万葉集の歌碑めぐり

万葉歌碑をめぐり、歌の背景等を可能な限り時間的空間的に探索し、万葉集の万葉集たる所以に迫っていきたい!

万葉集の世界に飛び込もう―万葉歌碑を訪ねて(その2543)―

●歌は、「風早の美穂の浦みの白つつじ見れどもさぶしなき人思へば」である。

大阪府柏原市高井田 高井田横穴公園万葉歌碑(プレート)(河辺宮人) 20240307撮影

●歌碑(プレート)は、大阪府柏原市高井田 高井田横穴公園にある。

 

●歌をみていこう。

 

 題詞は、「和銅四年辛亥河邊宮人見姫嶋松原美人屍哀慟作歌四首」<和銅四年辛亥(かのとゐ)に、河辺宮人(かはへのみやひと)、姫島(ひめしま)の松原の美人(をとめ)の屍(しかばね)を見て、哀慟(かな)しびて作る歌四首>である。

(注)和銅四年:711年

(注)姫島:ここは、紀伊三穂の浦付近の島(伊藤脚注)

 

◆加座皤夜能 美保乃浦廻之 白管仕 見十方不怜 無人念者 <或云見者悲霜 無人思丹>

         (河辺宮人 巻三 四三四)

 

≪書き下し≫風早(かざはや)の美穂(みほ)の浦みの白(しら)つつじ見れどもさぶしなき人思へば <或いは「見れば悲しもなき人思ふに」といふ>

 

(訳)風早の三穂(みほ)の海辺に咲き匂う白つつじ、このつつじは、いくら見ても心がなごまない。亡き人のことを思うと。<見れば見るほどせつない。亡き人を思うにつけて>(伊藤 博 著 「万葉集 一」 角川ソフィア文庫より)

(注)風早の:風の激しい意の枕詞的用法。(伊藤脚注)

(注)かざはや【風早】:風が激しく吹くこと。(weblio辞書 三省堂 大辞林 第三版)

(注)三穂:和歌山県日高郡美浜町三尾

 

 この歌については、拙稿ブログ「万葉歌碑を訪ねて(その707)」で四三四から四三七歌とともに紹介している。

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 河辺宮人なる名の歌は、二二八、二二九歌にもみられる。この歌については、拙稿ブログ「万葉歌碑を訪ねて(その2111)」で紹介している。

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 「三穂(和歌山県日高郡美浜町三尾)」の海岸の万葉歌碑については、拙稿ブログ「万葉歌碑を訪ねて(その1197)」で紹介している。

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昨日、奈良に所用があったので、ついでに猿沢の池や興福寺周辺を散策した。その前に、率川(いさがわ)神社を訪れたのである。

率川神社の万葉歌碑については、拙稿ブログ「万葉歌碑を訪ねて(その36改)」で紹介している。

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今回、新たな発見があった。

歌碑の背面を見てみたら、書き下し分が刻されていたので撮影。



さらに手水の水の注ぎ口が「ささゆり」であった。一般的には龍が多いが、大神神社の摂社であり、三枝祭(さいくさのまつり)別名「ゆりまつり」が行われ、ササユリを飾るだけのことはある。



 

 歌をみてみよう。

◆波祢蘰今為妹乎浦若三去来率去河之音之清左

      (作者未詳 巻七 一一一二)

 

≪書き下し≫はねかづら今する妹(いも)をうら若みいざ率川(いざかは)の音のさやけさ

 

(訳)はねかずらを今着けたばかりの子の初々(ういうい)しさに、さあおいでと誘ってみたい、そのいざという名の率川(いざがわ)の川音の、何とまあすがすがしいことか。(伊藤 博 著 「万葉集 二」 角川ソフィア文庫よ)

(注)はねかづら:髪飾りの鬘。若い女がつける。「いざ」まで序。「率川」を起す。(伊藤脚注)

(注)うらわかし【うら若し】形容詞:①木の枝先が若くてみずみずしい。②若くて、ういういしい。 ⇒参考:①の用例の「うら若み」は、形容詞の語幹に接尾語「み」が付いて、原因・理由を表す用法。(weblio古語辞典 学研全訳古語辞典)ここでは①の意

(注)いざ 感動詞:①さあ。▽人を誘うときに発する語。②どれ。さあ。▽行動を起こすときに発する語。 ⇒注意:「いさ」は別語。(学研)

(注)率川:春日山を発して佐保川に注ぐ川。(伊藤脚注)

 

 




 

 

 

 

 

 

 

(参考文献)

★「萬葉集」 鶴 久・森山 隆 編 (桜楓社)

★「万葉集 一」 伊藤 博 著 (角川ソフィア文庫

★「万葉集 二」 伊藤 博 著 (角川ソフィア文庫

★「weblio古語辞典 学研全訳古語辞典」

 

万葉集の世界に飛び込もう―万葉歌碑を訪ねて(その2542)―

●歌は、「皆人の待ちし卯の花散りぬとも鳴くほととぎす我れ忘れめや」である。

大阪府柏原市高井田 高井田横穴公園万葉歌碑(大伴清縄) 20240307撮影

●歌碑は、大阪府柏原市高井田 高井田横穴公園にある。

 

●歌をみていこう。

 

題詞は、「大伴清縄歌一首」<大伴清縄が歌一首>である。

 

◆皆人之 待師宇能花 雖落 奈久霍公鳥 吾将忘哉

       (大伴清縄 巻八 一四八二)

 

≪書き下し≫皆人の待ちし卯(う)の花散りぬとも鳴く霍公鳥我れ忘れめや

 

