐用姫夫恋ひに領巾振りしより負へる山の名(大伴旅人 5-871)」、「我が盛りまたをちめやもほとほとに奈良の都を見ずかなりなむ(大伴旅人 3-331)」、「忘れ草我が紐に付く香具山の古りにし里を忘れむがため(大伴旅人 3-334)」、「しましくも行きて見てしか神なびの淵はあせにて瀬にかなるらむ(大伴旅人    6-969)」他である。

 

「古代史で楽しむ 万葉集」 中西 進 著 (角川ソフィア文庫)の「大伴旅人」を読み進んでいこう。

「祖先の英雄大伴佐提比古(さでひこ)の征韓の船を見送って領巾(ひれ)を振ったという佐用姫の伝説を取り上げた旅人の気持には、引きかえてあまりにもいたましい現実の大伴氏の姿があったのではないか。『万代(よろづよ)に語り継(つ)げ』と領巾を振ったのかと、旅人はいう。大伴氏栄光の日のロマンを、万代に忘れがたいものとしたいのである。しかしこの五首の中四首までに『けむ』『けらし』という過去推量の言葉が用いられている。過去は結局過去でしかなかったことも、旅人は知っていたのだった。」(同著)

 松浦佐用姫(まつらさよひめ)の歌(巻五、八七一~八七五。ただし全部が旅人の作かどうかは不明)をみてみよう。

 

■■巻五、八七一~八七五歌■■

■巻五、八七一歌■

題詞は、「大伴佐提比古郎子 特被朝命奉使藩國 艤棹言歸 稍赴蒼波 妾也松浦<佐用嬪面> 嗟此別易 歎彼會難 即登高山之嶺 遥望離去之船 悵然断肝黯然銷魂 遂脱領巾麾之 傍者莫不流涕 因号此山曰領巾麾之嶺也 乃作歌曰」<大伴佐提比古郎子(おほとものさでひこのいらつこ)、ひとり朝命を被(かがふ)り、使(つかひ)を藩国(はんこく)に奉(うけたま)はる。 艤棹(ふなよそひ)してここに帰(ゆ)き、やくやくに蒼波(そうは)に赴(おもぶ)く。 妾(せふ)松浦(まつら)<佐用姫> 、この別れの易(やす)きことを嗟(なげ)き、その会(あ)ひの難(かた)きことを歎(なげ)く。すなはち高き山の嶺(みね)に登り、離(さ)り去(ゆ)く船を遥望(えうぼう)し、悵然(ちやうぜん)肝(きも)を断(た)ち、黯然(あんぜん)魂(たま)を銷(け)つ。つひに領巾(ひれ)を脱(ぬ)きて麾(ふ)る。 傍(かたはら)の者(ひと)涕(なみた)を流さずといふことなし。 よりて、この山を号(なづ)けて、領巾麾(ひれふり)の嶺(みね)といふ。 すなはち歌を作りて曰はく。

 

(前文訳)大伴佐提比古郎子(おほとものさでひこのいらつこ)、この人はとくに朝廷の命を受けて、御国(みくに)の守りに任那(みなま)に使いすることになった。船装いをして出発し、次第次第に青海原へと進んで行った。ここに、妾(つま)の松浦佐用姫(まつらさよひめ)は、かくも別れのたやすいことを嘆き、かくも逢うことの難しいことを悲しんだ。そこで高い山の嶺(みね)に登り、遠ざかって行く船を遥(はる)かに見やり、悲しに肝も絶え、苦しさに魂も消える思いであった。ついにたまらず領巾(ひれ)を手に取って振った。それを見て、傍らの人は挙(こぞ)って泣いた。これによって、この山を名づけて「領巾振の嶺」と呼ぶようになったという。そこで作った歌。(「万葉集 一」 伊藤 博 著 角川ソフィア文庫より)

(注)大伴佐提比古郎子:宣化紀(せんかき)に、大伴狭手彦が父金村と共に新羅遠征のため渡海したとある。「郎子」は若い男子の称。(伊藤脚注)

(注)蕃国:日本の守りとなる国。(伊藤脚注)

(注の注)ばんこく【蛮国/蕃国】:①未開の国。②外国。(weblio辞書 デジタル大辞泉

(注)そうは【蒼波】:あおい波。蒼浪。(weblio辞書 デジタル大辞泉

(注)ちやうぜん【悵然】[文][形動]:悲しみ嘆くさま。がっかりしてうちひしがれるさま。weblio辞書 デジタル大辞泉

(注)黯然:眼前が真っ暗になるさま。(伊藤脚注)

 

◆得保都必等 麻通良佐用比米 都麻胡非尓 比例布利之用利 於返流夜麻能奈

       (大伴旅人 巻五 八七一)

 

≪書き下し≫遠つ人松浦佐用姫夫恋(つまご)ひに領巾(ひれ)振りしより負(お)へる山の名

 

(訳)遠くにいる人を待つという名の松浦佐用姫が夫恋しさに領巾を振ったその時から、名づけられた名である。この山の名は。(同上)

(注)とほつひと【遠つ人】分類枕詞:①遠方にいる人を待つ意から、「待つ」と同音の「松」および地名「松浦(まつら)」にかかる。「とほつひと松の」。②遠い北国から飛来する雁(かり)を擬人化して、「雁(かり)」にかかる。(学研)ここでは①の意

 

 

 

■巻五 八七二歌■

題詞は、「後人追和」<後人の追和>である。

(注)実作者は大宰府某官人であろう。旅人作と見る説もある。(伊藤脚注)

 

◆夜麻能奈等 伊賓都夏等可母 佐用比賣何 許能野麻能閇仁 必例遠布利家牟

       (大伴旅人? 巻五 八七二)

 

≪書き下し≫山の名と言ひ継げとかも佐用姫(さよひめ)がこの山の上(へ)に領巾(ひれ)を振りけむ

 

(訳)のちの世の人びとも山の名として言い継ぎにせよというつもりで、佐用姫はこの山の上で領巾を振ったのであろうか。(同上)

(注)とか 分類連語:①〔(文中にあって)不確定な推量を表す〕…と…であろうか。②〔(文末にあって)伝聞を表す〕…とかいうことだ。 ⇒なりたち:格助詞「と」+係助詞「か」(学研)ここでは①の意

 

 

 

■巻五 八七三歌■

題詞は、「最後人追和」<最後人(さいこうじん)追和>である。

(注)最後人:前歌の作者とは別の大宰府官人らしい。(伊藤脚注)

 

◆余呂豆余尓 可多利都夏等之 許能多氣仁 比例布利家良之 麻通羅佐用嬪面

       (大伴旅人? 巻五 八七三)

 

≪書き下し≫万世(よろづよ)に語り継げとしこの岳(たけ)に領巾振りけらし松浦佐用姫

 

(訳)万代の後までも語り継ぎにせよとて、この山の嶺で領巾を振ったものらしい。松浦佐用姫は。(同上)

 

 

 

■■巻五 八七四・八七五歌■■

題詞は、「最ゝ後人追和二首」<最最後人(さいさいこうじん)の追和二首>である。

(注)廻り持ちで詠まれた八七一~八七三が最最後人に廻されて閉じられる。以下八八二まで、作者は憶良らしい。この部分に限り歌数の明記がある。(伊藤脚注)

 

■巻五 八七四歌■

◆宇奈波良能 意吉由久布祢遠 可弊礼等加 比礼布良斯家武 麻都良佐欲比賣

       (大伴旅人? 巻五 八七四)

 

≪書き下し≫海原(うなはら)の沖行く船を帰れとか領巾(ひれ)振らしけむ松浦佐用姫(まつらさよひめ)

 

(訳)海原の沖を遠ざかって行く船、その船に、戻って戻ってと領巾を振られたのであろうか。松浦佐用姫は。(同上)

(注)沖行く船を帰れ:沖行く船よ帰れ。ヲは格助詞だが詠嘆もこもる。(伊藤脚注)

 

 

 

■巻五 八七五歌■

◆由久布祢遠 布利等騰尾加祢 伊加婆加利 故保斯苦阿利家武 麻都良佐欲比賣

       (大伴旅人? 巻五 八七五)

 

≪書き下し≫行く船を振り留(とど)みかねいかばかり恋(こほ)しくありけむ松浦佐用姫

 

(訳)遠ざかって行く船、その船を領巾で振り留めきれずに、どんなに切なかったことであろうか。松浦佐用姫は。(同上)

 

 

 

 「そして、この寂寥(せきりょう)をいやすものは都に帰ることしかない。望郷の念はここに生ずる。『平城(なら)の京師(みやこ)』を思う(巻三、三三一)と同時に、旅人は香具山を思い(巻三、三三四)、また後には平城の都にあって故郷飛鳥の神名火(かんなび)の淵や来栖(くるす)の小野を思っている(巻六、九六九・九七〇)。その子家持も越中にあって同様の思いを抱いたが、それはただ一つ、奈良の都だった。その父旅人には、なお飛鳥への思慕が生きていた。大和への思慕が彼の寂寥をなぐさめたのであった。」(同著)

 

 三三一・三三四歌を含む「帥大伴卿が歌五首」をみてみよう。

■■巻三 三三一~三三五歌■■

題詞は、「帥大伴卿歌五首」<帥大伴卿(そちおほとものまえつきみ)が歌五首>である。

 

■巻三 三三一歌■

◆吾盛 復将變八方 殆 寧樂京乎 不見歟将成

        (大伴旅人 巻三 三三一)

 

≪書き下し≫我(わ)が盛りまたをちめやもほとほとに奈良の都を見ずかなりなむ

 

(訳)私の盛りの時がまた返ってくるだろうか、いやそんなことは考えられない。ひょっとして、奈良の都を見ないまま終わってしまうのではなかろうか。(同上)

(注)をつ【復つ】自動詞タ:元に戻る。若返る。(学研)

(注)めやも 分類連語:…だろうか、いや…ではないなあ。 ※なりたち推量の助動詞「む」の已然形+反語の係助詞「や」+終助詞「も」(学研)

(注)ほとほと(に)【殆と(に)・幾と(に)】副詞:①もう少しで。すんでのところで。危うく。②おおかた。だいたい。 ※「ほとど」とも。 ➡語の歴史:平安時代末期には、「ほとほど」または「ほとをと」と発音されていたらしい。のちに「ほとんど」となり、現在に至る。(学研)

 

 

 

■巻三 三三二歌■

◆吾命毛 常有奴可 昔見之 象小河乎 行見為

        (大伴旅人 巻三 三三二)

 

≪書き下し≫我(わ)が命(いのち)も常にあらぬか昔見し象(さき)の小川(をがは)を行きて見むため

 

(訳)私の命、この命もずっと変わらずにあってくれないものか。その昔見た象の小川、あの清らかな流れを、もう一度行ってみるために。(同上)

(注)昔見し:前歌で四綱の歌に答え終り、以下、吉野・明日香への望郷に主題を移す。(伊藤脚注)

(注)象の小川(きさのおがわ)については、奈良県吉野町HP「記紀万葉」に次のように書かれている。「象の小川(きさのおがわ):喜佐谷の杉木立のなかを流れる渓流で、やまとの水31選のひとつ。吉野山の青根ヶ峰や水分神社の山あいに水源をもつ流れがこの川となって、吉野川に注ぎます。万葉集歌人大伴旅人もその清々しさを歌に詠んでいます。」

 

 

 

■巻三 三三三歌■

◆淺茅原 曲曲二 物念者 故郷之 所念可聞

        (大伴旅人 巻三 三三三)

 

≪書き下し≫浅茅(あさぢ)原(はら)つばらつばらにもの思(も)へば古(ふ)りにし里し思ほゆるかも

 

(訳)浅茅原(あさじはら)のチハラではないが、つらつらと物思いに耽っていると、若き日を過ごしたあのふるさと明日香がしみじみと想い出される。(同上)

(注)あさぢはら【浅茅原】分類枕詞:「ちはら」と音が似ていることから「つばら」にかかる(学研)

(注)つばらつばらに【委曲委曲に】副詞:つくづく。しみじみ。よくよく。(学研)

 

 

 

■巻三 三三四歌■

◆萱草 吾紐二付 香具山乃 故去之里乎 忘之為

        (大伴旅人 巻三 三三四)

 

≪書き下し≫忘れ草我(わ)が紐(ひも)に付(つ)く香具山の古(ふ)りにし里を忘れむがため

 

(訳)忘れ草、憂いを忘れるこの草を私の下紐に付けました。香具山のあのふるさと明日香の里を、いっそのこと忘れてしまうために。(伊藤 博 著 「万葉集 一」 角川ソフィア文庫より)

(注)忘れ草:萱草。憂いを忘れるとされた。(伊藤脚注)

(注)香具山以下二句、前歌の第四句を承ける。(伊藤脚注)

 

 

