万葉集の歌碑めぐり

万葉歌碑をめぐり、歌の背景等を可能な限り時間的空間的に探索し、万葉集の万葉集たる所以に迫っていきたい!

万葉歌碑を訪ねて(その1210)―加古川市稲美町 中央公園万葉の森(8)―万葉集 巻十六 三八四二

●歌は、「童ども草はな刈りそ八穂蓼を穂積の朝臣が腋草を刈れ」である。

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加古川市稲美町 中央公園万葉の森(8)万葉陶板歌碑(平群朝臣



●万葉陶板歌碑は、加古川市稲美町 中央公園万葉の森(8)にある。

 

●歌をみていこう。

 

◆小兒等 草者勿苅 八穂蓼乎 穂積乃阿曽我 腋草乎可礼

          (平群朝臣 巻十六 三八四二)

 

≪書き下し≫童(わらは)ども草はな刈りそ八穂蓼(やほたで)を穂積(ほづみ)の朝臣(あそ)が腋草(わきくさ)を刈れ

 

(訳)おい、みんな、草なんか刈らんでもよろし。刈るなら、八穂蓼(やほたで)の穂を積むという穂積おやじのあの腋(わき)草を刈れ。 (「万葉集 三」 伊藤 博 著 角川ソフィア文庫より)

(注)やほたでを【八穂蓼を】の解説:[枕]多くの穂のついたタデを刈って積む意から「穂積 (ほづみ) 」にかかる。(goo辞書)

(注)わきくさ【腋草】〘名〙 腋毛。腋毛を草に見立てた語。一説に、「草」に「臭(くさ)」の意をかけて「腋臭(わきが)」のことともいう。※ [補注]腋の毛を「腋草」というのは、三八四二歌での固有の修辞で、一般的に定着した語ではない。(コトバンク 精選版 日本国語大辞典

 

 題詞は「或云  平群朝臣嗤歌一首」<或いは云はく   平群朝臣(へぐりのあそみ)が嗤ふ歌一首>である。

 

 これに穂積朝臣が次のように和(こた)えている。

 

題詞は、「穂積朝臣和歌一首」<穂積朝臣(ほづみのあおみ)が和(こた)ふる歌一首>である。

 

◆何所曽 真朱穿岳 薦疊 平群乃阿曽我 鼻上乎穿礼

         (穂積朝臣 巻十六 三八四三)

 

≪書き下し≫いづくにぞま朱(そほ)掘る岡薦畳(こもたたみ)平群(へぐり)の朝臣(あそ)が鼻の上を掘れ

 

(訳)どこにあるのだ、ま朱(そお)を掘る岡は。ほら、薦畳の重(へ)という平群おやじの鼻の上、あれを掘れ。(同上)

(注)まそほ【真赭・真朱】名詞:①(顔料や水銀などの原料の)赤い土。②赤い色。特に、すすきの穂の赤みを帯びた色にいう。「ますほ」とも。 ※「ま」は接頭語。①は上代語。(weblio古語辞典 学研全訳古語辞典)

(注)薦畳>たたみこも【畳薦】分類枕詞:敷物の薦(こも)を幾重にも重ねることから、「重(へ)」と同じ音を含む地名「平群(へぐり)」や、「隔(へだ)つ」にかかる。「たたみこも平群の山」(学研)

 

 まそほ(真朱)は、顔料や水銀などの原料の赤い土をいうが、赤土(はに)を詠った歌がある。これもみてみよう。

 

◆山跡之 宇陀乃真赤土 左丹著者 曽許裳香人之 吾乎言将成

          (作者未詳 巻七 一三七六)

 

≪書き下し≫大和(やまと)の宇陀(うだ)の真赤土(まはに)のさ丹(に)付(つ)かばそこもか人の我(わ)を言(こと)なさむ

 

(訳)大和(やまと)の宇陀(うだ)の真埴の赤い土がついたならば、たったそれだけのことで、世間の人は私のことをとやかく言立てるのでしょうか。(伊藤 博 著 「万葉集 二」 角川ソフィア文庫より)

(注)はに【埴】名詞:赤黄色の粘土。瓦(かわら)や陶器の原料にしたり、衣にすりつけて模様を表したりする。(学研)

(注)に【丹】名詞:赤土。また、赤色の顔料。赤い色。(学研)

(注の注)「さ丹付く」は赤面するたとえ。

(注)ことなす【言成す】他動詞:言葉に出す。あれこれ取りざたする。(学研)

 

 この歌についてはブログ拙稿「万葉歌碑を訪ねて(その381)」で紹介している。

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 一三七六歌に関して、上野 誠氏は、その著「万葉集の心を読む」(角川文庫)の中で、「あの子が好きだということが、ちょっとでも顔に出たら、みんな噂するだろうな、という内容の歌です。この歌で確認できることがあります。好きな人のことを隠すことができずに赤面してしまうことを、宇陀の真朱で喩えることもあったということです。こういう喩えに真朱が使われるということは、真朱に対する知識が、当時の人びとにある程度ゆきわたっていたことを示しています。実は、この点が重要なのです。」と書かれている。

 さらに三八四三歌などの「嗤ふ歌」における「笑いというものは、送り手と受け手の間にある程度の共通の知識がないと成り立たない」と指摘されている。

 

 

 三八四〇、三八四一歌もみてみよう。

 

◆寺ゝ之 女餓鬼申久 大神之 男餓鬼被給而 其子将播

          (池田朝臣 巻十六 三八四〇)

 

≪書き下し≫寺々(てらでら)の女餓鬼(めがき)申(まを)さく大神(おほみわ)の男餓鬼(をがき)賜(たば)りてその子産(う)ませはむ

 

(訳)寺々の女餓鬼(めがき)どもが口々に申しとる。大神(おおみわ)の男餓鬼(おがき)をお下げ渡しいただき、そいつの子を産み散らしたとな。(「万葉集 三」 伊藤 博 著 角川ソフィア文庫より))

(注)まをさく【申さく・白さく】:「まうさく」に同じ。 ※派生語。 ⇒参考「まうさく」の古い形。中古以降「まうさく」に変化した。 ⇒ なりたち動詞「まをす」の未然形+接尾語「く」(学研)

(注の注)まうさく【申さく】:申すことには。▽「言はく」の謙譲語。(学研)

(注)がき【餓鬼】① 《〈梵〉pretaの訳。薜茘多(へいれいた)と音写》生前の悪行のために餓鬼道に落ち、いつも飢えと渇きに苦しむ亡者。② 「餓鬼道」の略。③ 《食物をがつがつ食うところから》子供を卑しんでいう語。「手に負えない餓鬼だ」(コトバンク 小学館デジタル大辞泉

(注)おほかみ【大神】名詞:大御神(おおみかみ)。神様。▽「神」の尊敬語。 ※「おほ」は接頭語。(学研)

(注)たばる【賜る・給ばる】他動詞:いただく。▽「受く」「もらふ」の謙譲語。 ※謙譲の動詞「たまはる」の変化した語。上代語。(学研)

 

  この歌の題詞は、「池田朝臣嗤大神朝臣奥守歌一首 池田朝臣名忘失也」<池田朝臣(いけだのあそみ)、大神朝臣奥守(おほみわのあそみおきもり)を嗤(わら)ふ歌一首 池田朝臣が名は、忘失せり>である。 

 

 この歌の次に収録されている歌の題詞は、「大神朝臣奥守報嗤歌一首」<大神朝臣奥守が報(こた)へて嗤ふ歌一首>である。

 

◆佛造 真朱不足者 水渟 池田乃阿曽我 鼻上乎穿礼

          (大神朝臣奥守 巻十六 三八四一)

 

≪書き下し≫仏(ほとけ)造(つく)るま朱(そほ)足らずば水溜(た)まる池田(いけだ)の朝臣(あそ)が鼻の上(うへ)を掘れ

 

(訳)仏様を作るま朱(そほ)が足りなくば、水の溜まる池、そうその池田のおやじの鼻の上を掘るがよい。(同上)

(注)まそほ【真赭・真朱】名詞:①(顔料や水銀などの原料の)赤い土。②赤い色。特に、すすきの穂の赤みを帯びた色にいう。「ますほ」とも。 ※「ま」は接頭語。①は上代語。(学研)

(注)みずたまる〔みづ‐〕【水溜まる】[枕]:水がたまる池の意で、「池」にかかる。転じて人名の「池田」にもかかる。(goo辞書)

 

