万葉集の歌碑めぐり

万葉歌碑をめぐり、歌の背景等を可能な限り時間的空間的に探索し、万葉集の万葉集たる所以に迫っていきたい!

万葉歌碑を訪ねて(その1991)―岡山市南区西紅陽台 干拓記念碑の側―万葉集 巻六 九六七

●歌は、「大和道の吉備の児島を過ぎて行かば筑紫の児島思おえむかも」である。

岡山市南区西紅陽台「干拓記念碑」側の万葉歌碑(大伴旅人

●歌碑は、岡山市南区西紅陽台 干拓記念碑の側にある。

 

●歌をみていこう。

 

◆日本道乃 吉備乃兒嶋乎 過而行者 筑紫乃子嶋 所念香聞

      (大伴旅人 巻六 九六七)

 

≪書き下し≫大和道(やまとぢ)の吉備(きび)の児島(こしま)を過ぎに行かば筑紫(つくし)の児島(こしま)思ほえむかも

 

(訳)大和へ行く道筋の、吉備の児島を通り過ぎる時には、筑紫娘子(をとめ)の児島のことが思われて仕方がないだろうな。(同上)

(注)吉備の児島:岡山市南方の海上にあった島。(伊藤脚注)

 

 九六五・九六六歌(娘子)、九六七・九六八歌‘(大伴旅人)の歌群が、大伴旅人が大納言として上京する時の筑紫娘子(をとめ)の児島との別れの贈答歌である。

 

 九六五歌からみてみよう。

 

九六五ならびに九六六歌の題詞は、「冬十二月大宰帥大伴卿上京時娘子作歌二首」<冬の十二月に、大宰帥大伴卿、京(みやこ)に上(のぼ)る時に、娘子(をとめ)が作る歌二首>である。

 

◆凡有者 左毛右毛将為乎 恐跡 振痛袖乎 忍而有香聞

       (娘子 巻六 九六五)

 

≪書き下し≫おほならばかもかもせむを畏(かしこ)みと振りたき袖(そで)を忍(しの)びてあるかも

 

(訳)あなた様が並のお方であられたなら、別れを惜しんでああもこうも思いのままに致しましょうに、恐れ多くて、振りたい袖も振らにでこらえております。

(注)おほなり【凡なり】形容動詞:①いい加減だ。おろそかだ。②ひととおりだ。平凡だ。(weblio古語辞典 学研全訳古語辞典)

(注)かもかも>かもかくも 副詞:ああもこうも。どのようにも。とにもかくにも。(学研)

(注)振りたき袖を忍びてある:振りたい袖なのにこらえている。(伊藤脚注)

 

 

◆倭道者 雲隠有 雖然 余振袖乎 無礼登母布奈

        (娘子 巻六 九六六)

 

≪書き下し≫大和道(やまとぢ)は雲隠(くもがく)りたりしかれども我(わ)が振る袖をなめしと思(も)ふな

 

(訳)大和への道は雲の彼方にはるばる続いております。しかしあなたがその向こう遠くへ行ってしまわれるのにこらえきれずに振ってしまう袖、この私の振る舞いを、どうか無礼だとお思い下さいますな。(同上)

(注)しかれども:しかし遠くへ行ってしまわれる悲しみに堪えきれずに。(伊藤脚注)

(注)なめし 形容詞:無礼だ。無作法だ。(学研)

 

左注は、「右大宰帥大伴卿兼任大納言向京上道 此日馬駐水城顧望府家 于時送卿府吏之中有遊行女婦 其字曰兒嶋也 於是娘子傷此易別嘆彼難會 拭涕自吟振袖之歌」<右は、大宰帥大伴卿、大納言(だいなごん)を兼任し、京に向かひて道に上(のぼ)る。この日に、馬を水城(みづき)に駐(とど)めて、府家(ふか)を顧(かへり)み望(のぞ)む。時に、卿を送る府吏(ふり)の中に、遊行女婦(うかれめ)あり、その字(あざな)を児島(こしま)といふ。ここに、娘子(をとめ)、この別れの易(やす)きことを傷(いた)み、その会(あ)ひの難(かた)きことを嘆き、涕(なみた)を拭(のご)ひて自(みづか)ら袖を振る歌を吟(うた)ふ>である。

(注)水城:堤を築き水を湛えた砦。大宰府市水城にその一部が残る。(伊藤脚注)

(注)府家:大宰府庁。(伊藤脚注)

(注)ゆうこうじょふ〔イウカウヂヨフ〕【遊行女婦】:各地をめぐり歩き、歌舞音曲で宴席をにぎわした遊女。うかれめ。(weblio辞書 デジタル大辞泉) ここでは貴人に侍した教養のある遊女。(伊藤脚注)

 

 

九六七・九六八歌の題詞は、「大納言大伴卿が和(こた)ふる歌二首」である。

 

◆大夫跡 念在吾哉 水莖之 水城之上尓 泣将拭

       (大伴旅人 巻六 九六八)

 

≪書き下し≫ますらをと思へる我(わ)れや水茎(みづくき)の水城(みづき)の上(うへ)に涙(なみた)拭(のご)はむ

 

(訳)ますらおだと思っているこの私たるものが、別れに堪えかねて水城の上で涙を拭(ぬぐ)ったりしてよいものか。(同上)

(注)みづくきの【水茎の】分類枕詞:①同音の繰り返しから「水城(みづき)」にかかる。②「岡(をか)」にかかる。かかる理由は未詳。 ※参考 中古以後、「みづくき」を筆の意にとり、「水茎の跡」で筆跡の意としたところから、「跡」「流れ」「行方も知らず」などにかかる枕詞(まくらことば)のようにも用いられた。(学研)

 

 

九六五から九六八歌については、「吉備の児島」JR児島駅前の歌碑とともに、拙稿ブログ「万葉歌碑を訪ねて(その801)」でも紹介している。

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万葉集には「遊行女婦」の歌も数多く収録されている。遊行女婦あるいはそれと思われる娘子の歌については、拙稿ブログ「万葉歌碑を訪ねて(その1721)」で紹介している。

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 「ますらを」、「ますらをたけを」、「ますらをと思へる我」に関する歌については、拙稿ブログ「万葉歌碑を訪ねて(その1367)」で紹介している。

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■■11月11日岡山■■

倉敷市内ホテル→岡山市南区西紅陽台干拓記念碑→マービーふれあいセンター→自宅

 

倉敷市内ホテル→岡山市南区西紅陽台干拓記念碑■

 ホテルで岡山県の万葉歌碑を検索していると、今までノーチェックであった「万葉歌碑 岡山県の記念公園」がヒットした。

当初は、」倉敷市真備町のマービーふれあいセンターの歌碑を巡ってから帰宅する予定にしていたが、ここを巡って真備町に行くことに変更した。岡山県の旅行支援クーポンは、朝一で倉敷駅構内の売店で消化することにし、ホテルで朝食をすませて駅まで散歩。

 歌碑は、児島湾の干拓記念公園にある。干拓記念碑に並んで万葉歌碑が立てられている。

干拓記念碑

大伴旅人の歌と西行の歌が刻されている

児島湾開墾第一区の樋門群の説明案内板

 

 

 

(参考文献)

★「萬葉集」 鶴 久・森山 隆 編 (桜楓社)

★「万葉集 二」 伊藤 博 著 (角川ソフィア文庫

★「weblio古語辞典 学研全訳古語辞典」

★「weblio辞書 デジタル大辞泉

 

万葉歌碑を訪ねて(その1990)―山口県下関市吉母 毘沙ノ鼻―万葉集 巻六 一〇二四

●歌は、「長門なる沖つ借島奥まへて我が思ふ君は千年にもがも」である。

山口県下関市吉母 毘沙ノ鼻万葉歌碑(巨曾倍津島)



●歌碑は、山口県下関市吉母 毘沙ノ鼻にある。

 

●歌をみていこう。

 

一〇二四から一〇二七歌の題詞は、「秋八月廿日宴右大臣橘家歌四首」<秋の八月の二十日に、右大臣橘家にして宴(うたげ)する歌四首>である。

 

長門有 奥津借嶋 奥真經而 吾念君者 千歳尓母我毛

       (巨曾倍津島 巻六 一〇二四)

 

≪書き下し≫長門(ながと)なる沖(おき)つ借島(かりしま)奥(おく)まへて我(あ)が思(おも)ふ君は千年(ちとせ)にもがも

 