太宰府市大佐野 太宰府メモリアルパーク万葉歌碑(大伴旅人 3-334) 20201117撮影

 

 

 

■巻三 三三五歌■

◆吾行者 久者不有 夢乃和太 湍者不成而 淵有毛

        (大伴旅人 巻三 三三五)

 

≪書き下し≫我(わ)が行きは久(ひさ)にはあらじ夢(いめ)のわだ瀬にはならずて淵(ふち)にしありこそ

 

(訳)私の筑紫在住はそんなに長くはあるまい。あの吉野の夢のわだよ。浅瀬なんかにならず深い淵のままであっておくれ。(同上)

(注)夢のわだ瀬:象川が吉野川に注ぐ所か。三三二の「象の小川」を承ける。(伊藤脚注)

(注)わだ【曲】名詞:入り江など、曲がった地形の所。(学研)

 

 三三一~三三五歌については、拙稿ブログ「万葉歌碑を訪ねて(その506)」で紹介している。

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巻六、九六九・九七〇をみてみよう。

■■巻六 九六九・九七〇歌■■

題詞は、「三年辛未大納言大伴卿在寧樂家思故郷歌二首」<三年辛未大納言大伴卿在寧樂家思故郷歌二首>である。

 

■巻六 九六九歌■

◆須臾 去而見壮鹿 神名火乃 淵者淺而 瀬二香成良武

      (大伴旅人 巻六 九六九)

 

≪書き下し≫しましくも行きて見てしか神(かむ)なびの淵(ふち)はあせにて瀬にかなるらむ

 

(訳)ほんのちょっとの間だけでも行ってみたいものだ。神なびの川の淵は、浅くなって、背になっているのではなかろうか。(伊藤脚注)

(注)しましく【暫しく】副詞:少しの間。 ※上代語。(学研)

(注)神なびの淵:橘寺南東のミハ山か。この山に沿って飛鳥川が流れる。(伊藤脚注)

(注)あす【浅す・褪す】自動詞:①(海・川・池などが)浅くなる。干上がる。②(色が)さめる。あせる。③(勢いが)衰える。(学研)ここでは①の意

(注)天平三年:731年。旅人はこの秋七月二十五日に他界。年六七。(伊藤脚注)

(注)故郷:明日香古京。旅人が生まれ、三〇歳になるまで過ごした地。(伊藤脚注)

 

 

 

■巻六 九七〇歌■

◆指進乃 粟栖乃小野之 芽花 将落時尓之 行而手向六

       (大伴旅人 巻六 九七〇)

 

≪書き下し≫さすすみの栗栖(くるす)の小野(をの)の萩(はぎ)の花散らむ時にし行きて手向(たむ)けむ

 

(訳)来栖の小野の萩の花、その花が散る頃には、きっと出かけて行って神祭りをしよう。(伊藤 博 著 「万葉集 一」 角川ソフィア文庫より)

(注)ささすみの:「来栖」の枕詞。墨縄を繰り寄せる意か。(伊藤脚注)

(注)来栖:そこに生まれ育った者だけが知っている明日香の小地名であろう。(伊藤脚注)

(注)萩:旅人が死のまぎわまで関心を寄せた花。(伊藤脚注)

(注)手向けむ:神に幣を捧げて願い事をしよう。(伊藤脚注)

 

 九六九・九七〇歌については、拙稿ブログ「万葉歌碑を訪ねて(その2518)」で紹介している。

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茨城県土浦市小野 朝日峠展望公園万葉の森万葉歌碑(大伴旅人 6-970) 20230927撮影



 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

(参考文献)

★「萬葉集」 鶴 久・森山 隆 編 (桜楓社)

★「万葉集 一」 伊藤 博 著 (角川ソフィア文庫

★「万葉集 二」 伊藤 博 著 (角川ソフィア文庫

★「古代史で楽しむ 万葉集」 中西 進 著 (角川ソフィア文庫

★「weblio古語辞典 学研全訳古語辞典」

★「weblio辞書 デジタル大辞泉

★「奈良県吉野町HP」

万葉集の世界に飛び込もう(その2586の3)―書籍掲載歌を中軸に―

●歌は、「験なきものを思はずは一圷の濁れる酒を飲むべくあるらし(大伴旅人 3-338)」他である。

 

 「旅人はなぜこのように夢想的にならなければならないのか。実は『酒を讃(ほ)むるの歌』という風変わりな十三首をつくるのも、それにほかならないだろう。その第一首、(巻三、三三八)(歌は省略)『思ってもかいない物思いをやめて、酒を飲むのがよい』というのは、彼の本心である。」(同著)

 

 「酒を讃(ほ)むるの歌』十三首をみていこう。

 

■■巻三 三三八~三五〇歌■■

三三八から三五〇歌の歌群の題詞は、「大宰帥大伴卿讃酒歌十三首」<大宰帥(だざいのそち)大伴卿、酒を讃(ほ)むる歌十三首>である。

(注)三三八、三四四、三四七、三五〇が柱となり、その間にある二首ずつがふすまの形で組をなす。(伊藤脚注)

 

■巻三 三三八歌■

◆驗無 物乎不念者 一坏乃 濁酒乎 可飲有良師

        (大伴旅人 巻三 三三八)

 

≪書き下し≫験(しるし)なきものを思はずは一圷(ひとつき)の濁(にご)れる酒を飲むべくあるらし

 

(訳)この人生、甲斐なきものにくよくよとらわれるよりは、一杯の濁り酒でも飲む方がずっとましであるらしい。(伊藤 博 著 「万葉集 一」 角川ソフィア文庫より)

(注)しるし【験】名詞:効果。かい。(weblio古語辞典 学研全訳古語辞典)

(注)濁れる酒:「濁酒」の翻読語。どぶろく。(伊藤脚注)

 

 

 

■巻三 三三九歌■

◆酒名乎 聖跡負師 古昔 大聖之 言乃宜左

       (大伴旅人 巻三 三三九)

 

≪書き下し≫酒の名を聖(ひじり)と負(おほ)せしいにしへの大き聖(ひじり)の言(こと)の宣(よろ)しさ

 

(訳)酒の名を聖(ひじり)と名付けたいにしえの大聖人の言葉、その言葉の何と結構なことよ。(同上)

(注)魏志徐邈伝(ぎしじょばくでん)に、太祖(魏の曹操)の禁酒令に対し、酔客が清酒を聖人、濁酒を賢人と呼んだとある。(伊藤脚注)

(注)大き聖(ひじり)の言(こと)の宣(よろ)しさ:徐邈らのことをおどけていったもの。(伊藤脚注)

 

 

 

■巻三 三四〇歌■

◆古之 七賢 人等毛 欲為物者 酒西有良師

                 (大伴旅人 巻三 三四〇)

 

≪書き下し≫いにしえの七(なな)の賢(さか)しき人たちも欲(ほ)りせしものは酒にしあるらし

 

(訳)いにしえの竹林の七賢人たちさえも、欲しくて欲しくてならなかったものはこの酒であったらしい。(「万葉集 一」 伊藤 博 著 角川ソフィア文庫より)

(注)七賢>竹林の七賢:中国の後漢(ごかん)末から魏(ぎ)を経て西晋(せいしん)に至る間(2世紀末から4世紀初め)に、文学を愛し、酒や囲碁や琴(こと)を好み、世を白眼視して竹林の下に集まり、清談(せいだん)を楽しんだ、阮籍(げんせき)、山濤(さんとう)、向秀(しょうしゅう)、阮咸(げんかん)(以上河南省)、嵆康(けいこう)(安徽(あんき)省)、劉伶(りゅうれい)(江蘇(こうそ)省)、王戎(おうじゅう)(山東省)の7人の知識人たちに与えられた総称。彼らは、魏晋の政権交替期の権謀術数の政治や社会と、形式に堕した儒教の礼教を批判して、偽善的な世間の方則(きまり)の外に身を置いて、老荘の思想を好んだ方外の士である。彼らの常軌を逸したような発言や奇抜な行動は、劉義慶(ぎけい)の『世説新語』に記されている。そこには、たとえば、阮籍は、母の葬式の日に豚を蒸して酒を飲んでいたが、別れに臨んでは号泣一声、血を吐いた、とある。彼らの態度は、人間の純粋な心情をたいせつにすべきことを訴える一つの抵抗の姿勢であり、まったくの世捨て人ではなかった。すなわち、嵆康は素志を貫いて為政者に殺され、山濤は出仕して能吏の評判が高かった。(コトバンク 小学館 日本大百科全書<ニッポニカ>)

 

太宰府市吉松 太宰府歴史スポーツ公園万葉歌碑(大伴旅人 3-340) 20201117撮影



 

 

■巻三 三四一歌■

◆賢跡 物言従者 酒飲而 酔哭為師 益有良之

       (大伴旅人 巻三 三四一)

 

≪書き下し≫賢(さか)しみと物言ふよりは酒飲みて酔(ゑ)ひ泣(な)きするしまさりたるらし

 

(訳)分別ありげに小賢(こざか)しい口をきくよりは、酒を飲んで酔い泣きをするほうが、ずっとまさっているらしい。(同上)

(注)さかし【賢し】形容詞:①賢明だ。賢い。②しっかりしている。判断力がある。気丈である。③気が利いている。巧みだ。④利口ぶっている。生意気だ。こざかしい。(学研)

(注)-み 接尾語:①〔形容詞の語幹、および助動詞「べし」「ましじ」の語幹相当の部分に付いて〕(…が)…なので。(…が)…だから。▽原因・理由を表す。多く、上に「名詞+を」を伴うが、「を」がない場合もある。②〔形容詞の語幹に付いて〕…と(思う)。▽下に動詞「思ふ」「す」を続けて、その内容を表す。③〔形容詞の語幹に付いて〕その状態を表す名詞を作る。④〔動詞および助動詞「ず」の連用形に付いて〕…たり…たり。▽「…み…み」の形で、その動作が交互に繰り返される意を表す。(学研)

 

 

 

■巻三 三四二歌■

◆将言為便 将為便不知 極 貴物者 酒西有良之

       (大伴旅人 巻三 三四二)

 

≪書き下し≫言はむすべ為(せ)むすべ知らず極(きは)まりて貴(たふと)きものは酒にしあるらし

 

(訳)なんとも言いようも、しようもないほどに、この上もなく貴い物は酒であるらしい。(同上)

(注)極(きは)まりて貴(たふと)き:漢語「極貴」の翻読語。(伊藤脚注)

 

 

 

■巻三 三四三歌■

◆中々尓 人跡不有者 酒壷二 成而師鴨 酒二染甞

       (大伴旅人 巻三 三四三)

 

≪書き下し≫なかなかに人とあらずは酒壺(さかつぼ)になりにてしかも酒に染(し)みなむ

 

(訳)なまじっか分別くさい人間として生きてなんかいずに、いっそ酒壺になってしまいたい。そうしたらいつも酒浸りになっていられよう。(同上)

(注)なかなかに 副詞:なまじ。なまじっか。中途半端に。(学研)

(注)呉の鄭泉(ていせん)は、死後自分の屍が土と化して酒壷に作られるように、窯の側に埋めよと言い残したという。(琱玉集)テシカモは願望。(伊藤脚注)

(注の注)てしかも 終助詞:《接続》活用語の連用形に付く。〔詠嘆をこめた自己の願望〕…(し)たいものだなあ。 ※上代語。願望の終助詞「てしか」に詠嘆の終助詞「も」が付いて一語化したもの。(学研)

 

 

 

■巻三 三四四歌■

◆痛醜 賢良乎為跡 酒不飲 人乎熟見者 猿二鴨似

       (大伴旅人 巻三 三四四)

 

≪書き下し≫あな醜(みにく)賢(さか)しらをすと酒飲まぬ人をよく見ば猿にかも似む

 

(訳)ああみっともない。分別くさいことばかりして酒を飲まない人の顔をつくづくと見たら、小賢しい猿に似ているのではなかろうか。(同上)

(注)前歌の「人」を承ける。(伊藤脚注)

 

 

 

■巻三 三四五歌■

◆價無 寳跡言十方 一坏乃 濁酒尓 豈益目八

       (大伴旅人 巻三 三四五)

 

≪書き下し≫価(あたひ)なき宝といふとも一坏(ひとつき)の濁(にご)れる酒にあにまさめや

 

(訳)たとえ値のつけようがないほど貴い宝珠でも、一杯の濁った酒にどうしてまさろうか。とてもまさりはしない。(同上)

(注)価なき宝:「無価宝珠」の翻読語。(伊藤脚注)

(注)あに【豈】副詞:①〔下に打消の語を伴って〕決して。少しも。②〔下に反語表現を伴って〕どうして。なんで。 ⇒参考 中古以降は漢文訓読体にもっぱら用いられ、ほとんどが②の用法となった。(学研)ここでは②の意

 

 

 