 この二首についてはブログ拙稿「万葉歌碑を訪ねて(その13改)」で紹介している。(初期のブログであるのでタイトル写真には朝食の写真が掲載されていますが、「改」では、朝食の写真ならびに関連記事を削除し、一部改訂いたしております。ご容赦下さい。)

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 この歌に関しても、上野 誠氏は、前著「万葉集の心を読む」(角川文庫)の中で、三八四〇歌は、「明らかに、大神朝臣奥守が痩せていることを笑った歌です。つまり、アイツの痩せようは尋常じゃないよ、アイツに妻(めあ)わせるんだったら、そりゃ餓鬼(がき)しかないよ、というわけでしょう。・・・もちろん、そう言われたからには反撃です。」そして三八四一歌については、「こちらの方は、池田朝臣の赤鼻を笑ったのです。『ま朱』は『マソホ』で、硫化水銀(りゅうかすいぎん)のことです。辰砂(しんしゃ)とも呼ばれた『マソホ』は、鍍金(ときん)の原料になります。水銀と金を混ぜたものをアマルガムすなわち合金として仏像に鍍金するので、『仏造る ま朱』というわけです。・・・『仏造る ま朱』の歌の場合は、鍍金に真朱が必要だという知識がなければ、笑えません。」と書かれている。

 

 こういったことからも、読者層を含め万葉集の当時の位置づけのようなものがみえてくる。歌の怪物以外のなにものでもない。

 

 

 

 

(参考文献)

★「萬葉集」 鶴 久・森山 隆 編 (桜楓社)

★「万葉集 二」 伊藤 博 著 (角川ソフィア文庫

★「万葉集 三」 伊藤 博 著 (角川ソフィア文庫

★「万葉集の心を読む」 上野 誠 著(角川文庫)

★「weblio古語辞典 学研全訳古語辞典」

★「コトバンク 精選版 日本国語大辞典

★「コトバンク 小学館デジタル大辞泉

★「goo辞書」

 

万葉歌碑を訪ねて(その1208,1209)―加古川市稲美町 中央公園万葉の森(6)―万葉集 巻二十 四五一二、巻二 一六六

―その1208―

●歌は、「池水に影さへ見えて咲きにほふ馬酔木の花を扱入れな」である。

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加古川市稲美町 中央公園万葉の森(6)万葉陶板歌碑(大伴家持



●万葉陶板歌碑は、加古川市稲美町 中央公園万葉の森(6)にある、

 

●歌をみていこう。

 

◆伊氣美豆尓 可氣佐倍見要氐 佐伎尓保布 安之婢乃波奈乎 蘇弖尓古伎礼奈

               (大伴家持 巻二十 四五一二)

 

≪書き下し≫池水(いけみづ)に影さえ見えて咲きにほふ馬酔木(あしび)の花を袖(そで)に扱(こき)いれな

 

(訳)お池の水の面に影までくっきり映しながら咲きほこっている馬酔木の花、ああ、このかわいい花をしごいて、袖の中にとりこもうではないか。(伊藤 博 著 「万葉集 四」 角川ソフィア文庫より)

(注)こきいる【扱き入る】他動詞:しごいて取る。(weblio古語辞典 学研全訳古語辞典)

 

 この歌は天平宝字二年(758年)二月に詠われている。

天平勝宝九年(757年)七月四日、橘奈良麻呂の変。八月十八日、天平宝字改元

 天平宝字元年(757年)十一月十八日、藤原仲麻呂の権勢をほしいままにした「いざ子どもたはわざなせそ天地の堅めし国ぞ大和島根は(四四八七歌)」の歌が収録されている。

 

 これ以降は、宴の歌のみが収録されている。

ここから、万葉集の終焉に向かって一気に下って行くのである。

 

 天平宝字元年十二月十八日 大監物三形王が宅

    同    二十三日 治部少輔大原真人今城が宅

 天平宝字二年正月三日   肆宴

    同    七日   青馬節会の宴

    同  二月     式部大輔中臣清麻呂朝臣が宅

    同  二月十日   内相が宅

    同  七月五日   治部少輔大原真人今城が宅(家持を餞する宴)

 天平宝字二年正月一日   因幡の国の庁の宴(四五一五歌)

 そして、四五一六歌をもって万葉集は閉じている。

 

 この間の家持の歌については、ブログ拙稿「万葉歌碑を訪ねて(その1086)」で紹介している。

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―その1209―

●歌は、「磯の上に生ふる馬酔木を手折らめど見すべき君が在りと言はなくに」である。

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加古川市稲美町 中央公園万葉の森(7)万葉陶板歌碑(大伯皇女)



●万葉陶板歌碑は、加古川市稲美町 中央公園万葉の森(7)にある。

 

歌をみていこう。

 

◆磯之於尓 生流馬酔木乎 手折目杼 令視倍吉君之 在常不言尓

              (大伯皇女 巻二 一六六)

 

≪書き下し≫磯(いそ)の上(うえ)に生(お)ふる馬酔木(あしび)を手折(たを)らめど見(み)すべき君が在りと言はなくに

 

(訳)岩のあたりに生い茂る馬酔木の枝を手折(たお)りたいと思うけれども。これを見せることのできる君がこの世にいるとは、誰も言ってくれないではないか。(伊藤 博 著 「万葉集 一」 角川ソフィア文庫より)

 

 

 大伯皇女は斉明七年(661年)、大津皇子は天智二年(663年)に、天武天皇を父に、天智天皇の皇女である大田皇女を母に生まれている。姉弟である。

大伯皇女は天武二年(673年)天武天皇によって斎王制度確立後の初代斎王(斎宮)に任じられ、翌三年伊勢国に下向したのである。

弟の大津皇子は「体格や容姿が逞しく、寛大。幼いころから学問を好み知識は深く、見事な文章を記した。長じては武芸にすぐれ、その人柄は自由闊達、皇子ながら謙虚、多くの人々の信望を集めた」(『懐風藻』)とある。

大津皇子は、天武天皇崩御の後、川島皇子の密告がもとで謀反のかどで捕らえられ、磐余にある訳語田(をさだ:現奈良県桜井市)の自宅で処刑されている。叔母にあたる持統天皇はわが子草壁皇子皇位を継承させるべく大津皇子を謀反の罪に問うたと言われている。

持統天皇は、天皇になる前は鸕野讃良(うのささら)皇女で大田皇女の妹であった。

 

 大伯皇女の歌については、これまでも幾度となく紹介してきているが、断片的な紹介が主であった。

 時系列的にながめてみよう。

 

標題は、「藤原宮御宇天皇代 天皇謚曰持統天皇元年丁亥十一年譲位軽太子尊号曰太上天皇也」<藤原(ひぢはら)の宮に天の下知らしめす天皇の代 天皇(すめらみこと)、謚(おくりな)して持統天皇といふ。元年丁亥(ひのとゐ)十一年に位を軽太子(かるのひつぎのみこ)に譲り、尊号を太上天皇(おほきすめらみこと)といふ。

 

 題詞は、「大津皇子竊下於伊勢神宮上来時大伯皇女御作歌二首」<大津皇子、竊(ひそ)かに伊勢の神宮(かむみや)に下(くだ)りて、上(のぼ)り来(く)る時に、大伯皇女(おほくのひめみこ)の作らす歌二首>である。

 

◆吾勢祜乎 倭邊遺登 佐夜深而 鷄鳴露尓 吾立所霑之

         (大伯皇女 巻二 一〇五)

 

≪書き下し≫我(わ)が背子(せこ)を大和(やまと)へ遣(や)るとさ夜更けて暁(あかつき)露に我(わ)が立ち濡れし

 

(訳)わが弟を大和へ送り帰さねばならぬと、夜も更けて朝方近くまで立ちつくし、暁の露に私はしとどに濡れた。(伊藤 博 著 「万葉集 一」 角川ソフィア文庫より)

 

 

◆二人行杼 去過難寸 秋山乎 如何君之 獨越武

          (大伯皇女 巻二 一〇六)

 

≪書き下し≫ふたり行けど行き過ぎかたき秋山をいかにか君がひとり越ゆらむ

 

(訳)二人で歩を運んでも寂しくて行き過ぎにくい暗い秋の山なのに、その山を、今頃君はどのようにしてただ一人越えていることであろうか。(同上)

 

 この歌ならびに斎宮についてはブログ拙稿「万葉歌碑を訪ねて(その427,428)」で紹介している。

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題詞は、「大津皇子薨之後大来皇女従伊勢斎宮上京之時御作歌二首」<大津皇子の薨(こう)ぜし後に、大伯皇女(おほくのひめみこ)、伊勢の斎宮(いつきのみや)より京に上る時に作らす歌二首>である。