(訳)皆の方誰も彼もが心待ちにしておられた卯の花、この花が散ってしまっても、ここに来て鳴いている時鳥の声を、私はどうして忘れることができようか。(「万葉集 二」 伊藤 博 著 角川ソフィア文庫より)

(注)皆人:宴席の人々をさす。(伊藤脚注)

(注)めや 分類連語:…だろうか、いや…ではない。 ⇒なりたち:推量の助動詞「む」の已然形+反語の係助詞「や」(weblio古語辞典 学研全訳古語辞典)

 

 この歌については、拙稿ブログ「万葉歌碑を訪ねて(その2387)」で、集中24歌に詠まれている「卯の花」全歌とともに紹介している。

 ➡ 

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 ブログ作成のための資料を検索していると、大阪府柏原市の「史跡 高井田横穴公園」の「ふるさと広場」周辺に万葉歌碑(プレート)が立てられているのを知ったのである。

 早速、3月7日に現地を訪れたのである。

 柏原市立歴史資料館の駐車場に留め、同資料館内を見学、受付で万葉歌碑(プレート)のあるところを尋ねた。

 万葉歌碑は大体において扱いはマイナーになる。HPに「園内西エリアには花をテーマとした万葉歌のプレートが、テーマ となった花の植栽の近くに立てられている。」と書かれている旨を説明し、西エリア=ふるさと広場を教えていただく。

さらにパンフレットをいただき、資料館から「ふるさと広場」に行くルートを教えてもらったのである。



 

 下記地図の楕円の範囲内を重点的に散策したのである。

柏原市「史跡 高井田横穴公園パンフレット」を引用させていただきました。

 

 柏原市HPに「史跡高井田横穴公園内の万葉歌(プレート)」として18首が挙げられていたが、残念ながら11首しか見つけることができなかった。

 植え込みの奥深くに立てられており見つけにくいプレートや、剪定等の作業で切られたのか横たえられているプレートもあった。

 

 

高井田横穴」について、柏原市HPに、「高井田横穴は6世紀中頃から7世紀前半にかけて造られたお墓で、調査によって約160基が確認されており、実際は200基以上あるものと推定されています。

 横穴は、凝灰岩をくりぬいて造られており、奥にある玄室には、3体ほどの遺体が納められたと考えられています。市内には他にも、安福寺横穴群(玉手町)、玉手山東横穴群(旭ヶ丘)などがあり、このような横穴が見つかっているのは、大阪府下では柏原市だけです。」と書かれている。



 

 

 また、「線刻壁画」について、同HPに、「確認された横穴のうち、27基の横穴の壁や天井に線刻壁画が見つかっています。『人物』や『船』、『鳥』、『木の葉』など題材は様々で、当時の人々はどのような思いで壁画を描いたのでしょうか?

 普段は保存のため非公開になっていますが、毎年、春と秋には実際に横穴の中に入って壁画を間近に見ていただけます。くわしくは歴史資料館までお問い合わせください。」と書かれている。



 

 万葉歌碑巡りをしていなければ、「史跡 高井田横穴公園」の存在に気が付かなかったであろう。

 万葉集が導いてくれたといっても過言ではない。

いろいろ勉強しなさいと言われているようである。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

(参考文献)

★「萬葉集」 鶴 久・森山 隆 編 (桜楓社)

★「万葉集 二」 伊藤 博 著 (角川ソフィア文庫

★「weblio古語辞典 学研全訳古語辞典」

★「柏原市HP」

 

万葉集の世界に飛び込もう―万葉歌碑を訪ねて(その2541)―

●歌は、「鹿背の山木立を茂み朝さらず来鳴き響もすうぐひすの声」である。

京都府木津川市鹿背山東大平万葉歌碑(田辺福麻呂) 20240123撮影

●鹿背山歌碑は、京都府木津川市鹿背山東大平にある。

 

●歌をみていこう。

 

 題詞は、「讃久迩新京歌二首幷短歌」<久邇の新京を讃(ほ)むる歌二首 幷(あは)せて短歌>である。一〇五〇歌(長歌)と反歌二首、一〇五三歌(長歌)と反歌五首の歌群である。この歌は第二群の反歌の四首目である。

 第二群の長歌からみてみよう。

 

◆吾皇 神乃命乃 高所知 布當乃宮者 百樹成 山者木高之 落多藝都 湍音毛清之 鸎乃 来鳴春部者 巌者 山下耀 錦成 花咲乎呼里 左壮鹿乃 妻呼秋者 天霧合 之具礼乎疾 狭丹頬歴 黄葉散乍 八千年尓 安礼衝之乍 天下 所知食跡 百代尓母 不可易 大宮處

       (田辺福麻呂 巻六 一〇五三)

 

≪書き下し≫我(わ)が大君(おほきみ) 神の命(みこと)の 高知(たかし)らす 布当(ひたぎ)の宮は 百木(ももき)もり 山は木高(こだか)し 落ちたぎつ 瀬の音(おと)も清し うぐひすの 来鳴く春へは 巌(いはは)には 山下(やました)光り 錦なす 花咲きををり さを鹿の 妻呼ぶ秋は 天霧(あまぎ)らふ しぐれをいたみ さ丹(に)つらふ 黄葉(もみぢ)散りつつ 八千年(やちとせ)に 生(あ)れ付(つ)かしつつ 天(あめ)の下(した) 知らしめさむと 百代(ももよ)にも 変るましじき 大宮ところ

 