■巻三 三四六歌■

◆夜光 玉跡言十方 酒飲而 情乎遣尓 豈若目八方

       (大伴旅人 巻三 三四六)

 

≪書き下し≫夜光る玉といふとも酒飲みて心を遣(や)るにあに及(し)かめやも

 

(訳)たとえ夜光る貴い玉でも、酒を飲んで憂さ晴らしをするのにどうして及ぼうか、とても及びはしない。(同上)

(注)夜光る玉:極めて貴い玉。文選等に「夜光玉」の語がある。(伊藤脚注)

(注)こころをやる【心を遣る】分類連語:気晴らしをする。心を慰める。(学研)

 

 

 

■巻三 三四七歌■

◆世間之 遊道尓 怜者 酔泣為尓 可有良師

       (大伴旅人 巻三 三四七)

 

≪書き下し≫世間(よのなか)の遊びの道に楽(たの)しきは酔(ゑ)ひ泣(な)きするにあるべかるらし

 

(訳)この世の中のいろんな遊びの中で一番楽しいことは、一も二もなく酔い泣きすることにあるようだ。(同上)

(注)上二句は前歌の第四句「心を遣る」(憂いを晴らす)を承ける。(伊藤脚注)

 

 

 

■巻三 三四八歌■

◆今代尓之 樂有者 来生者 蟲尓鳥尓毛 吾羽成奈武

        (大伴旅人 巻三 三四八)

 

≪書き下し≫この世にし楽しくあらば来(こ)む世には虫に鳥にも我(わ)れはなりなむ

 

(訳)この世で楽しく酒を飲んで暮らせるなら、来世には虫にでも鳥にでも私はなってしまおう。(同上)

(注)この世:現世。「来世」の対。前歌の「世間」を承ける。(伊藤脚注)

 

 

 

■巻三 三四九歌■

◆生者 遂毛死 物尓有者 今生在間者 樂乎有名

       (大伴旅人 巻三 三四九)

 

≪書き下し≫生ける者(ひと)遂(つひ)にも死ぬるものにあればこの世(よ)にある間(ま)は楽しくをあらな

 

(訳)生ある者はいずれ死ぬものであるから、せめてこの世にいる間は酒を飲んで楽しくありたいものだ。(同上)

(注)「生者 遂毛死 物尓有者」は、仏説の「生者必滅」による。(伊藤脚注)

 

 

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■巻三 三五〇歌■

◆黙然居而 賢良為者 飲酒而 酔泣為尓 尚不如来

       (大伴旅人 巻三 三五〇)

 

≪書き下し≫黙(もだ)居(を)りて賢(さか)しらするは酒飲みて酔(ゑ)ひ泣(な)きするになほ及(し)かずけり

 

(訳)黙りこくって分別くさく振る舞うのは、酒を飲んで酔い泣きをするのに、やっぱり及びはしないのだ。(同上)

(注)もだ【黙】名詞:黙っていること。何もしないでじっとしていること。▽「もだあり」「もだをり」の形で用いる。(学研)

(注)なほ及かずけり:熟慮反省の結果として、「酔ひ泣き」の賞揚すべきことを確認した表現。以上一三首、大宰府の宴席で公表されたらしい。(伊藤脚注)

 

 三三八~三四四歌については、拙稿ブログ「万葉歌碑を訪ねて(その898-1)」で、三四五~三五〇歌については、同「同(その898-2)」で紹介している。

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太宰府歴史スポーツ公園「万葉の散歩道」の碑 2020117撮影

 

 

 

 

 

 

 

 

 

(参考文献)

★「萬葉集」 鶴 久・森山 隆 編 (桜楓社)

★「万葉集 一」 伊藤 博 著 (角川ソフィア文庫

★「古代史で楽しむ 万葉集」 中西 進 著 (角川ソフィア文庫

★「weblio古語辞典 学研全訳古語辞典」

★「コトバンク 小学館 日本大百科全書<ニッポニカ>」

万葉集の世界に飛び込もう(その2586の2)―書籍掲載歌を中軸に―

●歌は、「み吉野の 吉野の宮は 山からし 貴とくあらし 水からし さやけくあらし 天地と 長く久しく 万代に 改らずあらむ 幸しの宮(大伴旅人 3-315)」、「    隼人の瀬戸の巌も鮎走る吉野の瀧になほしかずけり(大伴旅人 6-960            )」、「いざ子ども香椎の潟に白栲の袖さへ濡れて朝菜摘みてむ(大伴旅人 6-957)」、「あさりする海人の子どもと人は言へど見るに知らえぬ貴人の子と(大伴旅人 5-853)」、「いかにあらむ日の時にかも声知らむ人の膝の上我が枕かむ(大伴旅人 5-810)」である。

 

 中西 進氏は、「大伴旅人―人と作品」(祥伝社新書)の冒頭に「私事で恐縮だが、万葉歌人の中で好きな男性歌人を挙げよと言われれば、わたしは躊躇(ためら)いなく、大伴旅人を挙げたい。」と書いておられるだけに、いま読み進んでいる「古代史で楽しむ 万葉集」 中西 進 著 (角川ソフィア文庫)の「大伴旅人」の項は、行間にすざましいエネルギーを感じさせられるのである。

 

 「万葉集には、この大宰府時代以前と思われる旅人の歌が、たった一種類しかない。中納言旅人の吉野従駕の長歌とその反歌(巻三、三一五・三一六)だが、しかもそれは何かの都合で奏上するにいたらなかったものである。」(同著)

 

巻三、三一五・三一六歌をみていこう。

題詞は、「暮春之月幸芳野離宮中納言大伴卿奉勅作歌一首幷短歌 未逕奏上歌」<暮春の月に、吉野(よしの)の離宮(とつみや)に幸(いでま)す時に、中納言大伴卿、勅(みことのり)を奉(うけたまは)りて作る歌一首幷(あは)せて短歌 いまだ奏上を経ぬ歌>である。

(注)幸(いでま)す時:聖武天皇即位の神亀元年(七二四)三月行幸。(伊藤脚注)

(注)いまだ奏上を経ぬ歌:上奏するに至らなかった歌。(伊藤脚注)

 

 

■巻三 三一五歌■

◆見吉野之 芳野乃宮者 山可良志 貴有師 水可良思 清有師 天地与 長久 萬代尓 不改将有 行幸之宮

                             (大伴旅人 巻三 三一五)

 

≪書き下し≫み吉野の 吉野の宮は 山からし 貴(たふと)くあらし 水(かは)からし さやけくあらし 天地(あめつち)と 長く久しく 万代(よろづよ)に 改(かは)らずあらむ 幸(いでま)しの宮

 

(訳)み吉野、この吉野の宮は山の品格ゆえに尊いのである。川の品格ゆえに清らかなのである。天地とともに長く久しく、万代にかけて改(あら)たまることはないであろう。我が大君の行幸(いでまし)の宮は。(「万葉集 一」 伊藤 博 著 角川ソフィア文庫より)

(注)吉野では、「山」と「水」をほめるのが人麻呂以来の伝統。(伊藤脚注)

(注)-から【柄】接尾語:名詞に付いて、そのものの本来持っている性質の意を表す。「国から」「山から」 ⇒参考 後に「がら」とも。現在でも「家柄」「続柄(つづきがら)」「身柄」「時節柄」「場所柄」などと用いる。(weblio古語辞典 学研全訳古語辞典)

(注)し 副助詞 《接続》体言、活用語の連用形・連体形、副詞、助詞などに付く。:〔強意〕 ⇒参考 「係助詞」「間投助詞」とする説もある。中古以降は、「しも」「しぞ」「しか」「しこそ」など係助詞を伴った形で用いられることが多くなり、現代では「ただし」「必ずしも」「果てしない」など、慣用化した語の中で用いられる。(学研)

(注)天地と 長く久しく:「天地長久」の翻読語。(伊藤脚注)

 

 

 

 

■巻三 三一六歌■

◆昔見之 象乃小河乎 今見者 弥清 成尓来鴨

    (大伴旅人 巻三 三一六)

 

≪書き下し≫昔見し象(さき)の小川(をがは)を今見ればいよよさやけくなりにけるかも

 

(訳)昔見た象(さき)の小川を今再び見ると、流れはいよいよますますさわやかになっている。(同上)

(注)昔見し:天武・持統朝の昔。(伊藤脚注)

(注)象(さき)の小川:喜佐谷を流れて宮滝で吉野川にそそぐ川。(伊藤脚注)

 

 この歌については、拙稿ブログ「万葉歌碑を訪ねて(その974)」で紹介している。

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 「大宰帥から大納言に栄転した後の歌にしても、二首を除いて大宰府時代と関係をもつ。つまり旅人は、ほぼ大宰府の関係において万葉集に歌をとどめているといえる。われわれはその大宰府の歌から、彼がどのような心情でその地にあったかを、つぶさに知ることができるが、それらを通してもっとも大きなひびきを伝えて来ることは、彼の心がつねに現実にはない、ということである。亡き妻をしのぶということも、そのひとつである。(巻二、四三八)(歌は省略)・・・妻の『纏きて』という過去の回想の中に旅人はいる、そして現在は、纏く人はいないという否定の中にある。過去を回想するにしろ未来をねがうにしろ、旅人の現実感はとぼしい。」(同著)

 「だから心はつねに望京の念にさいなまれる。(巻六、九六〇)(歌は省略)筑紫の新鮮な風土に感動することは、必ずやあったはずである。しかしその結論とするところは、やはり吉野の方がよい、ということだ。(巻六、九五七)(歌は省略)という一首でさえ香椎の清遊に興ずるだけの旅人を、われわれは考えがたい。『袖さへ』というのは、裾(すそ)に対していうのだから、全身を濡らすことになる。全身濡れそぼちながら朝の菜を拾おうとする旅人は忘我の中に入っていこうとする姿である。現実を離れて。」(同著)

 

 巻六、九六〇ならびに巻六、九五七歌をみてみよう。

■巻六 九五七歌■

 標題は、「冬十一月大宰官人等奉拜香椎廟訖退歸之時馬駐于香椎浦各述作懐歌」<冬の十一月に、大宰(だざい)の官人等(たち)、香椎(かしい)の廟(みや)を拝(をろが)みまつること訖(をは)りて、退(まか)り帰る時に、馬を香椎の浦に駐(とど)めて、おのもおのも懐(おもひ)を述べて作る歌>である。

 

 題詞は、「帥大伴卿歌一首」<帥大伴卿が歌一首>である。

 

◆去来兒等 香椎乃滷尓 白妙之 袖左倍所沾而 朝菜採手六

        (大伴旅人 巻六 九五七) 

 

≪書き下し≫いざ子ども香椎(かしひ)の潟(かた)に白栲(しろたへ)の袖(そで)さへ濡(ぬ)れて朝菜(あさな)摘みてむ

 

(訳)さあ皆の者、この香椎の干潟で、袖の濡れるのも忘れて、朝餉(あさげ)の藻を摘もうではないか。(伊藤 博 著 「万葉集 二」 角川ソフィア文庫より)

(注)いざ子ども:宴席等で目下の者を呼ぶ慣用語。(伊藤脚注)

(注)白栲の:「袖」の枕詞。以下、女性の行為のような映像がある。眼前に朝菜を取る海人娘子を見ているからか。(伊藤脚注)

 

 この歌については、拙稿ブログ「万葉歌碑を訪ねて(その873)」で紹介している。

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■巻六 九六〇歌■

題詞は、「帥大伴卿遥思芳野離宮作歌一首」<帥大伴卿(そちおほとものまへつきみ)、遥(はる)かに吉野の離宮(とつみや)を思(しの)ひて作る歌一首>である。

 

◆隼人乃 湍門乃磐母 年魚走 芳野之瀧尓 尚不及家里

       (大伴旅人 巻六 九六〇)

 

≪書き下し≫隼人(はやひと)の瀬戸の巌(いはほ)も鮎(あゆ)走る吉野の滝になほ及(し)かずけり

 

(訳)隼人の瀬戸の、白波くだける大岩の光景も、鮎が身を躍らせて走る吉野の激流のさわやかさには、やっぱり及びはしない。(同上)

(注)隼人の瀬戸:北九州市門司区下関市壇之浦との間の早鞆の瀬戸か。(伊藤脚注)

 

 

 

 「こうした感情のあり方こそ、いくつかの旅人の大宰府歌を解く鍵(かぎ)となる。そのひとつが梅花の宴である。(巻五、八一五以下)。旅人が三十一人を集めて梅花の歌宴を催し、蘭亭(らんてい)の序をまねた漢文の序を書き、しかも以後しばらくを興奮さめやらぬかのごとく追和の歌を重ねるというのは、ただごとではないだろう。これも『袖さへ濡れて』という感情である。」(同著)

 

 「梅花の宴」については、

序ならびに822歌については、拙稿ブログ「万葉歌碑を訪ねて(太宰府番外編その1)」で紹介している。

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815~821歌については、同「同(その2)」で紹介している。