 

◆神風乃 伊勢能國尓母 有益乎 奈何可来計武 君毛不有尓

          (大伯皇女 巻二 一六三)

 

≪書き下し≫神風(かむかぜ)の伊勢の国にもあらましを何(なに)しか来けむ君もあらなくに

 

(訳)荒い風の吹く神の国伊勢にでもいた方がむしろよかったのに、どうして帰って来たのであろう、我が弟ももうこの世にいないのに。(同上)

 

 

◆欲見 吾為君毛 不有尓 奈何可来計武 馬疲尓

         (大伯皇女 巻二 一六四)

 

≪書き下し≫見まく欲(ほ)り我がする君もあらなくに何しか来けむ馬疲るるに

 

(訳)逢いたいと私が願う弟ももうこの世にいないのに、どうして帰って来たのであろう。いたずらに馬が疲れるだけだったのに。(同上)

 

題詞は、「移葬大津皇子屍於葛城二上山之時大来皇女哀傷御作歌二首」<大津皇子の屍(しかばね)を葛城(かづらぎ)の二上山(ふたかみやま)に移し葬(はぶ)る時に、大伯皇女の哀傷(かな)しびて作らす歌二首>である。

 

◆宇都曽見乃 人尓有吾哉 従明日者 二上山乎 弟世登吾将見

          (大伯皇女 巻二 一六五)

 

≪書き下し≫うつそみの人にある我(あ)れや明日(あす)よりは二上山(ふたかみやま)を弟背(いろせ)と我(あ)れ見む

 

(訳)現世の人であるこの私、私は、明日からは二上山を我が弟としてずっと見続けよう。(同上)

 

 

 父天武天皇も、母大田皇女(天智天皇皇女)もいない。大伯皇女は十余年奉仕した伊勢の斎宮の職を解かれて大和に帰って来た。最愛の弟も二上山に葬られた。それだけに、「うつそみの人なる我れや」は一層「哀傷(かな)しび」の度合いを感じさせるひびきとなっている。

 

◆磯之於尓 生流馬酔木乎 手折目杼 令視倍吉君之 在常不言尓

           (大伯皇女 巻二 一六六)

 

≪書き下し≫磯(いそ)の上(うえ)に生(お)ふる馬酔木(あしび)を手折(たを)らめど見(み)すべき君が在りと言はなくに

 

(訳)岩のあたりに生い茂る馬酔木の枝を手折(たお)りたいと思うけれども。これを見せることのできる君がこの世にいるとは、誰も言ってくれないではないか。(同上)

 

 この二首についてはブログ拙稿「万葉歌碑を訪ねて(その173)」で紹介している。

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 大津皇子の辞世の句と言われる歌をみてみよう。

 

題詞は、「大津皇子被死之時磐余池陂流涕御作歌一首」<大津皇子(おほつのみこ)、死を被(たまは)りし時に、磐余の池の堤(つつみ)にして涙を流して作らす歌一首>である。

 

◆百傳 磐余池尓 鳴鴨乎 今日耳見 雲隠去牟

       (大津皇子 巻三 四一六)

 

≪書き下し≫百伝(ももづた)ふ磐余(いはれ)の池に鳴く鴨を今日(けふ)のみ見てや雲隠りなむ

 

(訳)百(もも)に伝い行く五十(い)、ああその磐余の池に鳴く鴨、この鴨を見るのも今日を限りとして、私は雲の彼方に去って行くのか。(伊藤 博 「万葉集 一」 角川ソフィア文庫より)

(注)ももづたふ【百伝ふ】:枕詞 數を数えていって百に達するの意から「八十(やそ)」や、「五十(い)」と同音の「い」を含む地名「磐余(いはれ)」にかかる。

 

 左注は、「右藤原宮朱鳥元年冬十月」≪右、藤原の宮の朱鳥(あかみとり)の元年の冬の十月>とある。

 

 この歌についてはブログ拙稿「万葉歌碑を訪ねて(その118改)」で紹介している。(初期のブログであるのでタイトル写真には朝食の写真が掲載されていますが、「改」では、朝食の写真ならびに関連記事を削除し、一部改訂いたしております。ご容赦下さい。)

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(参考文献)

★「萬葉集」 鶴 久・森山 隆 編 (桜楓社)

★「万葉集 一」 伊藤 博 著 (角川ソフィア文庫

★「悲劇の皇子の<真実像>大津皇子」 生方たつゑ 著 (角川選書

★「weblio古語辞典 学研全訳古語辞典」

万葉歌碑を訪ねて(その1207)―加古川市稲美町 中央公園万葉の森(5)―万葉集 巻七 一三五一

●歌は、「月草に衣は摺らむ朝露に濡れての後はうつろひぬとも」である。

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加古川市稲美町 中央公園万葉の森(5)万葉陶板歌碑(作者未詳)



●万葉陶板歌碑は、加古川市稲美町 中央公園万葉の森(5)にある。

 

●歌をみていこう。

 

◆月草尓 衣者将揩 朝露尓 所沾而後者 徙去友

       (作者未詳 巻七 一三五一)

 

≪書き下し≫月草(つきくさ)に衣(ころも)は摺(す)らむ朝露(あさつゆ)に濡(ぬ)れての後(のち)はうつろひぬとも

 

(訳)露草でこの衣は摺染(すりぞ)めにしよう。朝露に濡れたそののちは、たたえ色が褪(あ)せてしまうことがあるとしても。(「万葉集 二」 伊藤 博 著 角川ソフィア文庫より)

(注)上二句は、結婚を諸諾する意。

(注)濡れての後は:結婚してのちは。

 

 

月草を詠んだ歌をみてみよう。

 

◆月草之 徙安久 念可母 我念人之 事毛告不来

        (坂上大嬢 巻四 五八三)

 

≪書き下し≫月草(つきくさ)のうつろひやすく思へかも我(あ)が思ふ人の言(こと)も告げ来(こ)ぬ

 

(訳)こんなにもお慕いしている私を、月草のように移り気な女とお思いなのか。私の思う方がお便りすらも下さらない。(同上)

(注)つきくさの【月草の】分類枕詞:月草(=つゆくさ)の花汁で染めた色がさめやすいところから「移ろふ」「移し心」「消(け)」などにかかる。(学研)

 

五八一から五八四歌の歌群の題詞は、「大伴坂上家(さかのうえのいへ)の大嬢(おほいらつめ)、大伴宿禰家持に報(こた)へ贈る歌四首」である。家持の歌は収録されてはいないが歌を大嬢に贈っていると思われる。ただこの歌が作られたのは、天平四年(732年)頃であるから、大嬢は、九、十歳と思われ、とても歌を作れる歳ではない。おそらく、母大伴坂上郎女の代作だろうと考えられている。

 

この歌群の歌については、ブログ拙稿「万葉歌碑を訪ねて(その1059)」で紹介している。

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◆月草尓 衣曽染流 君之為 綵色衣 将摺跡念而

         (作者未詳 巻七 一二五五)

 

≪書き下し≫月草(つきくさ)に衣(ころも)ぞ染(そ)むる君がため斑(まだら)の衣(ころも)摺(す)らむと思ひて

 

(訳)露草で着物を摺染(すりぞ)めにしている。あの方のために、斑(まだら)に染めた美しい着物に仕立てようと思って。(同上)

 

 

◆鴨頭草丹 服色取 揩目伴 移變色登 称之苦沙

          (作者未詳 巻七 一三三九)

 

≪書き下し≫月草(つきくさ)に衣(ころも)色どり摺(す)らめどもうつろふ色と言ふが苦しさ

 

(訳)露草の花で着物を色取って染めたいと思うけれど、褪(あ)せやすい色だと人が言うのを聞くのがつらい。(同上)

(注)摺らめども:求婚に応じようと思うが。

 

 

◆朝露尓 咲酢左乾垂 鴨頭草之 日斜共 可消所念

        (作者未詳 巻十 二二八一)

 

≪書き下し≫朝露(あさつゆ)に咲きすさびたる月草(つきくさ)の日くたつなへに消(け)ぬべく思ほゆ

 