(訳)われらの大君、尊い神の命が高々と宮殿を造り営んでおられる布当の宮、このあたりには木という木が茂り、山は鬱蒼(うっそう)として高い。流れ落ちて逆巻く川の瀬の音も清らかだ。鴬(うぐいす)の来て鳴く春ともなれば、巌(いわお)には山裾も輝くばかりに、錦を張ったかと見紛う花が咲き乱れ、雄鹿が妻を呼んで鳴く秋ともなると、空かき曇って時雨が激しく降るので、赤く色づいた木の葉が散り乱れる・・・。こうしてこの地には幾千年ののちまでも次々と御子が現われ出で給い、天下をずっとお治めになるはずだとて営まれた大宮所、百代ののちまでも変わることなどあるはずもない大宮所なのだ、ここは。(伊藤 博 著 「万葉集 二」 角川ソフィア文庫より)

(注)大君:ここは聖武天皇

(注)布当(ふたぎ)の宮:久邇京の皇居(伊藤脚注)

(注の注)布当野(ふたいのの)京都府相楽郡加茂町瓶原布当野:歌枕。「五代集歌枕」「八雲御抄」に載る。「八雲御抄」が「みかのはら也」と注するように、恭仁京の置かれた瓶原の地であり、恭仁京の内裏は布当宮と称されている。万葉集」では「布当」を「ふたぎ」と読み、布当の野辺、布当の原、また布当山などが詠まれている。コトバンク 平凡社「日本歴史地名大系」)

(注)ももき【百木】〘名〙: たくさんの木。(コトバンク 精選版 日本国語大辞典

(注)もる:茂る(伊藤脚注)

(注)山下光り:山裾が照り輝くばかりに。(伊藤脚注)

(注)あまぎらふ【天霧らふ】分類連語:空が一面に曇っている。 ⇒なりたち:動詞「あまぎる」の未然形+反復継続の助動詞「ふ」(weblio古語辞典 学研全訳古語辞典)

(注)さにつらふ【さ丹頰ふ】分類連語:(赤みを帯びて)美しく映えている。ほの赤い。⇒参考:赤い頰(ほお)をしているの意。「色」「君」「妹(いも)」「紐(ひも)」「もみぢ」などを形容する言葉として用いられており、枕詞(まくらことば)とする説もある。 ⇒なりたち:接頭語「さ」+名詞「に(丹)」+名詞「つら(頰)」+動詞をつくる接尾語「ふ」(学研)

(注)生れ付かしつつ:こうして、幾千年の後までも皇子が生れついて統治者として次々とこの世に現れ。(伊藤脚注)

(注)知らしめさむと:お治めになるものとして。(伊藤脚注)

(注の注)しらしめす【知らしめす・領らしめす】他動詞:お治めになられる。▽「知る・領(し)る」の尊敬語。連語「知らす」より敬意が高い。 ⇒参考:動詞「しる」の未然形+上代の尊敬の助動詞「す」からなる「しらす」に尊敬の補助動詞「めす」が付いて一語化したもの。上代語。中古以降は「しろしめす」。(学研)

(注)変るましじき:変るはずもなく栄えている大宮所よ。マシジキはマシジの連体形。(伊藤脚注)

(注の注)ましじき>ましじ 助動詞特殊型《接続》活用語の終止形に付く。活用{○/○/ましじ/ましじき/○/○}:〔打消の推量〕…ないだろう。…まい。 ※上代語。 ⇒語法:多く、「得(う)」「敢(あ)ふ」「かつ(補助動詞)」「ゆ(助動詞)」など、可能の意味を表す語の下に付いて用いられた。中古には「まじ」がこれに代わって用いられた。(学研)

 

 

 

 「反歌五首」をみてみよう。

◆泉川 往瀬乃水之 絶者許曽 大宮地 遷往目

       (田辺福麻呂 巻六 一〇五四)

 

≪書き下し≫泉川(いづみかわ)行く瀬の水の絶えばこそ大宮ところうつろひゆかめ

 

(訳)泉川、この川の行く瀬の水が絶えるようなことでもあれば、大宮所のさびれてゆくこともありはしようが・・・。(同上)

(注)泉川:木津川の古名(伊藤脚注)

 

 

 

◆布當山 山並見者 百代尓毛 不可易 大宮處

        (田辺福麻呂 巻六 一〇五五)

 

≪書き下し≫布当山(ふたぎやま)山なみ見れば百代(ももよ)にも変わるましじき大宮ところ

 

(訳)布当山、この山の連なりを見ると、ここは百代ののちまで変わることなどあるはずのない大宮所だ。(同上)    

 

 

 

◆  ▼等之 續麻繋云 鹿脊之山 時之往者 京師跡成宿

    ▼「『女+感』+嬬」=をとめ

                ( 田辺福麻呂 巻六 一〇五六)

 

≪書き下し≫娘子(をとめ)らが続麻(うみを)懸(か)くといふ鹿背(かせ)の山(やま)時しゆければ都となりぬ

 

(訳)おとめたちが續(う)んだ麻糸を掛けるという桛(かせ)、その名にちなみの鹿背の山、この山のあたりも、時移り変わって、今や皇城の地となっている。(同上)

(注)上二句は序。「鹿背」を起す。つむいだ麻糸をかける桛(かせ)の意。桛は糸を掛けて巻くH字型の道具。(伊藤脚注)

(注)うみを 【績み麻】名詞:紡(つむ)いだ麻糸。麻や苧(からむし)の茎を水にひたし、蒸してあら皮を取り、その細く裂いた繊維を長くより合わせて作った糸。「うみそ」とも。(学研)