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823~829歌については、同「同(その3)」で紹介している。

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830~837歌については、同「同(その4)」で紹介している。

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838~845歌については、同「同(その5)」で紹介している。

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太宰府市坂本 坂本八幡宮「令和の碑」 20201117撮影

 

 「また玉島(たましま)の淵(ふち)に遊んで仙女と逢ったといって遊仙窟(ゆうせんくつ)まがいの空想をする。(巻五、八五三~八六三)。対馬(つしま)産の琴を房前(ふささき)に送るといって、夢の中で琴の娘子とみずからとが贈答した形の歌を送るとしう趣向(巻五、八一〇・八一一)も同じである。」(同著)

 

 巻五、八五三~八六三歌ならびに巻五、八一〇・八一一歌をみてみよう。

 

■■巻五 八五三~八六三歌■■

■巻五 八五三■

序は「遊於松浦河序 余以暫徃松浦之縣逍遥 聊臨玉嶋之潭遊覧 忽値釣魚女子等也 花容無雙 光儀無匹 開柳葉於眉中發桃花於頬上 意氣凌雲 風流絶世 僕問曰 誰郷誰家兒等 若疑神仙者乎 娘等皆咲答曰 兒等者漁夫之舎兒 草菴之微者 無郷無家 何足稱云 唯性便水 復心樂山 或臨洛浦而徒羨玉魚 乍臥巫峡以空望烟霞 今以邂逅相遇貴客 不勝感應輙陳欵曲 而今而後豈可非偕老哉 下官對曰 唯々 敬奉芳命 于時日落山西 驪馬将去 遂申懐抱 因贈詠歌曰」<松浦川(まつらがは)に遊ぶ序 余(われ)、たまさかに松浦(かつら)の県(あがた)に徃(ゆ)きて逍遥(せうえう)し、いささかに玉島(たましま)に潭(ふち)臨みて遊覧するに、たちまちに魚(うを)を釣(つ)る娘子(をとめ)らに値(あ)ひぬ。花容(くわよう)双(なら)びなく、光儀(くわうぎ)匹(たぐ)ひなし。柳葉(りうえふ)を眉(まよ)の中(うち)に開(ひら)き、桃花(たうくわ)を頬(ほほ)に上(うへ)に発(ひら)く。 意気(いき)は雲を凌(しの)ぎ、風流は世に絶(すぐ)れたり。 僕(われ)、問ひて「誰(た)が郷(さと)誰(た)が家(いへ)の子らぞ、けだし神仙(しんせん)にあらむか」といふ。娘子(をとめ)ら、みな咲(ゑ)み答へて「児等(われ)は漁夫の舎(いへ)の児、草菴の微(いや)しき者なり。郷(さと)もなく家(いへ)もなし。何ぞ称(なの)り云ふに足らむ。ただ性(ひととなり)水に便(なら)ひ、また心(こころ)山を楽しぶ。あるいは洛浦(らくほ)に臨みて、いたづらに玉魚(ぎょくぎょ)を羨(とも)しぶ、あるいは巫峡(ぶかふ)に臥(ふ)して、空(むな)しく煙霞(えんか)を望む。今たまさかに以邂逅貴客(うまひと)に相遇(あ)ひ感応に勝(あ)へず、すなはち欵曲(くわんきよく)を陳(の)ぶ。今より後(のち)に、あに偕老(かいろう)にあらざるべけむ」といふ。下官(われ)、対(こた)へて「唯々(をを)、敬(つつし)みて芳命を奉(うけたま)はらむ」といふ。時に、日は西に落ち、驪馬(りば)去(い)なむとす。つひに懐抱(くわいはう)を申(の)べ、よりて詠歌(えいか)を贈りて曰(い)はく、>

 

(序訳)この私、たまたま松浦の県(あがた)をさすらい、ふと玉島の青く澄んだ川べりに遊んだところ、思いもかけず魚を釣る女性たちに出逢った。その花の顔(かんばせ)は並ぶものがなく、光輝く姿は比べるものとてない。しなやかな眉(まゆ)はあたかも柳葉が開いたよう、あでやかな頬(ほほ)はまるで桃の花が咲いたよう。気品は雲を凌ぐばかりで、艶(つや)やかさはこの世随一。私は尋ねた。「どこの里のどなたのお子ですか。もしや仙女ではございませんか」と。女性たちは、皆はにかんでこう答えた。「私どもは漁夫の子で、あばら屋住まいの取るに足りない者です。決まった里もなければ、確かな家もございません。どうしてことさら名告(なの)るに足りましょう。ただ生まれつき水に親しみ、また心底山を楽しんでおります。ある時には洛水(らくすい)の浦に臨んで、いたずらに美しい魚の身の上を羨(うらや)んだり、ある時には巫山(ふざん)の峡(かい)に横たわって、わけもなく雲や霞を眺めたりしております。今はからずも高貴なお方に出逢い、嬉(うれ)しさに堪えきれず心の底をうち明ける次第でございます。心をうち明けたただ今からは、どうして偕老(かいろう)のお約束を結ばないでおられましょうか」と。私めは答えて言った。「はい、謹んで仰せに従いましょう」と。折しも、日は山の西に落ちかかり、黒馬は帰りを急いでいる。私はついにたまらなくなって心の内を開陳し、歌に託して次のように言い贈った。(伊藤 博 著 「万葉集 一」 角川ソフィア文庫より)

(注)松浦川佐賀県東松浦郡玉島川。八五四まで、作者は旅人らしい。前文には、遊仙窟等の辞句を踏まえる表現が目立つ。(伊藤脚注)

(注)魚を釣る:神功皇后が、四月上旬、ここで鮎を釣ったという神功前紀の伝えを踏まえる。(伊藤脚注)

(注)【花容・華容】〘 名詞 〙:① 花のかたち。花様。② 花のように美しい容姿。(コトバンク 精選版 日本国語大辞典)ここでは②の意

(注)いき【意気】名詞:①心ばえ。気性(きしよう)。②いきごみ。気概。(学研)ここでは①の意

(注)神仙:神仙の女性。仙女。(伊藤脚注)

(注)ただ性水に便ひ:ただ生まれつき水に親しみ・・・。論語の「知者ハ水ヲ楽シビ、仁者ハ山ヲ楽シブ」による。(伊藤脚注)

(注)洛浦:文選洛神賦の洛川。ここは玉島川。(伊藤脚注)

(注)玉魚(ぎょくぎょ)を羨(とも)しぶ:美しい魚の身の上を羨んだり。(伊藤脚注)

(注)巫峡:文選高唐賦の巫山。ここは玉島峡を仙境に見立てる。(伊藤脚注)

(注)欵曲:「欵」は誠、「曲」は隅。心の底。(伊藤脚注)

(注)偕老(かいろう)にあらざるべけむ:老いを共にするお約束を結ばないでいられましょうか。(伊藤脚注)

(注の注)べけむ 分類連語:…だろう。…はずであろう。…べきであろう。 ⇒参考:「べけむや」の形で、多く反語になる。漢文訓読の語句。 ⇒なりたち:推量の助動詞「べし」の古い未然形+推量の助動詞「む」(学研)

(注)りば【驪馬】〘 名詞 〙:毛色の黒い馬。くろこま。驪駒。(コトバンク 精選版 日本国語大辞典

 

 

 

■巻五 八五三歌■

◆阿佐里須流 阿末能古等母等 比得波伊倍騰 美流尓之良延奴 有麻必等能古等

       (大伴旅人 巻五 八五三)

 

≪書き下し≫あさりする海人(あま)の子どもと人は言へど見るに知らえぬ貴人(うまひと)の子と

 

(訳)魚を獲(と)る海人(あま)の子どもとあなたがたはおっしゃるけれど、一目見てわかりました、貴人のお子であるということが。(同上)

(注)あさり【漁り】名詞※「す」が付いて他動詞(サ行変格活用)になる:①えさを探すこと。②魚介や海藻をとること。(学研)ここでは②の意

(注)しらえぬ 【知らえぬ】分類連語:知られた。わかった。 ⇒なりたち:動詞「しる」の未然形+上代の可能・自発の助動詞「ゆ」の連用形+完了の助動詞「ぬ」の終止形(学研)

 

 

 

■巻五 八五四歌■

 題詞は「答詩日」<答ふる詩に日(い)はく>である。

 

◆多麻之末能 許能可波加美尓 伊返波阿礼騰 吉美乎夜佐之美 阿良波佐受阿利吉

       (大伴旅人 巻五 八五四)

 

≪書き下し≫玉島(たましま)のこの川上(かはかみ)に家はあれど君を恥(やさ)しみあらはさずありき

 

(訳)玉島のこの川上に私たちの家はあるのですが、あなたに気圧(けお)されてあかさないでいたのです。

(注)君を恥(やさ)しみあらはさずありき:あなたへの恥ずかしさに、家や身の上を明かさなかった。(伊藤脚注)

 

 

 

■■巻五 八五五~八五七歌■■

題詞は、「蓬客等更贈歌三首」<蓬客(ほうかく)のさらに贈る歌三首>である。

(注)蓬客:さすらいの人。「蓬」は「藜(あかざ)」の類。漢籍で旅人(たびびと)に譬えられる。(伊藤脚注)

(注)三首:実作家は八五四までを旅人から披露された某大宰府官人らしい。(伊藤脚注)

 

■巻五 八五五歌■

◆麻都良河波 可波能世比可利 阿由都流等 多々勢流伊毛何 毛能須蘇奴例奴

       (作者未詳 巻五 八五五)

 

≪書き下し≫松浦川(まつらがは)川の瀬光り鮎(あゆ)釣(つ)ると立たせる妹(いも)が裳(も)の裾(すそ)濡(ぬ)れぬ

 

(訳)松浦川の川の瀬はきらめき、鮎を釣ろうと立っておられるあなたの裳の裾が美しく濡れています。(伊藤 博 著 「万葉集 一」 角川ソフィア文庫

(注)裳の裾濡れぬ:女性の官能的な美を示す。(伊藤脚注)

 

 

 

■巻五 八五六歌■

◆麻都良奈流 多麻之麻河波尓 阿由都流等 多々世流古良何 伊弊遅斯良受毛

       (作者未詳 巻五 八五六)

 

≪書き下し≫松浦なる玉島川(たましまがは)に鮎釣ると立たせる子らが家道(いへぢ)知らずも

 

(訳)ここ松浦の玉島川で鮎を釣ろうと立っておられるあなたがたの家をお尋ねしたいのですが、その道がわかりません。(同上)

 

 

 

■巻五 八五七歌■

◆富都比等 末都良能加波尓 和可由都流 伊毛我多毛等乎 和礼許曽末加米

       (作者未詳 巻五 八五七)

 

≪書き下し≫遠つ人松浦の川に若鮎(わかゆ)釣る妹(いも)が手本(たもと)を我(わ)れこそまかめ

 

(訳)遠くにいる人を待つという名の松浦の川で若鮎を釣るあなたの手、その手を私はぜひ枕にしたいものです。(同上)

(注)とほつひと【遠つ人】分類枕詞:①遠方にいる人を待つ意から、「待つ」と同音の「松」および地名「松浦(まつら)」にかかる。「とほつひと松の」。②遠い北国から飛来する雁(かり)を擬人化して、「雁(かり)」にかかる。(学研)ここでは①の意

 

 

 八五五~八五七歌については、拙稿ブログ「万葉歌碑を訪ねて(その2444)」で紹介している。

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■■巻五 八五八~八六〇歌■■

題詞は、「娘等更報歌三首」<娘子(をとめ)らがさらに報(こた)ふる歌三首>である。

(注)さらに:「さらに」が用いられると、一連の歌群が終わりになることが多い。(伊藤脚注)

(注)三首:実作歌は別の大宰府某官人か。八五八が八五七に、八五九が八五六に、八六〇が八五五に応じる。(伊藤脚注)

 

■巻五 八五八歌■

◆和可由都流 麻都良能可波能 可波奈美能 奈美邇之母波婆 和礼故飛米夜母

       (作者未詳 巻五 八五八)

 

≪書き下し≫若鮎(わかゆ)釣る松浦の川の川なみの並(なみ)にし思(も)はば我(わ)れ恋ひめやも

 

(訳)若鮎を釣る松浦の川の川なみの、そのなみというように並々の気持で思うのでしたら、私どもはこんなに恋焦がれることがありましょうか。(同上)

(注)上三句は同音の序。「並にし」を起す。「川なみ」は川の流れ。(伊藤脚注)

 

 

 

■巻五 八五九歌■

◆波流佐礼婆 和伎覇能佐刀能 加波度尓波 阿由故佐婆斯留 吉美麻知我弖尓

       (作者未詳 巻五 八五九)

 

≪書き下し≫春されば我家(わぎへ)の里の川門(かはと)には鮎子(あゆこ)さ走(ばし)る君待ちがてに

 