(訳)朝露をあびて咲きほこる露草が、日が傾くとともにしぼむように、日が暮れてゆくにつれて、私の心もしおれて消え入るばかりだ。

(注)すさぶ【荒ぶ・遊ぶ】自動詞:①慰み楽しむ。気の向くままに…する。慰みに…する。②盛んに…する。ほしいままに…する。さかる。③衰えてやむ。 ⇒語の歴史 平安時代までは、四段・上二段の例が見えるが、平安時代末期以後、四段活用が中心となり、一般的には使われなくなる。意味も、古くは、「気の向くままに行動する」意であったが、その意味の一部分である「荒れる」が特に強く意識されるようになり、現代語では、「風吹きすさぶ」のようにその意だけで使われている。なお、バ行音・マ行音は音が近いことから、「すさぶ」「すさむ」の両形が古くから併用された。(学研)ここでは②の意

(注)上三句は序。「日くたつなへに消ぬ」を起こす。

(注)くたつ【降つ】自動詞:①(時とともに)衰えてゆく。傾く。②夕方に近づく。夜がふける。  ※「くだつ」とも。上代語。(学研)

(注)なへに 分類連語:「なへ」に同じ。 ※上代語。 ⇒なりたち 接続助詞「なへ」+格助詞「に」(学研)

(注の注)なへ 接続助詞:《接続》活用語の連体形に付く。〔事柄の並行した存在・進行〕…するとともに。…するにつれて。…するちょうどそのとき。 ※上代語。中古にも和歌に用例があるが、上代語の名残である。(学研)

 

 

◆朝開 夕者消流 鴨頭草乃 可消戀毛 吾者為鴨

         (作者未詳 巻十 二二九一)

 

≪書き下し≫朝(あした)咲き夕(ゆうへ)は消(け)ぬる月草(つきくさ)の消(け)ぬべき恋も我(あ)れはするかも

 

(訳)朝咲いても夕方にはしぼんでしまう露草のように、身も消え果ててしまいそうな恋、そんなせつない恋を私はしている。(同上)

(注)上三句は序。「消ぬ」を起こす。

 

 

◆月草之 借有命 在人乎 何知而鹿 後毛将相云

        (作者未詳 巻十一 二七五六)

 

≪書き下し≫月草の借(か)れる命(いのち)にある人をいかに知りてか後(のち)も逢はむと言ふ

 

(訳)露草の花のようにはかない仮の命しか持ち合わせていない人の身であるのに、それをどういう身と知って、のちにでも逢おうなどと言うのですか。(「万葉集 三」 伊藤 博 著 角川ソフィア文庫より

(注)つきくさの【月草の】分類枕詞:月草(=つゆくさ)の花汁で染めた色がさめやすいところから「移ろふ」「移し心」「消(け)」などにかかる。(学研)

(注)借れる命にある人を:仮の命しか持たぬ人の身なのに。「人」は自他を含めていう。

 

 

◆内日刺 宮庭有跡 鴨頭草之 移情 吾思名國

         (作者未詳 巻十二 三〇五八)

 

≪書き下し≫うちひさす宮にはあれど月草(つきくさ)のうつろふ心我(わ)が思はなくに

 

(訳)はなやかな宮廷に仕えている身ではあるけれど、色のさめやすい露草のように移り気な心、そんな心で私は思っているわけではないのに。(同上)

(注)うちひさす【打ち日さす】分類枕詞:日の光が輝く意から「宮」「都」にかかる。(学研)

 

◆百尓千尓 人者雖言 月草之 移情 吾将持八方

         (作者未詳 巻十二 三〇五九)

 

≪書き下し≫百(もも)に千(ち)に人は言ふとも月草のうつろふ心我(わ)れ持ためやも

 

(訳)あれやこれやと人は噂を言いふらしても、露草のような移り気な心、そんな心をこの私としたことが持つものですか(同上)

 

 「植物で見る万葉の世界」(國學院大學 萬葉の花の会 著)によると、ツユクサは「別名、『青花』『藍花』とも呼ばれ、花の色が染料に使われ、衣に染め付きやすかったことから『つきくさ』と呼ばれていた。しかし、ツユクサから染料にする色は、変わりやすく褪せやすいところから、人の心の移ろいに喩える歌が見受けられ、ひいては男女の心の表現にも使われている。」と書かれている。

 

 二二九一歌にあるように「朝(あした)咲き夕(ゆうへ)は消(け)ぬる月草(つきくさ)」と一日でしぼむ露草、そして染めれば色褪せやすい、これらの性質を織り込んでたくみに詠っている万葉びとの観察力や経験値を歌に活かす知恵にはただただ驚かされる。

 

 

 

(参考文献)

★「萬葉集」 鶴 久・森山 隆 編 (桜楓社)

★「万葉集 一」 伊藤 博 著 (角川ソフィア文庫

★「万葉集 二」 伊藤 博 著 (角川ソフィア文庫

★「万葉集 三」 伊藤 博 著 (角川ソフィア文庫

★「植物で見る万葉の世界」 國學院大學 萬葉の花の会 著 (同会 事務局)

★「weblio古語辞典 学研全訳古語辞典」

万葉歌碑を訪ねて(その1205、1206)―加古川市稲美町 中央公園万葉の森(3、4)―万葉集 巻三 四四七、四四六

―その1205―

●歌は、「鞆の浦の磯のむろの木見むごとに相見し妹は忘れえめや」である。

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加古川市稲美町 中央公園万葉の森(3)万葉歌碑<プレート>(大伴旅人



●歌碑(プレート)は、加古川市稲美町 中央公園万葉の森(3)にある。

 

●歌をみていこう。

 

◆鞆浦之 磯之室木 将見毎 相見之妹者 将所忘八方

         (大伴旅人 巻三 四四七)

 

≪書き下し≫鞆の浦の磯のむろの木見むごとに相見し妹は忘らえめやも

 

(訳)鞆の浦の海辺の岩の上に生えているむろの木。この木をこれから先も見ることがあればそのたびごとに、行く時に共に見たあの子のことが思い出されて、とても忘れられないだろうよ。(伊藤 博 著 「万葉集 一」 角川ソフィア文庫より)

(注)鞆の浦広島県福山市鞆町の海岸。

(注)むろのき【室の木・杜松】分類連語:木の名。杜松(ねず)の古い呼び名。海岸に多く生える。(weblio古語辞典 学研全訳古語辞典)

(注)見むごとに:これからも見ることがあればその度ごとに。将来にかけての言い方。

 

 

―その1206―

●歌は、「我妹子が見し鞆の浦のむろの木は常世にあれど見し人ぞなき」である。

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加古川市稲美町 中央公園万葉の森(4)万葉歌碑<プレート>(大伴旅人



●歌碑(プレート)は、加古川市稲美町 中央公園万葉の森(4)にある。

 

●歌をみていこう。

 

◆吾妹子之 見師鞆浦之 天木香樹者 常世有跡 見之人曽奈吉

          (大伴旅人 巻三 四四六)

 

≪書き下し≫我妹子(わぎもこ)が見し鞆(とも)の浦のむろの木は常世(とこよ)にあれど見し人ぞなき

 

(訳)いとしいあの子が行きに目にした鞆の浦のむろの木は、今もそのまま変わらずにあるが、これを見た人はもはやここにはいない。(伊藤 博 著 「万葉集 一」 角川ソフィア文庫より)

 

 上記の歌二首の題詞は、「天平二年庚午冬十二月大宰帥大伴卿向京上道之時作歌五首」<天平二年庚午(かのえうま)の冬の十二月に、大宰帥(だざいのそち)大伴卿(おほとものまへつきみ)、京に向ひて道に上る時に作る歌五首>である。

四四六から四五〇歌まであり、四四六から四四八歌の三首の左注が、「右三首過鞆浦日作歌」<右の三首は、鞆の浦を過ぐる日に作る歌>である。そして、四四九、四五〇歌の二首の左注が。「右二首過敏馬埼日作歌」<右の二首は、敏馬の埼を過ぐる日に作る歌>である。

 

 四四六、四四七歌については、ブログ拙稿「万葉歌碑を訪ねて(その508)」で紹介している。

 ➡ 

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まず四四八歌をみてみよう。

 

◆磯上丹 根蔓室木 見之人乎 何在登問者 語将告可

         (大伴旅人 巻三 四四八)

 

≪書き下し≫磯の上に根延(ねば)ふむろの木見し人をいづらと問はば語り告げむか

 

(訳)海辺の岩の上に根を張っているむろの木よ、行く時にお前を見た人、その人をどうしているかと尋ねたなら、語り聞かせてくれるであろうか。(伊藤 博 著 「万葉集 一」 角川ソフィア文庫より)

 

