万葉集の歌碑めぐり

万葉歌碑をめぐり、歌の背景等を可能な限り時間的空間的に探索し、万葉集の万葉集たる所以に迫っていきたい!

万葉集の世界に飛び込もう―万葉歌碑を訪ねて(その2482)―

●歌は、「山菅の実ならぬことを我に寄そり言はれし君は誰れとか寝らむ」である。

茨城県石岡市小幡 ライオンズ広場万葉の森万葉歌碑(プレート)(大伴坂上郎女) 20230927撮影

●歌碑(プレート)は、茨城県石岡市小幡 ライオンズ広場万葉の森にある。

 

●歌をみていこう。

 

五六三・五六四歌の題詞は「大伴坂上郎女歌二首」<大伴坂上郎女が歌二首>である。

 

◆山菅之 實不成事乎 吾尓所依 言礼師君者 与孰可宿良牟

        (大伴坂上郎女 巻四 五六四)

 

≪書き下し≫山菅(やますげ)の実ならぬことを我(わ)れに寄(よ)そり言はれし君は誰(た)れとか寝(ぬ)らむ

 

(訳)山に生える菅には実(み)がならないと言いますが、所詮(しょせん)実らぬ間柄なのに、私と結びつけられて世間から取り沙汰(ざた)されている君は、今頃どこのどなたと寝ているのかしら。(「万葉集 一」 伊藤 博 著 角川ソフィア文庫より)

(注)やますげの【山菅の】[枕]:① 山菅の葉が茂り乱れている意から、「乱る」「背向 (そがひ) 」にかかる。② 山菅の実の意で、「実」にかかる。③ 山菅の「やま」と同音の、「止まず」にかかる。(goo辞書)

(注)我れに寄そり言はれし君:私と結びつけて噂されたあなた。この歌、百代の第四首に応じる。(伊藤脚注)

 

 この歌については、拙稿ブログ「万葉歌碑を訪ねて(その1159)」で、「山菅」を詠んだ歌十三首とともに紹介している。

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 上記「伊藤脚注」にあるように、大伴百代の五五九から五六二歌から大伴坂上郎女の五六三・五六四歌を通してみてみよう。

 

 

題詞は、「大宰大監大伴宿祢百代戀歌四首」<大宰大監大伴宿禰百代が恋の歌四首>である。

(注)恋の歌:老いらくの恋。歌の主題。(伊藤脚注)

 

◆事毛無 生来之物乎 老奈美尓 如是戀乎毛 吾者遇流香聞

       (大伴百代 巻四 五五九)

 

≪書き下し≫事もなく生き来(こ)しものを老いなみにかかる恋にも我(あ)れは逢へるかも

 

(訳)これまで平穏無事に生きて来たのに、年寄りだてらに、何とまあこんな苦しい恋に私は出くわすはめになってしまいました。(同上)

(注)こともなし【事も無し】分類連語:①何事もない。平穏無事だ。②難点がない。ちょっと好ましい。③(事をするのに)たやすい。 ※「事無し」の強調表現。(weblio古語辞典 学研全訳古語辞典)ここでは①の意

(注)老いなみにかかる恋:老境。老いを明示する句はこの冒頭歌のみに見える。(伊藤脚注)

(注の注)おいなみ【老い次・老い並】名詞:老年のころ。老境。(学研)

 

 

◆孤悲死牟 後者何為牟 生日之 為社妹乎 欲見為礼

      (大伴百代 巻四 五六〇)

 

≪書き下し≫恋ひ死なむ後は何せむ生ける日のためこそ妹を見まく欲りすれ

 

(訳)恋い死にに死んでしまったら何の意味がありましょう。生き長らえている今の日のためにこそあなたの顔を見たいと思うのに。(同上)

(注)生ける日:以下、老残の身をさらして恋焦がれなければならぬ嘆き。(伊藤脚注)

 

 

◆不念乎 思常云者 大野有 三笠社之 神思知三

       (大伴百代 巻四 五六一)

 

≪書き下し≫思はぬを思ふと言はば大野なる御笠(みかさ)の杜(もり)の神し知らさむ

 

(訳)あなたのことを思ってもいないのに思っているなどと言ったら、いつわりに厳しい大野の御笠の森の神様もお見通しで、私は祟りを受けなければなりますまい。(同上)

(注)御笠(みかさ)の杜(もり):福岡県大野城市山田の社。(伊藤脚注)

(注)神し知らさむ:神様がお見通しでしょう。(伊藤脚注)

 

 

◆無暇 人之眉根乎 徒 令掻乍 不相妹可聞

       (大伴百代 巻四 五六二)

 

≪書き下し≫暇(いとま)なく人の眉根(まよね)をいたづらに掻かしめつつも逢はぬ妹かも

 

(訳)手を休める暇もなく、人の眉根をむやみやたらと掻(か)かせておきなげら、いっこうに逢おうとしないあなたなのですね。(同上)

(注)眉のつけ根がかゆいのは思う人に逢える前兆とされた。(伊藤脚注)

 

 五五九から五六二歌については、拙稿ブログ「万葉歌碑を訪ねて(その1806)」で大伴百代の歌とともに紹介している。

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 続いて、大伴坂上郎女の歌である。

五六三・五六四歌の題詞は「大伴坂上郎女歌二首」<大伴坂上郎女が歌二首>である。

(注)歌二首:前の歌群が披露された場で、仮の相手となって返した歌。(伊藤脚注)

 

◆黒髪二 白髪交 至耆 如是有戀庭 未相尓

       (大伴坂上郎女 巻四 五六三)

 

≪書き下し≫黒髪に白髪(しろかみ)交(まじ)り老ゆるまでかかる恋にはいまだ逢はなくに

 

(訳)黒髪に白髪が入り交じり、こんなに年寄るまで、私はこれほど激しい恋にでくわしたことはありません。(同上)

(注)老ゆるまで:以下、百代の第一首の言葉をそのまま取っている。老女の恋。(伊藤脚注)

 