(注の注)うむ【績む】他動詞:(麻または苧(からむし)の繊維を)長くより合わせて糸にする。(学研)

 

 

 

◆鹿脊之山 樹立牟繁三 朝不去 寸鳴響為 鸎之音

        (田辺福麻呂 巻六 一〇五七)

 

≪書き下し≫鹿背(かせ)の山木立(こだち)を茂(しげ)み朝さらず来鳴き響(とよ)もすうぐひすの声

 

(訳)鹿背の山、この山には木立がいっぱい茂っているので、朝毎にやって来ては鶯が鳴き立てている。(同上)

(注)かせやま【鹿背山】:京都府木津川市にある山。布当(ふたぎ)の山。[歌枕](コトバンク デジタル大辞泉

 

 


1月22日、ブログ作成のため、京都府城陽市木津川市の万葉歌碑関連の記事を調べていたら、京都府木津川市鹿背山東大平の「鹿背山歌碑(万葉歌碑)」が目に飛び込んできた。

 ノーマークであった。家から車で15分のところにある。

 早速、翌23日に超ミニ万葉歌碑巡りのドライブで撮影をしてきたのである。

 

 

◆狛山尓 鳴霍公鳥 泉河 渡乎遠見 此間尓不通 一云渡遠哉不通有武

     (田辺福麻呂 巻六 一〇五八)

 

≪書き下し≫狛山(こまやま)に鳴くほととぎす泉川渡りを遠みここに通はず<一には「渡り遠みか通はずあるらむ」とある>

 

(訳)狛山で鳴いている時鳥、その時鳥は、泉川の渡し場が遠いせいか、ここまでは通って来ない。<渡し場が遠いので通って来ないのか>(同上)

(注)狛山:鹿背山の対岸の山。(伊藤脚注)

(注)泉川:木津川の古名(伊藤脚注)

(注)ここに通はず:久邇京(皇后宮はその一部)の自然の峻厳をほめたもの。(伊藤脚注)

 

 

 

一〇五三、一〇五八歌については、拙稿ブログ「万葉歌碑を訪ねて(その181改)」で紹介している。

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 一〇五四から一〇五七歌については、拙稿ブログ「万葉歌碑を訪ねて(その182改)」で紹介している。

 ➡ 

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 鹿背山歌碑(万葉歌碑)と史跡恭仁宮ならびに京都府立山城郷土館は下記の地図の通りである。



 

 

 

 

 

 

(参考文献)

★「萬葉集」 鶴 久・森山 隆 編 (桜楓社)

★「万葉集 二」 伊藤 博 著 (角川ソフィア文庫

★「weblio古語辞典 学研全訳古語辞典」

★「コトバンク デジタル大辞泉

万葉集の世界に飛び込もう―万葉歌碑を訪ねて(その2540)―

●歌は、「多摩川にさらす手作りさらさらになにぞこの子のここだ愛しき」ならびに「赤駒を山野にはかし捕りかにて多摩の横山徒歩ゆか遣らむ」である。

東京都調布市多摩川 児童公園万葉歌碑(作者未詳・宇遅部黒女) 20231119撮影

●歌碑は、東京都調布市多摩川 児童公園にある。

 

●歌をみていこう。

 

■巻十四 三三七三歌■

この歌については、前稿・前々稿で紹介している。

 

◆多麻河泊尓 左良須弖豆久利 佐良左良尓 奈仁曽許能兒乃 己許太可奈之伎

        (作者未詳 巻十四 三三七三)

 

≪書き下し≫多摩川(たまがは)にさらす手作(てづく)りさらさらになにぞこの子のここだ愛(かな)しき

 

(訳)多摩川にさらす手織の布ではないが、さらにさらに、何でこの子がこんなにもかわいくってたまらないのか。(「万葉集 三」 伊藤 博 著 角川ソフィア文庫より)

(注)上二句は序。「さらさらに」を起こす。(伊藤脚注)

(注)てづくり【手作り】名詞:①手製。自分の手で作ること。また、その物。②手織りの布。(weblio古語辞典 学研全訳古語辞典)ここでは②の意

(注)さらさら【更更】副詞:①ますます。改めて。②〔打消や禁止の語を伴って〕決して。(学研)ここではここでは①の意

(注)さらす【晒す・曝す】他動詞:①外気・風雨・日光の当たるにまかせて放置する。②布を白くするために、何度も水で洗ったり日に干したりする。③人目にさらす。( 学研)ここでは②の意

(注)ここだ【幾許】副詞:①こんなにもたくさん。こうも甚だしく。▽数・量の多いようす。②たいへんに。たいそう。▽程度の甚だしいようす。 ※上代語。(学研) ここでは②の意

 

 この歌については、前稿で「玉川碑」とともに紹介している。

 ➡ こちら2539

 

 

 

 この歌に関して、犬養 孝氏はその著「万葉の旅 中 近畿・東海・東国」(平凡社ライブラリー)の中で、次のように書かれている。

 「・・・武蔵野の南辺を流れる多摩川畔の古代の農村では調(貢物)として手作(てづく)り(手織)の麻布が多く貢納された。多摩川べりの調布村(青梅市)・調布市・田園調布もこれにちなむ名である。この歌も多摩川のどこかわからないが、もとの国庁のあった府中から調布・狛江(こまえ)あたりにかけての広い河原の景観など歌の趣を彷彿(ほうふつ)とさせる。貢納の布を白くするために、清流に洗い日にさらすのは、農村の女性の共同の仕事だ。その『サラス』の音にかけて、“サラニラニどうしてこの娘がこんなにもたまらなく可愛いのか”とうたっている。上二句にかれらの生活環境と古代多摩川の郷土色を反映させて序とし、愛しぬいてやまない真情の躍動を見せている。快適な律動の民謡として共同作業の場などでうたわれたものであろうか。・・・」