(訳)春になると、わが家(や)の里の渡り瀬では若鮎が跳ね回っています。あなたを待ちあぐねんで。(同上)

(注)かはと【川門】名詞:両岸が迫って川幅が狭くなっている所。川の渡り場。(学研)

(注)君待ちがてに:君を待ちきれなくて。ガテニはカテニに同じ。(伊藤脚注)

(注の注)がてに 分類連語:①…できないで。…られないで。②…しにくく。 ⇒参考:補助動詞「かつ」の未然形「かて」に打消の助動詞「ず」の上代の連用形「に」がついた「かてに」が一語と考えられ、濁音化したもの。濁音化するとともに、「難(がて)に」の意と混同されるようになって、②の意味が生じた。(学研)ここでは①の意

 

 

 

■巻五 八六〇歌■

◆麻都良我波 奈々勢能與騰波 与等武等毛 和礼波与騰麻受 吉美遠志麻多武

       (作者未詳 巻五 八六〇)

 

≪書き下し≫松浦川七瀬(ななせ)の淀(よど)は淀むとも我(わ)れは淀まず君をし待たむ

 

(訳)松浦川のいくつもの瀬のある淀みは、この後もたとえどんなに淀もうとも、私どもは、ためらわずただ一筋のあなたをお待ちしましょう。(同上)

(注)前歌に対し、鮎ならぬ私が待つと展開している。(伊藤脚注)

 

 

 

 

■■巻五 八六一~八六三歌■■

題詞は、「後人追和之詩三首 帥老」<後人の追和(ついわ)する歌三首 帥老(そちろう)>である。

(注)廻り持ちで詠んだ、八五三の前文から八六〇が再び旅人のもとに来、後人追和の形で旅人が歌ったもの。(伊藤脚注)

(注)八五五~八五七に順に応じている。(伊藤脚注)

(注)帥老:旅人を尊んでいう。一連の作が旅人ほか諸人の共作であることを示すために、資料保管の段階で憶良が注したらしい。(伊藤脚注)

 

■巻五 八六一歌■

◆麻都良河波 可波能世波夜美 久礼奈為能 母能須蘇奴例弖 阿由可都流良武

      (大伴旅人 巻五 八六一)

 

≪書き下し≫松浦川(まつらがは)川の瀬早み紅(くれない)の裳(も)の裾(すそ)濡(ぬ)れて鮎か釣るらむ 

 

(訳)松浦川の川の瀬が早いので、娘子たちは紅の裳裾をあでやかに濡らしながら、今頃、鮎を釣っていることであろうか。(同上)

 

 八六一歌については、拙稿ブログ「万葉歌碑を訪ねて(その1812)」で紹介している。

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■巻五 八六二歌■

◆比等未奈能 美良武麻都良能 多麻志末乎 美受弖夜和礼波 故飛都々遠良武

       (大伴旅人 巻五 八六二)

 

≪書き下し≫人皆(ひとみな)の見らむ松浦の玉島を見ずてや我(わ)れは恋ひつつ居(を)らむ

 

(訳)誰もかれもが見ている松浦の玉島なのに、一人見ることもかなわずに、私どもはこんなにも切なく恋い焦がれていなければならないのか。(同上)

(注)ヤは自己の現状に対する詠嘆的疑問。(伊藤脚注)

 

 

 

 

■巻五 八六三歌■

◆麻都良河波 多麻斯麻能有良尓 和可由都流 伊毛良遠美良牟 比等能等母斯佐

        (大伴旅人 巻五 八六三)

 

≪書き下し≫松浦川玉島の浦に若鮎(わかゆ)釣る妹(いも)らを見らむ人の羨(とも)しさ

 

(訳)松浦川の玉島の浦で若鮎を釣る美しい娘子、その娘子たちを見ている人びとが羨ましくてたまらない。(同上)

 

 

 

■■巻五 巻五、八一〇・八一一歌■■

題詞は、「大伴淡等謹状 梧桐日本琴一面 對馬結石山孫枝」<大伴淡等(おほとものたびと)謹状(きんじょう) 梧桐(ごとう)の日本(やまと)琴(こと)一面 対馬の結石(ゆひし)の山の孫枝(ひこえ)なり>である。

(注)ごとう【梧 桐】: アオギリの異名。(weblio辞書 三省堂 大辞林 第三版)

(注)「淡等」:旅人を漢字音で書いたもの。(伊藤脚注)

(注)結石(ゆひし)の山:対馬北端の山

(注)孫枝(読み)ヒコエ:枝からさらに分かれ出た小枝。(コトバンク デジタル大辞泉

 

 前文は、「此琴夢化娘子曰 余託根遥嶋之崇巒 晞▼九陽之休光 長帶烟霞逍遥山川之阿 遠望風波出入鴈木之間 唯恐 百年之後空朽溝壑 偶遭良匠散為小琴 不顧質麁音少 恒希君子左琴 即歌曰」<この琴、夢(いめ)に娘子(をとめ)に化(な)りて日(い)はく、『余(われ)、根(ね)を遥島(えうたう)の崇巒(すうらん)に託(よ)せ、幹(から)を九陽(きうやう)の休光(きうくわう)に晒(さら)す。長く煙霞(えんか)を帯びて、山川(さんせん)の阿(くま)に逍遥(せうえう)す。遠く風波(ふうは)を望みて、雁木(がんぼく)の間(あひだ)に出入す。ただに恐る、百年の後(のち)に、空(むな)しく溝壑(こうかく)に朽(く)ちなむことのみを。たまさかに良匠に遭(あ)ひ、斮(き)られて小琴(せうきん)と為(な)る。質麁(あら)く音少なきことを顧(かへり)みず、つねに君子の左琴(さきん)を希(ねが)ふ』といっふ。すなはち歌ひて曰はく>である。

 

(訳)この琴が、夢に娘子(おとめ)になって現れて言いました。「私は、遠い対馬(つしま)の高山に根をおろし、果てもない大空の光に幹をさらしていました。長らく雲や霞(かすみ)に包まれ、山や川の蔭(かげ)に遊び暮らし、遥かに風や波を眺めて、物の役に立てるかどうかの状態でいました。たった一つの心配は、寿命を終えて空しく谷底深く朽ち果てることでありました。ところが、偶然にも立派な工匠(たくみ)に出逢い、伐(き)られて小さな琴になりました。音質は荒く音量も乏しいことを顧(かえり)みず、徳の高いお方の膝の上に置かれることをずっと願うております。」と。次のように歌いました。(同上)

(注)遥島:はるか遠い島。ここでは対馬のことをいう。(伊藤脚注)

(注)崇巒:高い嶺。結石山をいう。(伊藤脚注)

(注)九陽(読み)きゅうよう〘名〙:太陽。日。(コトバンク 精選版 日本国語大辞典)(注)休光:うるわしい光。(伊藤脚注)。

(注)逍遥(読み)ショウヨウ [名]:気ままにあちこちを歩き回ること。そぞろ歩き。散歩。(コトバンク デジタル大辞泉

(注)雁木の間:古代中国の思想家、荘子が旅の途中、木こりが木を切り倒していた。「立派な木だから、いい材料になる」。しばらく行くと、親切な村人がごちそうしてくれた。「この雁はよく鳴かないので殺しました」。役に立つから切られるものと、役に立たないから殺されるもの。荘子いわく、「役に立つとか立たないとか考えず生きるのが一番いい」(佐賀新聞LIVE)

(注)百年:人間の寿命➡百年の後>寿命を終えて(伊藤脚注)。

(注)溝壑(読み)こうがく:みぞ。どぶ。谷間。(コトバンク 大辞林 第三版)

(注)君子の左琴:『白虎通』に「琴、禁也、以禦二止淫邪_、正二人心,.一也。」、つまり琴が君子の身を修め心を正しくする器であるといい、そのゆえに『風俗通義』に「君子の常に御する所のもの、琴、最も親密なり、身より離さず」という、「君子左琴」「右書左琴」などの、“君子の楽器としての琴”という通念が生まれて来た。(明治大学大学院紀要 第28集1991.2)

 

 ■巻五 八一〇歌■

◆伊可尓安良武 日能等伎尓可母 許恵之良武 比等能比射乃倍 和我麻久良可武

        (大伴旅人 巻五 八一〇)

 

≪書き下し≫いかにあらむ日の時にかも声知らむ人の膝(ひざ)の上(へ)我(わ)が枕(まくら)かむ

 

(訳)どういう日のどんな時になったら、この声を聞きわけて下さる立派なお方の膝の上を、私は枕にすることができるのでしょうか。(同上)

(注)声知らむ人:声を聞きわけて下さる人。琴の名手伯牙がよく琴を弾き、鍾子期がよくその音を聴いたという、いわゆる「知音」の故事による。(伊藤脚注)。

 

 

 

 

■巻五 八一一歌■

 題詞は、「僕報詩詠曰」<僕(われ)、詩詠(しえい)に報(こた)へて曰はく>である。

 

◆許等ゝ波奴 樹尓波安里等母 宇流波之吉 伎美我手奈礼能 許等尓之安流倍志 

        (大伴旅人 巻五 八一一)

 

≪書き下し≫言(こと)とはぬ木にはありともうるはしき君が手馴(たな)れの琴にしあるべし

 

(訳)うつつには物を言わぬ木ではあっても、あなたのようなお方なら、立派なお方がいつも膝に置く琴に、きっとなることができましょう。(同上)

 

 そして、後文は、「琴娘子答曰 敬奉徳音 幸甚ゝゝ 片時覺 即感於夢言慨然不得止黙 故附公使聊以進御耳 謹状不具」<琴娘子(ことをとめ)答へて曰はく、『敬(つつし)みて徳音(とくいん)を奉(うけたまは)る。幸甚(かうじん)々々』 片時(しまらく)ありて覚(おどろ)き、すなわち夢(いめ)の言(こと)に感(かま)け、慨然止黙(がいぜんもだ)をること得ず。故(そゑ)に、公使(こうし)に附けて、いささかに進御(たてまつ)らくのみ。

謹状 不具(ふぐ)>である。

 

 

 

(後文訳)琴娘子は答えて、「謹んで結構なお言葉を承りました。幸せの限りです」と言いました。 しばらくして私はふと目が覚めて夢の言葉に心むせび、感無量でとても黙っていることができません。そこで、公の使に託して、いささか進呈申し上げます。 謹んで申し上げます。不具。(同上)

 

左注は、「天平元年十月七日附使進上 謹通 中衛高明閤下 謹空」<天平元年十月七日 使い附けて進上(たてまつ)る 謹通(きんつう) 中衛高明閤下(ちゆうゑいかうめいかふか) 謹空>

(注)謹通:謹んで書状をさしあげる。(伊藤脚注)。

(注)中衛高明:中衛府大将藤原房前。(伊藤脚注)。

(注)謹空(読み)きんくう〘名〙: (つつしんで空白を残す意) 書状の末尾に添えて敬意を表わす語(コトバンク 精選版 日本国語大辞典

 

 八一〇・八一一歌については、拙稿ブログ「万葉歌碑を訪ねて(その番外              200513-2)」で紹介している。

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(参考文献)

★「萬葉集」 鶴 久・森山 隆 編 (桜楓社)

★「万葉集 一」 伊藤 博 著 (角川ソフィア文庫より)

★「古代史で楽しむ 万葉集」 中西 進 著 (角川ソフィア文庫

★「weblio古語辞典 学研全訳古語辞典」

★「コトバンク 精選版 日本国語大辞典

★「コトバンク 大辞林 第三版」

 

万葉集の世界に飛び込もう(その2586の1)―書籍掲載歌を中軸に―

●歌は、「愛しき人のまきてし敷栲の我が手枕をまく人あらめや(大伴旅人 3-438)」、我妹子が見し鞆の浦のむろの木は常世にあれど見し人ぞなき(大伴旅人 3-446)」、「世の中は空しきものと知る時しいよよますます悲しかりける(大伴旅人 5-793)」、「橘の花散る里のほととぎす片恋しつつ鳴く日しぞ多き(大伴旅人 8-1473)」などである。

 

「古代史で楽しむ 万葉集」 中西 進 著 (角川ソフィア文庫)の「大伴旅人」を読み進んでいこう。

 「大まかにいえば、壬申の乱以前は比較的儀礼に結びついた歌や内廷の女性たちの歌が多く、壬申の乱後、白鳳期の歌は儀礼性にしばられることは少なくなったが、なお宮廷における歌が多い。それが八世紀にはいると、いっそう一般の生活の場における歌が増大し、やがて天平を迎えると生活の中に歌は拡散してしまう。これが万葉の歌の歴史である。だから奈良時代の和歌は、宮廷歌人以外に多くの歌人を持つことが特色である。」(同著)

