万葉集の歌碑めぐり

万葉歌碑をめぐり、歌の背景等を可能な限り時間的空間的に探索し、万葉集の万葉集たる所以に迫っていきたい!

万葉歌碑を訪ねて(その788)―兵庫県伊丹市 昆陽池公園―万葉集 巻三 二七九 

●歌は、「我妹子に猪名野は見せつ名次山角の松原いつか示さむ」である。

 

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兵庫県伊丹市 昆陽池公園万葉歌碑(高市黒人

●歌碑は、兵庫県伊丹市 昆陽池公園にある。

 

●歌をみていこう。

 

◆吾妹兒二 猪名野者令見都 名次山 角松原 何時可将示

               (高市黒人 巻三 二七九)

 

≪書き下し≫吾妹子(わぎもこ)に猪名野(ゐなの)は見せつ名次山(なすきやま)角(つの)松原(まつばら)しいつか示さむ

 

(訳)いとしきこの人に猪名野(いなの)をみせることができた。名次山や角の松原をはいつこれがそれだと示すことができるのだろうか。早く連れて行ってやりたい。(伊藤 博 著 「万葉集 一」 角川ソフィア文庫より)

(注)いなの〔ゐなの〕【猪名野】:兵庫県伊丹市から尼崎市にかけての猪名川沿いの地域。古来、名勝の地で、笹の名所。[歌枕](weblio辞書 小学館デジタル大辞泉

(注)名次山:西宮市名次町の丘陵

(注)角の松原:西宮市松原町津門の海岸

 

 題詞は、「高市連黒人歌二首」<高市連黒人(たけちのむらじくろひと)が歌二首>である。もう一首もみてみよう。

 

◆去来兒等 倭部早 白菅乃 真野乃榛原 手折而将歸

               (高市黒人 巻三 二八〇)

 

≪書き下し≫いざ子ども大和(やまと)へ早く白菅(しらすげ)の真野(まの)の榛原(はりはら)手折(たお)りて行かむ

 

(訳)さあ皆の者よ、大和へ早く帰ろう。白菅の生い茂る真野の、この榛(あんのき)の林の小枝を手折って行こう。(同上)

(注)いざこども…:「さあ、諸君。」 ※「子ども」は従者や舟子、場に居合わせた者らをさす。(weblio古語辞典 学研全訳古語辞典+加筆)

(注)しらすげの【白菅の】分類枕詞:白菅(=草の名)の名所であることから地名「真野(まの)」にかかる。(学研)

次の歌の題詞は、「黒人妻答歌一首」<黒人が妻(め)の答ふる歌一首>である。この歌もみてみよう。

 

◆白菅乃 真野之榛原 徃左来左 君社見良目 真野乃榛原

                (黒人妻 巻三 二八一)

 

≪書き下し≫白菅の真野の榛原行(ゆ)くさ来(く)さ君こそ見らめ真野の榛原

 

(訳)白菅の生い茂る真野の榛の林、この林をあなたは往(ゆ)き来(き)にいつもご覧になっておられるのでしょう。けれど、私は初めてです、この美しい真野の榛原は。

(注)ゆくさくさ【行くさ来さ】分類連語:行くときと来るとき。往復。 ※「さ」は接尾語。(学研)

 

 万葉集には「白菅の真野の榛原」を詠んだ歌はもう一首収録されている。こちらもみてみよう。

 

題詞は、「寄木」<木に寄す>である。

 

◆白菅之 真野乃榛原 心従毛 不念吾之 衣尓摺

                (作者未詳 巻七 一三五四)

 

≪書き下し≫白菅(しらすげ)の真野(まの)の榛原(はりはら)心ゆも思はぬ我(わ)れし衣に摺(す)りつ

 

(訳)白菅の生い茂る真野の榛(はんのき)の林、その榛を、心底思っているわけでもない私としたことが、衣の摺染めに使ってしまった。(伊藤 博 著 「万葉集 二」 角川ソフィア文庫より)

(注)意に染まない男と契ったことを悔やんでいる歌である。

 

 万葉集には、「榛」「榛原」と詠われている歌は十四首あるが、「衣」とともに詠われている歌が九首ある。これは、「榛」が摺染(すりぞめ)に使われていたことを物語っている。タンニンを多く含むことから「黒色の染料」としても使われていたのである。

 摺染(すりぞめ)とは、コトバンク 精選版 日本国語大辞典によると、「 染色法の一つ。草木の花、または葉をそのまま布面に摺りつけて、自然のままの文様を染めること。また花や葉の汁で模様を摺りつけて染める方法もある。この方法で染めたものを摺衣(すりごろも)という。」とある。

 

 伊丹市HPによると昆陽池公園(こやいけこうえん)について、「都市部では珍しい野鳥のオアシス。関西屈指の渡り鳥の飛来地で、秋から冬にかけてはカモなど多くの水鳥が飛来します。また、春には白鳥の抱卵やひなたちを引き連れて泳ぐ可愛らしい姿も見られます。この地はもともと、奈良時代の名僧、行基が築造した農業」用のため池。これを市が昭和43年に一部公園化し、さらに47年・48年で現在の姿に整備しました。(後略)」と書かれている。

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昆陽池公園 園内案内図

 公園入口の園内案内図に池の真ん中が日本列島になっており、「野鳥の島」と書かれている。昔、出張の折、伊丹空港を離陸した飛行機の窓から、池の中に日本列島が見えたのに驚いたことがあったが、この昆陽池だったんだと感動を新たにした。

 

入口売店から昆虫館に続く「ふるさと小路」左手に万葉歌碑は建てられていた。

 

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昆陽池公園「ふるさと小路」(左手に歌碑が見える)


 

 

(参考文献)

