万葉集の歌碑めぐり

万葉歌碑をめぐり、歌の背景等を可能な限り時間的空間的に探索し、万葉集の万葉集たる所以に迫っていきたい!

万葉歌碑を訪ねて(その1001,1002,1003)―名古屋市千種区東山元町 東山植物園(20,21,22)―万葉集 巻二十 四一四〇、巻十九 四二〇四、巻十九 四二九一

―その1001―

●歌は、「我が園の李の花か庭に散るはだれのいまだ残りてあるかも」である。

 

 

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名古屋市千種区東山元町 東山植物園(20)万葉歌碑(プレート)<大伴家持

 

●歌碑(プレート)は、名古屋市千種区東山元町 東山植物園(20)にある。

 

●歌をみていこう。

 

◆吾園之 李花可 庭尓落 波太礼能未 遣在可母

              (大伴家持 巻二十 四一四〇)

 

≪書き下し≫我(わ)が園の李(すもも)の花か庭に散るはだれのいまだ残りてあるかも

 

(訳)我が園の李(すもも)の花なのであろうか、庭に散り敷いているのは。それとも、はだれのはらはら雪が残っているのであろうか。(伊藤 博 著 「万葉集 四」 角川ソフィア文庫より)

(注)はだれ【斑】名詞:「斑雪(はだれゆき)」の略。(weblio古語辞典 学研全訳古語辞典)

 

題詞は「天平勝宝(てんぴやうしようほう)二年の三月の一日の暮(ゆふへ)に、春苑(しゆんゑん)の桃李(たうり)の花を眺矚(なが)めて作る歌二首」」である。

 

もう一首の四一三九歌は、巻十九の巻頭歌「春の園(その)紅(くれなゐ)にほふ桃の花下照(したで)る道(みち)に出で立つ娘子(おとめ)」である。

 三月一日から三月三日の三日間に、三一三九から三一五〇歌まで十二首を作っている。家持の「しなざかる鄙」越中での逆境であるが故に、中国文学や歌の勉強をした成果がプラスとなってこの一群の新境地の歌風を開花させたのである。

 この十二首については、ブログ拙稿「万葉歌碑を訪ねて(その819)」で紹介している。

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―その1002―

●歌は、「我が背子が捧げて持てるほほがしはあたかも似るか青き蓋」である。

 

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名古屋市千種区東山元町 東山植物園(21)万葉歌碑(プレート)<僧恵行>

●歌碑(プレート)は、名古屋市千種区東山元町 東山植物園(21)にある。

 

●歌をみていこう。

 

◆吾勢故我 捧而持流 保寶我之婆 安多可毛似加 青盖

               (講師僧恵行 巻十九 四二〇四)

 

≪書き下し≫我が背子(せこ)が捧(ささ)げて持てるほほがしはあたかも似るか青き蓋(きぬがさ)

 

(訳)あなたさまが、捧げて持っておいでのほおがしわ、このほおがしわは、まことにもってそっくりですね、青い蓋(きぬがさ)に。(同上)

(注)我が背子:ここでは大伴家持をさす。

(注)あたかも似るか:漢文訓読的表現。万葉集ではこの一例のみ。

(注)きぬがさ【衣笠・蓋】名詞:①絹で張った長い柄(え)の傘。貴人が外出の際、従者が背後からさしかざした。②仏像などの頭上につるす絹張りの傘。天蓋(てんがい)。(学研)

 

 題詞は、「見攀折保寳葉歌二首」<攀(よ)ぢ折(を)れる保宝葉(ほほがしは)を見る歌二首>である。

 

もう一首は、僧恵行「よいしょ」をそらして、家持は四二〇五歌「すめろきの遠御代御代(とほみよみよ)はい重(し)き折り酒(き)飲(の)みきといふぞこのほおがしは」(学研)」で「ほほがしは」を讃え、見事に切り返している。

 

 この二首については、ブログ拙稿「万葉歌碑を訪ねて(その546)」で紹介している。

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―その1003―

●歌は、「我がやどのいささ群竹 吹く風の音のかそけきこの夕へかも」である。

 

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名古屋市千種区東山元町 東山植物園(22)万葉歌碑<大伴家持

●歌碑は、名古屋市千種区東山元町 東山植物園(22)にある。

 

●歌をみていこう。

 

◆和我屋度能 伊佐左村竹 布久風能 於等能可蘇氣伎 許能由布敕可母

               (大伴家持 巻十九 四二九一)

 

≪書き下し≫我がやどのい笹(ささ)群竹(むらたけ) 吹く風の音のかそけきこの夕(ゆうへ)かも

 

(訳)我が家の庭の清らかな笹の群竹、その群竹に吹く風の、音の幽(かす)かなるこの夕暮れよ。(同上)

(注)いささ 接頭語:ほんの小さな。ほんの少しばかりの。「いささ群竹(むらたけ)」「いささ小川」(学研)

(注)かそけし【幽けし】形容詞:かすかだ。ほのかだ。▽程度・状況を表す語であるが、美的なものについて用いる。(学研)

(注)「布久風能 於等能可蘇氣伎」は、家持の気持ちをあらわしている。

(注)「許能」:その環境に浸っていることを示す。

 

四二九〇、四二九一、四二九二歌の三首が、「春愁三首」とか「春愁絶唱三首」と呼ばれている。

 これらの歌については、ブログ拙稿「万葉歌碑を訪ねて(その551)」で紹介している・

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題詞「天平勝宝(てんぴやうしようほう)二年の三月の一日の暮(ゆふへ)に、春苑(しゆんゑん)の桃李(たうり)の花を眺矚(なが)めて作る歌二首」」の四一三九歌は、巻十九の巻頭歌であり、春愁三歌の四二九二歌は巻末歌である。

巻頭二首、巻末三首を並べてみよう。

 

■巻頭二首

 ◆春の苑紅にほふ桃の花下照る道に出で立つをとめ(四一三九歌)

 ◆我が園の李の花か庭に散るはだれのいまだ残りてあるかも(四一四〇歌)

 

■巻末三首

 ◆春の野に霞たなびきうら悲しこの夕かげに鴬鳴くも(四二九〇歌)

◆我がやどのいささ群竹 吹く風の音のかそけきこの夕へかも(四二九一歌)

 ◆うらうらに照れる春日に雲雀あがり心悲しもひとりし思へば(四二九二歌)

 

 五首ともに春の歌である。

巻頭群と巻末群の心情的落差はあきらかである。

 巻末歌の左注は「春日(はるひ)遅々(ちち)に、して鶬鶊(さうかふ)正(ただ)に啼(な)く。悽惆(せいちう)の意、歌にあらずしては撥(はら)ひかたきのみ。仍(よ)りてこの歌を作り、もちて締緒(ていしょ)を展(の)ぶ。後略)<訳:今日という日は、春の日、うららかに、うぐいすは今も鳴いている。痛むわが心は、歌でないと紛らわし難いもの。そこでこの歌を作り、鬱屈(うっくつ)した気分を散じたのであった。>である。

(注)そうこう【倉庚・鶬鶊】:〘名〙 鳥「うぐいす(鶯)」の異名。日本では古くはヒバリをいったとされる。(コトバンク 精選版 日本国語大辞典

(注)左注の訳は、上野 誠氏の著「万葉集講義(中公新書)」を引用させていただきました。

 