(訳)わが任国、長門にある沖の借島のように、心の奥深くに秘めて私が思っているあなた様は、千年ものよわいを重ねていただきたいものです。(「万葉集 二」 伊藤 博 著 角川ソフィア文庫より)

(注)上二句は序。「奥まへて」を起す。(伊藤脚注)

(注)沖つ借島:下関市の蓋井(ふたおい)島か。(伊藤脚注)

 

左注は、「右一首長門守巨曽倍對馬朝臣」<右の一首は長門守(ながとのかみ)巨曽倍對馬朝臣(こそべのつしまのあそみ)>である。

歌碑と副碑

本州最西端毘沙ノ鼻と万葉歌碑



一〇二五から一〇二七歌もみてみよう。

 

◆奥真経而 吾乎念流 吾背子者 千年五百歳 有巨勢奴香聞

      (橘諸兄 巻六 一〇二五)

 

≪書き下し≫奥(おく)まへて我(わ)れを思へる我(わ)が背子(せこ)は千年(ちとせ)五百年(いほとせ)ありこせぬかも

 

(訳)心の奥深くに秘めて私を思っていて下さるあなたこそ、五百年も千年も生きていて欲しいものです。(同上)

(注)奥まへて:心の奥に深く秘めて。(伊藤脚注)

(注)こせぬかも 分類連語:…してくれないかなあ。 ※動詞の連用形に付いて、詠嘆的にあつらえ望む意を表す。 ⇒ なりたち 助動詞「こす」の未然形+打消の助動詞「ず」の連体形+疑問の係助詞「か」+詠嘆の終助詞「も」(学研)

 

 一〇二五歌については、拙稿ブログ「万葉歌碑を訪ねて(その1005)」で紹介している。

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◆百礒城乃 大宮人者 今日毛鴨 暇无跡 里尓不出将有

       (豊島采女 巻六 一〇二六)

 

≪書き下し≫ももしきの大宮人(おほみやびと)は今日(けふ)もかも暇(いとま)をなみと里に行(ゆ)かずあらむ

 

(訳)ももしきの大宮人は、今日もまた、宮仕えのために暇(いとま)がないからとて、田庄(いなか)に行くこともなくあれこれ務めに追われているのであろうか。(同上)

(注)里:田舎。貴族たちの生産の場。田庄。(伊藤脚注)

 

左注は、「右一首右大臣傳云 故豊嶋采女歌」<右の一首は、右大臣伝へて「故豊島采女(うねめ)が歌」といふ。

(注)豊島采女:武蔵の国豊島出身の采女。歌は宴席で口吟した古歌で、采女の自作ではなかろう。(伊藤脚注)

 

 

◆橘 本尓道履 八衢尓 物乎曽念 人尓不所知

       (三方沙弥 巻六 一〇二七)

 

≪書き下し≫橘(たちばな)の本(もと)に道踏(ふ)む八衢(やちまた)に物をぞ思ふ人に知らえず

 

(訳)橘の並木の根元を踏んで歩み行く道の、その多くの岐(わか)れ道さながらに、あれやこれやと私は物思いに悩んでいる。この思いをあの人に知ってもらえずに。(同上)

(注)上二句は序。「八衢に」を起す。(伊藤脚注)

(注)やちまた【八衢・八岐】名詞:道が幾つにも分かれている所。(学研)

(注の注)八衢に:あれやこれやと、の意(伊藤脚注)

 

 左注は、「右一首右大辨高橋安麻呂卿語云 故豊嶋采女作也 但或本云三方沙弥戀妻苑臣作歌也 然則豊嶋采女當時所口吟此歌歟」<右の一首は、右大弁(うだいべん)高橋安麻呂卿(たかはしのやすまろのまへつきみ)語りて「故豊島采女が作なり」といふ。ただし、或本には三方沙弥、妻園臣(そののおみ)に恋ひて作る歌なり」といふ。しからばすなはち、豊島采女は当時(そのとき)当所(そのところ)にしてこの歌を口吟(うた)へるか>である。

(注)「或本には三方沙弥、妻園臣に恋ひて作る歌なり」とあるのは、巻二 一二五歌(橘之 蔭履路乃 八衢尓 物乎曽念 妹尓不相而<橘(たちばな)の本(もと)に道踏(ふ)む八衢(やちまた)に物をぞ思ふ人に知らえず>)をさす。

 

 

 一二五歌ならびに一〇二七歌については、拙稿ブログ「万葉歌碑を訪ねて(その198)」で紹介している。

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■神田小学校(廃校)→毘沙の鼻→倉敷市内ホテル■

 神田小学校の歌碑を巡ってから、旅行支援クーポンを使っての買い物である。クーポンも交付された日と翌日に使ってしまわなければならないので結構プレッシャーになる。チェーン店のドラッグストアで消化する。

それから本州最西端の地である毘沙の鼻に向かう。

ウイークデイであるので、この地も独占状態。ゆっくりと歌碑をそして最西端の地を満喫したのである。

 

 下関観光コンベンション協会HP「下関観光ガイドブック」の「本州最西端の地・毘沙ノ鼻( びしゃのはな)」に「北緯34度6分38秒、東経130度51分37秒。本州最西端の地。展望広場は日本海に沈む夕日を眺める絶景スポットです。」と書かれている。

 ということは、この万葉歌碑も本州最西端の万葉歌碑ということである。

 

本州最西端の地 毘沙ノ鼻

 当初は、山口県から広島県にかけて万葉歌碑巡りを予定に入れていたのであったが、角島小学校・神田小学校・毘沙の鼻を今日に回したので、倉敷までの移動距離を考え、当初の予定は後日にするという大幅な変更を行ったのである。

 

 

 

 

(参考文献)

★「萬葉集」 鶴 久・森山 隆 編 (桜楓社)

★「万葉集 二」 伊藤 博 著 角川ソフィア文庫

★「weblio古語辞典 学研全訳古語辞典」

★「下関観光コンベンション協会HP」

万葉歌碑を訪ねて(その1989)―山口県下関市豊北町神田 神田小学校―万葉集 巻十七 三八九三

●歌は、「昨日こそ船出はせしか鯨取り比治奇の灘を今日見つるかも」である。

山口県下関市豊北町神田 神田小学校万葉歌碑(作者未詳)

●歌碑は、山口県下関市豊北町神田 神田小学校にある。

 

●歌をみていこう。

 

三八九〇~三八九九歌の題詞は、「天平二年庚午冬十一月大宰帥大伴卿被任大納言  兼帥如舊 上京之時傔従等別取海路入京 於是悲傷羇旅各陳所心作歌十首」<天平(てんぴやう)二年庚午(かのえうま)の冬の十一月に、大宰帥大伴卿(だざいのそちおほとものまへつきみ)、大納言に任(ま)けらえて、  帥を兼ねること旧のごとし 京に上(のぼ)る時に、傔従等(けんじゆら)、別に海路(かいろ)を取りて京に入る。ここに羇旅(きりよ)を悲傷(かな)しび、おのもおのも所心(おもひ)を陳(の)べて作る歌十首>である。

(注)十一月:大伴旅人の大納言遷任が発令された月。大宰府出発は十二月。(伊藤脚注)

(注)けんじゅう【傔従】:そば仕えの家来。近侍。(weblio辞書 デジタル大辞泉

(注)別に海路:旅人の一行とは別に。身分の高い人は陸路を、低い人は海路を取るのが当時の決まり。(伊藤脚注)

 

 

◆昨日許曽 敷奈▼婆勢之可 伊佐魚取 比治奇乃奈太乎 今日見都流香母

       (作者未詳 巻十七 三八九三)

 ▼は「人偏」+「弖」→ 「敷奈▼」は「ふなで」

 

≪書き下し≫昨日(きのふ)こそ船出(ふなで)はせしか鯨魚(おさな)取(と)り比治奇(ひぢき)の灘(なだ)を今日(けふ)見つるかも            

 

(訳)船出したのは、つい昨日のことだと思っていた。なのに、音に聞こえた比治奇(ひぢき)の灘(なだ)を、はやもう今日は、この目でしかと見た。(「万葉集 四」 伊藤 博 著 角川ソフィア文庫より)

(注)いさなとり【鯨取り】分類枕詞:いさな(=くじら)を捕る所の意から、「海」「浜」などにかかる。(weblio古語辞典 学研全訳古語辞典)