 この歌については、拙稿ブログ「万葉歌碑を訪ねて(その1992)」で「髪」を詠んだ歌とともに紹介している。

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(重複しますが、歌と訳を記します。)

◆山菅之 實不成事乎 吾尓所依 言礼師君者 与孰可宿良牟

        (大伴坂上郎女 巻四 五六四)

 

≪書き下し≫山菅(やますげ)の実ならぬことを我(わ)れに寄(よ)そり言はれし君は誰(た)れとか寝(ぬ)らむ

 

(訳)山に生える菅には実(み)がならないと言いますが、所詮(しょせん)実らぬ間柄なのに、私と結びつけられて世間から取り沙汰(ざた)されている君は、今頃どこのどなたと寝ているのかしら。(同上)

「かかる恋にはいまだ逢はなくに」と百代の歌の手の中で泳ぎながら、肯定しつつ、「我れに寄そり言はれし君は誰れとか寝らむ」と見事に切り返している。郎女ならではの歌である。

 五五九から五六四の歌群で、一つの恋物語を作っている。書き手も「戀」と「孤悲」を使い分けたり、「黒髪 白髪」と「二」を当てたり、「不妹可」と「相聞」と使ったり、「笠社之 神思知」と「さむ」に「三」をと楽しんでいるように思える。

 

 

 

 

 

 

(参考文献)

★「萬葉集」 鶴 久・森山 隆 編 (桜楓社)

★「万葉集 一」 伊藤 博 著 (角川ソフィア文庫

★「weblio古語辞典 学研全訳古語辞典」

万葉集の世界に飛び込もう―万葉歌碑を訪ねて(その2481)―

●歌は、「この雪の消残る時にいざ行かな山橘の実の照るも見む」である。

茨城県石岡市小幡 ライオンズ広場万葉の森万葉歌碑(プレート)<右手前> 20230927撮影

●歌碑(プレート)は、茨城県石岡市小幡 ライオンズ広場万葉の森にある。

 

●歌をみていこう。

 

題詞は、「雪日作歌一首」<雪の日に作る歌一首>である。

(注)雪の日:雪見の宴の歌らしい。(伊藤脚注)

 

◆此雪之 消遺時尓 去来歸奈 山橘之 實光毛将見

                (大伴家持 巻十九 四二二六)

 

≪書き下し≫この雪の消殘(けのこ)る時にいざ行かな山橘(やまたちばな)の実(み)の照るも見む

 

(訳)この雪がまだ消えてしまわないうちに、さあ行こう。山橘の実が雪に照り輝いているさまを見よう。(伊藤 博 著 「万葉集 四」 角川ソフィア文庫より)

(注)やまたちばな【山橘】名詞:やぶこうじ(=木の名)の別名。冬、赤い実をつける。[季語] 冬。(weblio古語辞典 学研全訳古語辞典)

 

左注は、「右一首十二月大伴宿祢家持作之」<右の一首は、十二月に大伴宿禰家持作る>である。

 

 

 集中、「山橘」を詠んだ歌は五首収録されている。これについては、拙稿ブログ「万葉歌碑を訪ねて(その664)」で紹介しているが、もう一度みてみよう。

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■六六九歌■

題詞は、「春日王歌一首 志貴皇子之子母日多紀皇女也」<春日王(かすがのおほきみ)が歌一首 志貴皇子の子、母は多紀皇女といふ>である。

(注)多紀皇女は、天武天皇の娘

 

◆足引之 山橘乃 色丹出与 語言継而 相事毛将有

        (春日王    巻四 六六九)

 

≪書き下し≫あしひきの山橘(やまたちばな)の色に出でよ語らひ継(つ)ぎて逢ふこともあらむ

 

(訳)山陰にくっきりと赤いやぶこうじの実のように、いっそお気持ちを面(おもて)に出してください。そうしたら誰か思いやりのある人が互いの消息を聞き語り伝えて、晴れてお逢いすることもありましょう。(伊藤 博 著 「万葉集 一」 角川ソフィア文庫より)

(注)山橘:やぶこうじ。上二句は序、「色に出づ」を起す。(伊藤脚注)

 

 この歌については、拙稿ブログ「万葉歌碑を訪ねて(その1736)」で紹介している。

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■一三四〇歌■

◆紫 絲乎曽吾搓 足檜之 山橘乎 将貫跡念而

       (作者未詳 巻七 一三四〇)

 

≪書き下し≫紫(むらさき)の糸をぞ我(わ)が搓(よ)るあしひきの山橘(やまたちばな)を貫(ぬ)かむと思ひて

 

(訳)紫色の糸を、私は今一生懸命搓り合わせている。山橘の実、あの赤い実をこれに通そうと思って。(伊藤 博 著 「万葉集 二」 角川ソフィア文庫より)

(注)「山橘を貫(ぬ)く」とは、男と結ばれることの譬え。(伊藤脚注)

 

 この歌については、拙稿ブログ「万葉歌碑を訪ねて(その765)」で、「紫の」ではじまる歌のなかで紹介している。

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■二七六七歌■

◆足引乃 山橘之 色出而 吾戀公者 人目難為名

              (作者未詳 巻十一 二七六七)

 

≪書き下し≫あしひきの山橘(やまたちばな)の色に出(い)でて我(あ)は恋ひなむ人目難(かた)みすな

 

(訳)山の木蔭の、藪柑子(やぶこうじ)のまっ赤な実のように、私は恋心をあたりかまわず顔に出してしまいそうだ。なのに、あなたが人目を気にするなんて・・・。まわりのことなんか気にしないでくれ。(伊藤 博 著 「万葉集 三」 角川ソフィア文庫より)

(注)上二句「足引乃 山橘之」は、「色出」を起こす。

(注)なむ 分類連語:①…てしまおう。必ず…しよう。▽強い意志を表す。②…てしまうだろう。きっと…するだろう。確かに…だろう。▽強い推量を表す。③…ことができるだろう。…できそうだ。▽実現の可能性を推量する。④…するのがきっとよい。…ほうがよい。…すべきだ。▽適当・当然の意を強調する。(学研) ここでは③の意