 

 

 

■巻二十 四四一七歌■

◆阿加胡麻乎 夜麻努尓波賀志 刀里加尓弖 多麻能余許夜麻 加志由加也良牟

       (宇遅部黒女 巻二十 四四一七)

 

≪書き下し≫赤駒(あかごま)を山野(やまの)にはかし捕(と)りかにて多摩(たま)の横山(よこやま)徒歩(かし)ゆか遣(や)らむ

 

(訳)赤駒、肝心なその赤駒を山野に放し飼いにして捕らえかね、多摩の横山、あの横山を歩いて行かせることになるのか。(伊藤 博 著 「万葉集 四」 角川ソフィア文庫より)

(注)山野にはかし捕りかにて:山裾に放し飼いにして捕らえかね。「山野」は共有の野か。(伊藤脚注)

(注)多摩の横山:国府から見て相模の方角に低く連なる山。(伊藤脚注)

 

左注は、「右一首豊嶋郡上丁椋椅部荒虫之妻宇遅部黒女」<右の一首は豊島(としま)の郡(こほり)の上丁(じやうちやう)椋椅部荒虫(くらはしべのあらむし)が妻(め)の宇遅部黒女(うぢべのくろめ)>である。

(注)こほり【郡】名詞:律令制で、国の下に属する地方行政区画。その下に郷(ごう)・里などがある。今日の郡(ぐん)に当たる。また、「県(あがた)」とも同義に用いた。(学研)

 

 この歌については、拙稿ブログ「万葉歌碑を訪ねて(その2534)」で紹介している。

 ➡ こちら2534

 

 

 

この歌に関して、犬養 孝氏はその著「万葉の旅 中 近畿・東海・東国」(平凡社ライブラリー)の中で、次のように書かれている。

 「・・・天平勝宝七年(七五五)二月防人交替のときの、武蔵国豊島郡出身の防人の妻の歌である。・・・武蔵の防人歌一二首のなかで六首が妻の歌となっているのは他国のものに見ない例で、召集のときのこの国の防人部領使いのはからいによるものででもあろうか。この歌は東国訛(なまり)りが多い歌で、当時防人は馬で行くことを許されていたから、せめて遠い旅路を馬で行かせたいのが妻の心だが、おりから牧畑などの放牧の時期で、“赤駒を山野にはなして捕るに捕られず(捕りかねて)あの多摩の横山の道を歩いて行かせねばならないのか”というのである。

 多摩の横山は多摩川南岸に低く連亙(れんごう)している多摩丘陵のことである。・・・多摩の横山は東京の西郊の小高いところからは一筋につづいて見える。作者の黒女(くろめ)が夫への慕情は、日常の農村生活に即しているだけに、また東国訛りで語られているだけにいっそう切実さを増すのである。見はらす多摩の横山のかなたには雲煙万里がたたまれているのだ。」

(注)うんえんばんり【雲烟万里】:はるかかなたをたなびく雲や霞かすみ。非常に遠く離れていることのたとえ。 ⇒注記:「雲烟」は、雲と霞、または雲と煙。「万里」は、はるかかなた。「烟」を「いん」と読まない。 ⇒表記:「烟」は、「煙」とも書く。(goo辞書)

 

 

 

 児童公園には「多摩川の渡しと多摩川の筏流し」の説明案内板も設置されていた。

 


 一泊二日の箱根越えの歌碑巡りであったが、前玉神社の「万葉灯籠」と多摩川沿いの「玉川碑」を巡ることができたなんて夢のようである。

 まだまだ見たい万葉歌碑があるが、次の機会を待とう。

 

 

 

 

 

 

 

(参考文献)

★「萬葉集」 鶴 久・森山 隆 編 (桜楓社)

★「万葉集 三」 伊藤 博 (角川ソフィア文庫

★「万葉集 四」 伊藤 博 (角川ソフィア文庫

★「万葉の旅 中 近畿・東海・東国」 犬養 孝 著 (平凡社ライブラリー

★「weblio古語辞典 学研全訳古語辞典」

★「goo辞書」

万葉集の世界に飛び込もう―万葉歌碑を訪ねて(その2539)―

●歌は、「多摩川にさらす手作りさらさらになにぞこの子のここだ愛しき」である。

東京都狛江市中和泉 玉川碑跡万葉歌碑(作者未詳) 20231119撮影

●歌碑は、東京都狛江市中和泉 玉川碑跡にある。

 

(注)「玉川碑跡」の名称は「東京都指定旧跡 玉川碑跡 【指定年月】大正11年8月【所在地】狛江市中和泉4-14 【所有者】伊豆美神社」に基づく。

 

 

●歌をみていこう。

 

◆多麻河泊尓 左良須弖豆久利 佐良左良尓 奈仁曽許能兒乃 己許太可奈之伎

        (作者未詳 巻十四 三三七三)

 

≪書き下し≫多摩川(たまがは)にさらす手作(てづく)りさらさらになにぞこの子のここだ愛(かな)しき

 

(訳)多摩川にさらす手織の布ではないが、さらにさらに、何でこの子がこんなにもかわいくってたまらないのか。(「万葉集 三」 伊藤 博 著 角川ソフィア文庫より)

(注)上二句は序。「さらさらに」を起こす。(伊藤脚注)