 四四六から四四八歌は、題詞にあるように、天平二年(730年)大伴旅人が大納言に昇進し、大宰府から都に戻る途中、鞆の浦で詠んだものである。

 

 大宰府は、「遠の朝廷(みかど)」と呼ばれ、主要職メンバーはすべて、遠隔の地からの赴任者であった。それだけに大宰帥の人選にあたっては内助の功を十二分に発揮できる妻をもっているかが条件とされたという。旅人の妻の大伴郎女はそのような才能を有していたが、九州の着くと間もなく、長旅の疲れのせいか病床に就き帰らぬ人になってしまったのである。

 

 赴任する時に、妻と一緒に見た「むろの木」が思い出されて、やるせない気持ちが溢れる歌である。

 

 四四六歌では、「鞆浦之 天木香樹」、四四七歌では、「鞆浦之 磯之室木」さらに四四八歌では、「磯上丹 根蔓室木」とズームアップするいわば連作の見事な展開となっている。このように、やるせない気持ちがほとばしり出てくるのである。

 

 伊藤一彦氏は、四四八歌について、中西 進/編「大伴旅人―人と作品」(祥伝社)の中で、「・・・擬人的用法の『語り告げむか』が生きているのもこの上句ゆえである。『いづら』の『ら』は漠然とした空間をさす接尾語で、『いづく』よりもその場所が特定できない感じである。旅人とてむろの木に問いかけたところで答えが返ってくるとは思えない。にもかかわらず、かく歌っているところに旅人が亡き妻を思う心情が強く出ているのである。『か』の疑問が読者の心にいつまでも悲しく響く。」と書かれている。

 そして古橋信孝氏の『万葉集―歌のはじまり』から引用されて、「旅人の『むろの木』三首は『行きにむろの木に安全祈願をした妻が解くことができない』という状況の歌と見ることができ、『語り告げむか』の歌は『祈願した妻の魂がこのむろの木に留まっているから、こう詠める。したがって、旅人は妻の魂を鎮めなけらばならない。そういうモチーフで詠まれた歌なのだ。』」と書かれている。

 

 

次に、四四九、四五〇歌をみてみよう。

 

◆与妹来之 敏馬能埼乎 還左尓 獨之見者 涕具末之毛

         (大伴旅人 巻三 四四九)

 

≪書き下し≫妹(いも)と来(こ)し敏馬(みぬめ)の崎を帰るさにひとりし見れば涙(なみた)ぐましも

 

(訳)行く時にあの子と見たこの敏馬の埼を、帰りしなにただ一人で見ると、涙がにじんでくる。(伊藤 博 著 「万葉集 一」 角川ソフィア文庫より)

(注)敏馬に「見ぬ妻」を匂わせる

 

 

◆去左尓波 二吾見之 此埼乎 獨過者 情悲喪  <一云見毛左可受伎濃>

         (大伴旅人 巻三 四五〇)

 

≪書き下し≫行くさにはふたり我(あ)が見しこの崎をひとり過ぐれば心(こころ)悲しも  <一には「見もさかず来ぬ」といふ>

 

(訳)行く時には二人して親しく見たこの敏馬の崎なのに、ここを今一人で通り過ぎると、心が悲しみでいっぱいだ。<遠く見やることもせずにやって来てしまった。>

 

 両歌についてはブログ拙稿「万葉歌碑を訪ねて(敏馬神社番外編)」で紹介している。

 ➡ 

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 四四九、四五〇歌について、伊藤一彦氏は、「鞆の浦よりさらに都に近づいたところで、妻のないことがますます募ってくる歌である。」とし、四四九歌の結句は「涙ぐましも」。四五〇歌のそれは「心悲しも」であると指摘されている。そして「ただ、どちらの歌も過去と現在をオーバーラップさせた敏馬の崎の大きく美しい風景が結句を単なる感傷におとしめない効果をもたらしている。うつろわぬ自然に向かう、うつろいやすい人間。そんな人間の一人であるという自覚が感じられる。」と書かれている。

 

このような鋭い見方に触れ、「涙ぐましも」「心悲しも」という語句の響きの重々しさを感じるが、そこに自然と人間との対峙のシーンまでとても考えが及ばない。歌に秘められた心理的階層のベールを剥がせる力を養わないと痛感した。ああ万葉集!!!

 

 

 

(参考文献)

★「萬葉集」 鶴 久・森山 隆 編 (桜楓社)

★「万葉集 一」 伊藤 博 著 (角川ソフィア文庫

★「大伴旅人―人と作品」 中西 進/編 (祥伝社

★「weblio古語辞典 学研全訳古語辞典」

万葉歌碑を訪ねて(その1204)―加古川市稲美町 中央公園万葉の森(2)―万葉集 巻九 一七七七

●歌は、「君なくはなぞ身装はむ櫛笥なる黄楊の小櫛も取らむとも思はず」である。

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加古川市稲美町 中央公園万葉の森(2)万葉歌碑<プレート>(播磨娘子)



●歌碑(プレート)は、加古川市稲美町 中央公園万葉の森(2)にある。

 

●歌をみていこう。

 

◆君無者 奈何身将装餝 匣有 黄楊之小梳毛 将取跡毛不念

           (播磨娘子 巻九 一七七七)

 

≪書き下し≫君なくはなぞ身(み)装(よそ)はむ櫛笥(くしげ)なる黄楊(つげ)の小櫛(をぐし)も取らむとも思はず

 

(訳)あなた様がいらっしゃらなくては、何でこの身を飾りましょうか。櫛笥(くしげ)の中の黄楊(つげ)の小櫛(をぐし)さえ手に取ろうとは思いません。(伊藤 博 著 「万葉集 二」 角川ソフィア文庫より)

(注)くしげ【櫛笥】名詞:櫛箱。櫛などの化粧用具や髪飾りなどを入れておく箱。(weblio古語辞典 学研全訳古語辞典)

 

 題詞は、「石川大夫遷任上京時播磨娘子贈歌二首」<石川大夫(いしかはのまへつきみ)、遷任して京に上(のぼ)る時に、播磨娘子(はりまのをとめ)が贈る歌二首>である。

 

この歌と一七七六歌についてはブログ拙稿「万葉歌碑を訪ねて(その691)」で紹介している。

 ➡ 

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 播磨娘子のように、名前も明らかでなく「地方名+娘子」と呼ばれた娘子たちと、石川大夫のよに地方赴任となった官人の行きずりの恋に関わる歌が万葉集にはいくつか収録されている。

 播磨娘子のような娘子は、各地をめぐり歩き、歌舞音曲で宴席をにぎわした「遊行女婦(ゆうこうじょふ)」と思われる。一般的には「遊女」と呼ばれているが、それなりの教養を身に着け、古歌をそらんじて宴席などで披露するなどその場を盛り上げる、いわば芸をもった女たちであったと言えるだろう。

 もちろん、地方赴任となった官人と恋に落ちるのは遊行女婦以外にも、その地の女性の場合もあったであろう。

 男女の仲である以上、最初はドキドキからはじまり、やがて結ばれそこをピークに破局へ向かう流れになるのが一般的である。

 結ばれた当初は、その恋に対する高揚度は男の方が高く、破局を迎える局面では男の方がクールさを保っている。

 局面ごとの歌をみてみよう。

 

一七六七から一七六九歌の題詞は、「抜氣大首任筑紫時娶豊前國娘子紐兒作歌三首」<抜気大首(ぬきのけだのおびと)、筑紫(つくし)に任(ま)けらゆる時に、豊前(とよのみちのくち)の国の娘子(をちめ)紐児(ひものこ)を娶(めと)りて作る歌三首>である。

(注)抜気大首:伝未詳

(注)紐児:遊行女婦の名か。

 

◆豊國乃 加波流波吾宅 紐兒尓 伊都我里座者 革流波吾家

        (抜気大首 巻九 一七六七)

 

≪書き下し≫豊国(とよくに)の香春(かはる)は我家(わぎへ)紐児(ひものこ)にいつがり居(を)れば香春は我家

 

(訳)豊の国の香春は我が家だ。かわいい紐児にいつもくっついていられるのだもの。香春は我が家だ。(同上)

(注)いつがる【い繫る】自動詞:つながる。自然につながり合う。 ※上代語。「い」は接頭語。(学研)

 

 

◆石上 振乃早田乃 穂尓波不出 心中尓 戀流比日

        (抜気大首 巻九 一七六八)

 

≪書き下し≫石上(いそのかみ)布留(ふる)の早稲田(わさだ)の穂(ほ)には出(い)でず心のうちに恋ふるこのころ

 