(注)人目難(かた)みすな:だからあなたも人目を憚るな。(伊藤脚注)

 

 

 

■四四七一歌■

題詞は、「冬十一月五日夜小雷起鳴雪落覆庭忽懐感憐聊作短歌一首」<冬の十一月の五日の夜(よ)に、小雷起(おこ)りて鳴り、雪落(ふ)りて庭を覆(おほ)ふ。たちまちに感憐(かんれん)を懐(いだ)き、いささかに作る短歌一首>である。

 

◆氣能己里能 由伎尓安倍弖流 安之比奇乃 夜麻多知波奈乎 都刀尓通弥許奈

       (大伴家持 巻二十 四四七一)

 

≪書き下し≫消残(けのこ)りの雪にあへ照るあしひきの山橘(やまたちばな)をつとに摘(つ)み来(こ)な

 

(訳)幸いに消えずに残っている白い雪に映えて、ひとしお赤々と照る山橘、その山橘の実を、家づとにするため行って摘んでこよう。(伊藤 博 著 「万葉集 四」 角川ソフィア文庫より)

(注)雪にあへ照る:雪で山橘の実が、山橘の実で雪が、それぞれ照り映えるさま。「あへ」は合わせて。(伊藤脚注)

(注の注)あへ>あふ【合ふ】自動詞:①調和する。似合う。②一つになる。一致する。(学研)ここでは①の意

(注)つとに摘み来な:家への土産に摘んで来よう。夜降る雪に、明くる日の山橘を幻想した歌。難波での詠か。(伊藤脚注)

(注の注)つと【苞・苞苴】名詞:①食品などをわらで包んだもの。わらづと。②贈り物にする土地の産物。みやげ。(学研) ここでは②の意

 

左注は、「右一首兵部少輔大伴宿祢家持」<右の一首は、兵部少輔大伴宿禰家持>である。

 

 この歌については、拙稿ブログ「万葉歌碑を訪ねて(その832)」で紹介している。

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(参考文献)

萬葉集 鶴 久・森山 隆 編 (桜楓社)

★「万葉集 一」 伊藤 博 著 (角川ソフィア文庫

★「万葉集 二」 伊藤 博 著 (角川ソフィア文庫

★「万葉集 三」 伊藤 博 著 (角川ソフィア文庫

★「万葉集 四」 伊藤 博 著 (角川ソフィア文庫

★「weblio古語辞典 学研全訳古語辞典」

★「高岡市万葉歴史館HP」

 

万葉集の世界に飛び込もう―万葉歌碑を訪ねて(その2480)―

●歌は、「風早の美穂の浦みの白つつじ見れどもさぶしなき人思へば」である。

茨城県石岡市小幡 ライオンズ広場万葉の森万葉歌碑(プレート)<左奥> 20230927撮影

●歌碑(プレート)は、茨城県石岡市小幡 ライオンズ広場万葉の森にある。

 

●歌をみていこう。

 

題詞は、「和銅四年辛亥河邊宮人見姫嶋松原美人屍哀慟作歌四首」<和銅四年辛亥(かのとゐ)に、河辺宮人(かはへのみやひと)、姫島(ひめしま)の松原の美人(をとめ)の屍(しかばね)を見て、哀慟(かな)しびて作る歌四首>である。

(注)和銅四年:711年

(注)姫島:ここは、紀伊三穂の浦付近の島(伊藤脚注)

 

◆加座皤夜能 美保乃浦廻之 白管仕 見十方不怜 無人念者 <或云見者悲霜 無人思丹>

         (河辺宮人 巻三 四三四)

 

≪書き下し≫風早(かざはや)の美穂(みほ)の浦みの白(しら)つつじ見れどもさぶしなき人思へば <或いは「見れば悲しもなき人思ふに」といふ>

 

(訳)風早の三穂(みほ)の海辺に咲き匂う白つつじ、このつつじは、いくら見ても心がなごまない。亡き人のことを思うと。<見れば見るほどせつない。亡き人を思うにつけて>(伊藤 博 著 「万葉集 一」 角川ソフィア文庫より)

(注)風早の:風の激しい意の枕詞的用法。(伊藤脚注)

(注の注)かざはや【風早】:風が激しく吹くこと。(weblio辞書 三省堂 大辞林 第三版)

(注)三穂:和歌山県日高郡美浜町三尾

(注)白つつじ:娘子が死んで白つつじと化したという伝説に基づくらしい。(伊藤脚注)

 この歌ならびに四三五から四三七歌については、拙稿ブログ「万葉歌碑を訪ねて(その707)」で紹介している。

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 河辺宮人の名は、巻二の二二八、二二九にもみられる。

 こちらの題詞は、「和銅四年歳次辛亥河邊宮人姫嶋松原見嬢子屍悲嘆作歌二首」<和銅四年歳次(さいし)辛亥(かのとゐ)に、河辺宮人(かはへのみやひと)、姫島(ひめしま)の松原の娘子(をとめ)の屍(しかばね)を見て、悲嘆(かな)しびて作る歌二首>である。

(注)さいじ【歳次】:《古くは「さいし」。「歳」は歳星すなわち木星、「次」は宿りの意。昔、中国で、木星が12年で天を1周すると考えられていたところから》としまわり。とし。(weblio辞書 デジタル大辞泉

(注)河辺宮人:伝未詳。物語上の作者名か。(伊藤脚注)

(注)姫島:淀川河口の島の名か。(伊藤脚注)

(注)見て:想い見て。娘子の死は伝説であったらしい。

 

 こちらの歌もみてみよう。

◆妹之名者 千代尓将流 姫嶋之 子松之末尓 蘿生萬代尓

       (河辺宮人 巻二 二二八)

 

≪書き下し≫妹(いも)が名は千代(ちよ)に流れむ姫島の小松(こまつ)がうれに蘿生(こけむす)すまでに

 