(注)比治奇の奈太:…山口県西岸と福岡県北東岸で限られ,西は福岡県宗像(むなかた)郡の大島付近を境に玄界灘に接する。《万葉集》巻十七にみえる〈比治奇(ひじき)の奈太(なだ)〉は響灘か。古来,瀬戸内海と北九州や大陸とを結ぶ交通上重要な海域で,沿岸には多くの考古遺跡がある。…(コトバンク 世界大百科事典)

 

 この歌は、響灘の難所を過ぎて都に近づく喜びを詠っている。

 

三八九〇~三八九九歌すべてをみてみよう。

 

■三八九〇歌

◆和我勢兒乎 安我松原欲 見度婆 安麻乎等女登母 多麻藻可流美由

       (三野連石守 巻十七 三八九〇)

 

≪書き下し≫我が背子(せこ)を我(あ)が松原よ見わたせば海人娘子(あまをとめ)ども玉藻(たまも)刈る見(み)ゆ

 

(訳)我が背子を私がしきりに待つというこの名のこの原から見わたすと、今しも海人娘子(あまをとめ)たちが玉藻を刈っている。(「万葉集 四」 伊藤 博 著 角川ソフィア文庫より)

(注)初句は序。「松原」を起す。(伊藤脚注)

 

左注は、「右一首三野連石守作」<右の一首は、三野連石守(みののむらじいそもり)作る>である。

 

 三八九〇歌は、巻十七の巻頭歌である。この歌については、拙稿ブログ「万葉歌碑を訪ねて(その1826)」で紹介している。

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■三八九一歌

◆荒津乃海 之保悲思保美知 時波安礼登 伊頭礼乃時加 吾孤悲射良牟

       (作者未詳 巻十七 三八九一)

 

≪書き下し≫荒津(あらつ)の海潮干(しほひ)潮満(しほみ)ち時はあれどいづれの時か我(あ)が恋ひざらむ

 

(訳)荒津の海、ここでは、引き潮、満ち潮それぞれに、時はちゃんと決まっているけれど、この私は、いつといって恋焦がれないでいられるであろうか。私の恋には決まった時がない。(同上)荒津の海:福岡市中央区西公園付近にあった港。大宰府の外港で官船が発着した。(伊藤脚注)

 

 別れがたくて荒津まで来てしまったという大宰府官人と遊行女婦の非別の歌が西公園の碑の裏に刻されている。拙稿ブログ「万葉歌碑を訪ねて(その928)」で紹介している。

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■三八九二歌

◆伊蘇其登尓 海夫乃釣船 波氐尓家里 我船波氐牟 伊蘇乃之良奈久

       (作者未詳 巻十七 三八九二)

 

≪書き下し≫礒(いそ)ごとに海人(あま)の釣舟(つりぶね)泊(は)てにけり我が船泊てむ礒の知らなく

 

(訳)磯という磯には、海人の釣舟、そう釣舟が泊まってしまっている。我らの船を泊められそうな磯はどこにすべきか見当もつかなくて・・・。(同上)

 

 

■三八九四歌

◆淡路嶋 刀和多流船乃 可治麻尓毛 吾波和須礼受 伊弊乎之曽於毛布

       (作者未詳 巻十七 三八九四)

 

≪書き下し≫淡路島(あはぢしま)門(と)渡る船の楫間(かぢま)にも我れは忘れず家をしぞ思ふ

 

(訳)淡路島の瀬戸を渡る船の、せわしく漕ぐ楫(かじ)のその間にも、私は絶え間なく家のことばかり思っている。(同上)

(注)淡路島(あはぢしま)門(と):淡路島の瀬戸。明石海峡。(伊藤脚注)

 

 

■三八九五歌

◆多麻波夜須 武庫能和多里尓 天傳 日能久礼由氣婆 家乎之曽於毛布

       (作者未詳 巻十七 三八九五)

 

≪書き下し≫たまはやす武庫(むこ)の渡りに天伝(あまづた)ふ日の暮れ行けば家をしぞ思ふ

 

(訳)難波(なにわ)を眼の前にする、心躍る武庫の渡し場で、あいにく日が暮れて行くものだから、ひとしお、家のことが思われてならない。(同上)

(注)たまはやす【玉囃す】分類枕詞:地名「武庫(むこ)」にかかる。語義・かかる理由未詳。(学研)

(注の注)魂を奮い立たせる意か。(伊藤脚注)

(注)あまづたふ【天伝ふ】分類枕詞:空を伝い行く太陽の意から、「日」「入り日」などにかかる。「あまづたふ日」(学研)

 

 

■三八九六歌

◆家尓底母 多由多敷命 浪乃宇倍尓 思之乎礼波 於久香之良受母<一云 宇伎氐之乎礼八>

 

≪書き下し≫家にてもたゆたふ命(いのち)波の上(うへ)に思ひし居れば奥か知らずも<一には「浮きてし居れば」といふ>

 

(訳)家に居てさえ定めのない命、そんな命なのに、揺れ動く波の上に思いをきたすと<浮き漂うていると>、この先どうなるやら果ても知られない。(同上)

(注)たゆたふ【揺蕩ふ・猶予ふ】自動詞:①定まる所なく揺れ動く。②ためらう。(学研)ここでは①の意

(注)おく【奥】名詞:①物の内部に深く入った所。②奥の間。③(書物・手紙などの)最後の部分。④「陸奥(みちのく)」の略。▽「道の奥」の意。⑤遠い将来。未来。行く末。⑥心の奥。(学研)ここでは⑤の意

 

 

■三八九七歌

◆大海乃 於久可母之良受 由久和礼乎 何時伎麻佐武等 問之兒良波母

       (作者未詳 巻十七 三八九七)

 

≪書き下し≫大海(おほうみ)の奥かも知らず行く我れをいつ来まさむと問ひし子らはも

 

(訳)この大海のように果ても知らず旅行く私、そんな私なのに、いつお帰りでしょうと尋ねたあの子、あの子はああ。(同上)

(注)大海(おほうみ)の:「奥か」の枕詞。大海の上を行く意もこもる。(伊藤脚注)

(注)はも 分類連語:…よ、ああ。▽文末に用いて、強い詠嘆の意を表す。 ※上代語。 ⇒なりたち:係助詞「は」+終助詞「も」(学研)

 

 

■三八九八歌

◆大船乃 宇倍尓之居婆 安麻久毛乃 多度伎毛思良受 歌乞和我世

       (作者未詳 巻十七 三八九八)

 

≪書き下し≫大船(おほぶね)の上にし居(を)れば天雲(あまくも)のたどきも知らず歌ひこそ我が背

 

(訳)大船の上で揺られていると、天(そら)を流れる雲のようによるべもない気持ちだ。船頭たちに景気づけの歌でも歌ってもらおうではありませんか、皆さん。(同上)

(注)あまくもの【天雲の】分類枕詞:

①雲が定めなく漂うところから、「たどきも知らず」「たゆたふ」などにかかる。②雲の奥がどこともわからない遠くであるところから、「奥処(おくか)も知らず」「はるか」などにかかる。③雲が離れ離れにちぎれるところから、「別れ(行く)」「外(よそ)」などにかかる。④雲が遠くに飛んで行くところから、「行く」にかかる。「あまぐもの」とも。(学研)ここでは①の意

(注)たどき【方便】名詞:「たづき」に同じ。 ※上代語。(学研)

(注の注)たづき【方便】名詞:①手段。手がかり。方法。②ようす。状態。見当。 ⇒参考:古くは「たどき」ともいった。中世には「たつき」と清音にもなった。(学研)

 

 

■三八九九歌

◆海未通女 伊射里多久火能 於煩保之久 都努乃松原 於母保由流可問

       (作者未詳 巻十七 三八九九)

 

≪書き下し≫海人娘子(あまをとめ)漁(いざ)り焚(た)く火のおぼほしく角(つの)の松原(まつばら)思ほゆるかも

 

(訳)海人娘子、その娘子たちの焚(た)く漁(いさ)り火がぼんやり霞(かす)んで見えるように、うすぼんやりと心もとなく、角の原、そう私を待つ人のことが思われてならない。(同上)

(注)上二句は序。「おぼほしく」を起す。(伊藤脚注)

(注)おほほし 形容詞:①ぼんやりしている。おぼろげだ。②心が晴れない。うっとうしい。③聡明(そうめい)でない。 ※「おぼほし」「おぼぼし」とも。上代語。(学研)

 

左注は、「右九首作者不審姓名」<右の九首の作者は、姓名を審(つばひ)らかにせず>である。

 