家持をここまで落ち込ませた時代的背景には藤原仲麻呂の台頭がある。

時間軸でみてみると、

 巻十九の巻頭歌(四一三九歌)を歌ったのは、天平勝宝二年(750年)である。

 家持が越中から都に帰ったのは、天平勝宝三年(751年)のことである。

 巻十九の巻末歌(四二九二歌)を歌ったのは、天平勝宝五年(753年)である。

 

天平勝宝元年(749年)聖武天皇が譲位して孝謙天皇が即位すると藤原仲麻呂は、大納言となり,さらに皇権を掌握した叔母の光明皇太后のために新しく設置された紫微中台の長官紫微令をも兼任した。

孝謙天皇・その母光明皇太后藤原仲麻呂ラインが出来上がったのである。それに対抗するのが聖武太上天皇左大臣橘諸兄ラインであった。

光明皇太后藤原不比等の娘であり、孝謙天皇ならびに仲麻呂不比等の孫にあたる。

 

 しなざかる鄙、越中からようやく都に戻ることができたのであるが、藤原仲麻呂の台頭著しく、じわじわと家持は追い詰められていることを肌に感じ、「鬱屈(うっくつ)した気分」になっていったと考えられるのである。

 

 

 

(参考文献)

★「萬葉集」 鶴 久・森山 隆 編 (桜楓社)

★「万葉集 四」 伊藤 博 著 (角川ソフィア文庫

★「万葉の人びと」 犬養 孝 著 (新潮文庫

★「大伴家持 波乱にみちた万葉歌人の生涯」 藤井一二 著 (中公新書

★「万葉集講義 最古の歌集の素顔」 上野 誠 著 (中公新書

★「weblio古語辞典 学研全訳古語辞典」

★「コトバンク 精選版 日本国語大辞典

 

万葉歌碑を訪ねて(その1000)―名古屋市千種区東山元町 東山植物園(19)―万葉集 巻十九 四一三九

 

このブログも1000回目を迎えることができました。

拙いブログですが、アクセスしていただいている皆様の温かいお心に支えられてここまでこられたものと感謝いたしております。

ありがとうございます。

 

●歌は、「春の園紅にほふ桃の花下照る道に出で立つ娘子」である。

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名古屋市千種区東山元町 東山植物園(19)万葉歌碑(プレート)<大伴家持


 

●歌碑(プレート)は、名古屋市千種区東山元町 東山植物園(19)にある。

 

●歌をみていこう。

 

◆春苑 紅尓保布 桃花 下照道尓 出立▼嬬

               (大伴家持  巻十九  四一三九)

         ※▼は、「女」+「感」、「『女』+『感』+嬬」=「をとめ」

 

≪書き下し≫春の園(その)紅(くれなゐ)にほふ桃の花下照(したで)る道に出で立つ娘子(をとめ)

 

(訳)春の園、園一面に紅く照り映えている桃の花、この花の樹の下まで照り輝く道に、つと出で立つ娘子(おとめ)よ。(伊藤 博 著 「万葉集 四」 角川ソフィア文庫より)

 

 この歌はの題詞は、「天平勝寳二年三月一日之暮眺曯春苑桃李花作二首」<天平(てんぴやう)勝宝(しようほう)二年の三月の一日の暮(ゆうへ)に、春苑(しゆんゑん)の桃李(たうり)の花を眺曯(なが)めて作る歌二首>である

 

 

 1000回目ということですので、ここまでの歩みを振り返ってみることに致します。

 

 スタートしたのは、平成三十一年三月五日である。以降、毎日ブログは書き続けてきました。

 

 <おわび>その1改、100改は、タイトル写真が、初期のブログのままになっており、朝食の写真となっておりますが、本文では削除し改訂しております。ご容赦下さい。

 

「その1改」は、二条大路南 奈良市庁舎前庭の歌碑で、歌は、「あをによし奈良の都にたなびける天の白雲見れど飽かぬかも(遣新羅使誦詠古歌)」である。

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「その100改」は、令和元年六月六日の、吉隠公民館広場の歌碑で、歌は、「振る雪は淡にな降りそ吉隠の猪養の岡の寒からまくに(穂積皇子)」である。

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「その200改」は、令和元年九月十八日の、京都府城陽市寺田 正道官衙遺跡公園の歌碑で、歌は、「いにしへに恋ふる鳥かも弓絃葉の御井の上より鳴き渡り行く(弓削皇子)」である。

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「その300」は、令和元年十二月十四日の、滋賀県東近江市糠塚町 万葉の森船岡山の歌碑で、歌は、「卯の花の咲き散る岡ゆほととぎす鳴きてさ渡る君は聞きつや(作者未詳)」である。

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「その400」は、令和二年二月二十七日の、滋賀県長浜市西浅井町菅浦須賀神社の歌碑で、歌は、「高島の安曇の港を漕ぎ過ぎて塩津菅浦今か漕ぐらむ(少弁)」である。

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「その500」は、令和二年五月二十六日の、奈良市法蓮佐保山 万葉の苑の歌碑(プレート)で、歌は、「岩代の浜松が枝を引き結びま幸くあらばまた返り見む(有間皇子)」である。

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「その600」は、令和二年七月十四日の、兵庫県西宮市西田町 西田公園万葉植物苑の歌碑(プレート)で、歌は、「磯の上のつままを見れば根を延へて年深くあらし神さびにけり(大伴家持)」である。

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「その700」は、令和二年八月三十日の、和歌山市岩橋 紀伊風土記の丘万葉植物園の歌碑(プレート)で、歌は、「すめろきの神の命の・・・み湯の上の木群を見れば臣の木も生ひ継ぎにけり・・・(山部赤人)」である。

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「その800」は、令和二年十一月十七日の、岡山県瀬戸内市牛窓 牛窓神社の歌碑で、歌は、「牛窓の波の潮騒島響み寄そりし君は逢はずかもあらむ(作者未詳)」である。

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「その900」は、福岡県太宰府市大佐野 太宰府メモリアルパークの歌碑で、歌は、「我が園に梅の花散るひさかたの天より雪の流れ来るかも(大伴旅人)」である。

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 万葉歌碑巡りするのあたって、事前に先達のブログなどを参考にさせていただきました。ここに改めて心からお礼申し上げます。

 グーグルのストリートビューを使い特定しておくと現地に赴いたときに、効率よく周れるのでこれはおすすめしたい。

 また現地でなかなかお目当ての歌碑が見つからない場合、市役所などに問い合わせると教えてもらえる。何回か有り難く思ったことか。

  

 植物園や公園で万葉植物を植え、ゆかりの歌碑やプレートを設置しているところも効率よく周れるうえにいろいろと勉強になるのでお勧めである。

これまでに周った植物園や公園、万葉関連施設は次の通りです。

 

■橿原万葉の森    奈良県橿原市南浦町308

 

奈良県立万葉文化館 奈良県高市郡明日香村飛鳥10

 

■正道官衙遺跡公園 京都府城陽市寺田正道

 

■万葉の森船岡山 滋賀県東近江市糠塚町

 

■万葉の小径 奈良市神功4丁目 

 

■万葉苑の径 奈良市法蓮佐保山4丁目 

 

■平磯緑地 神戸市垂水区平磯 

 

■西田公園万葉植物苑 西宮市西田町6

 

■稲美中央公園万葉の森 兵庫県加古川市稲美町

 

紀伊風土記の丘万葉植物園 和歌山市岩橋 

 

片男波公園・万葉の小路 和歌山市和歌浦

 