(訳)このいとしいお方の名は、千代(ちよ)万代(よろずよ)に流れ伝わるであろう。娘子にふさわしい名の姫島の小松が成長してその梢(こずえ)に蘿(こけ)が生(む)すまでいついつまでも。(同上)

(注)千代に流れむ:漢籍に「名ハ世ニ流ル」などがある。その影響を受けた表現。(伊藤脚注)

(注)うれ【末】名詞:草木の枝や葉の先端。「うら」とも。(学研)

 

 二二九歌もみてみよう

 

◆難波方 塩干勿有曽祢 沈之 妹之光儀乎 見巻苦流思母

         (河辺宮人 巻二 二二九)

 

≪書き下し≫難波潟(なにはがた)潮干(しほひ)なありそね沈みにし妹が姿を見まく苦しも

 

(訳)難波潟(なにわがた)よ、引き潮などあってくれるな。ここに沈んだいとしいお方のみじめな姿を見るのはつらいことだから。(同上)

(注)難波潟:干満の差が激しく干潟が多いことで有名。(伊藤脚注)

(注)沈みにし:入水した。失恋ゆえか。(伊藤脚注)

(注)見まく苦しも:前歌の幻想が破れることへの嘆き。(伊藤脚注)

 

 二二八・二二九歌については、大阪市西淀川区姫島 姫嶋神社の歌碑と共に、拙稿ブログ「万葉歌碑を訪ねて(その2111)」で紹介している。

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 先の四三四から四三七歌の四三五歌に「久米の若子(くめのわくご)」の名前が出て来るが、博通法師の三〇七から三〇九歌にも歌われている。

 

 こちらもみてみよう。

題詞は、「博通法師徃紀伊國見三穂石室作歌三首」<博通法師(はくつうほふし)、紀伊の国(きのくに)に徃き、三穂(みほ)の石室(いはや)を見て作る歌三首>である。

 

◆皮為酢寸 久米能若子我 伊座家留 <一云 家牟> 三穂乃石室者 雖見不飽鴨 <一云 安礼尓家留可毛>

         (博通法師 巻三 三〇七)

 

≪書き下し≫はだ薄(すすき)久米の若子(わくご)がいましける<一には「けむ」といふ>三穂(みほ)の石室(いはや)は見れど飽(あ)かぬかも<一には「荒れにけるかも」といふ>

 

(訳)久米の若子がその昔おられたという三穂の岩屋、この岩屋は、見ても見ても見飽きることがない。<今やまったく人気がなくなってしまった>(「万葉集 一」 伊藤 博 著 角川ソフィア文庫より)

(注) はだすすき【はだ薄】分類枕詞:すすきの穂の意から「穂」「末(うれ)(=穂の先)」「うら」にかかる。(学研)

(注の注)ここでは久米に懸っている。穂が隠(こも)る意か。

(注)久米の若子:伝説上の人物。

(注)います【坐す・在す】自動詞:①いらっしゃる。おいでになる。▽「あり」の尊敬語。②おでかけになる。おいでになる。▽「行く」「来(く)」の尊敬語。(学研)ここでは①の意

(注)美穂:和歌山県日高郡美浜町三尾

 

 

常磐成 石室者今毛 安里家礼騰 住家類人曽 常無里家留

        (博通法師 巻三 三〇八)

 

≪書き下し≫常磐(ときは)なす石室(いはや)は今もありけれど住みける人ぞ常なかりける

 

(訳)岩屋は、常盤のように常に変わらず今もあり続けているけれども、ここに住んでいたという人は常住不変ではあり得なかった。(同上)

(注)住みける人:久米の若子のこと。

 

◆石室戸尓 立在松樹 汝乎見者 昔人乎 相見如之

       (博通法師 巻三 三〇九)

 

≪書き下し≫石室戸(いはやと)に立てる松の木汝(な)を見れば昔の人を相見(あひみ)るごとし

 

(訳)岩屋の戸口に立っている松の木よ、お前を見ると、ここに住んでいた昔の人と向かい合っているような気がする。(同上)

(注)昔の人:久米の若子のこと。

 

 三〇七から三〇九歌については、日高郡美浜町三尾海岸にある、巨大な岩石の歌碑とともに、拙稿ブログ「万葉歌碑を訪ねて(その1197)」で紹介している。

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(参考文献)

★「萬葉集」 鶴 久・森山 隆 編 (桜楓社)

★「万葉集 一」 伊藤 博 著 (角川ソフィア文庫

★「weblio古語辞典 学研全訳古語辞典」

★「weblio辞書 三省堂 大辞林 第三版」

★「weblio辞書 デジタル大辞泉

万葉集の世界に飛び込もう―万葉歌碑を訪ねて(その2479)―

●歌は、「忘れ草我が紐に付く香具山の古りにし里を忘れむがため」である。

茨城県石岡市小幡 ライオンズ広場万葉の森万葉歌碑(プレート) 20230927撮影

●歌碑(プレート)は、茨城県石岡市小幡 ライオンズ広場万葉の森にある。

 

●歌をみてみよう。

 

◆萱草 吾紐二付 香具山乃 故去之里乎 忘之為

大伴旅人 巻三 三三四)

 

≪書き下し≫忘れ草我(わ)が紐(ひも)に付く香具山の古りにし里を忘れむがため

 

(訳)忘れ草、憂いを忘れるこの草を私の下紐に付けました。香具山のあのふるさと明日香の里を、いっそのこと忘れてしまうために。(同上)

(注)わすれぐさ【忘れ草】名詞:草の名。かんぞう(萱草)の別名。身につけると心の憂さを忘れると考えられていたところから、恋の苦しみを忘れるため、下着の紐(ひも)に付けたり、また、垣根に植えたりした。歌でも恋に関連して詠まれることが多い。(weblio古語辞典 学研全訳古語辞典)

 

三三一から三三五歌の題詞は、「帥大伴卿歌五首」<帥大伴卿(そちのおほとものまへつきみ)が歌五首>である。

                           