 

 

■角島小学校(廃校)→神田小学校(廃校)■

 角島大橋を満喫し神田小学校を訪れた。ここも廃校といったイメージは全くない。子供の声がしない、チャイムの音が聞こえないので廃校になっているのだと認識させられるのである。

 時の流れの寂しさを感じつつも管理が十分に行き届いていることになぜかホッとさせられる。

 1873年開校で2019年に廃校になっている。角島小学校と同じく歴史がある小学校であったのだ。

神田小学校正門

校庭

 

 

 

 

(参考文献)

★「萬葉集」 鶴 久・森山 隆 編 (桜楓社)

★「万葉集 四」 伊藤 博 著 (角川ソフィア文庫

★「weblio古語辞典 学研全訳古語辞典」

★「コトバンク 世界大百科事典」

 

万葉歌碑を訪ねて(その1988)―山口県下関市豊北町角島 角島小学校―万葉集 巻十六 三八七一

●歌は、「角島の瀬戸のわかめは人の共荒かりしかど我れとは和海藻」である。

山口県下関市豊北町角島 角島小学校万葉歌碑(作者未詳)

●歌碑は、山口県下関市豊北町角島 角島小学校にある。

 

●歌をみていこう。

 

◆角嶋之 迫門乃稚海藻者 人之共 荒有之可杼 吾共者和海藻

       (作者未詳 巻十六 三八七一)

 

≪書き下し≫角島(つのしま)の瀬戸のわかめは人の共(むた)荒かりしかど我(わ)れとは和海藻(にきめ)

 

(訳)角島の瀬戸で採れたわかめは、人中ではまるで荒藻(あらめ)だったけれど、俺とは和海藻(にきめ)なんだよな。(「万葉集 三」 伊藤 博 著 角川ソフィア文庫より)

(注)角島:筑前の北方。山口県西北岸の島。(伊藤脚注)

(注)わかめ:若い女の譬え。(伊藤脚注)

(注)むた【共・与】名詞:…と一緒に。…とともに。▽名詞または代名詞に格助詞「の」「が」の付いた語に接続し、全体を副詞的に用いる。(weblio古語辞典 学研全訳古語辞典)

(注)にきめ【和布・和海藻】名詞:柔らかな海藻。わかめの類。 ※「にき」は接頭語。中古以降は「にぎめ」。(学研)

 

 わかめに関しては、廣野 卓氏は、その著「食の万葉集―古代の食生活を科学する」(中公新書)の中で、「飛鳥・藤原・平城各時代に、臨海諸国から貢納された海藻は、ほとんど干ものか一夜干しであっただろう。そのなかでも、最も好まれたのがワカメである。徳島県鳴門や山口県日本海に浮かぶ角島のような潮流の速い瀬戸では良質のワカメがとれる。・・・万葉のころにも、鳴門や角島の迫門(瀬戸)など、潮流が速い磯のワカメが珍重されており、出土木簡から確認される。・・・ワカメの調理法は吸いものや酢のものが一般的だが、きざみワカメや粉ワカメが貢納されているので、マメなどと煮たり、飯や菜の浸しものに、ふりかけにしたことが想像される。」と書かれている。

歌碑説明案内板

校庭の東隅にある歌碑




 「わかめ」を詠んだ歌は、万葉集には二首が収録されている。

 もう一首もみてみよう。

 

◆比多我多能 伊蘇乃和可米乃 多知美太要 和乎可麻都那毛 伎曽毛己余必母

       (作者未詳 巻十四 三五六三)

 

≪書き下し≫比多潟(ひたがた)の礒(いそ)のわかめの立ち乱(みだ)え我(わ)をか待つなも昨夜(きそ)も今夜(こよひ)も

 

(訳)比多潟(ひたがた)の礒に入り乱れて茂り立つわかめのように、門に立ち身も心も千々に乱れて私を待っているのであろうか、あの子は。夕べに引き続き今夜も。(同上)

(注)上二句は序。「立ち乱え」を起こす。(伊藤脚注)

(注)立ち乱え:門に立って思い乱れながら。(伊藤脚注)

(注)なも 助動詞特殊型:《接続》動詞型活用語の終止形、ラ変型活用語には連体形に付く。 ※上代の東国方言。助動詞「らむ」に相当する。(学研)

 

 この歌については、拙稿ブログ「万葉歌碑を訪ねて(その1201)」で紹介している。

 ➡ 

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 波に揺れるワカメの様子から、なよなよとした心優しい女性を、また揺れる女心を譬えて詠った歌である。万葉びとの素晴らしい感性に頭が下がる思いである。

 

 

 

下関市内ホテル→角島小学校(廃校)■

 以前テレビのCMを見て、一度は渡ってみたいと思っていた角島大橋である。万葉歌碑巡りで廻ることになるとは思っても見なかった。

 角島にある今は廃校になった角島小学校の校庭に歌碑がたっているのである。次に行く予定の神田小学校も廃校になっており、念のために観光協会に確認を入れておいた。両校とも廃校になっていても校庭には入れるし歌碑はそのまま残っていますとの回答を得た。

 

 海人ヶ瀬(あまがせ)公園展望台から見た透き通った海の青さに心が奪われる。そして海に映える大橋。

 万葉歌碑巡りのおかげである。

 前後に車はいないので、大橋をゆっくり渡る。

海人ヶ瀬公園展望台から見た心奪われる海の青

角島、角島大橋、空の青

角島大橋




 角島小学校は廃校とは思えない。今にも子供たちのにぎやかな声が聞こえてくるようである。管理が行き届いており、校舎も現役そのものといった風情である。遊具などにロープが結び付けられていているので廃校を意識する位である。

角島小学校の校舎

 同校は、1874年開校で2020年3月にその幕を下ろしたそうである。

 

島側の瀬崎陽(せさきあかり)公園に「平城宮若海藻上進之地」の石碑がある。天平の時代に角島のワカメが平城宮に送られていた旨が書かれている。時間的空間的に一気に身近になった気持ちになった。

瀬崎陽(せさきあかり)公園「平城宮若海藻上進之地」の碑

下関観光コンベンション協会HPの「瀬崎陽の公園 (せさきあかりのこうえん)」には、「本州から角島に渡ってすぐ左手にある公園です。かつて島の岬にあった燈明台のあかり(陽)が、付近を航行する船の安全を守ったという伝説からこの名前が付けられました。角島大橋のたもとにあり、橋と海士ケ瀬を一望でき、島内屈指のビュースポットです。」と書かれている。

 同公園展望台からの大橋の姿も実に美しい。いつも歌碑にせかされている気分であったが、こんなにまで観光気分に浸れたのは久しぶりであった。

瀬崎陽公園展望台から見た角島大橋



 

 

 

(参考文献)

★「萬葉集」 鶴 久・森山 隆 編 (桜楓社)

★「万葉集 三」 伊藤 博 著 (角川ソフィア文庫

★「食の万葉集―古代の食生活を科学する」 廣野 卓 著 (中公新書

★「weblio古語辞典 学研全訳古語辞典」

★「下関観光コンベンション協会HP」

万葉歌碑を訪ねて(その1987)―島根県益田市喜阿弥町ふれあい広場―万葉集 巻二 一三一

●歌は、「石見の海角の浦みを人こそ見らめ潟なしと人こそ見らめよしゑやし・・・」である。

島根県益田市喜阿弥町ふれあい広場万葉歌碑(柿本人麻呂

●歌碑は、島根県益田市喜阿弥町ふれあい広場にある。

 

●歌をみていこう。

 

一三一から一三七歌の歌群の題詞は、「柿本朝臣人麻呂、石見の国より妻に別れて上(のぼ)り来る時の歌二首 幷せて短歌」である。

題詞「或る本の歌一首 幷せて短歌」の一三八、一三九歌の歌群を含め「石見相聞歌」と言われている。

 

◆石見乃海 角乃浦廻乎 浦無等 人社見良目 滷無等<一云 礒無登> 人社見良目 能咲八師 浦者無友 縦畫屋師 滷者 <一云 礒者> 無鞆 鯨魚取 海邊乎指而 和多豆乃 荒礒乃上尓 香青生 玉藻息津藻 朝羽振 風社依米 夕羽振流 浪社来縁 浪之共 彼縁此依 玉藻成 依宿之妹乎<一云 波之伎余思妹之手本乎> 露霜乃 置而之来者 此道乃 八十隈毎 萬段 顧為騰 弥遠尓 里者放奴 益高尓 山毛越来奴 夏草之 念思奈要而 志怒布良武 妹之門将見 靡此山