■千里南公園 大阪府吹田市津雲台

 

高岡市万葉歴史館 富山県高岡市伏木一宮

 

豊前国府跡公園万葉歌の森 福岡県京都郡みやこ町

 

勝山公園万葉の庭 北九州市小倉北区

 

太宰府歴史スポーツ公園 福岡県太宰府市吉松

 

太宰府メモリアルパーク 福岡県太宰府市大佐野 

 

■萬葉公園 愛知県一宮市萩原町戸苅

 

■萬葉公園高松分園 愛知県一宮市萩原町高松

 

東山植物園 愛知県名古屋市千種区東山元町

 

 

 植物園等では、万葉ゆかりの植物になると限られてくるので、歌碑やプレートに巡り逢えても、歌が重複してくる。できるだけ歌に関連した新しい話題になる事柄を書いているがこれも、自分の能力の無さからすぐに限界がみえてくる。

 コロナ禍で外出がままならないので、重複する歌が多くなってきていますが、機会を見てこれからも歌碑巡りを続け万葉集の世界に飛び込んでいきたいと考えております。

 これからもよろしくお願い申し上げます。

 

 

(参考文献)

★「萬葉集」 鶴 久・森山 隆 編 (桜楓社)

★「万葉集 四」 伊藤 博 著 (角川ソフィア文庫)           

万葉歌碑を訪ねて(その997、998、999)―名古屋市千種区東山元町 東山植物園(16,17,18)―万葉集 巻十六 三八二六、三八三〇、三八三四

―その997―

●歌は、「蓮葉はかくこそあるもの意吉麻呂が家にあるものは芋の葉にあらし」である。

 

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名古屋市千種区東山元町 東山植物園(16)万葉歌碑(プレート)<長忌寸意吉麻呂>

●歌碑(プレート)は、名古屋市千種区東山元町 東山植物園(16)にある。

 

●歌をみていこう。

 

題詞は、「詠荷葉歌」<荷葉(はちすば)を詠む歌>である。

 

蓮葉者 如是許曽有物 意吉麻呂之 家在物者 宇毛乃葉尓有之

              (長忌寸意吉麻呂 巻十六 三八二六)

 

≪書き下し≫蓮葉(はちすば)はかくこそあるもの意吉麻呂(おきまろ)が家にあるものは芋(うも)の葉にあらし

 

(訳)蓮(はす)の葉というものは、まあ何とこういう姿のものであったのか。してみると、意吉麻呂の家にあるものなんかは、どうやら里芋(いも)の葉っぱだな。(「万葉集 三」 伊藤 博 著 角川ソフィア文庫より)

(注)蓮葉:宴席の美女の譬え。

(注)宇毛乃葉:妻をおとしめて言った。芋(うも)に妹(いも)をかけた。

 

 美女を喩える言葉に「芙蓉(ふよう) の 顔(かんばせ)」という言葉があるが、「蓮の花のように清楚で美しい顔」という意味である。中国でも日本でも、今とは違い、芙蓉の花とは「蓮」の花のことであった。

 宴席にいた美女を蓮の葉に見立て、家に居る自分の妻を芋(うも)<妹(いも)を懸ける>の葉に見立てている。なかなかの言い回しである。

 

 万葉集には「蓮」を詠んだ歌は四首収録されている。この歌を含めこの四首については、ブログ拙稿「万葉歌碑を訪ねて(その973)」で紹介している。

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―その998―

●歌は、「玉掃刈り来鎌麻呂むろの木と棗が本とかき掃かむため」である。

 

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名古屋市千種区東山元町 東山植物園(17)万葉歌碑(プレート)<長忌寸意吉麻呂>

●歌碑(プレート)は、名古屋市千種区東山元町 東山植物園(17)にある。

 

●歌をみていこう。

 

◆玉掃 苅来鎌麻呂 室乃樹 與棗本 可吉将掃為

               (長意吉麿 巻十六 三八三〇)

 

≪書き下し≫玉掃(たまはばき) 刈(か)り来(こ)鎌麿(かままろ)むろの木と棗(なつめ)が本(もと)とかき掃(は)かむため

 

(訳)箒にする玉掃(たまばはき)を刈って来い、鎌麻呂よ。むろの木と棗の木の根本を掃除するために。(同上)

 

題詞は、「詠玉掃鎌天木香棗歌」<玉掃(たまばはき)、鎌(かま)、天木香(むろ)、棗(なつめ)を詠む歌>である。この互いに無関係の四つのものを、ある関連をつけて即座に歌うのが条件であった。

 

このような歌は、平安時代には、物名歌(ぶつめいか)と呼ばれるジャンルを形成していることになる。万葉の時代の歌は、そのはしりと見られている。

 

先のブログの三八二六歌ならびに三八三〇歌は、三八二四から三八三一歌の「長忌寸意吉麻呂が歌八首」にある。

 この八首については、ブログ拙稿「万葉歌碑を訪ねて(その380)」で紹介している。

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 長忌寸意吉麻呂の歌は万葉集には十四首収録されているが、十四首すべては、ブログ拙稿「万葉歌碑を訪ねて(その987)」で紹介している。

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 三八三〇歌の題詞、「詠玉掃鎌天木香棗歌」<玉掃(たまばはき)、鎌(かま)、天木香(むろ)、棗(なつめ)を詠む歌>にあやかって、「玉掃(たまばはき)」「天木香(むろ)」「棗(なつめ)」を詠んだ歌をみていこう。

 

 まず「玉掃(たまばはき)」からである。大伴家持の歌である。

 

◆始春乃 波都祢乃家布能 多麻婆波伎 手尓等流可良尓 由良久多麻能乎

                (大伴家持 巻二十 四四九三)

 

≪書き下し≫初春(はつはる)の初子(はつね)の今けふ)の玉箒(たまばはき)手に取るからに揺(ゆ)らく玉の緒

 

(訳)春先駆けての、この初春の初子の今日の玉箒、ああ手に取るやいなやゆらゆらと音をたてる、この玉の緒よ。(伊藤 博 著 「万葉集 四」 角川ソフィア文庫より)

(注)ゆらく【揺らく】自動詞:(玉や鈴が)揺れて触れ合って、音を立てる。 ※後に「ゆらぐ」とも。(学研) ※※「揺らく」は、動きと音の両方をいう。

 

 この歌については、ブログ拙稿「万葉歌碑を訪ねて(その649)」で紹介している。

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次は、「天木香(むろ)」である。

天平二年十二月大伴旅人が大納言に任ぜられ上京する時に亡き妻を偲んで詠った歌である。

 

◆吾妹子之 見師鞆浦之 天木香樹者 常世有跡 見之人曽奈吉

               (大伴旅人 巻三 四四六)

 

≪書き下し≫我妹子(わぎもこ)が見し鞆(とも)の浦のむろの木は常世(とこよ)にあれど見し人ぞなき

 

(訳)いとしいあの子が行きに目にした鞆の浦のむろの木は、今もそのまま変わらずにあるが、これを見た人はもはやここにはいない。(伊藤 博 著 「万葉集 一」 角川ソフィア文庫より)

(注)鞆の浦広島県福山市鞆町の海岸。

(注)むろのき【室の木・杜松】分類連語:木の名。杜松(ねず)の古い呼び名。海岸に多く生える。(weblio古語辞典 学研全訳古語辞典)

 

 この歌については、ブログ拙稿「万葉歌碑を訪ねて(その508)」で紹介している。

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 「棗(なつめ)」を詠った歌は万葉集では二首収録されている。もう一首は、三八三四歌である。