 この歌については、拙稿ブログ「万葉歌碑を訪ねて(その905)」で紹介している。

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 「忘れ草」については、集中五首に詠まれている。これについては拙稿ブログ「万葉歌碑を訪ねて(その334)」で紹介している。

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 「三三四歌の歌碑」は、奈良県橿原市薬師寺阯にもある。この歌碑については、拙稿ブログ「万葉歌碑を訪ねて(その135改)」で紹介している。

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「忘れ草」というと「忘れ貝」が思い浮かぶ。「忘れ貝」「恋忘れ貝」ともそれぞれ五首が詠まれている。

 

「忘れ貝」を歌った一首「巻十一 二七九五」をみてみよう。

◆木國之 飽等濱之 忘貝 我者不忘 年者経管

        (作者未詳 巻十一 二七九五)

 

≪書き下し≫紀伊の国(きのくに)の飽等の浜の忘れ貝我れは忘れじ年は経ぬとも

 

(訳)紀伊の国(きのくに)の飽等(あくら)の浜の忘れ貝、その貝の名のように、私はあなたを忘れたりはすまい。年は過ぎ去って行っても。(伊藤 博 著 「万葉集 三」 角川ソフィア文庫より)

(注)上三句は序。「忘れ」を起こす。

(注)飽等の浜:所在未詳

(注)わすれがひ【忘れ貝】名詞:手に持つと、恋の苦しさを忘れさせる力があるという貝。和歌では「忘る」の序詞(じよことば)を構成することが多い。(weblio古語辞典 学研全訳古語辞典)

この歌碑は、和歌山市加太 田倉崎灯台下にある。拙稿ブログ「万葉歌碑を訪ねて(その1200)」で紹介している。

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 「忘れ貝」「恋忘れ貝」の歌については、拙稿ブログ「万葉歌碑を訪ねて(その740)」で紹介している。

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 忘れようとする「忘れ草」に対して、失った恋を想い、そっと佇む可憐な姿を思い浮かべさせる「思ひ草」もある。

 こちらの歌もみてみよう。

 

◆道邊之 乎花我下之 思草 今更尓 何物可将念

       (作者未詳 巻十 二二七〇)

 

≪書き下し≫道の辺(へ)の尾花(をばな)が下(した)の思(おも)ひ草(ぐさ)今さらさらに何をか思はむ

 

(訳)道のほとりに茂る尾花の下蔭の思い草、その草のように、今さらうちしおれて何を一人思いわずらったりするものか。(伊藤 博 著 「万葉集 二」 角川ソフィア文庫より)

(注)上三句は序。下二句の譬喩。(伊藤脚注)

(注) おもひぐさ【思草】〘名〙:① 植物「なんばんギセル(南蛮煙管)」の異名。《季・秋》② 植物「おみなえし(女郎花)」の異名。③ タバコの異称。 ⇒[補注]どの植物を指すのかについては古来諸説がある。和歌で「尾花が下の思草」と詠まれることが多いところから、ススキなどの根に寄生する南蛮煙管と推定されている。「思ふ」を導いたり、「思ひ種」にかけたりして用いられるが、下向きに花をつける形が思案する人の姿を連想させることによるものか。(コトバンク 精選版 日本国語大辞典

(注)いまさら【今更】副詞:今はもう。今になって。今改めて。(学研)

(注)さらに【更に】副詞:①改めて。新たに。事新しく。今さら。②その上。重ねて。いっそう。ますます。③〔下に打消の語を伴って〕全然…(ない)。決して…(ない)。少しも…(ない)。いっこうに…(ない)。(学研)

(注の注)さらさら【更更】副詞:①ますます。改めて。②〔打消や禁止の語を伴って〕決して。(学研)

 

 こちらは、集中この一首しかない。この歌については拙稿ブログ「万葉歌碑を訪ねて(その1302)」で紹介している。

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 「ナンバンキセル」の花を初めて見たのは、2021年8月19日である。以来毎年平城宮跡にナンバンキセルの花を追っかけているのである。

 

 2023年は、8月10日から10月11日まで何と10回も平城宮跡に足を運んでいるのである。夏が暑かったせいか10月に入っても花を見ることができたのである。時の移ろいとともに枯れてしまった花、黒く寂しくも哀愁がただようが、それなりに可憐さを持ち合わせているのである。

 



 

 

 

 

 

(参考文献)

★「萬葉集」 鶴 久・森山 隆 編 (桜楓社)

★「万葉集 一」 伊藤 博 著 (角川ソフィア文庫

★「万葉集 二」 伊藤 博 著 (角川ソフィア文庫

★「weblio古語辞典 学研全訳古語辞典」

★「コトバンク 精選版 日本国語大辞典

万葉集の世界に飛び込もう―万葉歌碑を訪ねて(その2478)」―

●歌は、「早来ても見てましものを山背の多賀の槻群散りにけるかも」である。

茨城県石岡市小幡 ライオンズ広場万葉の森万葉歌碑(プレート) 20230927撮影

●歌碑(プレート)は、茨城県石岡市小幡 ライオンズ広場万葉の森にある。

 

●歌をみていこう。

 

二七〇から二七七歌の歌群の題詞は、「高市連黒人羈旅歌八首」<高市連黒人(たけちのむらじくろひと)が羈旅(きりょ)の歌八首>である。

 

◆速来而母 見手益物乎 山背 高槻村 散去毛奚留鴨

       (高市黒人 巻三 二七七)

 

≪書き下し≫早(はや)来ても見てましものを山背(やましろ)の多賀の槻群(たかのつきむら)散にけるかも

 

(訳)もっと早くやって来て見たらよかったのに。山背の多賀のもみじした欅(けやき)、この欅林(けやきばやし)は、もうすっかり散ってしまっている。(伊藤 博 著 「万葉集 一」 角川ソフィア文庫より)

(注)早来ても:旅から早く帰って来ての意か。(伊藤脚注)

(注)多賀:京都府綴喜郡井手町多賀。(伊藤脚注)