(注)てづくり【手作り】名詞:①手製。自分の手で作ること。また、その物。②手織りの布。(weblio古語辞典 学研全訳古語辞典)ここでは②の意

(注)さらさら【更更】副詞:①ますます。改めて。②〔打消や禁止の語を伴って〕決して。(学研)ここではここでは①の意

(注)さらす【晒す・曝す】他動詞:①外気・風雨・日光の当たるにまかせて放置する。②布を白くするために、何度も水で洗ったり日に干したりする。③人目にさらす。( 学研)ここでは②の意

(注)ここだ【幾許】副詞:①こんなにもたくさん。こうも甚だしく。▽数・量の多いようす。②たいへんに。たいそう。▽程度の甚だしいようす。 ※上代語。(学研) ここでは②の意

 

 この歌については、前稿で紹介している。

 ➡ 

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 「玉川碑」については、次のように狛江市HPに詳しく書かれているので引用させていただきます。

「玉川碑(中和泉4-624)は小高い築山の上に、礎石を横たえて立つ3メートル近い根府川石の石碑である。次のような万葉集の一首(巷14)が万葉仮名で刻まれている。

 

  多麻河泊爾左良須/弖豆久利佐良左良/

  爾奈仁曽許能児能/己許太可奈之伎

 

  「たまがわにさらすてづくりさらさらになにぞこのこのここだかなしき」と読む。『この子がとてもかわいい!』という内容だが、多摩の清流に脛(はぎ)もあらわに布を晒(さら)している若い娘さんの姿が目に浮かんでくる。

 なお碑の背面には旧碑の『碑陰記』(白河藩儒者広玉川碑 写真瀬典撰、同藩大塚桂書)と、再建の趣旨を伝える渋沢栄一の新しい碑陰記が刻まれている。下部には再建を推進した『玉川史蹟猶興会』の主要なメンバー17名の姓名が明らかにされている。

 文化(1804~)のころ、猪方村の名主の家に平井有三菫威という元土浦藩士の浪人が寄宿していた。手習師匠などをしていたが、白河楽翁(松平定信)や江戸の文化人とのパイプがあったらしい。

 彼は日本六玉川(むたがわ)の一つ武州玉川を称えるこれといった名所がないのを嘆いて石碑の建立を思い立ち、楽翁に揮毫を依頼する。碑は文化2年(1805)、猪方村半縄の堤防のほとりに水神社ともども完成する。ところが、20数年後の文政12年(1829)の大洪水で流失、行方が知れない。

 時は移り大正を迎える。三重県人羽場順承は楽翁を敬慕し、その遺著や遺跡を追っていた。たまたま旧桑名藩士の小沢氏に面会したとき、玉川碑の拓本(復刻)を見せられた。驚喜した羽場は強引にこれを譲り受けたが、このとき玉川碑がすでに失われていることを知る。早速猪方の旧跡を踏査、再建の希望に燃えることになる。村長の石井扇吉、郷土史家の石井正義などが賛同・協力し、まずは旧碑を求めて数回にわたる発掘を試みたが、結局見つからない。

 羽場は『楽翁公に私淑し又名勝保存の志ある』渋沢栄一を建碑事業の中心に据えた。楽翁-董威、渋沢-羽場というパトロンと企画者の相関が時を隔てて見られるのは興味深い。しかも渋沢、羽場ともに楽翁に私淑していたのだ。

 大正11年7月、羽場らの努力によって玉川碑再建のための『玉川史蹟猶興会』が発足。8月、東京府は猪方半縄の玉川碑の旧在地を『史蹟』に認定し、標識が立てられる。9月24日には講師として渋沢栄一稲村坦元東京府史蹟係)、八代国治(国史学者)、石井正義を迎えて、玉翠園内林間学校で『玉川史蹟講演会』が開かれる。その手早い段取は驚くばかりである。

 翌12年3月、渋沢は『勧進帳』を作り、財界に回した。自ら2500円を寄付し、財界から2150円が集まった。これに会費を加えると6000円を超した。渋沢はこの月、玉川碑陰記を撰文・揮毫している。(碑陰記の日付は楽翁の誕生日にちなみ前年の12月27日となっている。)大震災で玉川碑が倒れたことを知らせる石井扇吉村長の渋沢あて書翰が記録されているので、この年の8月までにはほぼ完成していたのであろう。石工は登戸の伊勢屋五代目吉沢耕石である。

 13年4月13日、震災のために延期となっていた除幕式が玉翠園で盛大に行われた。しめくくりの渋沢の講演は玉川碑再建の経緯と楽翁の顕彰を喜びのうちに語ったものだった。なお、この日は楽翁の命日であった。

 うっかりすると見落としてしまうが、玉川碑の塚の向かって右の根方に二首の和歌を刻んだ1メートル足らずの石がもう一つ立っている。

  建碑 玉川のその名所(などころ)も末遠く伝ふしるしの小松石文

  後楽 願くは千年(ちとせ)の後も来り見む百千萬(ももよろず)の子鶴引ゐて

  『羽場順承誌す』とあるから自作であろう。建碑事業に奔命したプロモーター羽場の矜持と感慨が深くこめられている。

 建立地が猪方の旧在地と大分はなれてしまった経緯は不明だが、玉翠園一帯の開発プランと関係があったのかもしれない。」



グーグルマップより引用させていただきました。

 

 この「玉川碑」も行田市の「前玉神社の万葉歌碑(万葉灯籠)」とともに、機会を見つけて是非行ってみたと考えていたが、一日で両方の歌碑に巡り合えるこの感激は何ともいえない。