 

◆成棗 寸三二粟嗣 延田葛乃 後毛将相跡 葵花咲

               (作者未詳 巻十六 三八三四)

 

≪書き下し≫梨(なし)棗(なつめ)黍(きみ)に粟(あは)つぎ延(は)ふ葛(くず)の後(のち)も逢(あ)はむと葵(あふひ)花咲く

 

(訳)梨、棗、黍(きび)、それに粟(あわ)と次々に実っても、早々に離れた君と今は逢えないけれど、延び続ける葛のようにのちにでも逢うことができようと、葵(逢ふ日)の花が咲いている。(伊藤 博 著 「万葉集 三」 角川ソフィア文庫より)

(注)はふくずの「延(は)ふ葛(くず)の」枕詞:延びていく葛が今は別れていても先で逢うことがあるように、の意で「後も逢はむ」の枕詞になっている。

 

 この歌には、植物の名前にかけた言葉遊びが隠されている。「黍(きみ)」は「君(きみ)」に、「粟(あは)」は「逢(あ)ふ」に、そして「葵(あふひ)」には「逢(あ)ふ日(ひ)」の意味が込められている。このような言葉遊びは、後の時代に「掛詞(かけことば)」という和歌の技法として発展していくのである。

 

 この歌については、ブログ拙稿「万葉歌碑を訪ねて(その667)」他で紹介している。

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―その999―

 ●歌は、「梨棗黍に粟つぎ延ふ葛の後も逢はむと葵花咲く」である。

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名古屋市千種区東山元町 東山植物園(18)万葉歌碑(プレート)<作者未詳>



 

●歌碑(プレート)は、「名古屋市千種区東山元町 東山植物園(18)にある。

 

●この歌は、前稿998で、棗を詠んだもう一首として紹介したところであるのでここでは省略します。

 

 

 

(参考文献)

★「萬葉集」 鶴 久・森山 隆 編 (桜楓社)

★「万葉集 一」 伊藤 博 著 (角川ソフィア文庫

★「万葉集 三」 伊藤 博 著 (角川ソフィア文庫

★「万葉集 四」 伊藤 博 著 (角川ソフィア文庫

★「植物で見る万葉の世界」 國學院大學 萬葉の花の会 著 (同会 事務局)

★「weblio古語辞典 学研全訳古語辞典」

 

 

 

万葉歌碑を訪ねて(その996)―名古屋市千種区東山元町 東山植物園(15)―万葉集 巻十四 三五六七

●歌は、「置きて行かば妹ばま愛し持ちて行く梓の弓の弓束にもがも」である。

 

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名古屋市千種区東山元町 東山植物園(15)万葉歌碑(プレート)<作者未詳>

●歌碑(プレート)は、名古屋市千種区東山元町 東山植物園(15)にある。

 

●歌をみていこう。

 

 

◆於伎弖伊可婆 伊毛婆麻可奈之 母知弖由久 安都佐能由美乃 由都可尓母我毛

               (作者未詳 巻十四 三五六七)

 

≪書き下し≫置きて行(い)かば妹(いも)はま愛(かな)し持ちて行(ゆ)く梓(あづさ)の弓の弓束(ゆづか)にもがも

 

(訳)家に残して行ったら、お前さんのことはこの先かわいくってたまらないだろう。せめて握り締めて行く、この梓(あずさ)の弓の弓束であってくれたらな。(「万葉集 三」 伊藤 博 著 角川ソフィア文庫より

(注)まかなし【真愛し】形容詞:切ないほどいとしい。とてもいじらしい。 ※「ま」は接頭語。上代語。(学研)

(注)ゆつか【弓柄・弓束】名詞:矢を射るとき、左手で握る弓の中ほどより少し下の部分。また、そこに巻く皮や布など。「ゆづか」とも。(weblio古語辞典 学研全訳古語辞典)

(注)もがも 終助詞:《接続》体言、形容詞・断定の助動詞の連用形などに付く。〔願望〕…があったらなあ。…があればいいなあ。 ※上代語。終助詞「もが」に終助詞「も」が付いて一語化したもの。(学研)

 

巻十四の、三五六七~三五七一歌の五首の題詞は、「防人歌」<防人歌(さきもりうた)>である。

 三五六七、三五六八歌の左注は、「右二首問答」<右の二首は問答>である。

 

 三五六八歌をみてみよう。

 

◆於久礼為弖 古非波久流思母 安佐我里能 伎美我由美尓母 奈良麻思物能乎

             (作者未詳 巻十四 三五六八)

 

≪書き下し≫後(おく)れ居(ゐ)て恋(こ)ひば苦しも朝猟(あさがり)の君が弓にもならましものを

 

(訳)あとに残されていて恋い焦がれるのは苦しくてたまりません。毎朝猟にお出かけのあなたがお持ちの弓にでもなりたいものです。(同上)

(注)おくれゐる【後れ居る】自動詞:あとに残っている。取り残される。(学研)

[左注]右二首<問>答

 

 防人として出征していく夫と妻の問答歌である。防人は東国農庶民といわれているが、感じたことをそのまま歌にしたといえばそれまでであるが、なかなか洒落た言い回しである。歌垣等の民謡的な歌を踏まえて重ね合わせたのかもしれない。

 

三五六九~三五七一歌もみてみよう。

 

◆佐伎母理尓 多知之安佐氣乃 可奈刀▼尓 手婆奈礼乎思美 奈吉思兒良波母

              (作者未詳 巻十四 三五六九)

   ▼は、「亻+弖」である。「で」と読む。

 

≪書き下し≫防人(さきもり)に立ちし朝明(あさけ)のかな門出(とで)に手離(たばな)れ惜(を)しみ泣きし子らばも

 

(訳)防人に出で立った夜明けの門出の時に、この私から離れるのをせつながって泣いた子、あの子はああ。(同上)

(注)ばも:「はも」の訛り。

(注)かなとで【金門出】名詞:「かどで」に同じ。(学研)

 

 

◆安之能葉尓 由布宜里多知弖 可母我鳴乃 左牟伎由布敝思 奈乎波思努波牟

              (作者未詳 巻十四 三五七〇)

 

≪書き下し≫葦(あし)の葉に夕霧(ゆふぎり)立ちて鴨(かも)が音(ね)の寒き夕(ゆうへ)し汝(な)をば偲(しの)はむ

 

(訳)葦の葉群れ一面に夕霧が立ちこめ、鴨の鳴き声が寒々と聞こえてくる夕べ、そんな夕暮れ時には、あなたのことがひとしお偲ばれることであろう。(同上)

(注)葦は難波の風物。難波での心情を先取って詠っている。

 

 

◆於能豆麻乎 比登乃左刀尓於吉 於保々思久 見都々曽伎奴流 許能美知乃安比

              (作者未詳 巻十四 三五七一)

 

≪書き下し≫己妻(おのづま)を人の里に置きおほほしく見つつぞ来(き)ぬるこの道の間(あひだ)

 

(訳)この俺の妻なのに、その妻を、よその村里に置き去りにしたまま、欝々と見返り見返り俺はやって来た。この道中を、ずっと。(同上)