(注)つき 【槻】名詞:木の名。けやきの古名か。 ※弓を作る材に用いる。(weblio古語辞典 学研全訳古語辞典)

 

 この歌ならびに「羈旅歌八首」については、拙稿ブログ「万葉歌碑を訪ねて(その483)」で紹介しているが、今一度振り返ってみてみよう。

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■二七〇歌■

◆客為而 物戀敷尓 山下 赤乃曽保舡 奥榜所見(二七〇歌)

       (高市連黒人 巻三 二七〇)

 

≪書き下し≫旅にしてもの恋(こひ)しきに山下(やました)し赤(あけ)のそほ船(ふね)沖に漕(こ)ぐ見ゆ

 

(訳)旅先にあって妻(つま)恋しく思っている時に、ふと見ると、先ほどまで山の下にいた朱塗りの船が沖のかなたを漕ぎ進んでいる。(同上)

(注)この冒頭歌だけ地名がない。(伊藤脚注)

(注)そほぶね【赭舟】名詞:赤土を塗った舟。「そほふね」とも。(学研)

 

 

 

■二七一歌■

◆櫻田部 鶴鳴渡 年魚市方 塩干二家良之 鶴鳴渡(二七一歌)

       (高市連黒人 巻三 二七一)

 

≪書き下し≫桜田 (さくらだ)へ鶴(たづ)鳴き渡る年魚市潟(あゆちがた)潮干(しほひ)にけらし鶴鳴き渡る

 

(訳)桜田の方へ、鶴が群れ鳴き渡って行く。年魚市潟(あゆちがた)では潮が引いたらしい。今しも鶴が鳴き渡って行く。(同上)

(注)桜田名古屋市南区。(伊藤脚注)

(注)年魚市潟:名古屋市南部の、入海であった所。(伊藤脚注)

 

 

 

■二七二歌■

◆四極山 打越見者 笠縫之 嶋榜隠 棚無小舟

       (高市連黒人 巻三 二七二)

 

≪書き下し≫四極山(しはつやま)うち越(こ)え見れば笠縫(かさぬひ)の島漕(こ)ぎ隠(かく)る棚(たな)なし小舟(をぶね)

 

(訳)四極山を越えて海上を見わたすと、笠縫(かさぬい)の島陰に漕ぎ隠れようとする小舟が見える。(同上)

(注)四極山:前歌より東。愛知県幡豆郡幡豆町吉良町付近。(伊藤脚注)

 

 この歌については、拙稿ブログ「万葉歌碑を訪ねて(その1459)」で紹介している。

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■二七三歌■

◆礒前 榜手廻行者 近江海 八十之湊尓 鵠佐波二鳴 未詳

       (高市連黒人 巻三 二七三)

≪書き下し≫磯(いそ)の崎(さき)漕(こ)ぎ廻(た)み行けば近江(あふみ)海(うみ)八十(やそ)の港(みなと)に鶴(たづ)さはに鳴く 未詳

(注)未詳とあるが、二七四、二七五歌の近江の歌と同じ折か不明、の意らしい。(伊藤脚注)

 

(訳)磯の崎を漕ぎめぐって行くと、近江の海、この海にそそぐ川の河口ごとに、鶴がたくさんうち群れて鳴き騒いでいる。(同上)

(注)磯(いそ)の崎(さき):岩石の多い岬。以下三首、近江での歌。北陸への途中の途中か。(伊藤脚注)

(注)八十(やそ)の港(みなと):たくさんの河口。(伊藤脚注)

 

 この歌については、拙稿ブログ「万葉歌碑を訪ねて(その410)」で紹介している。

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■二七四歌■

◆吾船者 枚乃湖尓 榜将泊 奥部莫避 左夜深去來()

       (高市連黒人 巻三 二七四)

 

≪書き下し≫我(わ)が舟は比良(ひら)の港に漕(こ)ぎ泊(は)てむ沖へな離(さか)りさ夜(よ)更(ふ)けにけり

 

(訳)われらの舟は比良の港でとまることにしよう。沖の方へ離れてくれるなよ。もはや夜も更けてきたことだし。(同上)

(注)比良の港:大津市比良山の東麓あたり。(伊藤脚注)

 

 

 

■二七五歌■

◆何處 吾将宿 高嶋乃 勝野原尓 此日暮去者

       (高市連黒人 巻三 二七五)

≪書き下し≫いづくにか我(わ)が宿りせむ高島(たかしま)の勝野(かつの)の原にこの日暮れなば

 

(訳)いったいどのあたりでわれらは宿を取ることになるのだろうか。高島の勝野の原でこの一日が暮れてしまったならば。(同上)

(注)高島:高島市。前歌の大津市比良より北。以下陸行の感慨(伊藤脚注)

 

 この歌については、拙稿ブログ「万葉歌碑を訪ねて(その250)」で紹介している。

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■二七六歌■

◆妹母我母 一有加母 三河有 二見自道 別不勝鶴

       (高市連黒人 巻三 二七六)

一本云 水河乃 二見之自道 別者 吾勢毛吾文 獨可文将去

 

≪書き下し≫妹も我(あ)れも一つなれかも三河(みかは)なる二見(ふたみ)の道ゆ別れかねつる

 一本には「三河の二見の道ゆ別れなば我(わ)が背(せ)も我(あ)れも一人かも行かむ」といふ

 

(訳)あなたも私も一つだからでありましょうか、三河の国の二見の道で、別れようとしてなかなか別れられないのは。(同上)

 一本「三河の国の二見の道でお別れしてしまったならば、あなたも私も、これから先一人ぼっちで旅行くことになるのでしょうか。

(注)妹:(ここでは)旅先で出逢った遊行女婦か。(伊藤脚注)

(注)二見:豊川市国府(こう)町と御油(ごゆ)町との境、東海道姫街道の分岐点か。以下三句、数の遊びがある。(伊藤脚注)