(訳)石上の布留の早稲田の稲が他にさきがけて穂を出す、そんなように軽々しく表に出さないようにして、心の中で恋い焦がれているこのごろだ。(同上)

(注)いそのかみ【石の上】分類枕詞:今の奈良県天理市石上付近。ここに布留(ふる)の地が属して「石の上布留」と並べて呼ばれたことから、布留と同音の「古(ふ)る」「降る」などにかかる。「いそのかみ古き都」(学研)

(注)上二句は序。「穂に出づ」を越す。

 

 

◆如是耳志 戀思度者 霊剋 命毛吾波 惜雲奈師

       (抜気大首 巻九 一七六九)

 

≪書き下し≫かくのみし恋ひしわたればたまきはる命(いのち)も我(わ)れは惜しけくもなし

 

(訳)こんなにただひたすらに恋い焦がれてばかりいるのでは、このたいせつな命あえ、私は惜しいとは思わない。(同上)

 

 一七六七歌では、旅先の地を家(家郷)ということで愛情を誇張している。しかも二度繰り返している。書き手も「加波流波吾宅」を二度目は「革流波吾家」と変はる表記をしており、そこには遊び心が感じられる。

 一七六八歌では、「心のうちに恋ふるこのころ」と詠ってはいるが、これも高まりの裏返しである。まして、一七六八歌では、「命(いのち)も我(わ)れは惜しけくもなし」とまで言い切っている。

 

 この歌についてはブログ拙稿「万葉歌碑を訪ねて(その872)」で紹介している。

 ➡ 

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 石川大夫も当時としては高価な「黄楊の小櫛」を贈ったりして同じような思いをしていたのであろう。

 別れに際し、一七七七歌の様に、播磨娘子は淡々といとおしい気持ちを詠ってはいるだけに心中が慮れるのである。

 

 一七七八、一七七九歌にも別れにおける男女の歌が収録されている。こちらもみてみよう。

 

題詞は、「藤井連遷任上京時娘子贈歌一首」<藤井連(ふぢゐのむらじ)、遷任して京に上(のぼ)る時に、娘子(をとめ)が贈る歌一首>である。

 

◆従明日者 吾波孤悲牟奈 名欲山 石踏平之 君我越去者

        (娘子<未詳> 巻九 一七七八)

 

≪書き下し≫明日(あす)よりは我(あ)れは恋ひなむな名欲山(なほりやま)岩(いは)踏(ふ)み平(なら)し君が越え去(い)なば

 

(訳)明日からは、私はさぞかし恋しくてならないことでしょう。あの名欲山を、岩踏み平しながらあなたのご一行が一斉に越えて行ってしまったならば。(同上)

(注)名欲山は、大分県にある山で今の「木原山」をさすらしい。

 

 この歌に対して、題詞「藤井連和歌一首」<藤井連が和(こた)ふる歌一首>にあるように応えている歌である。

 

 

◆命乎志 麻勢久可願 名欲山 石踐平之 復亦毛来武

         (藤井連 巻九 一七七九)

 

≪書き下し≫命(いのち)をしま幸(さき)くあらなむ名欲山(なほりやま)岩踏み平(なら)しまたまたも来(こ)む

 

(訳)命長くいついつまでも達者でいてほしい。そうしたら、名欲山の岩をこの足で踏み平しては、何回もやって来よう。(伊藤 博 著 「万葉集 二」 角川ソフィア文庫より)

(注)娘子:九州の女性。遊行女婦か。

(注)またまた【又又・復復】〘副〙 (「また(又)」を強めた言い方) さらに重ねて。なおも再び。(コトバンク 精選版 日本国語大辞典

 

 こちらの娘子も淡々と詠っているだけにその心中や如何にである。

 それに対して、藤井連の歌は、まったく調子の良い歌で未練があるように詠ってはいるが、完全におさらばの歌である。

 このような男女の機微は万葉の世も今も変わりはない。その後のリスク度は今の方がはるかに高いと言えるが。

 

 これらの歌についてはブログ拙稿「万葉歌碑を訪ねて(その224)」で紹介している。

 ➡ こちら224

 

 大伴旅人と児島の場合は、題詞が、冬の十二月に、大宰帥大伴卿、京に上(のぼ)る時に、娘子(をとめ)が作る歌二首」とあり、左注は、「右大宰帥大伴卿兼任大納言向京上道 此日馬駐水城顧望府家 于時送卿府吏之中有遊行女婦 其字曰兒嶋也 於是娘子傷此易別嘆彼難會 拭涕自吟振袖之歌」<右は、大宰帥大伴卿、大納言(だいなごん)を兼任し、京に向かひて道に上(のぼ)る。この日に、馬を水城(みづき)に駐(とど)めて、府家(ふか)を顧(かへり)み望(のぞ)む。時に、卿を送る府吏(ふり)の中に、遊行女婦(うかれめ)あり、その字(あざな)を児島(こしま)といふ。ここに、娘子(をとめ)、この別れの易(やす)きことを傷(いた)み、その会(あ)ひの難(かた)きことを嘆き、涕(なみた)を拭(のご)ひて自(みづか)ら袖を振る歌を吟(うた)ふ>である。

(注)水城:堤を築き水を湛えた砦。大宰府市水城にその一部が残る。

(注)府家:大宰府

(注)ゆうこうじょふ〔イウカウヂヨフ〕【遊行女婦】:各地をめぐり歩き、歌舞音曲で宴席をにぎわした遊女。うかれめ。(weblio辞書 デジタル大辞泉) ここでは貴人に侍した教養のある遊女。

 

九六五、九六六歌を娘子が作り、九六七、九六八歌で旅人が和(こた)えている。この歌群は他の別れに際した歌と次元がことなりスマートさというか旅人の大物ぶりをうかがわせる内容になっている。

これらの歌については、ブログ拙稿「万葉歌碑を訪ねて(その801)」で紹介している。

 ➡ 

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 柿本人麻呂が石見の地で妻とした依羅娘子(よさみのをとめ)と別れて都に戻る時の石見相聞歌などもある。

 題詞は、「柿本朝臣人麻呂、石見の国より妻に別れて上(のぼ)り来る時の歌二首 幷せて短歌」であり、一三一から一三九歌までの大きな歌群が収録されている。

 一三一から一三四歌までは、ブログ拙稿「万葉歌碑を訪ねて(その307)」で紹介している。

 ➡ 

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 話は変わるが、遊行女婦とうつつを抜かす部下を喩す、大伴家持の歌も収録されている。

 これについては、ブログ拙稿「万葉歌碑を訪ねて(123改)」で紹介している。(初期のブログであるのでタイトル写真には朝食の写真が掲載されていますが、「改」では、朝食の写真ならびに関連記事を削除し、一部改訂いたしております。ご容赦下さい。)

 ➡ 

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 男女の問題に関する生きた教材的なものが万葉集に収録されているのも万葉集の懐の深さなのであろう。

 

 

 

(参考文献)

★「萬葉集」 鶴 久・森山 隆 編 (桜楓社)

★「万葉集 三」 伊藤 博 著 (角川ソフィア文庫

★「万葉の心」 中西 進 著 (毎日新聞社

★「weblio古語辞典 学研全訳古語辞典」

★「コトバンク 精選版 日本国語大辞典

万葉歌碑を訪ねて(その1203)―加古川市稲美町 中央公園万葉の森(1)―万葉集 巻七 一三六五

●歌は、「我妹子がやどの秋萩花よりは実になりてこそ恋ひまさりけれ」である。

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加古川市稲美町 中央公園万葉の森(1)万葉歌碑<プレート>(作者未詳)



●歌碑(プレート)は、加古川市稲美町 中央公園万葉の森(1)にある。

 

●歌をみていこう。

 

◆吾妹子之 屋前之秋芽子 自花者 實成而許曽 戀益家礼

       (作者未詳 巻七 一三六五)

 

≪書き下し≫我妹子がやどの秋萩花よりは実になりてこそ恋ひまさりけれ

 

(訳)我がいとしい子の庭の秋萩、あの萩は、花の頃より実になってからの方が、むしろいっそう恋心が募って仕方がない。(「万葉集 二」 伊藤 博 著 角川ソフィア文庫より)

(注)やどの秋萩:我が妻の譬え。

(注)萩の実:莢(さや)は扁平な楕円形で、なかに蒴果がはいっている

(注の注)萩はマメ科の植物である。

 