(注)つつ 接続助詞《接続》動詞および動詞型活用の助動詞の連用形に付く。:①〔反復〕何度も…ては。②〔継続〕…し続けて。(ずっと)…していて。③〔複数動作の並行〕…しながら。…する一方で。④〔複数主語の動作の並行〕みんなが…ながら。それぞれが…して。⑤〔逆接〕…ながらも。…にもかかわらず。⑥〔単純な接続〕…て。▽接続助詞「て」と同じ用法。⑦〔動作の継続を詠嘆的に表す〕しきりに…していることよ。▽和歌の末尾に用いられ、「つつ止め」といわれる。 ⇒語の歴史 「つつ」は現代語では、文語の中で用いられる。現代語の「つつ」は、「道を歩きつつ本を読む」のように、二つの動作の並行か、「今、読みつつある本」のように、動作の継続かの意味で用いられる。古語の用例も、ともすれば、この意味に解釈しやすい傾向がある。古語では①の意味で用いられることが多いが、これも二つの動作の並行の意味に誤解されることが多いので注意する必要がある。この動作の反復の意は現代語の接続助詞ではとらえられず、その意に当たる副詞的な語を補うか、「つつ」の上の動詞を繰り返すかなどすると、その意味がとらえやすい。(学研)

 

 万葉集の歌の鑑賞や批評の言葉を書くのは江戸時代以降で、平安や中世では万葉集の「古語」や「難語」の説明に注力していたようである。

 小川靖彦氏は、その著「万葉集と日本人 読み継がれる千二百年の歴史」(角川選書)に、「鎌倉時代の仙覚(せんがく)の『万葉集注釈(まんようしゆうちゅうしやく)』も、本文校訂、読み下し、難語の解釈、歌の意味を詳細に記すストイックな注釈書ですが、例外的に一箇所だけ、鑑賞・批評の言葉を書き記したところがあります。(中略)<上記の三五七〇歌と訳が書かれているが、省略させていただきます。>この防人歌(さきもりうた)について、『この歌のことばづかひ、心(こころ)ばせ、やさしき歌なり(この歌のことばづかいや、心のあり方は、おだやかで優美な歌である)』と述べています。(中略)仙覚は・・・秀歌を新たに発見した喜びに、思わず観賞・批評のことばを書きつけたのでしょう。(後略)」と書いておられる。

 

 「東歌」のイメージとかけ離れた歌であることはまちがいない。

 この防人歌五首ともに人の心根に軸足をおいた歌である。

 

 巻十四の「東歌」には、防人歌としてこの五首しか収録されていない。

巻二十の題詞「天平勝宝七歳乙未(きのとひつじ)の二月に、相替(あふかは)りて筑紫(つくし)に遣(つか)はさゆる諸国の防人等(さきもりら)が歌」他にも防人歌は収録されている。

防人は東国出身者であるので巻十四は、「東歌」のなかの「防人歌」として編纂され、巻二十の場合は、諸国の防人部領使(さきもりのことりづかひ)の手を経て大伴家持に渡ったというルートの違いだけであるのかは知る由もないが、防人歌の歌としての万葉集にある位置づけは、ある意味「歌物語」としては必然性を有しているといえるであろう。

 

 

 

(参考文献)

★「萬葉集」 鶴 久・森山 隆 編 (桜楓社)

★「万葉集 三」 伊藤 博 著 (角川ソフィア文庫

★「万葉集と日本人 読み継がれる千二百年の歴史」 小川靖彦 著 (角川選書

★「weblio古語辞典 学研全訳古語辞典」

 

万葉歌碑を訪ねて(その995)―名古屋市千種区東山元町 東山植物園(14)―万葉集 巻十三 三二三八

●歌は、「逢坂をうち出でてみれば近江の海白木綿花に波立ちわたる」である。

 

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名古屋市千種区東山元町 東山植物園(14)万葉歌碑(プレート)<作者未詳>

●歌碑(プレート)は、名古屋市千種区東山元町 東山植物園(14)にある。

 

●歌をみていこう。

 

◆相坂乎 打出而見者 淡海之海 白木綿花尓 浪立渡

               (作者未詳 巻十三 三二三八)

 

≪書き下し≫逢坂(あふさか)をうち出(い)でて見れば近江の海白木綿花(しらゆふばな)に波立ちわたる。

 

(訳)逢坂の峠をうち出て見ると、おお、近江の海、その海には、白木綿花のように波がしきりに立ちわたっている。(「万葉集 三」 伊藤 博 著 角川ソフィア文庫より)

(注)白木綿花(読み)しらゆうばな:白木綿を花に見立てた言い方。波や水の白さのたとえとして用いられる。(コトバンク デジタル大辞泉

(注の注)ゆふ【木綿】名詞:こうぞの樹皮をはぎ、その繊維を蒸して水にさらし、細く裂いて糸状にしたもの。神事で、幣帛(へいはく)としてさかきの木などに掛ける。(weblio古語辞典 学研全訳古語辞典)

 

「木綿(ゆふ)」を詠んだ歌、題詞「十市皇女薨時高市皇子尊御作歌三首」<十市皇女(といちのひめみこ)の薨(こう)ぜし時に、高市皇子尊(たけちのみこのみこと)の作らす歌三首>のうちの一首(一五七歌)をみてみよう。

 

◆神山之 山邊真蘇木綿    短木綿 如此耳故尓 長等思伎

                 (高市皇子 巻二 一五七)

 

≪書き下し≫三輪山(みわやま)の山邊(やまべ)真蘇木綿(まそゆふ)短木綿(みじかゆふ)かくのみゆゑに長くと思ひき

 

(訳)三輪山の麓に祭る真っ白な麻木綿(あさゆふ)、その短い木綿、こんなに短いちぎりであったのに、私は末長くとばかり思い頼んでいたことだった。(伊藤 博著「万葉集 一」角川ソフィア文庫より)

(注)真蘇木綿(まそゆふ):麻を原料とした木綿 (ゆう)(コトバンク デジタル大辞泉

 

 この歌については、ブログ拙稿「万葉歌碑を訪ねて(その68改)」で紹介している。(初期ブログであるのでタイトル写真は朝食の写真のままであるが、本分は改訂し朝食関連記事は削除しています。ご容赦下さい。)

 ➡ 

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 歌碑(プレート)の三二三八歌は、長歌(三二三六歌)あるいは、「或本の歌に日(い)はく」とある長歌(三二三七歌)の反歌である。

 

 三二三六歌ならびに三二三七歌をみてみよう。

 

◆空見津 倭國 青丹吉 常山越而 山代之 管木之原 血速舊 于遅乃渡 瀧屋之 阿後尼之原尾 千歳尓 闕事無 万歳尓 有通将得 山科之 石田之社之 須馬神尓 奴左取向而 吾者越徃 相坂山遠

              (作者未詳 巻十三 三二三六)

 

≪書き下し≫そらみつ 大和(やまと)の国 あをによし 奈良山(ならやま)越えて 山背(やましろ)の 管木(つつき)の原 ちはやぶる 宇治の渡り 滝(たき)つ屋の 阿後尼(あごね)の原を 千年(ちとせ)に 欠くることなく 万代(よろづよ)に あり通(かよ)はむと 山科(やましな)の 石田(いはた)の杜(もり)の すめ神(かみ)に 幣(ぬさ)取り向けて 我(わ)れは越え行く 逢坂山(あふさかやま)を

 

(訳)そらみつ大和の国、その大和の奈良山を越えて、山背の管木(つつき)の原、宇治の渡し場、岡屋(おかのや)の阿後尼(あごね)の原と続く道を、千年ののちまでも一日とて欠けることなく、万年にわたって通い続けたいと、山科の石田の杜の神に幣帛(ぬさ)を手向けては、私は越えて行く。逢坂山を。(伊藤 博 著 「万葉集 三」 角川ソフィア文庫より)