(注の注)ひめかいどう【姫街道】:江戸時代、東海道脇街道の一。見付宿の先から浜名湖の北岸を回り、本坂ほんざか峠を越えて御油宿へ至る道。女性の多くが今切いまぎれの渡しと新居関あらいのせきを避けてこの街道を通ったことによる名。本坂越え。(コトバンク  小学館デジタル大辞泉

 

 この歌については、拙稿ブログ「万葉歌碑を訪ねて(その1460)」で紹介している。

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 高市黒人の歌碑としては、近江神宮境内の歌碑が思い浮かぶ。この歌碑については、拙稿ブログ「万葉歌碑を訪ねて(その235)」で紹介している。

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(参考文献)

★「萬葉集」 鶴 久・森山 隆 編 (桜楓社)

★「万葉集 一」 伊藤 博 著 (角川ソフィア文庫

★「weblio古語辞典 学研全訳古語辞典」

★「コトバンク  小学館デジタル大辞泉

 

万葉集の世界に飛び込もう―万葉歌碑を訪ねて(その2477)―

●歌は、「妻もあらば摘みて食げまし沙弥の山野の上のうはぎ過ぎにけらずや」である。

茨城県石岡市小幡 ライオンズ広場万葉の森万葉歌碑(プレート) 20230927撮影

●歌碑(プレート)は、茨城県石岡市小幡 ライオンズ広場万葉の森にある。                   

 

●歌をみてみよう。

 

 二二〇から二二三歌の題詞は、「讃岐狭岑嶋視石中死人柿本朝臣人麿作歌一首并短歌」<讃岐(さぬき)の狭岑(さみねの)島にして、石中(せきちゅう)の死人(しにん)を見て、柿本朝臣人麻呂が作る歌一首并(あは)せて短歌>である。

(注)狭岑(さみねの)島:香川県塩飽諸島中の沙美弥島。今は陸続きになっている。(

伊藤脚注)

(注)石中の死人:海岸の岩の間に横たわる死人。(伊藤脚注)

 

◆妻毛有者 採而多宜麻之 作美乃山 野上乃宇波疑 過去計良受也

        (柿本人麻呂 巻二 二二一)

 

≪書き下し≫妻もあらば摘みて食(た)げまし沙弥(さみ)の山野(の)の上(うへ)のうはぎ過ぎにけらずや

 

(訳)せめて妻でもここにいたら、一緒に摘んで食べることもできたろうに、狭岑のやまの野辺一帯の嫁菜(よめな)はもう盛りが過ぎてしまっているではないか。(伊藤 博 著 「万葉集 一」 角川ソフィア文庫より)

(注)も 接続助詞 《接続》動詞と動詞型活用助動詞の連体形に付く。①〔逆接の確定条件〕…けれども。…のに。…が。②〔逆接の仮定条件〕…ても。…としても。(weblio古語辞典 学研全訳古語辞典)ここでは②の意

(注)食(た)げまし:一緒に摘んで食べられたろうに。死因は餓死と見ての表現。(伊藤脚注)

(注の注)たぐ【食ぐ】[動]食う。飲む。(weblio辞書 デジタル大辞泉

 

 二二〇から二二三の歌群については、拙稿ブログ「万葉歌碑を訪ねて(その1726)」で紹介している。

 梅原 猛氏は、その著「水底の歌 柿本人麿論 下」(新潮文庫)の中で、人麿が、近江以後、「彼は四国の狭岑島(さみねのしま)、そして最後には石見の鴨島(かもしま)へ流される。流罪は、中流から遠流へ、そして最後には死へと、だんだん重くなり、高津(たかつ)の沖合で、彼は海の藻くずと消える。」と書かれている。この展開にも触れている。

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沙弥島は、今は陸続きとなっているが、それ以前の姿についてはブログ拙稿「万葉歌碑を訪ねて(その1713)」で紹介している。

東山魁夷せとうち美術館もあり、その前庭には万葉歌碑やプレートが数多く立てられている。沙弥島一帯は万葉集の世界が広がるゾーンである。

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東山魁夷せとうち美術館入口 20220714撮影

 

 万葉集で、うはぎを詠んだ歌はもう一首、一八七九歌である。この歌については、拙稿ブログ「万葉歌碑を訪ねて(その1058)」で紹介している。

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「人麻呂歌碑」について、坂出市HPに。「人麻呂が沙弥島で詠んだ和歌(長歌反歌二首)が刻まれた碑,サヌカイトつくられています。いずれも人間の真情を格調高く歌っており,万葉集を代表する歌人です。柿本人麻呂は、文武天皇の御代(700年頃),西国に朝廷からの使者としておもむき,讃岐の 国、中の水門(みなと)-丸亀市金倉川口付近)を船出して都へ向かう途中、風波をさけるた めに狭岑島(沙弥島)に寄りました。

岩場にはすでに息絶えた死者が…。そんな姿を見た人麻呂が,死者への悼みと,死者の帰りを待つであろう妻子への思いを和歌に詠みました。」と書かれている。

坂出市沙弥島 ナカンダ浜人麿歌碑 20220714撮影

 

 

同HPに、「柿本人麿碑」について、「柿本人麻呂の詠んだ和歌の心を後世に伝えるため,坂出出身の作家中河与一氏が昭和11年に建立しました。」と書かれている。

「柿本人麿碑」については、拙稿ブログ「万葉歌碑を訪ねて(その1776)」で紹介している。

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坂出市沙弥島オソゴエの浜「柿本人麿碑」 20220714撮影

 

 

 

 

 

 

(参考文献)

★「萬葉集」 鶴 久・森山 隆 編 (桜楓社)

★「万葉集 一」 伊藤 博 著 (角川ソフィア文庫

★「水底の歌 柿本人麿論 下」 梅原 猛 著 (新潮文庫

★「weblio古語辞典 学研全訳古語辞典」

★「weblio辞書 デジタル大辞泉

★「坂出市HP」

万葉集の世界に飛び込もう―万葉歌碑を訪ねて(その2476)―

●歌は、「藤波の花は盛りになりにけり奈良の都を思ほすや君」である。

茨城県石岡市小幡 ライオンズ広場万葉の森万葉歌碑(プレート) 20230927撮影

●歌碑(プレート)は、茨城県石岡市小幡 ライオンズ広場万葉の森にある。

 