 前玉神社では、元禄の御代にタイムスリップができたし、この玉川碑は3メートルの巨大な石碑であるが、大仏様のように歌の世界に誘ってくれるそんな空間を提供してくれたのである。

 万葉歌碑、万歳、万葉集、万歳である。

 

 

 行きは六郷さくら通りを歩き、帰りはバスを使って狛江駅に戻り、次の目的地玉川児童公園に向かったのである。



 

 

 

 

 

 

(参考文献)

★「萬葉集」 鶴 久・森山 隆 編 (桜楓社)

★「万葉集 三」 伊藤 博 著 (角川ソフィア文庫

★「weblio古語辞典 学研全訳古語辞典」

★「狛江市HP」

 

万葉集の世界に飛び込もう―万葉歌碑を訪ねて(その2538)―

●歌は、「多摩川にさらす手作りさらさらになにぞこの子のここだ愛しき」である。

 

 

東京都狛江市元和泉 小田急狛江駅北口広場万葉歌碑(プレート) 20231119撮影


●歌碑(プレート)は、東京都狛江市元和泉 小田急狛江駅北口広場にある。

 

●歌をみていこう。

 

◆多麻河泊尓 左良須弖豆久利 佐良左良尓 奈仁曽許能兒乃 己許太可奈之伎

        (作者未詳 巻十四 三三七三)

 

≪書き下し≫多摩川(たまがは)にさらす手作(てづく)りさらさらになにぞこの子のここだ愛(かな)しき

 

(訳)多摩川にさらす手織の布ではないが、さらにさらに、何でこの子がこんなにもかわいくってたまらないのか。(「万葉集 三」 伊藤 博 著 角川ソフィア文庫より)

(注)上二句は序。「さらさらに」を起こす。(伊藤脚注)

(注)てづくり【手作り】名詞:①手製。自分の手で作ること。また、その物。②手織りの布。(weblio古語辞典 学研全訳古語辞典)ここでは②の意

(注)さらさら【更更】副詞:①ますます。改めて。②〔打消や禁止の語を伴って〕決して。(学研)ここではここでは①の意

(注)さらす【晒す・曝す】他動詞:①外気・風雨・日光の当たるにまかせて放置する。②布を白くするために、何度も水で洗ったり日に干したりする。③人目にさらす。( 学研)ここでは②の意

(注)ここだ【幾許】副詞:①こんなにもたくさん。こうも甚だしく。▽数・量の多いようす。②たいへんに。たいそう。▽程度の甚だしいようす。 ※上代語。(学研) ここでは②の意

 

 リズミカルで、心情そのままの思いを詠っている。労働作業歌であろう。

 

 この歌については、拙稿ブログ「万葉歌碑を訪ねて(その1132)」で、武蔵の国の歌九首とともに紹介している。

 ➡ 

tom101010.hatenablog.com

 

 

 

 

 三三七三歌を読んでリズムを楽しんでいると、巻一 五四の坂門人足の「巨勢山のつらつら椿つらつらに見つつ偲はな巨勢の春野を」が頭に浮かんでくる。

 

 「さらさら」と歌われている歌をみてみよう。

◆石上 振乃神杉 神備西 吾八更ゝ 戀尓相尓家留

        (作者未詳 巻十 一九二七)

 

≪書き下し≫石上(いそのかみ)布留(ふる)の神杉(かむすぎ)神(かむ)びにし我(あ)れやさらさら恋にあひにける

 

(訳)石上の布留の社の年経た神杉ではないが、老いさらばえてしまった私が、今また改めて、恋の奴にとっつかまってしまいました。(伊藤 博著「万葉集 二」角川ソフィア文庫より)

(注)石上布留の神杉:奈良県天理市石上神宮一帯。上二句は序。「神びにし」を起す。(伊藤脚注)

(注)神びにし:下との関係では年老いるの意。(伊藤脚注)

(注)さらさら【更更】副詞:①ますます。改めて。②〔打消や禁止の語を伴って〕決して。(学研)ここでは①の意

 

 この歌については、拙稿ブログ「万葉歌碑を訪ねて(その54改)」で紹介している。

 ➡ 

tom101010.hatenablog.com

 

 

 

東京都狛江市元和泉 小田急狛江駅北口広場にある「万葉をしのぶ乙女像『たまがわ』」を見た後は、「玉川碑」へ。六郷さくら通りを歩いて目指す!

 

 

 

 

 

 

 

 

(参考文献)

★「萬葉集」 鶴 久・森山 隆 編 (桜楓社)

★「万葉集 二」 伊藤 博 著 (角川ソフィア文庫

★「万葉集 三」 伊藤 博 著 (角川ソフィア文庫

★「weblio古語辞典 学研全訳古語辞典」

★「狛江市HP]

 

万葉集の世界に飛び込もう―万葉歌碑を訪ねて(その2537)―

●歌は、「足柄の御坂に立して袖振らば家なる妹はさやに見もかも(四四二三歌)」と

「色深く背なが衣は染めましをみ坂給らばまさやかに見む(四四二四歌)」である。

埼玉県行田市藤原町 八幡山公園万葉歌碑(藤原部等母麻呂・物部刀自売) 20231119撮影

●歌碑は、埼玉県行田市藤原町 八幡山公園にある。

 

●歌をみていこう。

 

◆安之我良乃 美佐可尓多志弖 蘇埿布良波 伊波奈流伊毛波 佐夜尓美毛可母

       (藤原部等母麻呂 巻二十 四四二三)

 

≪書き下し≫足柄(あしがら)の御坂(みさか)に立(た)して袖(そで)振らば家(いは)なる妹(いも)はさやに見もかも

 