 「(大伴)旅人は大納言兼大将軍安麻呂の長子で、自身も大納言を極官として天平三年(七三一)七月に、年六十七歳をもって薨ずる。大伴氏はその本貫とする土地の関係から天皇氏に古くから扈従(こじゅう)し、物部とともに天皇氏と消長をともにしてきた旧大豪族である。・・・この旧氏族に対抗するのが律令貴族たる藤原氏であり、八世紀初頭は藤原氏の徐(おもむ)ろにして逞(たくま)しい勢力伸長の時期であった。そのなかでわが旅人は、この大旧族凋落(ちょうらく)の危機に、しかも絶望的に生まれ合わせた、大伴氏の氏上だった。」(同著)

 「旅人は神亀三、四年(七二六、七)のころ大宰帥(だざいのそち)に任ぜられて筑紫(ちくし)に赴く。・・・旅人としては二度目の九州生活ではあった・・・大宰帥はけっして軽職ではないが、この赴任は藤原氏の策略であろうといわれている。」(同著)

 「旅人は辺境に追いやられ、・・・この辺土まではるばる同行した妻を、その地で失っている。赴任後一、二年のことである。その悲しみは万葉集に十三首(巻三、四二八~四四〇、四四六~四五三。巻五、七九三。巻八、一四七三)の歌となってあらわれる。しかもおりにふれて、幾度にも。これはほかに例のないことである。」(同著)

 

 まず、「その悲しみは万葉集に十三首の歌となってあらわれる」とある十三首をみていこう。

 

■■巻三、四二八~四四〇■■

題詞は、「神龜五年戊辰大宰帥大伴卿思戀故人歌三首」<神亀(じんき)五年戊辰(つちのえたつ)に、大宰帥(だざいのそち)大伴卿(おほとものまへつきみ)、故人を思(しの)ひ恋ふる歌三首>である。

(注)神亀五年:728年

(注)故人:旅人が神亀五年に死んだ妻をさした言葉。(伊藤脚注)

 

■巻三、四二八歌■

◆愛 人之纒而師 敷細之 吾手枕乎 纒人将有哉

       (大伴旅人 巻三 四三八)

 

≪書き下し≫愛(うつく)しき人のまきてし敷栲(しきたへ)の我(わ)が手枕(たまくら)をまく人あらめや

 

(訳)いとしい人が枕にして寝た私の腕(かいな)、この手枕を枕にする人が亡き妻のほかにあろうか。あるものではない。(「万葉集 一」 伊藤 博 著 角川ソフィア文庫より)

(注)しきたへの【敷き妙の・敷き栲の】分類枕詞:「しきたへ」が寝具であることから「床(とこ)」「枕(まくら)」「手枕(たまくら)」に、また、「衣(ころも)」「袖(そで)」「袂(たもと)」「黒髪」などにかかる。(weblio古語辞典 学研全訳古語辞典)

(注)まく人のあらめや:枕にする人などまたとあろうか。(伊藤脚注)

(注の注)めや 分類連語:…だろうか、いや…ではない。 ⇒なりたち推量の助動詞「む」の已然形+反語の係助詞「や」(学研)

 

左注は、「右一首別去而経數旬作歌」<右の一首は、別れ去(い)にて数旬を経(へ)て作る歌>である。

 

 

 

■巻三 四三九歌■

◆應還 時者成来 京師尓而 誰手本乎可 吾将枕

       (大伴旅人 巻三 四三九)

 

≪書き下し≫帰るべく時はなりけり都にて誰(た)が手本(たもと)をか我(わ)が枕(まくら)かむ

 

(訳)いよいよ都に帰ることができる時期となった。しかし、都でいったい誰の腕を、私は枕にして寝ようというのか。(同上)

(注)帰るべく時:旅人の帰京は、天平二年(730年)十二月。(伊藤脚注)

(注)たもと【袂】名詞:①ひじから肩までの部分。手首、および腕全体にもいう。②袖(そで)。また、袖の垂れ下がった部分。 ※「手(た)本(もと)」の意から。(学研)

(注)まく【枕く】他動詞:①枕(まくら)とする。枕にして寝る。②共寝する。結婚する。※ ②は「婚く」とも書く。のちに「まぐ」とも。上代語。(学研) ここでは①の意

 

 

 

 

 

■巻三 四四〇歌■

◆在京 荒有家尓 一宿者 益旅而 可辛苦

       (大伴旅人 巻三 四四〇)

 

≪書き下し≫都にある荒れたる家にひとり寝(ね)ば旅にまさりて苦しかるべし

 

(訳)都にある人気のない家にたった一人で寝たならば、今の旅寝にもましてどんなにつらいことであろう。(同上)

(注)旅にまさりて:二句目の奈良の「家」に対して、異郷筑紫のわびしい生活をいう。(伊藤脚注)

 

左注は、「右二首臨近向京之時作歌」<右の二首は、京に向ふ時に臨近(ちか)づきて作る歌>である。

 

 

 

 

■■巻三 四四六~四五〇歌■■(※同著では四四六~四五三となっているが二群に分けて紹介します)

題詞は、「天平二年庚午冬十二月大宰帥大伴卿向京上道之時作歌五首」<天平二年庚午(かのえうま)の冬の十二月に、大宰帥(だざいのそち)大伴卿(おほとものまへつきみ)、京に向ひて道に上る時に作る歌五首>

 

■巻三 四四六歌■

◆吾妹子之 見師鞆浦之 天木香樹者 常世有跡 見之人曽奈吉

         (大伴旅人 巻三 四四六)

 

≪書き下し≫我妹子(わぎもこ)が見し鞆(とも)の浦のむろの木は常世(とこよ)にあれど見し人ぞなき

 

(訳)いとしいあの子が行きに目にした鞆の浦のむろの木は、今もそのまま変わらずにあるが、これを見た人はもはやここにはいない。(同上)

(注)鞆の浦広島県福山市鞆町の海岸。(伊藤脚注)

(注)むろのき【室の木・杜松】分類連語:木の名。杜松(ねず)の古い呼び名。海岸に多く生える。(学研)

 

福山市鞆町 対潮楼石垣下万葉歌碑(大伴旅人 3-446) 20220525撮影

 福山市鞆町 対潮楼石垣下万葉歌碑については、拙稿ブログ「万葉歌碑を(その1632)」で紹介している。

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福山市春日町 広島大学附属福山中・高等学校校庭万葉歌碑(大伴旅人 3-446) 20220525撮影



 

 広島大学附属福山中・高等学校校庭万葉歌碑については、拙稿ブログ「万葉歌碑を訪ねて(その1627)」で紹介している。

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■巻三 四四七歌■

◆鞆浦之 磯之室木 将見毎 相見之妹者 将所忘八方

        (大伴旅人 巻三 四四七)

 

≪書き下し≫鞆の浦の磯のむろの木見むごとに相見し妹は忘らえめやも

 

(訳)鞆の浦の海辺の岩の上に生えているむろの木。この木をこれから先も見ることがあればそのたびごとに、行く時に共に見たあの子のことが思い出されて、とても忘れられないだろうよ。(同上)

(注)磯のむろの木:前歌より焦点が絞られている。(伊藤脚注)

(注)見むごとに:これからも見ることがあればその度ごとに。将来にかけての言い方。(伊藤脚注)

 

 

 

 

■巻三 四四八歌■

◆磯上丹 根蔓室木 見之人乎 何在登問者 語将告可

        (大伴旅人 巻三 四四八)

 

≪書き下し≫磯の上に根延(ねば)ふむろの木見し人をいづらと問はば語り告げむか

 

(訳)海辺の岩の上に根を張っているむろの木よ、行く時にお前を見た人、その人をどうしているかと尋ねたなら、語り聞かせてくれるであろうか。(同上)

(注)根延(ねば)ふむろの木:さらに焦点を絞って霊木に呼びかけた。霊木なら妻のいる所を知っていよう・・・。(伊藤脚注)

 

  四四六から四五〇歌までであり、四四六から四四八歌の三首の左注が、「右三首過鞆浦日作歌」<右の三首は、鞆の浦を過ぐる日に作る歌>である。

 

広島県福山市鞆町  医王寺万葉歌碑(大伴旅人  3-448) 20221130撮影

 

 医王寺の歌碑については拙稿ブログ「万葉歌碑を訪ねて(その2104)」で紹介している。

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■巻三 四四九歌■

◆与妹来之 敏馬能埼乎 還左尓 獨之見者 涕具末之毛

       (大伴旅人 巻三 四四九)

 

≪書き下し≫妹(いも)と来(こ)し敏馬(みぬめ)の崎を帰るさにひとりし見れば涙(なみた)ぐましも

 

(訳)行く時にあの子と見たこの敏馬の埼を、帰りしなにただ一人で見ると、涙がにじんでくる。(伊藤 博 著 「万葉集 一」 角川ソフィア文庫より)

(注)敏馬に「見ぬ妻」を匂わせるているか。(伊藤脚注)

(注)涙ぐましも:敏馬の崎に入ろうとする折の悲しみ。(伊藤脚注)

 

 

 

■巻三 四五〇歌■

◆去左尓波 二吾見之 此埼乎 獨過者 情悲喪  <一云見毛左可受伎濃>

        (大伴旅人 巻三 四五〇)

 

≪書き下し≫行くさにはふたり我(あ)が見しこの崎をひとり過ぐれば心(こころ)悲しも

 <一には「見もさかず来ぬ」といふ>

 

(訳)行く時には二人して親しく見たこの敏馬の崎なのに、ここを今一人で通り過ぎると、心が悲しみでいっぱいだ。<遠く見やることもせずにやって来てしまった。>(同上)

(注)ひとり過ぐれば:以下、敏馬の崎を振り切ろうとする時の感激。(伊藤脚注)

(注)見もさかず来ぬ:結句の異文。悲しくて見もやらずに来てしまった、の意。(伊藤脚注)

 

 なお、左注が、「右二首過敏馬埼日作歌」<右の二首は、敏馬の﨑を過ぐる日に作る歌>である。

 

 

 

■■巻三 四五一~四五三歌■■

題詞は、「 還入故郷家即作歌三首」<故郷の家に還り入りて、すなはち作る歌三首>である。

■巻三 四五一歌■

◆人毛奈吉 空家者 草枕 旅尓益而 辛苦有家里

       (大伴旅人 巻三 四五一)

 

≪書き下し≫人もなき空(むな)しき家は草枕旅にまさりて苦しくありけり

 

(訳)人気もないがらんとした家は、枕の苦しさにまして、やっぱり、何とも無性にやるせない。(同上)

(注)人もなき空しき家:妻もいないがらんどうな家は。先の四四〇歌の照応する歌。(伊藤脚注)

 

 

 

■巻三 四五二歌■

◆与妹為而 二作之 吾山齊者 木高繁 成家留鴨

       (大伴旅人 巻三 四五二)

 

≪書き下し≫妹としてふたり作りし我(わ)が山斎(しま)は木高(こだか)く茂(しげ)くなりにけるかも

(注)山斎:前歌の「家」から「山斎」へと焦点を絞る。「山斎」は泉水や築山などのある庭。(伊藤脚注)

(注の注)しま【山斎】名詞:庭の泉水の中にある築山(つきやま)。また、泉水・築山のある庭園。(学研)

 

 

 

 

■巻三 四五三歌■

◆吾妹子之 殖之梅樹 毎見 情咽都追 涕之流

       (大伴旅人 巻三 四五三)

 

≪書き下し≫我妹子(わぎもこ)が植ゑし梅の木見るごとに心むせつつ涙(なみた)し流る

 

(訳)いとしいあの子が植えた梅の木、その木をを見るたびに、胸がつまって、とどめもなく涙が流れる。(同上)

(注)梅の木:前歌の「山斎」から「梅の木」に焦点を絞る。(伊藤脚注)

(注)見るごとに:追慕が将来かけてやむことのないことを匂わす。(伊藤脚注)

 

巻三、四二八~四四〇、四四六~四五三歌については、拙稿ブログ「万葉歌碑を訪ねて(その895)」で紹介している。

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■巻五、七九三歌■

 題詞は、「大宰帥大伴卿報凶問歌一首」<大宰帥(だざいのそち)大伴卿(おほとものまへつきみ)、凶問(きょうもん)に報(こた)ふる歌一首>である。

(注)凶問(きょうもん)〘名〙: 凶事の知らせ。死去の知らせ。凶音。一説に、凶事を慰問すること。(コトバンク 精選版 日本国語大辞典

 

前文は、「禍故重疊 凶問累集 永懐崩心之悲 獨流断腸之泣 但依兩君大助傾命纔継耳<  筆不盡言 古今所歎>」である。

 

≪前文の書き下し≫禍故重疊(くわこちようでふ)し、凶問累集(るいじふ)す。永(ひたふる)に崩心(ほうしん)の悲しびを懐(むだ)き、獨(もは)ら断腸(だんちやう)の泣(なみた)を流す。ただ、両君の大助(たいじよ)によりて、傾命(けいめい)をわづかに継げらくのみ。    <筆の言を盡さぬは、古今歎くところ>