     (柿本人麻呂 巻二 一三一)

 

≪書き下し≫石見(いはみ)の海 角(つの)の浦(うら)みを 浦なしと 人こそ見(み)らめ潟(かた)なしと<一には「礒なしと」といふ> 人こそ見らめ よしゑやし 浦はなくとも よしゑやし 潟は<一に「礒は」といふ>なくとも 鯨魚(いさな)取(と)り 海辺(うみへ)を指して 和多津(にきたづ)の 荒礒(ありそ)の上(うへ)に か青(あを)く生(お)ふる 玉藻沖つ藻 朝羽(あさは)振(ふ)る 風こそ寄らめ 夕 (ゆふ)羽振る 波こそ来(き)寄れ 浪の共(むた) か寄りかく寄る 玉藻なす 寄り寝し妹を<一には「はしきよし妹が手本(たもと)を> 露霜(つゆしも)の 置きてし来(く)れば この道の 八十隈(やそくま)ごとに 万(よろづ)たび かへり見すれど いや遠(とほ)の 里は離(さか)りぬ いや高(たか)に 山も越え来ぬ 夏草(なつくさ)の 思ひ萎(しな)へて 偲(しの)ふらむ 妹(いも)が門(かど)見む 靡(なび)けこの山

 

(訳)石見の海、その角(つの)の浦辺(うらべ)を、よい浦がないと人は見もしよう。よい干潟がないと<よい磯がないと>人は見もしよう。が、たとえよい浦はないにしても、たとえよい干潟は<よい磯は>はないにしても、この角の海辺を目指しては、和田津(にきたづ)の荒磯のあたりに青々と生い茂る美しい沖の藻、その藻に、朝(あした)に立つ風が寄ろう、夕(ゆうべ)に揺れ立つ波が寄って来る。その寄せる風浪(かざなみ)のままに寄り伏し寄り伏しする美しい藻のように私に寄り添い寝たいとしい子であるのに、その大切な子を<そのいとしいあの子の手を>、冷え冷えとした露の置くようにはかなくも置き去りにして来たので、この行く道の曲がり角ごとに、いくたびもいくたびも振り返って見るけど、あの子の里はいよいよ遠ざかってしまった。いよいよ高く山も越えて来てしまった。強い日差しで萎(しぼ)んでしまう夏草のようにしょんぼりして私を偲(しの)んでいるであろう。そのいとしい子の門(かど)を見たい。邪魔だ、靡いてしまえ、この山よ。(伊藤 博 著 「万葉集 一」 角川ソフィア文庫より)

(注)角の浦:島根県江津市都野津町あたりか(伊藤脚注)

(注)うらみ【浦廻・浦回】名詞:入り江。海岸の曲がりくねって入り組んだ所。(学研)

(注)よしゑやし【縦しゑやし】分類連語:①ままよ。ええ、どうともなれ。②たとえ。よしんば。 ※上代語。 ⇒なりたち 副詞「よしゑ」+間投助詞「やし」(学研)ここでは②の意

(注)いさなとり【鯨魚取り・勇魚取り】( 枕詞 ):クジラを捕る所の意で「海」「浜」「灘(なだ)」にかかる。 (weblio辞書 三省堂大辞林第三版)

(注)和田津(にきたづ):所在未詳(伊藤脚注)

(注)ありそ【荒磯】名詞:岩石が多く、荒波の打ち寄せる海岸。 ※「あらいそ」の変化した語。(学研)

(注)はぶる【羽振る】自動詞:飛びかける。はばたく。飛び上がる。「はふる」とも。(学研)

(注)朝羽振る 風こそ寄らめ 夕羽振る 波こそ来寄れ:風波が鳥の翼のはばたくように玉藻に寄せるさま。(伊藤脚注)

(注)むた【共・与】名詞:…と一緒に。…とともに。▽名詞または代名詞に格助詞「の」「が」の付いた語に接続し、全体を副詞的に用いる。(学研)

(注)かよりかくよる【か寄りかく寄る】[連語]あっちへ寄り、こっちへ寄る。(コトバンク デジタル大辞泉

(注の注)か寄りかく寄る 玉藻なす 寄り寝し妹を:前奏を承け、「玉藻」を妻の映像に転換していく。(伊藤脚注)

(注)つゆしもの【露霜の】分類枕詞:①露や霜が消えやすいところから、「消(け)」「過ぐ」にかかる。②露や霜が置く意から、「置く」や、それと同音を含む語にかかる。③露や霜が秋の代表的な景物であるところから、「秋」にかかる。(学研)

(注)なつくさの【夏草の】分類枕詞:①夏草が日に照らされてしなえる意で「思ひしなゆ」②夏草が生えている野の意で「野」を含む地名「野島」や「野沢」にかかる。③夏草が深く茂るところから「繁(しげ)し」「深し」にかかる。④夏草を刈るの意で「刈る」と同音を含む「仮(かり)」「仮初(かりそめ)」にかかる。(学研)

(注)夏草の思ひ萎へて偲ふらむ妹が門見む靡けこの山:結びは短歌形式をなす。(伊藤脚注)

 

 この歌については、拙稿ブログ「万葉歌碑を訪ねて(その1271)」で紹介している。

 ➡ 

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短歌形式の結び「夏草の 思ひ萎へて 偲ふらむ 妹が門みむ 靡けこの山」(強い日差しで萎んでしまう夏草のようにしょんぼりして私を偲んでいるであろう。そのいとしい子の門を見たい。邪魔だ、靡いてしまえ、この山よ)は、相聞歌にふさわしく別れてきた妻への強い思いが詠われているのである。

しかし、梅原 猛氏は、「石見相聞歌」について、「おそらく、わが国の文学史上において、もっとも悲しい別れの歌」と評されている。

男が地方任官で都に戻ることになった場合、別れの際は、気持ちは都にあり現地妻に対しこれほどまでの思いを残すのはある意味異常であるとし、単なる別れではなく、人麻呂が死を覚悟し、妻依羅娘子がそのことを知っていたのではと説を展開されている。

梅原 猛氏は、相聞歌の一三一から一三七歌の歌群の題詞「柿本朝臣人麻呂、石見の国より妻に別れて上(のぼ)り来る時の歌二首 幷せて短歌」について、「・・・折口信夫は、常に詞書を離れて万葉集を読めとつねづねいっていたそうである。私は詞書は、最終的に平安時代のはじめ、万葉集最終編集のときにつくられたと思う。そのとき、おそらく、多くの歌とともに、人麿の人生そのものの正確なる意味は分からなくなっていたのであろう。・・・この歌を詞書を離れて、しかも古来の伝承通り、韓の崎を韓島、高角山を高津の山と考えて解釈したらどうか。そうすると、歌は、韓島に住んでいた人麿が、そこから渡(わたり)の山、屋上山(やかみのやま)をへて、高津の山へ行った歌になる。そして韓島は、・・・奈良時代国府の所在地とされる邇摩(にま)郡宅の沖合にある韓島に、人麿は妻とともにいたのである。もちろん島にいるのは流人である。」と述べておられる。

 

 流人である高官は、国府の目の届くところにおかれ、妻と同居することが許されていた。やがて、流人・人麿は妻から引き離され国府の近くの韓島から、高津の沖合にある鴨島に移されたのである。これは、流人・人麿の行く先に待っているのは死の運命である。

 韓島から西の高津の鴨島へ向かう方向性は、題詞の「京に上る」と真逆になる。疑わしいのは題詞の方である。移送の方向ベクトル、人麻呂と依羅娘子の相聞のベクトルが合致するのである。

 

 「石見相聞歌」と「鴨山五首」は、別個の歌群ではなく同一ゾーンで理解する必要がある。

 万葉集が語らんとする柿本人麻呂という人物を理解するためにも。

 

 「鴨山五首」については、拙稿ブログ「万葉歌碑を訪ねて(その1266~1270)」で紹介している。

 巻二 二二三 ➡ 

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 巻二 二二四 ➡ 

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 巻二 二二五 ➡ 

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 巻二 二二六 ➡ 

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 巻二 二二七 ➡ 

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島根県立万葉公園→島根県益田市喜阿弥町ふれあい広場→下関市内ホテル■