●歌をみていこう。

 

◆藤浪之 花者盛尓 成来 平城京乎 御念八君

       (大伴四綱 巻三 三三〇)

 

≪書き下し≫藤波(ふぢなみ)の花は盛りになりにけり奈良の都を思ほすや君

 

(訳)ここ大宰府では、藤の花が真っ盛りになりました。奈良の都、あの都を懐かしく思われますか、あなたさまも。(同上)

(注)「思ほすや君」:大伴旅人への問いかけ。(伊藤脚注)

 

この三三〇歌を含む三二八から三三七歌までの歌群は、小野老が従五位上になったことを契機に大宰府で宴席が設けられ、その折の歌といわれている。参加者は、小野老(おののおゆ)、大伴四綱(おおとものよつな)、大伴旅人、沙弥満誓(さみまんぜい)、山上憶良である。

 

大伴四綱( おおともよつな)については、「コトバンク 講談社デジタル版 日本人名大辞典+Plus」に次のように書かれている。

 「?-? 奈良時代の官吏。天平(てんぴょう)(729-749)初年のころに大宰府防人司佑(さきもりのつかさのじょう)をつとめた。17年雅楽助(ががくのすけ)となり、正六位上をさずかった。『万葉集』に歌5首がおさめられている。名は四縄ともかく。」

 

大伴四綱の歌をみてみよう。

 

■三二九歌■

◆安見知之 吾王乃 敷座在 國中者 京師所念

      (大伴四綱 巻三 三二九)

 

≪書き下し≫やすみしし我(わ)が大君(おほきみ)の敷きませる国の中(うち)には都し思ほゆ

 

(訳)安らかに見そなわす我が大君がお治めになっている国、その国々の中では、私はやはり都が一番懐かしい。(同上)

(注)やすみしし【八隅知し・安見知し】分類枕詞:国の隅々までお治めになっている意で、「わが大君」「わご大君」にかかる。(weblio古語辞典 学研全訳古語辞典)

(注)しきます【敷きます】分類連語:お治めになる。統治なさる。 ※なりたち動詞「しく」の連用形+尊敬の補助動詞「ます」(学研)

 

 この歌ならびに三三〇歌については、拙稿ブログ「万葉歌碑を訪ねて(その506)」で紹介している。

 ➡ こちら506

 

 

 

■五七一歌■

◆月夜吉 河音清之 率此間 行毛不去毛 遊而将歸

      (大伴四綱 巻四 五七一)

 

≪書き下し≫月夜(つくよ)よし川の音(おと)清しいざここに行くも行かぬも遊びて行かむ

 

(訳)月夜(ゆきよ)もよいし、川の音も清らかだ。さあここで、都へ行く人も筑紫に残る人も、歓を尽くして別れることにしよう。(同上)

 

左注は、「右一首防人佑大伴四綱」<右の一首は防人佑(さきもりのすけ)大伴四綱(おほとものよつな)>である。

 

 この歌については、拙稿ブログ「万葉歌碑を訪ねて(その899)」で紹介している。 

 ➡ こちら899

 

 

 

■六二九歌■

題詞は、「大伴四綱宴席歌一首」<大伴四綱が宴席歌一首>である。

(注)四綱が娘子の立場で歌ったもの。(伊藤脚注)

 

◆奈何鹿 使之来流 君乎社 左右裳 待難為礼

       (大伴四綱 巻四 六二九)

 

≪書き下し≫何(なに)すとか使(つかひ)の来つる君をこそかにもかくにも待ちかてにすれ

 

(訳)どうしようと使いなんぞよこしたの。何はさておき、あなたご自身をこそ今や遅しと待ちかねておりますのに。(同上)

(注)かにもかくにも:前歌の第四句を「何をさしおいても」の意に転じながら応じている。(伊藤脚注)

 

  六二七から六三〇歌は、宴席での歌の掛け合いである。娘子と初老の男との駆け引きである。娘子(架空の遊行女婦)が、赤麻呂に初老の男は、まず若返りの水を探して来てはとからかう。赤麻呂は、水を探しに行くとじらす。待っているのにと娘子、しかし結局ためらい尻込みする赤麻呂という流れである。

 歌を見ているだけでも、宴会でのにぎやかな情景が伝わってくる。

 

 この歌群については、拙稿ブログ「万葉歌碑を訪ねて(その2004)」で紹介している。

 ➡ こちら2004

 

 

 

■一四九九歌■

題詞は、「大伴四縄宴吟歌一首」<大伴四綱が宴吟(えんぎん)の歌一首>である。

(注)宴吟の歌:宴席吟誦の歌。女の立場。(伊藤脚注)

 

◆事繁 君者不来益 霍公鳥 汝太尓来鳴 朝戸将開

       (大伴四綱 巻八 一四九九)

 

≪書き下し≫言繁(ことしげ)み君は来まさずほととぎす汝(な)れだに来鳴け朝戸(あさと)開かむ

 

(訳)人の口がうるさいのにかこつけてあの方はいっこうにお見えにならない。時鳥よ、せめてお前だけでも来て鳴いておくれ。そしたら朝戸を開けように。(「万葉集 二」 伊藤 博 著 角川ソフィア文庫

(注)朝戸:朝開ける戸。この句、前四句といかにかかわるか不明。(伊藤脚注)

(注の注)あさと【朝戸】名詞:朝、起きて開ける戸。(学研)

 

 

 

 

 

(参考文献)

萬葉集 鶴 久・森山 隆 編 (桜楓社)

★「万葉集 一」 伊藤 博 著 (角川ソフィア文庫

★「万葉集 二」 伊藤 博 著 (角川ソフィア文庫

★「weblio古語辞典 学研全訳古語辞典」

★「コトバンク 講談社デジタル版 日本人名大辞典+Plus