 加古川市稲美町 中央公園万葉の森には、昨年の7月2日に一度訪れている。自然石の万葉歌碑は6基ある。園内には現代歌の歌碑などもあり詳しく確認をしなかったため5基しか撮影していなかったのが後で分かったのである。いつかリベンジをと思っていたが、コロナ禍の影響もあり外出がままならなかったのである。

漸く2021年10月5日に河東市の播磨中央公園いしぶみの丘の歌碑と組み合わせて巡ることができたのである。

 中央公園万葉の森には陶板の歌碑(プレート)と木製の歌碑プレートもある。

 今回のミッションは撮り残した歌碑やプレートへの再挑戦である。

 

 トップバッターの歌が一三六五歌であり、「結婚してからの方が・・・」という新婚ののろけからのスタートである。

 

萩について、奈良県HP「はじめての万葉集vol.5」に「『万葉集』には数多くの植物名が詠みこまれていますが、そのなかでもっとも多く詠まれているのがハギです。百四十一首みられます。

 『萩』という文字は、中国ではカワラヨモギやヒサギをしめす語として使われており、日本でいうハギとは植物が異なります。ハギに『萩』の文字が使われるのは『播磨国風土記(はりまのくにふどき)』が早い例とされていますが、唯 一 の伝本である平安末期の写本では『荻』(禾ではなく犭)となっているため再考の余地があるという指摘があります。『万葉集』でも『萩』の文字は使用されておらず、『芽子(はぎ)』という文字が多く使われています。これは刈りとった根からでも、毎年のように新たな芽が出るという性質をあらわした用字であると考えられています。ちなみに若い葉や茎は栄養価が高く、食べることができるそうです。(後略)」と書かれている。

 

 大伴家持が「秋萩」を詠った歌群が収録されているのでみてみよう。

題詞は、「大伴宿祢家持秋歌三首」<大伴宿禰家持が秋の歌三首>である。

 

◆秋野尓 開流秋芽子 秋風尓 靡流上尓 秋露置有

         (大伴家持 巻八 一五九七)

 

≪書き下し≫秋の野に咲ける秋萩秋風に靡(なび)ける上(うへ)に秋の露置けり

 

(訳)秋の野に咲いている秋萩、この萩が秋風に靡いているその上に、秋の露が置いている。(同上)

 

 三首とも「秋芽子」を詠っているが、この歌では「秋野」、「秋芽子」、「秋風」、「秋露」と4つも「秋」を詠っているので、歌群の題詞は「秋歌」としたのであろう。

 

 

◆棹壮鹿之 朝立野邊乃 秋芽子尓 玉跡見左右 置有白露

         (大伴家持 巻八 一五九八)

 

≪書き下し≫さを鹿(しか)の朝立つ野辺(のへ)の秋萩に玉と見るまで置ける白露

 

(訳)雄鹿が朝佇(たたず)んでいる野辺の秋萩に、玉と見まごうばかりに置いている白露よ、ああ。(同上)

 

 

◆狭尾壮鹿乃 胸別尓可毛 秋芽子乃 散過鶏類 盛可毛行流

          (大伴家持 巻八 一五九九)

 

≪書き下し≫さを鹿(しか)の胸別(むなわ)けにかも秋萩の散り過ぎにける盛(さか)りかも去(い)ぬる

 

(訳)秋の野を行く雄鹿の胸別けのせいで、萩の花が散ってしまったのであろうか。それとも、花の盛りの時期が過ぎ去ってしまったせいなのであろか。(同上)

(注)むなわけ【胸分け】名詞:①(鹿(しか)などが)胸で草を押し分けること。②胸。胸の幅。(学研) ここでは①の意

 

 歌群の左注は、「右天平十五年癸未秋八月見物色作」<右は、天平十五年癸未(みづのとひつじ)の秋の八月に、物色(ぶつしよく)を見て作る>である。

(注)天平十五年:743年。家持26歳。久邇京にいた。

(注)ぶっしょく【物色】[名] 物の色や形。また、景色や風物。(weblio辞書

デジタル大辞泉

(注)見て:思い見ての意。

 

 伊藤 博氏は一五九八歌の「さを鹿」の脚注で、「前歌の仕立てに取り合わせの鹿を配する。」と書かれている。

 鹿と萩の取り合わせでは大伴旅人の一五四一歌が頭に浮かぶ。これをみてみよう。

 

 

◆吾岳尓 棹壮鹿来鳴 先芽之 花嬬問尓 来鳴棹壮鹿

        (大伴旅人 巻八 一五四一)

 

≪書き下し≫我が岡にさを鹿(しか)来鳴く初萩(はつはぎ)の花妻(はなつま)どひに来鳴くさを鹿

 

(訳)この庭の岡に、雄鹿が来て鳴いている。萩の初花を妻どうために来て鳴いているのだな、雄鹿は。(同上)

(注)さをしか【小牡鹿】名詞:雄の鹿(しか)。 ※「さ」は接頭語。(学研)

(注)はなづま【花妻】名詞:①花のように美しい妻。一説に、結婚前の男女が一定期間会えないことから、触れられない妻。②花のこと。親しみをこめて擬人化している。③萩(はぎ)の花。鹿(しか)が萩にすり寄ることから、鹿の妻に見立てていう語(学研)ここでは、③の意

 

 この歌についてはブログ拙稿「万葉歌碑を訪ねて(924)」で紹介している。

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 萩と鹿に関して、中西 進氏は、「大伴旅人―人と作品」(同氏編 祥伝社)の中で、「植物はそれぞれ固有の匂いを放つ。萩のその匂いを鹿が好む。そこで鹿はよく萩の咲いているところへ寄る。それがまさに萩という、鹿の花嬬なのである。

 軽く、萩の花は、鹿と仲良しだと考えてもよい。しかし万葉びとふうに考えると、それでは不十分で、ほんとうに萩と鹿が生命を通わせ合うといった方がよい。(後略)」と書かれている。

 

加古川市稲美町 中央公園万葉の森の歌は万葉植物にちなんでいるので、どうしてもこれまでの植物園の歌と重複するものが多い。歌は重複してもそれに関する話題的なところを絞り出して書いていきたいと思っています。

拙い文章で申し訳ございませんがよろしくご指導のほどお願い申し上げます。

 

 

 

 

(参考文献)

★「萬葉集」 鶴 久・森山 隆 編 (桜楓社)

★「万葉集 二」 伊藤 博 著 (角川ソフィア文庫

★「大伴旅人―人と作品」 中西 進 編  (祥伝社

★「weblio古語辞典 学研全訳古語辞典」

★「weblio辞書 デジタル大辞泉

★「はじめての万葉集vol.5」 (奈良県HP)

万葉歌碑を訪ねて(その1202)―大阪府泉南郡岬町 深日漁港北―万葉集 巻十二 三二〇一

●歌は、「時つ風吹飯の浜に出で居つ贖ふ命は妹がためこそ」である。

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大阪府泉南郡岬町 深日漁港北万葉歌碑(作者未詳)



●歌碑は、大阪府泉南郡岬町 深日漁港北にある。

 

●歌をみていこう。

 

◆時風 吹飯乃濱尓 出居乍 贖命者 妹之為社

  (作者未詳 巻十二 三二〇一)

 

≪書き下し≫時つ風吹飯(ふけひ)の浜に出(い)で居(ゐ)つつ贖(あか)ふ命は妹がためこそ

 

(訳)時つ風が吹くという名の吹飯の浜に出ては、海の神に幣帛(ぬさ)を捧げて無事を一心に祈るこの命は、誰のためでもない、いとしいあの子のためなのだ。(「万葉集 三」 伊藤 博 著 角川ソフィア文庫より)

(注)ときつかぜ【時つ風】名詞:①潮が満ちて来るときなど、定まったときに吹く風。

②その季節や時季にふさわしい風。順風。 ※「つ」は「の」の意の上代の格助詞。

(注)ときつかぜ【時つ風】分類枕詞:定まったときに吹く風の意から「吹く」と同音を含む地名「吹飯(ふけひ)」にかかる。(weblio古語辞典 学研全訳古語辞典)

(注)吹飯の浜:大阪府の南端、泉南郡岬町深日の海岸。淡路に渡るのに近い所。(学研)

(注)あかふ>あがふ【贖ふ】他動詞:①金品を代償にして罪をつぐなう。贖罪(しよくざい)する。②買い求める。 ※上代・中古には「あかふ」。後に「あがなふ」とも。(学研)

(注の注)ここは、神に幣帛(ぬさ)を捧げて、加護を祈る意。

 

「時つ風」を詠んだ歌をみてみよう。

 