 万葉公園で昼食を済ませ、市内のスーパーで旅行支援のクーポン券の消化をはかる。その後の当初の予定では、ふれあい広場、角島小学校、神田小学校、毘沙の鼻を周って下関市内のホテルに入ることになっていた。

 志都岩屋神社の往復に結構時間がかかったこともあり、「角島小学校、神田小学校、毘沙の鼻」は翌日に回すことにした。

 191号線を走っていると、ストリートビューで見たことのある光景が目に飛び込んできた。「ふれあい広場」である。

 「ふれあい広場」の歌碑を撮影し、一路下関市内のホテルへと向かったのである。

歌碑と「ふれあい広場」案内板

 

 

 

 

(参考文献)

★「萬葉集」 鶴 久・森山 隆 編 (桜楓社)

★「万葉集 一」 伊藤 博 著 (角川ソフィア文庫

★「水底の歌 柿本人麿論(上)」 梅原 猛 著 (新潮文庫

★「weblio古語辞典 学研全訳古語辞典」

★「コトバンク デジタル大辞泉

★「weblio辞書 三省堂大辞林第三版」

万葉歌碑を訪ねて(その1984、1985、1986)―島根県益田市 県立万葉公園・万葉植物園(1,2,3)―万葉集 巻二 九〇、巻九 一七〇〇、巻二十 四四四八 巻

―その1984―

●歌は、「君が行き日長くなりぬ山たづの迎へを行かむ待つには待たじ」である。

島根県益田市 県立万葉公園・万葉植物園(1)万葉歌碑<プレート>(衣通王)

●歌碑(プレート)は、島根県益田市 県立万葉公園・万葉植物園(1)にある。

 

●歌をみていこう。

 

 題詞は、「古事記曰 軽太子奸軽太郎女 故其太子流於伊豫湯也 此時衣通王不堪戀慕而追徃時謌曰」<古事記に曰はく 軽太子(かるのひつぎのみこ)、軽太郎女(かるのおほいらつめ)に奸(たは)く。この故(ゆゑ)にその太子を伊予の湯に流す。この時に、衣通王(そとほりのおほきみ)、恋慕(しの)ひ堪(あ)へずして追ひ徃(ゆ)く時に、歌ひて曰はく>である。

(注)軽太子:十九代允恭天皇の子、木梨軽太子。

(注)軽太郎女:軽太子の同母妹。当時、同母兄妹の結婚は固く禁じられていた。

(注)たはく【戯く】自動詞①ふしだらな行いをする。出典古事記 「軽大郎女(かるのおほいらつめ)にたはけて」②ふざける。(weblio古語辞典 学研全訳古語辞典)

(注)伊予の湯:今の道後温泉

(注)衣通王:軽太郎女の別名。身の光が衣を通して現れたという。

 

 

◆君之行 氣長久成奴 山多豆乃 迎乎将徃 待尓者不待  此云山多豆者是今造木者也

      (軽太郎女 巻二 九〇)

(注)軽太郎女(かるのおおいらつめ):別名は、衣通王(そとほりのおほきみ)

 

≪書き下し≫君が行き日(け)長くなりぬ山たづの迎へを行かむ待つには待たじ  ここに山たづといふは、今の造木をいふ

 

(訳)あの方のお出ましは随分日数が経ったのにまだお帰りにならない。にわとこの神迎えではないが、お迎えに行こう。このままお待ちするにはとても堪えられない。(伊藤 博 著 「万葉集 一」 角川ソフィア文庫より)

(注)やまたづの【山たづの】分類枕詞:「やまたづ」は、にわとこの古名。にわとこの枝や葉が向き合っているところから「むかふ」にかかる。(weblio辞書 Wiktionary(日本語版 日本語カテゴリ)

 ※万葉集には、「やまたづ」を詠んだ歌は二首が収録されているが、いずれも「やまたづの迎え」という使われ方になっている。「やまたづ」が、「迎え」の枕詞になっているからである。

(注)みやつこぎ【造木】:① ニワトコの古名。 〔和名抄〕② タマツバキの古名。 〔本草和名〕(weblio辞書 三省堂大辞林第三版)

 

 題詞にあるように、軽太郎女の別名は、「衣通王(そとほりのおほきみ)」である。

 玉津島神社・鹽竃神社公式サイトの「和歌三神、衣通姫尊の光を求めて」に、「ここ玉津島が持つ、不思議な力。風光明媚なこの地で受けた感銘を、歌聖・山部赤人も歌に遺したように古来より『麗しきもの、優れたもの』を惹きつけてやまない魅力。集う美しき才能が共鳴し、まるで高め合うかのように訪れたものは皆、その魅力を増していく。絶世の美女で『和歌三神』に称された和歌の名手、衣通姫尊(そとおりひめのみこと)が祀られている玉津島神社には、その麗しき和歌の才に惹かれたあまたの文人墨客が、古今に渡り訪れています。」と書かれている。

(注)わかさんじん【和歌三神】:〘名〙 和歌の守護神として、和歌と関連深い神やすぐれた歌人を三柱あげたもの。近世、最も一般的なものは、住吉明神・玉津島明神・柿本人麻呂であるが、住吉明神・玉津島明神・天満天神、柿本人麻呂山部赤人衣通姫(そとおりひめ)とするものなど多くの説がある。和歌の三神。和歌の神。(コトバンク 精選版 日本国語大辞典

 

 この歌については、拙稿ブログ「万葉歌碑を訪ねて(その1143)」で紹介している。

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 玉津島神社に関しては、「同(その734)」で紹介している。

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 題詞にあるように、伊予の湯に流された軽太子(かるのひつぎのみこ)ならびに追いかけてきた軽太郎女(衣通王)は、当地で亡くなったという。二人を祀った松山市姫原の軽之神社と二人の塚といわれる比翼塚の歌碑については、「同(その1834)」で紹介している。

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―その1985―

●歌は、「秋風に山吹の瀬の鳴るなへに天雲翔ける雁に逢へるかも」である。

島根県益田市 県立万葉公園・万葉植物園(2)万葉歌碑<プレート>(柿本人麻呂歌集)

●歌碑(プレート)は、島根県益田市 県立万葉公園・万葉植物園(2)にある。

 

●歌をみていこう。

 

◆金風 山吹瀬乃 響苗 天雲翔 鴈相鴨

       (柿本人麻呂歌集 巻九 一七〇〇)

 

≪書き下し≫秋風に山吹(やまぶき)の瀬(せ)の鳴るなへに天雲(あまくも)翔(かけ)る雁に逢(あ)へるかも

 

(訳)秋風に、山吹の瀬の瀬音が鳴り響く折も折、はるか天雲の彼方(かなた)を飛びかける雁の群れにであった。(「万葉集 二」 伊藤 博 著 角川ソフィア文庫より)

(注)金風:《五行(ごぎょう)で、秋は金にあたるところから》秋の風。秋風。《季 秋》(weblio辞書 デジタル大辞泉

(注の注)五行説の季節:五行説の各要素には色だけではなく季節も当てはめられており、・・・春夏秋冬が「木・火・金・水」にそれぞれ対応している。(世界の民謡・童謡HP)

(注)山吹の瀬:所在未詳。宇治橋下流の瀬か。(伊藤脚注)

(注)鳴るなへに:高鳴る折しも。(伊藤脚注)

(注の注)なへ 接続助詞《接続》活用語の連体形に付く。〔事柄の並行した存在・進行〕:…するとともに。…するにつれて。…するちょうどそのとき。 ※上代語。中古にも和歌に用例があるが、上代語の名残である。(学研)

 

 

題詞は、「宇治河作歌二首」<宇治川にして作る歌二首>である。

一六九九歌もみてみよう。

 

◆巨椋乃 入江響奈理  射目人乃 伏見何田井尓 鴈相良之

       (柿本人麻呂歌集 巻九 一六九九)

 

≪書き下し≫巨椋(おほくら)の入江(いりえ)響(とよ)むなり射目人(いめひと)の伏見(ふしみ)が田居(たゐ)に雁(かり)渡るらし

 

(訳)巨椋の入江がざわざわと鳴り響いている。射目人の伏すという伏見の田んぼに、雁が移動してゆくのであるらしい。(同上)

(注)巨椋の入江:宇治市の西にあった巨椋(おぐら)池。(伊藤脚注)

(注)いめひとの【射目人の】〔枕〕:射目人は伏して獲物をねらうので「伏見」にかかる。(広辞苑無料検索)

(注)たゐ【田居】名詞:①田。たんぼ。②田のあるような田舎。(学研)