(注)そらみつ:[枕]「大和(やまと)」にかかる。語義・かかり方未詳。(コトバンク デジタル大辞泉

(注)奈良山:奈良県北部、奈良盆地の北方、奈良市京都府木津川(きづがわ)市との境界を東西に走る低山性丘陵。平城山、那羅山などとも書き、『万葉集』など古歌によく詠まれている。古墳も多い。現在、東半の奈良市街地北側の丘陵を佐保丘陵、西半の平城(へいじょう)京跡北側の丘陵を佐紀丘陵とよぶ。古代、京都との間に東の奈良坂越え、西の歌姫越えがあり、いまは国道24号、関西本線近畿日本鉄道京都線などが通じる。奈良ドリームランド(1961年開園、2006年閉園)建設後は宅地開発が進み、都市基盤整備公団(現、都市再生機構)によって平城・相楽ニュータウンが造成された。(コトバンク 小学館 日本大百科全書<ニッポニカ>)

(注)管木之原(つつきのはら):今の京都府綴喜郡同志社大学田辺キャンパスがある。

(注)岡谷:宇治市宇治川東岸の地名

(注)石田の杜:「京都市伏見区石田森西町に鎮座する天穂日命神社(あめのほひのみことじんじゃ・旧田中神社・石田神社)の森で,和歌の名所として『万葉集』などにその名がみられます。(中略)現在は“いしだ”と言われるこの地域ですが,古代は“いわた”と呼ばれ,大和と近江を結ぶ街道が通り,道中旅の無事を祈って神前にお供え物を奉納する場所でした。」(レファレンス協同データベース)

(注)あふさかやま【逢坂山】:大津市京都市との境にある山。標高325メートル。古来、交通の要地。下を東海道本線のトンネルが通る。関山。(コトバンク 小学館デジタル大辞泉

(注)すめ神:その土地を支配する神

 

 この歌については、ブログ拙稿「万葉歌碑を訪ねて(その231改)で紹介している。

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歌碑の三二三六歌には、地名が「倭」、「常山」、「山代」、「管木之原」、「于遅」、「瀧屋(岡屋?)」、「阿後尼之原」、「山科」、「石田」、「相坂山」と十か所も歌われている。それだけに、「千歳尓 闕事無 万歳尓 有通将得」と固く心に秘め、力強く「吾者越徃」様が生き生きと伝わってくるのである。

 

 

 題詞「或本歌曰」<或本の歌に曰(い)はく>の三二三七歌をみてみよう。

 

◆緑丹吉 平山過而 物部之 氏川渡 未通女等尓 相坂山丹 手向草 絲取置而 我妹子尓 相海之海之 奥浪 来因濱邊乎 久礼ゝゝ登 獨曽我来 妹之目乎欲

              (作者未詳 巻十三 三二三七)

 

≪書き下し≫あをによし 奈良山過ぎて もののふ宇治川(うぢがは)渡り 娘子(をとめ)らに 逢坂山に 手向(たむ)けくさ 幣(ぬさ)取り置きて 我妹子(わぎもこ)に 近江(あふみ)の海(うみ)の 沖つ波 来寄(きよ)る浜辺(はまへ)を くれくれと ひとりぞ我(あ)が来(く)る 妹(いも)が目を欲(ほ)り

 

(訳)あおによし奈良山、その山を通り過ぎて、もののふ宇治川を渡り、おとめに逢うという坂山に手向けの物を供えて無事を祈り、我がいとしい子に逢うという江の海の、沖つ波が打ち寄せる浜辺を、とぼとぼと私はやって来る。家に残したあの子に逢いたいと思いながら。(同上)

(注)もののふの【武士の】分類枕詞:「もののふ」の「氏(うぢ)」の数が多いところから「八十(やそ)」「五十(い)」にかかり、それと同音を含む「矢」「岩(石)瀬」などにかかる。また、「氏(うぢ)」「宇治(うぢ)」にもかかる。(学研)

(注)をとめらに【少女らに】分類枕詞:「少女(をとめ)」に会う意から「相坂(あふさか)」「ゆきあひ」にかかる。(学研)

(注)たむけぐさ【手向け草】名詞:神仏に供える物。布・糸・木綿(ゆう)・紙など。(学研)

(注)わぎもこに【吾妹子に】分類枕詞:吾妹子(わぎもこ)に「逢(あ)ふ」の意から、「あふ」と同音を含む「楝(あふち)の花」「逢坂山(あふさかやま)」「淡海(あふみ)」「淡路(あはぢ)」などにかかる。(学研)

(注)くれくれ(と)【暗れ暗れ(と)】副詞:①悲しみに沈んで。心がめいって。②(道中)苦労しながら。はるばる。 ※後には「くれぐれ(と)」。(学研)

(注)めをほる【目を欲る】分類連語:見たい。会いたい。(学研)

 

 平城山(ならやま)付近から逢坂山付近まで約50kmである。小生も大津や高島などに行く時にこのルートをよく使う。もちろん車であるが、万葉びとは、歩きかせいぜい馬であろう。いまでは逢坂山トンネルを抜けても琵琶湖は感動を呼ぶほどには見えないが、万葉歌碑を訪ねてあちこち巡っていると、峠を越えると急に海など視界に飛び込んでくることがある。その時の感動の何倍も万葉びとは味わって歌にしたのであろう。

 瞬間の感動美が「白木綿花に波立ちわたる」と口をついて出たのであろう。

 

 

 

(参考文献)

★「萬葉集」 鶴 久・森山 隆 編 (桜楓社)

★「万葉集 一」 伊藤 博 著 (角川ソフィア文庫

★「万葉集 三」 伊藤 博 著 (角川ソフィア文庫

★「weblio古語辞典 学研全訳古語辞典」

★「コトバンク 小学館デジタル大辞泉

★「コトバンク 小学館 日本大百科全書<ニッポニカ>」

★「レファレンス協同データベース」

 

万葉歌碑を訪ねて(その994)―名古屋市千種区東山元町 東山植物園(13)―万葉集 巻十 二二九六

●歌は、「あしひきの山さな葛もみつまで妹に逢はずや我が恋ひ居らむ」である。

 

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名古屋市千種区東山元町 東山植物園(13)万葉歌碑(プレート)<作者未詳>

●歌碑(プレート)は、名古屋市千種区東山元町 東山植物園(13)にある。

 

●歌をみていこう。

 

◆足引乃 山佐奈葛 黄變及 妹尓不相哉 吾戀将居

                                 (作者未詳 巻十 二二九六)

 

≪書き下し≫あしひきの山さな葛(かづら)もみつまで妹(いも)に逢はずや我(あ)が恋ひ居(を)らむ

 

(訳)この山のさな葛(かずら)の葉が色付くようになるまで、いとしいあの子に逢えないままに、私はずっと恋い焦がれていなければならないのであろうか。(「万葉集 二」 伊藤 博 著 角川ソフィア文庫より))

 

「さなかずら」の皮を剥いでぬるま湯に浸し、出て来る粘液を男性用の整髪料として使ったことから「美男葛(びなんかずら)」とも呼ばれていたようである。

 