 

≪前文訳≫不幸が重なり、悪い報(しら)せが続きます。ひたすら崩心の悲しみに沈み、ひとり断腸の涙を流しています。ただただ、両君のこの上ないお力添えによって、いくばくもない余命をようやく繋ぎ留めているばかりです。<筆では言いたいことも尽くせないのは、昔も今も一様に嘆くところです。>(同上)

(注)禍故重疊:不幸が重なる。

(注)ひたぶるなり【頓なり・一向なり】形容動詞:①ひたすらだ。いちずだ。②〔連用形の形で、下に打消の語を伴って〕いっこうに。まったく。(学研)

(注)両君:庶弟稲公と甥胡麻呂か。

(注)傾命:余命

 

◆余能奈可波 牟奈之伎母乃等 志流等伎子 伊与余麻須万須 加奈之可利家理

         (大伴旅人 巻五 七九三)

 

≪書き下し≫世の中は空(むな)しきものと知る時しいよよますます悲しかりけり

 

(訳)世の中とは空しいものだと思い知るにつけ、さらにいっそう深い悲しみがこみあげてきてしまうのです。(同上)

(注)上二句は「世間空」の翻案。

(注)いよよ【愈】副詞:なおその上に。いよいよ。いっそう。(学研)

 

 この歌については、拙稿ブログ「万葉歌碑を訪ねて(その909)」で紹介している。

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太宰府市大佐野 太宰府メモリアルパーク万葉歌碑(大伴旅人 5-793) 20201117撮影

 

 

 

 

■巻八、一四七三歌■

題詞は、「大宰帥大伴卿和歌一首」<大宰帥大伴卿が和(こた)ふる歌一首>である。

 

◆橘之 花散里乃 霍公鳥 片戀為乍 鳴日四曽多毛

    (大伴旅人 巻八 一四七三)

 

≪書き下し≫橘の花散(ぢ)る里のほととぎす片恋(かたこひ)しつつ鳴く日しぞ多き

 

(訳)橘の花がしきりに散る里の時鳥、この時鳥は、散った花に独り恋い焦がれながら、鳴く日が多いことです。(伊藤 博 著 「万葉集 二」 角川ソフィア文庫より)

(注)片恋しつつ:亡妻への思慕をこめる。(伊藤脚注)

 

 この歌については、拙稿ブログ「万葉歌碑を訪ねて(その896)」で紹介している。

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太宰府歴史スポーツ公園万葉歌碑(大伴旅人 8-1473) 202201117撮影



 

 

 

 

 

 

 

 

(参考文献)

★「萬葉集」 鶴 久・森山 隆 編 (桜楓社)

★「万葉集 一」 伊藤 博 著 (角川ソフィア文庫

★「万葉集 二」 伊藤 博 著 (角川ソフィア文庫

★「古代史で楽しむ 万葉集」 中西 進 著 (角川ソフィア文庫

★「weblio古語辞典 学研全訳古語辞典」

★「コトバンク 精選版 日本国語大辞典

万葉集の世界に飛び込もう(その2585の2)―書籍掲載歌を中軸に―

●歌は、「皆人の 命もわれも み吉野の滝の常磐の 常ならぬかも(笠金村 6-922)」、「おしてる難波の国は葦垣の古りにし里と人皆の思ひやすみてつれもなく・・・(笠金村 6-928)」、「大君の行幸のまにまもののふの八十伴の男と出で行きし愛し夫は・・・(笠金村 4-543)」、

「今夜の早く明けなばすべをなみ秋の百夜を願ひつるかも(笠金村 4-548)」である。

 

本稿は、「古代史で楽しむ 万葉集」 中西 進 著 (角川ソフィア文庫)の「笠金村」のパート2である。

 

●歌をみていこう。

■■巻六 九二〇~九二二歌■■

九二〇から九二二歌の歌群の題詞は、「神龜二年乙丑夏五月幸于芳野離宮時笠朝臣金村作歌一首幷短歌」<神亀(じんき)二年乙丑(きのとうし)の夏の五月に、吉野の離宮(とつみや)に幸(いでま)す時に、笠朝臣金村が作る歌一首并せて短歌>である。

 

■巻六 九二〇歌■

◆足引之 御山毛清 落多藝都 芳野河之 河瀬乃 浄乎見者 上邊者 千鳥數鳴 下邊者 河津都麻喚 百礒城乃 大宮人毛 越乞尓 思自仁思有者 毎見 文丹乏 玉葛 絶事無 萬代尓 如是霜願跡 天地之 神乎曽禱 恐有等毛

                           (笠金村 巻六 九二〇)

 

≪書き下し≫あしひきの み山もさやに 落ちたぎつ 吉野の川の 川の瀬の 清きを見れば 上辺(かみへ)には 千鳥しば鳴く 下辺(しもへ)には かはづ妻呼ぶ ももしきの 大宮人(おほみやひと)も をちこちに 繁(しじ)にしあれば 見るごとに あやにともしみ 玉葛(たまかづら) 絶ゆることなく 万代(よろづよ)に かくしもがもと 天地(あまつち)の 神をぞ祈(いの)る 畏(かしこ)くあれども

 

(訳)在り巡るみ山もすがすがしく渦巻き流れる吉野の川、この川の瀬の清らかなありさまを見ると、上流では千鳥がしきりに鳴くし、下流では河鹿(かじか)が妻を呼んで盛んに鳴く。その上、大君にお仕えする大宮人も、あちこちいっぱい往き来しているので、ここみ吉野のさまを見るたびにただむしょうにすばらしく思われて、玉葛(たまかづら)のように絶えることなく、万代(よろずよ)までもこのようにあってほしいものだと、天地の神々に切にお祈りする。恐れ多いことではあるけれども。(同上)

(注)をちこち【彼方此方・遠近】名詞:あちらこちら。(学研)

(注)しじに【繁に】副詞:数多く。ぎっしりと。びっしりと。(学研)

(注)あやに【奇に】副詞:①なんとも不思議に。言い表しようがなく。②むやみに。ひどく。(学研)

(注)ともしぶ 動詞:羨うらやましく思う。<「ともしむ」に同じ。(weblio辞書 デジタル大辞泉

(注)たまかづら【玉葛・玉蔓】分類枕詞:つる草のつるが、切れずに長く延びることから、「遠長く」「絶えず」「絶ゆ」に、また、つる草の花・実から、「花」「実」などにかかる。(学研)

(注)かくしもがも【斯くしもがも】分類連語:こういうふうであってほしい。こうでありたい。 ⇒なりたち 副詞「かく」+副助詞「し」+終助詞「もがも」(学研)

 

 

 

■巻六 九二一歌■

◆萬代 見友将飽八 三芳野乃 多藝都河内乃 大宮所

       (笠金村 巻六 九二一)

 

≪書き下し≫万代(よろづよ)に見(み)とも飽(あ)かめやみ吉野のたぎつ河内(かふち)の大宮(おほみや)ところ

 

(訳)万代ののちまでに見つづけても飽きるなどということがあろうか。み吉野の激流渦巻く河内の、この大宮所は。(同上)

(注)飽かめや:見飽きることがあろうか。メヤは反語。(伊藤脚注)

 

 

 

■巻六 九二二歌■

◆人皆乃 壽毛吾母 三吉野乃 多吉能床磐乃 常有沼鴨

      (笠金村 巻六 九二二)

 

≪書き下し≫皆人(みなひと)の命(いのち)も我(わ)がもみ吉野の滝の常磐(ときは)の常(つね)ならぬかも

 

(訳)皆々方の命も、われらの命も、ここみ吉野の滝の常磐(ときわ)のように永久不変であってくれないものか。(同上)

(注)ときは【常磐・常盤】名詞:永遠に変わることのない(神秘な)岩。 ※参考「とこいは」の変化した語。巨大な岩のもつ神秘性に対する信仰から、永遠に不変である意を生じたもの。(Weblio古語辞典 学研全訳古語辞典)

(注)ぬかも分類連語:〔多く「…も…ぬかも」の形で〕…てほしいなあ。…てくれないかなあ。▽他に対する願望を表す。 ※上代語。 なりたち⇒打消の助動詞「ず」の連体形+疑問の係助詞「か」+詠嘆の終助詞「も」(学研)

 

 この歌については、拙稿ブログ「万葉歌碑を訪ねて(その778)」で紹介している。

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吉野町喜佐谷 喜佐谷公民館駐車場万葉歌碑(笠金村 6-922) 20200924撮影

 

 

 

 

■■巻六 九二八~九三〇歌■■

題詞は、「冬十月幸于難波宮時笠朝臣金村作歌一首 并短歌」<冬の十月に、幸于難波(なには)の宮に幸(いでま)す時に、笠朝臣金村(かさあそんかなむら)が作る歌一首 并せて短歌>である。

(注)神亀二年(七二五)

(注)難波の宮:大阪城南方の台地。法円坂一帯にあった宮。(伊藤脚注)

 

■巻六 九二八歌■

◆忍照 難波乃國者 葦垣乃 古郷跡 人皆之 念息而 都礼母無 有之間尓 續麻成 長柄之宮尓 真木柱 太高敷而 食國乎 治賜者 奥鳥 味經乃原尓 物部乃 八十伴雄者 廬為而 都成有 旅者安礼十方

       (笠金村 巻六 九二八)

 

≪書き下し≫おしてる 難波の国は 葦垣(あしがき)の 古(ふ)りにし里と 人皆(ひとみな)の 思ひやすみて つれもなく ありし間(あひだ)に 続麻(うみを)なす 長柄(ながら)の宮に 真木柱(まきばしら) 太高敷(ふとたかし)きて 食(を)す国を 治(をさ)めたまへば 沖つ鳥(とり) 味経(あぢふ)の原に もののふの 八十伴(やそとも)の男は 廬(いほ)りして 都成したり 旅にはあれども

 

(訳)おしてる難波(なにわ)の国は、葦垣に囲まれた古びた里でしかないと、世の人びとが皆心にもかけなくなり、ゆかりもない地と見てきたが、われらの大君は、ここ難波長柄(なにわながら)の宮に真木の柱を高く太くがっしりとうち立て、国中をあまねくお治めになるので、沖つ島味経(あじふ)の原に、もろもろの大宮人たちは仮の廬(いおり)を結んで、ここ一帯を都となしている。旅先の地ではあるけれども。(同上)

(注)おしてる【押し照る】分類枕詞:地名「難波(なには)」にかかる。かかる理由未詳。「押し照るや」とも。「おしてる難波の国に」(学研)

(注)あしかき-の 【葦垣の】分類枕詞:①葦垣は古びて乱れやすいことから「古(ふ)る」「乱る」などにかかる。②外と隔てることから「外(ほか)」にかかる。③間をつめて編むことから「間ぢかし」にかかる。(学研)ここでは①の意

(注)人皆の 思ひやすみて:世間の人々が長らく思うことをやめて。(伊藤脚注)

(注)つれもなし 形容詞:①なんの関係もない。ゆかりがない。②冷淡だ。つれない。※「つれ」は関係・つながりの意。(学研)ここでは①の意

(注)続麻(うみを)なす:「長柄」の枕詞。麻糸の長い意。(伊藤脚注)

(注)長柄の宮:難波の宮に同じ。(伊藤脚注)

(注)沖つ鳥:「味経」(宮殿南の平地)の枕詞。(伊藤脚注)

(注の注)おきつとり【沖つ鳥】[枕]①沖にいる水鳥の意から「鴨(かも)」にかかる。②沖にいる水鳥「䳑鴨(あじがも)」と同音であるところから、地名の「味経(あぢふ)」にかかる。③ 沖つ鳥の首を曲げて胸を見るようすから「胸(むな)見る」にかかる。(weblio辞書 デジタル大辞泉)ここでは②の意

(注)もののふの:「八十伴の男」の枕詞。(伊藤脚注)

 

 

 

■巻六 九二九歌■

◆荒野等丹 里者雖有 大王之 敷座時者 京師跡成宿

       (笠金村 巻六 九二九)

 

≪書き下し≫荒野(あらの)らに里はあれども大君(おほきみ)の敷きます時は都となりぬ

 

(訳)ここ難波の里はいかにも荒野らしい里ではあるけれども、大君がおわします時には、たちまち立派な都となっている。(同上)

(注)荒野(あらの)らに:いかにも荒野らしい所。(伊藤脚注)

(注の注)-ら 接尾語 (一)【等】:①〔主として人を表す名詞・代名詞に付いて〕…たち。▽複数であることを表す。「少女(をとめ)ら」。②〔名詞に付いて〕親愛の意を表す。③自分を表す名詞に付いて、卑下の意を表す。④〔相手や他人を表す名詞・代名詞に付いて〕軽べつの意を表す。⑤〔代名詞に付いて〕漠然とした場所・方向を表す。「ここら」「いづら」。⑥〔名詞に付いて〕語調を整える。「荒野ら」「夜ら」。