 

 一六九九、一七〇〇歌については、拙稿ブログ「万葉歌碑を訪ねて(その194)」で紹介している。

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 一七〇九歌の左注に「右は、柿本朝臣人麻呂が歌集に出づるところなり。」とあり、一七〇九歌のみをさすという考えのほかに、「一六六五、一六六七、一六八二以下一七〇九まで」をさすと見る諸説がある。(伊藤脚注)

 同様に、一七二五、一七六〇歌の左注の「右」の範囲をどこまでとするかといった問題をはらんである。

 

 

 

―その1986―

●歌は、「あぢさゐの八重咲くごとく八つ代にをいませ我が背子見つつ偲はむ」である。

島根県益田市 県立万葉公園・万葉植物園(3)万葉歌碑<プレート>(橘諸兄

●歌碑(プレート)は、島根県益田市 県立万葉公園・万葉植物園(3)にある。

 

●歌をみていこう。

 

◆安治佐為能 夜敝佐久其等久 夜都与尓乎 伊麻世和我勢故 美都ゝ思努波牟

       (橘諸兄 巻二十 四四四八)

 

≪書き下し≫あぢさいの八重(やへ)咲くごとく八(や)つ代(よ)にをいませ我が背子(せこ)見つつ偲ばむ

 

(訳)あじさいが次々と色どりを変えてま新しく咲くように、幾年月ののちまでもお元気でいらっしゃい、あなた。あじさいをみるたびにあなたをお偲びしましょう。(伊藤 博 著 「万葉集 四」 角川ソフィア文庫より)

(注)八重(やへ)咲く:次々と色どりを変えてま新しそうに咲くように。あじさいは色の変わるごとに新しい花が咲くような印象をあたえる。(伊藤脚注)

(注)八(や)つ代(よ):幾久しく。上の「八重」を承けて「八つ代」といったもの。(伊藤脚注)

(注)います【坐す・在す】[一]自動詞:①いらっしゃる。おいでになる。▽「あり」の尊敬語。②おでかけになる。おいでになる。▽「行く」「来(く)」の尊敬語。(学研)

 

 左注は、「右一首左大臣寄味狭藍花詠也」≪右の一首は、左大臣、味狭藍(あじさゐ)の花に寄せて詠(よ)む。>である。

 

 この歌については、拙稿ブログ「万葉歌碑を訪ねて(その1859)」他で紹介している。

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アジサイはポピュラーな花であるが、万葉集では二首しか収録されていない。もう一首は、家持の七七三歌である。この歌については、「同(その850)」で紹介している。

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 この三つの歌碑(プレート)は、万葉公園「石の広場」の家持の歌碑を撮影に行った時に付近にあったものを写したのである。

 

 

 

 

(参考文献)

★「萬葉集」 鶴 久・森山 隆 編 (桜楓社)

★「万葉集 一」 伊藤 博 著 (角川ソフィア文庫

★「万葉集 二」 伊藤 博 著 (角川ソフィア文庫

★「万葉集 四」 伊藤 博 著 (角川ソフィア文庫

★「植物で見る万葉の世界」 (國學院大學万葉花の会発行)

★「万葉集をどう読むか―歌の『発見』と漢字世界」 神野志隆光 著 (東京大学出版会

★「weblio古語辞典 学研全訳古語辞典」

★「webjio辞書 デジタル大辞泉

★「weblio辞書 三省堂大辞林第三版」

★「コトバンク 精選版 日本国語大辞典

★「広辞苑無料検索」

★「weblio辞書 Wiktionary(日本語版 日本語カテゴリ)」

★「世界の民謡・童謡HP」

万葉歌碑を訪ねて(その1983)―島根県益田市 県立万葉公園「石の広場」―万葉集 巻四 七四三

●歌は、「我が恋は千引の石を七ばかり首に懸けむも神のまにまに」である。

島根県益田市 県立万葉公園「石の広場」万葉歌碑(大伴家持

●歌碑は、島根県益田市 県立万葉公園「石の広場」にある。

 

●歌をみていこう。

 

◆吾戀者 千引乃石乎 七許 頚二将繋母 神之諸伏

       (大伴家持 巻四 七四三)

 

≪書き下し≫我(あ)が恋は千引(ちびき)の石(いし)を七(なな)ばかり首に懸(か)けむも神のまにまに

 

(訳)私の恋の重荷(おもに)は、千人がかりで引く石を七つも首にかけるほどですが、それも神の思(おぼ)し召(め)しのままです。(「万葉集 一」 伊藤 博 著 角川ソフィア文庫より)

(注)ちびき【千引】の=岩(いわ)[=石(いし)]:千人で引かなければ動かせないような重い岩石。ちびき。ちびきいわ。(コトバンク 精選版 日本国語大辞典

(注)まにまに【随に】分類連語:①…に任せて。…のままに。▽他の人の意志や、物事の成り行きに従っての意。②…とともに。▽物事が進むにつれての意。 ⇒参考:名詞「まにま」に格助詞「に」の付いた語。「まにま」と同様、連体修飾語を受けて副詞的に用いられる。(weblio古語辞典 学研全訳古語辞典)

 

 七四一から七五五歌までの歌群の題詞は、「更大伴宿祢家持贈坂上大嬢歌十五首」<さらに、大伴宿禰家持、坂上大嬢に贈る歌十五首>である。

 

 この歌群は、七二七歌から収録されている大嬢との贈答歌のまとめである。(伊藤脚注)

 題詞のみでみてみると。

 ■「大伴宿禰家持、坂上家の大嬢に贈る歌二首 離絶すること数年、また会ひて相聞往来す」(七二七~七二八歌)

 ■「大伴坂上大嬢、大伴宿禰家持に贈る歌三首」(七二九~七三一歌)

 ■「また、大伴宿禰家持が和(こた)ふる歌三首」(七三二~七三四歌)

 ■「同じき坂上大嬢、家持に贈る歌一首」(七三五歌)

 ■「また家持、坂上大嬢に和(こた)ふる歌一首(七三六歌)

 ■「同じき大嬢、家持に贈る歌二首」(七三七、七三八歌)

 ■「また家持、坂上大嬢に和(こた)ふる歌二首」(七三九、七四〇)

 ■「さらに、大伴宿禰家持、坂上大嬢に贈る歌十五首」(七四一~七五五歌)

 

 七四一から七五五歌のすべてみてみよう。

◆夢之相者 苦有家里 覺而 掻探友 手二毛不所觸者

       (大伴家持 巻四 七四一)

 

≪書き下し≫夢(いめ)の逢ひは苦しかりけりおどろきて掻(か)き探(さぐ)れども手にも触れねば

 

(訳)夢で逢うのはつらいものでありました。目を覚(さ)まして手探(てさぐ)りしても、あなたはおろか、何も手に触れないのですから。(同上)

 

 

◆一重耳 妹之将結 帶乎尚 三重可結 吾身者成

       (大伴家持 巻四 七四二)

 

≪書き下し≫一重(ひとえ)のみ妹が結ばむ帯をすら三重(みへ)結ぶべく我(あ)が身はなりぬ

 

(訳)あなたが結んでくれる時には一回(ひとまわ)りだけのこの帯でさえ、三回(みまわ)りに結ぶほど、私の身はすっかり細くなってしまった。(同上)

 

 

◆暮去者 屋戸開設而 吾将待 夢尓相見二 将来云比登乎

       (大伴家持 巻四 七四四)

 

≪書き下し≫夕さらば屋戸(やど)開(あ)け設(ま)けて我(あ)れ待たむ夢(いめ)に相見(あひみ)に来(こ)むといふ人を

 

(訳)夕方になったら、家の戸口をあけて私は心待ちに待とう。夢で逢いに来ようというあの人を。(同上)

 

 

◆朝夕二 将見時左倍也 吾妹之 雖見如不見 由戀四家武

       (大伴家持 巻四 七四五)

 

≪書き下し≫朝夕(あさよひ)に見む時さへや我妹子(わぎもこ)が見れど見ぬごとなほ恋(こほ)しけむ

 

(訳)たとえ朝夕逢えるようになった時でさえも、あなたは、逢っていても逢っていないかのように、やっぱり恋しく思われるにちがいありません。(同上)

 

 

◆生有代尓 吾者未見 事絶而 如是▼怜 縫流嚢者

       (大伴家持 巻四 七四六)

  ▼は、「りっしんべん」に「可」 「▼怜」=「おもしろく」

 