■巻二 二二〇

題詞は、「讃岐狭岑嶋視石中死人柿本朝臣人麿作歌一首幷短歌」<讃岐(さぬき)の狭岑(さみねの)島にして、石中(せきちゅう)の死人(しにん)を見て、柿本朝臣人麻呂が作る歌一首幷(あは)せて短歌>の長歌(二二〇歌)と反歌二首(二二一、二二二歌)のうちの一首である。

(注)狭岑(さみねの)島:香川県塩飽諸島中の沙美弥島。今は陸続きになっている。

(注)石中の死人:海岸の岩の間に横たわる死人。

 

 

◆玉藻吉 讃岐國者 國柄加 雖見不飽 神柄加 幾許貴寸 天地 日月與共 満将行 神乃御面跡 次来 中乃水門従 船浮而 吾榜来者 時風 雲居尓吹尓 奥見者 跡位浪立 邊見者 白浪散動 鯨魚取 海乎恐 行船乃 梶引折而 彼此之 嶋者雖多 名細之 狭岑之嶋乃 荒磯面尓 廬作而見者 浪音乃 茂濱邊乎 敷妙乃 枕尓為而 荒床 自伏君之 家知者 往而毛将告 妻知者 来毛問益乎 玉桙之 道太尓不知 鬱悒久 待加戀良武 愛伎妻等者

          (柿本人麻呂 巻二 二二〇)

 

≪書き下し≫玉藻(たまも)よし 讃岐(さぬき)の国は 国からか 見れども飽かぬ 神(かむ)からか ここだ貴(たふと)き 天地(あめつち) 日月(ひつき)とともに 足(た)り行(ゆ)かむ 神の御面(みおも)と 継ぎ来(きた)る 那珂(なか)の港ゆ 船浮(う)けて 我(わ)が漕(こ)ぎ来(く)れば 時つ風 雲居(くもゐ)に吹くに 沖見れば とゐ波立ち 辺(へ)見れば 白波騒く 鯨魚(いさな)取り 海を畏(かしこ)み 行く船の 梶引き折(を)りて をちこちの 島は多(おほ)けど 名ぐはし 狭岑(さみね)の島の 荒磯(ありそ)面(も)に 廬(いほ)りて見れば 波の音(おと)の 繁(しげ)き浜辺を 敷栲(しきたへ)の 枕になして 荒床(あらとこ)に ころ臥(ふ)す君が 家(いへ)知らば 行きても告(つ)げむ 妻知らば 来(き)も問はましを 玉桙(たまほこ)の 道だに知らず おほほしく 待ちか恋ふらむ はしき妻らは

 

(訳)玉藻のうち靡(なび)く讃岐の国は、国柄が立派なせいかいくら見ても見飽きることがない。国つ神が畏(かしこ)いせいかまことに尊い。天地・日月とともに充ち足りてゆくであろうその神の御顔(みかお)であるとして、遠い時代から承(う)け継いで来たこの那珂(なか)の港から船を浮かべて我らが漕ぎ渡って来ると、突風が雲居はるかに吹きはじめたので、沖の方を見るとうねり波が立ち、岸の方を見ると白波がざわまいている。この海の恐ろしさに行く船の楫(かじ)が折れるなかりに漕いで、島はあちこちとたくさんあるけれども、中でもとくに名の霊妙な狭岑(さみね)の島に漕ぎつけて、その荒磯の上に仮小屋を作って見やると、波の音のとどろく浜辺なのにそんなところを枕にして、人気のない岩床にただ一人臥(ふ)している人がいる。この人の家がわかれば行って報(しら)せもしよう。妻が知ったら来て言問(ことど)いもしように。しかし、ここに来る道もわからず心晴れやらぬままぼんやりと待ち焦がれていることだろう、いとしい妻は。(伊藤 博 著 「万葉集 一」 角川ソフィア文庫より)

(注)たまもよし【玉藻よし】分類枕詞:美しい海藻の産地であることから地名「讚岐(さぬき)」にかかる。(weblio古語辞典 学研全訳古語辞典)

(注)ときつかぜ【時つ風】名詞:①潮が満ちて来るときなど、定まったときに吹く風。

②その季節や時季にふさわしい風。順風。 ※「つ」は「の」の意の上代の格助詞(同上)

(注)とゐなみ【とゐ波】名詞:うねり立つ波。

 

(注)ころふす【自伏す】:ひとりで横たわる。(weblio辞書 三省堂大辞林第三版)

(注)たまほこの【玉桙の・玉鉾の】分類枕詞:「道」「里」にかかる。かかる理由未詳。「たまぼこの」とも。

(注)おほほし 形容詞:①ぼんやりしている。おぼろげだ。②心が晴れない。うっとうしい。③聡明(そうめい)でない。※「おぼほし」「おぼぼし」とも。上代語。

 

 この歌並びに短歌についてはブログ拙稿「万葉歌碑を訪ねて(その320)で紹介している。

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■巻六 九五八

 標題は、「冬十一月大宰官人等奉拜香椎廟訖退歸之時馬駐于香椎浦各述作懐歌」<冬の十一月に、大宰(だざい)の官人等(たち)、香椎(かしい)の廟(みや)を拝(をろが)みまつること訖(をは)りて、退(まか)り帰る時に、馬を香椎の浦に駐(とど)めて、おのもおのも懐(おもひ)を述べて作る歌>である。九五七から九五九歌の歌群である。

 

時風 應吹成奴 香椎滷 潮干汭尓 玉藻苅而名

        (小野老 巻六 九五八)

 

≪書き下し≫時つ風吹くべくなりぬ香椎潟(かしひがた)潮干(しほひ)の浦に玉藻(たまも)刈りてな

 

(訳)海からの風が吹き出しそうな気配になってきた。香椎潟の潮の引いているこの入江で、今のうちに玉藻を刈ってしまいたい。(「万葉集 二」 伊藤 博 著 角川ソフィア文庫より))

 

 この歌ならびに他の二首についてはブログ拙稿「万葉歌碑を訪ねて(その873)」で紹介している。

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■巻七 一一五七

時風 吹麻久不知 阿胡乃海之 朝明之塩尓 玉藻苅奈

        (作者未詳 巻七 一一五七)

 

≪書き下し≫時つ風吹かまく知らず吾児(あご)の海の朝明(あさけ)の潮(しほ)に玉藻(たまも)刈りてな

 

(訳)潮時の風が吹いてくるかもしれない。さあ、今のうちに吾児の海の夜明けの干潟で玉藻を刈ろうではないか。(同上)

(注)まく :…だろうこと。…(し)ようとすること。 ※派生語。 ⇒語法 活用語の未然形に付く。 ⇒なりたち 推量の助動詞「む」の古い未然形「ま」+接尾語「く」(学研)

 

 話は少し脱線するが、以前、奈良市杏町辰市神社境内にある門部王の万葉歌碑を撮りに行った時に、辰市神社の前に時風神社があり、このような神社があるんだと思った記憶があった。調べて見ると、「時風神社」は「ときつかぜ」でなく「ときふう」と読むとのことである。この神社は、境内地の北向いに位置する「辰市神社」を創建した人物とされる中臣時風(なかとみのときふう)・中臣秀行(ひでつら)を祀っているそうである。(奈良まちあるき風景紀行HP)

 辰市神社の万葉歌碑については、ブログ拙稿「万葉歌碑を訪ねて(その23改)」で紹介している。(初期のブログであるのでタイトル写真には朝食の写真が掲載されていますが、「改」では、朝食の写真ならびに関連記事を削除し、一部改訂いたしております。ご容赦下さい。)

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和歌山市加太城ケ崎➡大阪府岬町深日漁港

 

 時間に多少ゆとりができたので、もう一箇所と、帰り道がてら寄れるところを探し深日漁港北の万葉歌碑を目指す。

 途中、道の駅とっとパーク小島で休憩。ここは岬町海釣り公園が目の前にある。終日にも関わらず多くの人が釣り糸を垂れていた。

 歌碑は深日漁港の北、岬中学校の下、海岸沿いにあった。

 

 

 

(参考文献)

★「萬葉集」 鶴 久・森山 隆 編 (桜楓社)

★「万葉集 一」 伊藤 博 著 (角川ソフィア文庫)

★「万葉集 二」 伊藤 博 著 (角川ソフィア文庫)

★「万葉集 三」 伊藤 博 著 (角川ソフィア文庫)

★「weblio古語辞典 学研全訳古語辞典」

★「奈良まちあるき風景紀行HP」