(二)〔形容詞の語幹などに付いて〕その状態であることを表す。「賢(さか)しら」「きよら」(学研)ここでは⑥の意

 

 

 

■巻六 九三〇歌■

◆海末通女 棚無小舟 榜出良之 客乃屋取尓 梶音所聞

       (笠金村 巻六 九三〇)

 

≪書き下し≫海人娘女(あまをとめ)棚(たな)なし小舟(をぶね)漕(こ)ぎ出(づ)らし旅の宿(やど)りに楫(かぢ)の音(おと)聞こゆ

 

(訳)海人娘子(おとめ)たちが棚なし小舟をしきりに漕ぎ出しているらしい。この浜辺の旅寝の宿に櫓(ろ)の音がさかんに聞こえてくる。(同上)

(注)棚なし小舟:舷側の横板のない小舟。(伊藤脚注)

 

 

 

■■巻四 五四三~五四五歌■■

題詞は、「神龜元年甲子冬十月幸紀伊國之時為贈従駕人所誂娘子作歌一首幷短歌    笠朝臣金村」<神亀(じんき)元年甲子(きのえね)の冬の十月に、紀伊の国(きのくに)に幸(いで)ます時に、従駕(おほみとも)の人に贈らむために娘子(をとめ)に誂(あとら)へらえて笠朝臣金村が作る歌一首幷(あは)せて短歌>である。    

(注)神亀元年:724年 聖武天皇紀伊行幸があった。(伊藤脚注)

(注)あとらふ【誂ふ】他動詞:頼んで自分の思いどおりにさせる。誘う。(学研)

 

■巻四 五四三歌■

天皇行幸乃随意 物部乃 八十伴雄与 出去之 愛夫者 天翔哉 軽路従 玉田次 畝火乎見管 麻裳吉 木道尓入立 真土山 越良武公者 黄葉乃 散飛見乍 親 吾者不念 草枕 客乎便宜常 思乍 公将有跡 安蘇々二破 且者雖知 之加須我仁 黙然得不在者 吾背子之 徃乃萬々 将追跡者 千遍雖念 手弱女 吾身之有者 道守之 将問答乎 言将遣 為便乎不知跡 立而爪衝

       (笠金村 巻四 五四三)

 

≪書き下し≫大君の 行幸(みゆき)のまにま もののふの 八十伴(やそとも)の男(を)と 出で行きし 愛(うるは)し夫(づま)は 天(あま)飛ぶや 軽(かる)の路(みち)より 玉たすき 畝傍(うねび)を見つつ あさもよし 紀伊道(きぢ)に入り立ち 真土(まつち)山 越ゆらむ君は 黄葉(もみちば)の 散り飛ぶ見つつ にきびにし 我(わ)れは思はず 草枕 旅をよろしと 思ひつつ 君はあらむと あそそには かつは知れども しかすがに 黙(もだ)もえあらねば 我(わ)が背子(せこ)が 行きのまにまに 追はむとは 千(ち)たび思へど たわや女(め)の 我(あ)が身にしあれば 道守(みちもり)の 問はむ答(こた)へを 言ひやらむ すべを知らにと 立ちてつまづく

 

(訳)天皇行幸につき従って、数多くの大宮人たちと一緒に出かけて行った、ひときわ端正な私の夫は、軽の道から畝傍山を見ながら紀伊の道に足を踏み入れ、真土山を越えてもう山向こうに入っただろうかが、その背の君は黄葉の葉の散り乱れる風景を眺めながら、朝夕馴(な)れ親しんだ私のことなどは思わずに、旅はいいものだと思っていると、一方では私はうすうす気づいてはいるけれど、さりとてじっと待っている気にもなれないので、あの方の行った道筋どおりに、あとを追って行きたいと何度も何度も思うのだが、か弱い女の身のこととて、関所の役人に問い詰められたらどう答えたらよいのやら、言いわけする手だてもわからなくて、立ちすくんでためらうばかりだ。(「万葉集 一」 伊藤 博 著 角川ソフィア文庫より)

(注)うるはし【麗し・美し・愛し】形容詞:①壮大で美しい。壮麗だ。立派だ。②きちんとしている。整っていて美しい。端正だ。③きまじめで礼儀正しい。堅苦しい。④親密だ。誠実だ。しっくりしている。⑤色鮮やかだ。⑥まちがいない。正しい。本物である。(学研)ここでは②の意

(注)あまとぶや【天飛ぶや】分類枕詞:①空を飛ぶ意から、「鳥」「雁(かり)」にかかる。「あまとぶや鳥」。②「雁(かり)」と似た音の地名「軽(かる)」にかかる。「あまとぶや軽の道」。③空を軽く飛ぶといわれる「領巾(ひれ)」にかかる。(学研)ここでは②の意

(注)真土山:この山を越えると異郷の紀伊の国、妻の心配が増す。(伊藤脚注)

(注)にきぶ【和ぶ】自動詞:安らかにくつろぐ。なれ親しむ。(学研)

(注)旅をよろし:あなたは旅はいいものだと思っているだろと。旅先では一夜妻を楽しむ風があった。その点も意識した表現。(伊藤脚注)

(注)あそそには:薄々とは。「あそ」は「浅」の意か。(伊藤脚注)

(注)しかすがに【然すがに】副詞:そうはいうものの。そうではあるが、しかしながら。※上代語。 ⇒参考:副詞「しか」、動詞「す」の終止形、接続助詞「がに」が連なって一語化したもの。中古以降はもっぱら歌語となり、三河の国(愛知県東部)の歌枕(うたまくら)「志賀須賀(しかすが)の渡り」と掛けて用いることも多い。一般には「しか」が「さ」に代わった「さすがに」が多く用いられるようになる。(学研)

 

 

 

■巻四 五四四歌■

◆後居而 戀乍不有者 木國乃 妹背乃山尓 有益物乎

       (笠金村 巻四 五四四)

 

≪書き下し≫後れ居て恋ひつつあらずは紀の国の妹背の山にあらましものを

 

(訳)あとに残って離れ離れにいる恋しさに苦しんでなんかいずに、いつも紀伊の国にある妹背の山にでもなって、いつもおそばにいたいものだ。(同上)

(注)妹背の山:和歌山県伊都郡かつらぎ町の妹山と背の山。夫婦共にあることの譬え。

 

 

 

 

■巻四 五四五歌■

◆吾背子之 跡履求 追去者 木乃關守伊 将留鴨

       (笠金村 巻四 五四五)

 

≪書き下し≫我(わ)が背子が跡(あと)踏み求め追ひ行かば紀伊の関守い留(とど)めてむかも

 

(訳)あの方の通られた跡を追い求めて行ったならば、紀伊の関所の番人が咎(とが)めて留めてしまうのであろうか。(同上)

 

 

 

この歌についてはブログ拙稿「万葉歌碑を訪ねて(その1420)」で紹介している。

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和歌山県橋本市隅田町真土古道飛び越え石下り入口万葉歌碑(笠金村 4-543) 20220328撮影

 

 

■■巻四 五四六~五四八歌■■

題詞は、「二年乙丑春三月幸三香原離宮之時得娘子笠朝臣金村作歌一首 并短歌」<二年乙丑(きのとうし)の春の三月に、三香(みか)の原の離宮(とつみや)に幸す時に、娘子(をとめ)を得て、笠朝臣金村が作る歌一首 并せて短歌>である。

(注)離宮京都府木津川市加茂町法花寺野。続日本紀には、この時の行幸記事を欠いている。(伊藤脚注)

 

■巻四 五四六歌■

◆三香乃原 客之屋取尓 珠桙乃 道能去相尓 天雲之 外耳見管 言将問 縁乃無者 情耳 咽乍有尓 天地 神祇辞因而 敷細乃 衣手易而 自妻跡 憑有今夜 秋夜之 百夜乃長 有与宿鴨

       (笠金村 巻四 五四六)

 

≪書き下し≫三香の原 旅の宿(やど)りに 玉桙(たまほこ)の 道の行き逢ひに 天雲(あまくも)の 外(よそ)のみ見つつ 言(こと)とはむ よしのなければ 心のみ 咽(む)せつつあるに 天地(あめつち)の 神言寄(ことよ)せて 敷栲(しきたへ)の 衣手(ころもで)交(か)へて 己妻(おのづま)と 頼める今夜 (こよひ)秋の夜の 百夜(ももよ)の長さ ありこせぬかも

 

(訳)三香の原で旅寝の苦しみをかこっている折も折、道の行きずりに出逢って、空を行く雲でも眺めるようによそ目に見るばかりで、言葉をかけるきっかけもないので、いとしさに胸が一杯になって辛(つら)い気持ちでいる時に、天や地の神様が仲を取り持って下さったおかげで、着物の袖を敷きかわして、この人こそ私の連れ合いと頼みきっている今夜(こよい)、この夜こそは、秋の長い夜を百も重ねた長さであってくれないものかなあ。(同上)

(注)天雲の:「外」の枕詞。(伊藤脚注)

(注)心のみ咽せつつあるに:心の中がただ一杯になっている時に。(伊藤脚注)

(注)神言寄せて:神が仲を取り持って下さって。(伊藤脚注)

(注)己妻と:この人こそ私の相手と。(伊藤脚注)

(注)こせぬかも:コセは、・・・してくれの意の補助動詞コスの未然形。ヌカモは願望。(伊藤脚注)

 

 

 

■巻四 五四七歌■

◆天雲之 外従見 吾妹兒尓 心毛身副 縁西鬼尾

       (笠金村 巻四 五四七)

 

≪書き下し≫天雲(あまくも)の外(よそ)に見しより我妹子(わぎもこ)に心も身さへ寄りにしものを

 

(訳)空行く雲を眺めるようによそ目に見たその時から、あなたに、心はむろん、からださえもぴったり寄り添ってしまったよ。(同上)

 

 

 

■巻四 五四八歌■

◆今夜之 早開者 為便乎無三 秋百夜乎 願鶴鴨

       (笠金村 巻四 五四八)

 

≪書き下し≫今夜(こよひ)の早く明けなばすべをなみ秋の百夜(ももよ)を願ひつるかも

 

(訳)楽しい今夜がまたたく間に明けてしまってはやるせないので、秋の長夜を百も重ねた長さが欲しいと、神様にお願いしました。(同上)

 

 

 

 「古代史で楽しむ 万葉集」 中西 進 著 (角川ソフィア文庫)を読み進もう。

 「神亀二年の吉野歌は、長歌を『万代(よろづよ)に かくしもがもと 天地(あめつち)の 神をそ祈(いの)る 畏(かしこ)くあれども』と結び、反歌に『皆人の命(いのち)も我(わ)もみ吉野の滝(たぎ)の常磐(ときは)の常(つね)ならぬかも』と歌っている。

 天皇が神として永遠であるという思想は、人麻呂においては疑いのない信念であったし、その吉野の歌は『神ながら 神さびせす』天皇を歌っていた。金村とて賛歌の体において『神からか貴(たふと)かるらむ』ともいっている。にもかかわらず金村において天皇の『万代』は神に祈られるべきものであった。祈るという人為を超えて、天皇は絶対ではなかったのである。ここに無意識のうちにしのび寄っている不安、それが激(たぎ)つ河内の常磐に大宮人やみずからの生命の永遠を問いかけずにはおられなかった。人麻呂的世界に帰着しえないこの金村の人間的不安は、ひとつには時代のはらむものであっただろうが、より多くは彼の詩人としての資質のよるものであったろう。」(同著)

 「彼の歌はなまなましく人間的な面を有している・・・たとえば紀伊行幸の折には行幸の供奉(くぶ)に夫をおくり出す女のために、従駕する官人への歌の代作をしている。(巻四、五四三~五四五)・・・あるいは行幸に供奉しながら・・・(巻四、五四八)と、一夜の妻を得た歌も歌い、土地の女への恋を訴えている・・・卑俗にさえなりかねない人間性の強さは、志貴皇子哀悼の歌(巻二、二三〇~二三四)を傑作たらしめる結果にもなった。・・・彼は一篇のドラマを描いて見せた。・・・このようなドラマを描写するような挽歌は人麻呂の思いもおよぼうともしなかった、別世界の詩である。」(同著)

 

 

 

 

 

 

 

 

(参考文献)

★「萬葉集」 鶴 久・森山 隆 編 (桜楓社)

★「万葉集 一」 伊藤 博 著 (角川ソフィア文庫

★「万葉集 二」 伊藤 博 著 (角川ソフィア文庫

★「古代史で楽しむ 万葉集」 中西 進 著 (角川ソフィア文庫

★「weblio古語辞典 学研全訳古語辞典」

★「weblio辞書 デジタル大辞泉