≪書き下し≫生ける世に我(あ)はいまだ見ず言(こと)絶えてかくおもしろく縫へる袋は

 

(訳)この世に生まれてこのかた、私はまだ見たことがない。言葉に表せぬほど、こんなに見事に縫ってある袋は。(同上)

(注)袋:針や火打石などを入れる。親しい人に袋を贈る習慣があった。(伊藤脚注)

 

 

◆吾妹兒之 形見乃服 下著而 直相左右者 吾将脱八方

       (大伴家持 巻四 七四七)

 

≪書き下し≫我妹子(わぎもこ)が形見(かたみ)の衣(ころも)下に着て直(ただ)に逢ふまでは我(わ)れ脱(ぬ)かめやも

 

(訳)あなたが形見にくれた衣、これを肌身にしっかりつけて、じかに逢うまではどうして脱いだりするものか、この私というものが。(同上)

(注)かたみ【形見】名詞:①遺品。形見の品。遺児。故人や遠く別れた人の残した思い出となるもの。②記念(物)。思い出の種。昔を思い出す手がかりとなるもの。(学研)ここでは②の意

(注の注)脱がなければ逢えるとされた。(伊藤脚注)

 

 

◆戀死六 其毛同曽 奈何為二 人目他言 辞痛吾将為

       (大伴家持 巻四 七四八)

 

≪書き下し≫恋ひ死なむそこも同(おや)じぞ何せむに人目(ひとめ)人言(ひとごと)言痛(こちた)み我(あ)れせむ

 

(訳)恋焦がれて死んでしまうこと、それだって人目を憚(はばか)って逢えないでいるとのと苦しみは同じじゃないか。何でいまさら、人目や噂を煩わしがって逢うのをためらったりするものか。(同上)

(注)ひとごと【人言】名詞:他人の言う言葉。世間のうわさ。(学研)

(注)こちたし【言痛し・事痛し】形容詞:①煩わしい。うるさい。②甚だしい。度を越している。ひどくたくさんだ。③仰々しい。おおげさだ。(学研)

(注の注)こちたむ 動詞:煩わしがる

 

 

◆夢二谷 所見者社有 如此許 不所見有者 戀而死跡香

       (大伴家持 巻四 七四九)

 

≪書き下し≫夢(いめ)にだに見えばこそあらめかくばかり見えずしあるは恋ひて死ねとか

 

(訳)夢にだけでも姿を見せてくれればまだよいが、こんなにまで姿を見せてくれないのは、私に恋死にせよとでもいうのですか。(同上)

 

 

◆念絶 和備西物尾 中々荷 奈何辛苦 相見始兼

       (大伴家持 巻四 七五〇)

 

≪書き下し≫思ひ絶えわびにしものをなかなかになにか苦しく相見そめけむ

 

(訳)一度は思いを絶ち切ってひっそりとわびしく暮らしてきたのに、なまはんかに、何でまたこんな苦しいまま逢いはじめたりしたのだろう。(同上)

(注)思ひ絶えわびにしものを:一度は思いを絶ち切ってひっそりとわびしさに堪えて来たのに。離絶数年のわびしさ。(伊藤脚注)

(注)なかなかに 副詞:①なまじ。なまじっか。中途半端に。②いっそのこと。かえって。むしろ。(学研)ここでは①の意

 

 

◆相見而者 幾日毛不經乎 幾許久毛 久流比尓久流必 所念鴨

       (大伴家持 巻四 七五一)

 

≪書き下し≫相見ては幾日(いくか)も経(へ)ぬをここだくも狂ひに狂ひ思ほゆるかも

 

(訳)再び逢(お)うてから何日も経っていないのに、こんなにもひどく物狂おしいまでに恋しく思われるとは。(同上)

(注)ここだく【幾許】副詞:「ここだ」に同じ。 ※上代語。(学研)

(注の注)ここだ【幾許】副詞:①こんなにもたくさん。こうも甚だしく。▽数・量の多いようす。②たいへんに。たいそう。▽程度の甚だしいようす。 ※上代語。(学研)ここでは②の意

 

 

◆如是許 面影耳 所念者 何如将為 人目繁而

       (大伴家持 巻四 七五二)

 

≪書き下し≫かくばかり面影(おもかげ)にのみ思ほえばいかにかもせむ人目繁(しげ)くて

 

(訳)こんなにも、あなたの姿が目先(めさき)にやたらちらついて思われてならないなら、この先どうしたらよかろう。人目が繁くてなかなか逢えないのに。(同上)

 

 

◆相見者 須臾戀者 奈木六香登 雖念弥 戀益来

       (大伴家持 巻四 七五三)

 

≪書き下し≫相見てはしましも恋はなぎむかと思へどいよよ恋ひまさりけり

 

(訳)逢ったならしばらくでもこの苦しい思いは少しはなごむかと思っていたけれど、逢ったら逢ったで、かえってますます恋しさは高ぶるばかりです。(同上)

(注)しまし【暫し】副詞:「しばし」に同じ。 ※上代語。(学研)

 

 

◆夜之穂杼呂 吾出而来者 吾妹子之 念有四九四 面影二三湯

       (大伴家持 巻四 七五四)

 

≪書き下し≫夜(よ)のほどろ我(わ)が出(い)でて来れば我妹子(わぎもこ)が思へりしくし面影に見ゆ

 

(訳)夜のほのぼのと明けそめる頃、別れて私が出て来ると、あなたが名残惜しそうに思い沈んでいた姿が目の前にちらついて見えます。(同上)

(注)ほどろ 名詞〔「夜(よ)のほどろ」の形で〕:(夜が)明け始めるころ。明け方。◇上代語。 ⇒参考:「ろ」は接尾語。(学研)

(注)しくし:シクは過去の助動詞キのク語法。シは強意の助詞。(伊藤脚注)

 

 

◆夜之穂杼呂 出都追来良久 遍多數 成者吾胸 截焼如

       (大伴家持 巻四 七五五)

 

≪書き下し≫夜のほどろ出でつつ来(く)らくたび数多(まね)くなれば我(あ)が胸断ち焼くごとし

 

(訳)夜がほのぼの明けそめる頃、別れて帰って来ることが何度も重なると、私の胸は名残惜しさに燃え上がり、はりさけそうです。(同上)

(注)たびまねし【度遍し】形容詞:絶え間がない。回数が多い。(学研)

 

 七四一から七四五歌(主題は「夢の逢い」)、七四六から七五〇歌(主題は「現の逢い」)、七五一から七五五歌(主題は「逢うて後の恋」)の三群に分かれる。

 伊藤 博氏は、その著「萬葉集相聞の世界」(塙書房)のなかで、「これらの歌、少なくとも家持の歌を、額面どおりに受けとることには、なお問題がある。その作品の中には、巻十一や十二などの古典を模倣するほか、・・・遊仙窟や文選まがいの作が、いくつもあらわれるからである。つまり、大嬢への愛の実感を、そのままうたうというよりも、むしろ、観念的に空想し造型した恋をうたう誇張の傾向が強い。許容された恋の上に立って、芸術性にとらわれ偶像を構成し、それにみずから陶酔している感が、ある。その意味で、一連中に、しきりにうたわれている人言や人目の歌など、その内容をどの程度信用してよいか、問題である。」と冷静に見ておられる。

 万葉集の歌物語性というのが如実にあらわれていると考えてもよいだろう。

 

 坂上大嬢の歌については、拙稿ブログ「万葉歌碑を訪ねて(その1364)」で紹介している。

 ➡ 

tom101010.hatenablog.com

 

 前回、島根県益田市県立万葉公園を訪れた時に「石の広場」の家持の歌碑をスルーしてしまったことに帰ってから気が付いた時にはショックであった。県立万葉公園の万葉植物園での歌碑(プレート)の数の多さに振り回されて気が飛んでしまったのである。

 幸いに全国旅行支援が始まり、鳥取県山口県を主体に計画の中に織り込むことができたので今回リベンジが果たせたのであった。

島根県益田市県立万葉公園「石の広場」への案内碑

 

 

(参考文献)

★「萬葉集」 鶴 久・森山 隆 編 (桜楓社)

★「万葉集 一」 伊藤 博 著 (角川ソフィア文庫

★「萬葉集相聞の世界」 伊藤 博 著 (塙書房

★「weblio古語辞典 学研全訳古語辞典」

★「コトバンク 精選版 日本国語大辞典