 この歌は、巻十の部立「秋相聞」の題詞「寄黄葉」の三首のうちの一首である

 万葉集では「もみじ」というと「黄葉」で表記されるが、今は「紅葉」と書く。

 しかし、万葉集で唯一「紅葉」と書き記された歌がある。これをみてみよう。

 

◆妹許跡 馬▼置而 射駒山 撃越来者 紅葉散筒

                (作者未詳 巻十 二二〇一) 

      ▼は「木へんに安」である。

 

≪書き下し≫妹がりと馬に鞍置きて生駒山うち越え来れば黄葉(もみぢ)散りつつ 

 

(訳)いとしい子のもとへと、馬に鞍を置いて、生駒山を鞭打ち越えてくると、もみじがしきりと散っている。(伊藤 博 著「万葉集 二」 角川ソフィア文庫より)

(注)いもがり【妹許】名詞:愛する妻や女性のいる所。 ※「がり」は居所および居る方向を表す接尾語。(学研)

 

堀内民一氏は、その著「大和万葉―その歌の風土」(桜楓社)のなかで「万葉集の表記では、一字一音の「毛美知婆(もみちば)」のほかは、紅葉(一例)、赤葉(一例)、赤(二例)で、赤系統は計四例である。他は黄葉(七十六例)、黄変(三例)、黄色(二例)、黄反(一例)と、黄系統は計八十八例で数の上では圧倒的である。」と書いておられる。

 

 この歌ならびに「黄葉と紅葉」については、ブログ拙稿「万葉歌碑を訪ねて(その85)で紹介している。(初期のブログを改訂したので、タイトル写真は朝食の写真が載っていますが本文では削除してあります。ご了承下さい、)

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 藤原鎌足が鏡王女娉(つまど)ふ時にの贈答歌(九三、九四歌)の九四歌に「さなかづら」が詠まれているのでみてみよう。

 

題詞は、「内大臣藤原卿娉鏡王女時鏡王女贈内大臣歌一首」<内大臣藤原卿(うちのおほまへつきみふぢはらのまへつきみ)、鏡王女を娉(つまど)ふ時に、鏡王女が内大臣に贈る歌一首>である。

(注)つまどふ【妻問ふ】自動詞:「妻問(つまど)ひ」をする。(学研)

(注の注)つまどひ【妻問ひ】名詞:異性のもとを訪ねて言い寄ること。求婚すること。特に、男が女を訪ねる場合にいう。また、(恋人や妻である)女のもとに通うこと。(学研)

 

◆玉匣 覆乎安美 開而行者 君名者雖有 吾名之惜裳

               (鏡王女 巻二 九三)

 

≪書き下し≫玉櫛笥(たまくしげ)覆(おほ)ひを易(やす)み明けていなば君が名はあれど我(わ)が名し惜しも

 

(訳)玉櫛笥の覆いではないが、二人の仲を覆い隠すなんてわけないと、夜が明けきってから堂々とお帰りになっては、あなたの浮名が立つのはともかく、私の名が立つのが口惜しうございます。(「万葉集 一」 伊藤 博 著 角川ソフィア文庫より))

(注)たまくしげ【玉櫛笥・玉匣】名詞:櫛(くし)などの化粧道具を入れる美しい箱。 ※「たま」は接頭語。歌語。

(注)たまくしげ【玉櫛笥・玉匣】分類枕詞:くしげを開けることから「あく」に、くしげにはふたがあることから「二(ふた)」「二上山」「二見」に、ふたをして覆うことから「覆ふ」に、身があることから、「三諸(みもろ)・(みむろ)」「三室戸(みむろと)」に、箱であることから「箱」などにかかる。(学研)

 

 

題詞は、「内大臣藤原卿報贈鏡王女歌一首」<内大臣藤原卿、鏡王女に報(こた)へ贈る歌一首>である。

 

◆玉匣 将見圓山乃 狭名葛 佐不寐者遂尓 有勝麻之自  或本歌日玉匣三室戸山乃

               (藤原鎌足 巻二 九四)

 

≪書き下し≫玉櫛笥(たまくしげ)みもろの山のさな葛(かづら)さ寝(ね)ずはつひに有りかつましじ  或る本の歌には「たまくしげ三室戸山の」といふ

 

(訳)あんたはそんなにおっしゃるけれど、玉櫛の蓋(ふた)ならぬ実(み)という、みもろの山のさな葛(かずら)、そのさ寝ずは―共寝をしないでなんかいて―よろしいのですか、そんなことをしたらとても生きてはいられないでしょう。(同上)

(注)上三句は序。類音で「さ寝ずは」を起こす。

(注)かつましじ 分類連語:…えないだろう。…できそうにない。 ※上代語。 ⇒ なりたち 可能の補助動詞「かつ」の終止形+打消推量の助動詞「ましじ」(学研)

             

  この九三、九四歌を含む九一~九五歌の五歌は、同じ時のものではないが、「天智天皇と鏡王女」、「鏡王女と藤原鎌足」、「藤原鎌足采女」として一つのロマンスの流れを万葉集の編纂者によってまとめあげられたものである。

 万葉集は、ある意味「歌物語」的要素が強いのである。

 

九一、九二歌については、ブログ拙稿「万葉歌碑を訪ねて(その109改)」で紹介している。

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九五歌については、ブログ拙稿「万葉歌碑を訪ねて(その112改)」で紹介している。

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さなかずら、さねかずらを詠んだ歌は、万葉集には十首収録されている。これらのすべては、ブログ拙稿「万葉歌碑を訪ねて(その731)」で紹介している。

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(参考文献)

★「萬葉集」 鶴 久・森山 隆 編 (桜楓社)

★「万葉集 一」 伊藤 博 著 (角川ソフィア文庫

★「万葉集 二」 伊藤 博 著 (角川ソフィア文庫

★「萬葉集相聞の世界」  伊藤 博 著 (塙書房

★「大和万葉―その歌の風土」 堀内民一 著 (桜楓社)

★「weblio古語辞典 学研全訳古語辞典」

万葉歌碑を訪ねて(その993)―名古屋市千種区東山元町 東山植物園(12)―万葉集 巻十一 二四八〇

●歌は、「道の辺のいちしの花のいちしろく人皆知りぬ我が恋妻は」である。

 

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名古屋市千種区東山元町 東山植物園(12)万葉歌碑(プレート)<作者未詳>

●歌碑(プレート)は、名古屋市千種区東山元町 東山植物園(12)にある。

 

●歌をみていこう。

 

◆路邊 壹師花 灼然 人皆知 我戀孋 <或本日 灼然 人知尓家里 継而之念者>

                (柿本人麻呂歌集 巻十一 二四八〇)

 

≪書き下し≫道の辺(へ)のいちしの花のいちしろく人皆知りぬ我(あ)が恋妻(こひづま)は 


 <或る本の歌には「いちしろく人知りにけり継ぎてし思へば」といふ>

 

(訳)道端のいちしの花ではないが、いちじるしく・・・はっきりと、世間の人がみんな知ってしまった。私の恋妻のことは。<いちじるしく世間の人が知ってしまったよ。絶えずあの子のことを思っているので>(伊藤 博 著 「万葉集 三」 角川ソフィア文庫より)

(注)上二句は序。同音で「いちしろく」を起こす。

(注)いちしろし【著し】形容詞:「いちしるし」に同じ。※上代語。(weblio古語辞典 学研全訳古語辞典)

(注の注)いちしるし【著し】形容詞:明白だ。はっきりしている。※参考古くは「いちしろし」。中世以降、シク活用となり、「いちじるし」と濁って用いられる。「いち」は接頭語。(同上)