(訳)足柄の御坂に立って袖を振ったら、家にいるそなたは、はっきり見てくれるであろうか。

(注)立して:「立ちて」の東国形。(伊藤脚注)

(注)見もかも:見てくれるであろうか。「見も」は「見む」の東国形(伊藤脚注)

 

左注は、「右一首埼玉郡上丁藤原部等母麻呂」<右の一首は埼玉(さきたま)の郡(こほり)上丁(じやうちやう)藤原部等母麻呂(ふぢはらべのともまろ)>である。

 

続いて四四二四歌をみてみよう。

◆伊呂夫可久 世奈我許呂母波 曽米麻之乎 美佐可多婆良婆 麻佐夜可尓美無

       (物部刀自売 巻二十 四四二四)

 

≪書き下し≫色深(いろぶか)く背(せ)なが衣(ころも)は染(そ)めましをみ坂(さか)給(たま)らばまさやかに見む

 

(訳)色濃くうちの人の着物は染めておけばよかったなあ。足柄の御坂を通していただく時、はっきり見られるだろうに。(同上)

(注)まし 助動詞特殊型:《接続》活用語の未然形に付く。①〔反実仮想〕(もし)…であったら、…であるだろうに。…であっただろう。…であるだろう。▽実際には起こり得ないことや、起こらなかったことを想像し、それに基づいて想像した事態を述べる。②〔悔恨や希望〕…であればよいのに。…であったならばよかったのに。▽実際とは異なる事態を述べたうえで、そのようにならなかったことの悔恨や、そうあればよいという希望の意を表す。③〔ためらい・不安の念〕…すればよいだろう(か)。…したものだろう(か)。…しようかしら。▽多く、「や」「いかに」などの疑問の語を伴う。④〔単なる推量・意志〕…だろう。…う(よう)。 ⇒語法:(1)未然形と已然形の「ましか」已然形の「ましか」の例「我にこそ開かせ給(たま)はましか」(『宇津保物語』)〈私に聞かせてくださればよいのに。〉(2)反実仮想の意味①の「反実仮想」とは、現在の事実に反する事柄を仮定し想像することで、「事実はそうでないのだが、もし…したならば、…だろうに。(だが、事実は…である)」という意味を表す。(3)反実仮想の表現形式反実仮想を表す形式で、条件の部分、あるいは結論の部分が省略される場合がある。前者が省略されていたなら、上に「できるなら」を、後者が省略されていたなら、「よいのになあ」を補って訳す。「この木なからましかばと覚えしか」(『徒然草』)〈この木がもしなかったら、よいのになあと思われたことであった。〉(4)中世以降の用法 中世になると①②③の用法は衰え、推量の助動詞「む」と同じ用法④となってゆく。(weblio古語辞典 学研全訳古語辞典)

(注)給らば:タバルはタマハルの約。(伊藤脚注)

 

左注は、「右一首妻物部刀自賣」<右の一首は妻(め)の物部刀自売(もののべのとぢけ)

 

 

 

「万葉遺跡 防人藤原部等母麿遺跡」説明案内板 20231119撮影



 

 

行田市HPの「万葉遺跡・防人藤原部等母麿遺跡」の項に「文化財の概要」として「読み まんよういせき・さきもりふじわらべのともまろいせき

区分 県指定記念物

種別  旧跡

所在地 行田市藤原町1-27-2  八幡山公園内

公開/非公開 公開

指定年月日 昭和36年9月1日」とあり、

さらに「文化財の説明」として「天平勝宝7年(755)に防人(さきもり)を派遣する際、諸国より選ばれた壮丁(そうてい:成年男子)が父母妻子と惜別の情を歌った短歌90余詩が『万葉集第20巻』に載せられています。市内若小玉地区にある春日神社、大御田等の地名等から、この地を藤原部等母麿の遺跡と考察し、昭和36年5月1日に八幡山古墳に隣接して歌碑が建てられました。碑表には『藤原部等母麿』とその妻である『物部刀自売』の2首の歌が刻まれています。」と書かれている。



 

 この歌は、四四一三から四四三四歌の歌群の左注「二月廿九日武蔵國部領防人使掾正六位上安曇宿祢三國進歌數廿首 但拙劣歌者不取載之」<二月の二十九日、武蔵(むさし)の国(くに)の部領防人使(さきもりのことりづかい)掾(じよう)正六位上安曇宿禰三国(あづみのすくねみくに)。進(たてまつ)る歌の数二十首。ただし、拙劣(せつれつ)の歌は取り載せず>の歌である。

 武蔵の国の防人は国府に集結し、大宰府に向かったようである。四四一四から四四三四歌について、伊藤 博氏は脚注で「妻の歌と男の歌六首づつ。家族と共に国府に集結した時の歌らしい。」と書いておられる。また「家持が省いた『拙劣の歌』は、言葉や声調の上で防人の心情を表わすには未熟であると見られた歌らしい。」とも書かれている。

 

八幡山公園→小田急狛江駅前■

 タクシー様様である。前玉神社、八幡山公園の万葉歌碑を巡り吹上駅に戻ったのは8時30分前であった。

 そこからJR、小田急線と乗り継ぎ、狛江駅に。多摩川の鉄橋を渡ったのが10時43分であった。


 効率優先!

 

 

 

 

 

 

 

 

 

(参考文献)

★「萬葉集」 鶴 久・森山 隆 編 (桜楓社)

★「万葉集 四」 伊藤 博 著 (角川ソフィア文庫

★「weblio古語辞典 学研全訳古語辞典」

★「行田市HP」