 

この歌については、ブログ拙稿「万葉歌碑を訪ねて(その319)」で紹介している。

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 二四八〇歌の「いちしの花のいちしろく」のリズム感が心地良い。言葉の遊びと言ってしまえばそれまでであるが、自然とのかかわりの中で軽妙な歌を作り上げている。

 堅苦しく言えば、「上二句は序。同音で「いちしろく」を起こす。」となるのであるが、心地良いリズム感が万葉歌でありながら時代を先取りしているようにも思えてくる。

 次の歌をみてみよう。

 

◆春去 先三枝 幸命在 後相 莫戀吾妹

               (柿本朝臣人麿歌集 巻十  一八九五)

 

 ≪書き下し≫春さればまづさきくさの幸(さき)くあらば後(のち)にも逢はむな恋ひそ我妹(わぎも)

 

(訳)春になると、まっさきに咲くさいぐさの名のように、命さえさいわいであるならば、せめてのちにでも逢うことができよう。そんなに恋い焦がれないでおくれ、お前さん。(伊藤 博 著 「万葉集 二」 角川ソフィア文庫より)

 

(注)上二句「春去 先三枝」は、「春去 先」が「三枝」を起こし、「春去 先三枝」が、「幸(さきく)」を起こす二重構造になっている。

(注)そ 終助詞:《接続》動詞および助動詞「る」「らる」「す」「さす」「しむ」の連用形に付く。ただし、カ変・サ変動詞には未然形に付く。:①〔穏やかな禁止〕(どうか)…してくれるな。しないでくれ。▽副詞「な」と呼応した「な…そ」の形で。②〔禁止〕…しないでくれ。▽中古末ごろから副詞「な」を伴わず、「…そ」の形で。(学研)

 

「まづさきくさの幸(さき)くあらば」もしかりである。

この歌については、ブログ拙稿「万葉歌碑を訪ねて(その494)」で紹介している。

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 次もみてみよう。

 

◆湖葦 交在草 知草 人皆知 吾裏念

                                    (作者未詳 巻十一 二四六八)

 

≪書き下し≫港葦(みなとあし)に交(まじ)れる草のしり草の人皆知りぬ我(あ)が下思(したも)ひは

 

(訳)河口の葦に交じっている草のしり草の名のように、人がみんな知りつくしてしまった。私のこのひそかな思いは。(伊藤 博 著 「万葉集三」 角川ソフィア文庫より)

(注)しりくさ【知り草・尻草】名詞:湿地に自生する三角藺(さんかくい)の別名。また、灯心草の別名ともいう(weblio古語辞典 学研全訳古語辞典)

※上三句が序で、「知り」をおこす。

 

 「しり草の人皆知りぬ」も同様である。

 この歌については、ブログ拙稿「万葉歌碑を訪ねて(その278)」で紹介している。

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もう一首あげてみよう。

 

◆阿之賀利乃 和乎可鶏夜麻能 可頭乃木能 和乎可豆佐祢母 可豆佐可受等母

                (作者未詳 巻十四 三四三二)

 

≪書き下し≫足柄(あしがり)のわを可鶏山(かけやま)のかづの木の我(わ)を誘(かづ)さねも門(かづ)さかずとも

 

(訳)足柄の、我(わ)れを心に懸けるという可鶏山(かけやま)のかずの木、あの木がその名のように、いっそ私を(かず)す・・・そう、かどわかしてくれたらいいのにな。門が開いていなくてもさ。(同上)

(注)「わを可鶏」に「わを懸け」を懸けている。

(注)かづの木:ぬるでの木か。男の譬え。この木から採れる白い樹液で器物を塗ることができるところから「ぬるで」と呼ばれた。

 

 ここまでくれば、おみごとというしかない。先に、時代を先取りしたという風に書いたが、この歌が巻十四であるので、東歌である。そうすると歌垣等の民謡性も考えあわせていくことも求められるのである。

 「信州信濃の新そばよりも、わたしゃそなたのそばがよい」という民謡が聞こえて来る。

 

 

 二四八〇歌や二四六八歌が収録されている万葉集巻十一は、目録によると、「古今相聞往来歌類の上」となっており、巻十二が「古今相聞往来歌類の下」となっている。

 

目録を抜き出してみると次のようになっている。

 

  【万葉集 第十一】

   古今相聞往来歌類の上

旋頭歌     十七首

正述心緒歌 百四十九首

寄物陳思歌 三百二首

問答歌    廿九首

譬喩歌    十三首

 

  【万葉集 第十二】

   古今相聞往来歌類の下

正述心緒歌  一百十首

寄物陳思歌 一百五十首

問答歌    三十六首

羇旅発思歌  五十三首

悲別歌    三十一首

 

 

 万葉集巻十一、十二における柿本人麻呂歌集の位置づけをみてみよう。

 

 

万葉集 第十一】

   

旋頭歌   二三五一~二三六二歌  右十二首柿本朝臣人麻呂之歌集出

      二三六三~二三六七歌  右五首古歌集中出

正述心緒  二三六八~二四一四歌

寄物陳思  二四一五~二五〇七歌

問答    二五〇八~二五一六歌  以前一百四十九首柿本朝臣人麻呂之歌集出

正述心緒  二五一七~二六一八歌

寄物陳思  二六一九~二八〇七歌

問答    二八〇八~二八二七歌

譬喩    二八二八~二八四〇歌

 

 巻十一は、「旋頭歌」にあっては、人麻呂歌集を収録し、次に古歌集を持ってきている。次いで「正述心緒」「寄物陳思」「問答」のグループを配し、先のグループ群に人麻呂歌集を収録している。

 

 

万葉集 第十二】

   

正述心緒  二八四一~二八五〇歌

寄物陳思  二八五一~二八六三歌  右廿三首柿本朝臣人麻呂之歌集出

正述心緒  二八六四~二九六三歌

寄物陳思  二九六四~三一〇〇歌

問答歌   三一〇一~三一二六歌

羇旅発思  三一二七~三一三〇歌  右四首柿本朝臣人麻呂之歌集出

      三一三一~三一七九歌

悲別歌   三一八〇~三二一〇歌

問答歌   三二一一~三二二〇歌

 

 巻十二も同様、「寄物陳思」「正述心緒」のグループのはじめに人麻呂歌集を配している。「羇旅発思」も先に人麻呂歌集を配しているのである。

 このように、万葉集にあって、柿本人麻呂歌集を核として他の歌集や資料を基に歌を編纂していることがわかるのである。

 

 柿本人麻呂歌集の万葉集における位置づけの重要性についてこれまでも紹介してきたが、まだまだほんの序ノ口にすぎない。紹介するたびに課題の重圧に屈してしまうのである。しかし挑戦はしていきたい。

 

 

 

(参考文献)

★「萬葉集」 鶴 久・森山 隆 編 (桜楓社)

★「万葉集 二」 伊藤 博 著 (角川ソフィア文庫

★「万葉集 三」 伊藤 博 著 (角川ソフィア文庫

★「萬葉相聞の世界」 伊藤 博 著 (塙書房

★「万葉集をどう読むか―歌の『発見』と漢字世界」 神野志隆光 著 (東京大学出版会

★「植物で見る万葉の世界」 國學院大學 萬葉の花の会 著 (同会 事務局)

★「weblio古語辞典 学研全訳古語辞典」