★「萬葉集」 鶴 久・森山 隆 編 (桜楓社)

★「万葉集 一」 伊藤 博 著 (角川ソフィア文庫)

★「万葉集 二」 伊藤 博 著 (角川ソフィア文庫)

★「植物で見る万葉の世界」 國學院大學 萬葉の花の会 著 (同会 事務局)

★「weblio古語辞典 学研全訳古語辞典」

★「weblio辞書 小学館デジタル大辞泉

★「伊丹市HP」

 

万葉歌碑を訪ねて(その787)―兵庫県伊丹市 緑が丘公園―万葉集 巻七 一一四〇

●歌は、「しなが鳥猪名野を来れば有馬山夕霧立ちぬ宿りなくて」である。

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兵庫県伊丹市 緑が丘公園万葉歌碑(作者未詳)


 

●歌碑は、兵庫県伊丹市 緑が丘公園にある。

 

●歌をみていこう。

 

◆志長鳥 居名野乎来者 有間山 夕霧立 宿者無而  <一本云 猪名乃浦廻乎 榜来者>

               (作者未詳 巻七 一一四〇)

 

≪書き下し≫しなが鳥(どり)猪名野(ゐなの)を来(く)れば有馬山(ありまやま)夕霧(ゆふぎり)立ちぬ宿(やど)りはなくて  <一本には「猪名の浦みを漕ぎ来れば」といふ>

 

(訳)猪名の野をはるばるやって来ると、有馬山に夕霧が立ちこめて来た。宿をとるところもないのに。(伊藤 博 著 「万葉集 二」 角川ソフィア文庫より)

(注)しながとり【息長鳥】分類枕詞:①鳥が「ゐならぶ」ことから地名「猪那(ゐな)」にかかる。②地名「安房(あは)」にかかる。かかる理由未詳。 ※息の長い鳥の意で、具体的な鳥名には諸説ある。(weblio古語辞典 学研全訳古語辞典)

(注)いなの〔ゐなの〕【猪名野】:兵庫県伊丹市から尼崎市にかけての猪名川沿いの地域。古来、名勝の地で、笹の名所。[歌枕](weblio辞書 小学館デジタル大辞泉

(注)有間山 分類地名:歌枕(うたまくら)。今の兵庫県神戸市の六甲山北側にある有馬温泉付近の山々。「有馬山」とも書く。(学研)

(注)やどり【宿り】名詞:①旅先で泊まること。宿泊。宿泊所。宿所。宿。②住まい。住居。特に、仮の住居にいうことが多い。③一時的にとどまること。また、その場所。 ※参考「宿り」は、住居をさす「やど」「すみか」とは異なり、旅先の・仮のの意を含んでいる。(学研)

 

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歌碑脇の説明碑

 緑が丘公園は、伊丹市内で最も古い公園で、広さ7.8ヘクタール。上池と下池がある。下池のほとりには「鴻臚館(こうろかん)」や伊丹市の国際友好都市である中国佛山市から贈られたあずまや、亭(ちん)「賞月亭(しょうげつてい)」がある。先達のブログ等から、「上池の南」、「桜の大木の下」のキーワードで散策。結局池は全周回る羽目に。伊丹市の公園管理関係部署に電話をしたりして漸く見つけることができた。7.8ヘクタールのピンポイント。これもまた楽しからずやである

 

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緑が丘公園 賞月亭

 

 歌にあった「有間山」を詠み込んだ大伴坂上郎女の歌もみてみよう。

 

 題詞は、「七年乙亥大伴坂上郎女悲嘆尼理願死去作歌一首幷短歌」<七年乙亥(きのとゐ)に、大伴坂上郎女、尼(あま)理願(りぐわん)の死去を悲嘆(かな)しびて作る歌一首幷せて短歌>である。

(注)尼理願:新羅から渡来した尼

 

◆栲角乃 新羅國従 人事乎 吉跡所聞而 問放流 親族兄弟 無國尓 渡来座而 大皇之 敷座國尓 内日指 京思美弥尓 里家者 左波尓雖在 何方尓 念鷄目鴨 都礼毛奈吉 佐保乃山邊尓 哭兒成 慕来座而 布細乃 宅乎毛造 荒玉乃 年緒長久 住乍 座之物乎 生者 死云事尓 不免 物尓之有者 憑有之 人乃盡 草枕 客有間尓 佐保河乎 朝河渡 春日野乎 背向尓見乍 足氷木乃 山邊乎指而 晩闇跡 隠益去礼 将言為便 将為須敝不知尓 徘徊 直獨而 白細之 衣袖不干 嘆乍 吾泣涙 有間山 雲居軽引 雨尓零寸八

               (大伴坂上郎女 巻三 四六〇)

 

≪書き下し≫栲(たく)づのの 新羅(しらき)の国ゆ 人言(ひとごと)を よしと聞かして 問ひ放(さ)くる 親族(うがら)兄弟(はらがら) なき国に 渡り来まして 大君(おほきみ)の 敷きます国に うち日さす 都しみみに 里家(さといへ)は さはにあれども いかさまに 思ひけめかも つれもなき 佐保(さほ)の山辺(やまへ)に 泣く子なす 慕(した)ひ来まして 敷栲(しきたへ)の 家をも造り あらたまの 年の緒(を)長く 住まひつつ いまししものを 生ける者(もの) 死ぬといふことに 免(まぬか)れぬ ものにしあれば 頼めりし 人のことごと 草枕 旅なる間(あひだ)に 佐保川を 朝川(あさかは)渡り 春日野を そがひに見つつ あしひきの 山辺(やまへ)をさして 夕闇(ゆふやみ)と 隠(かく)りましぬれ 言はむすべ 為(せ)むすべ知らに た廻(もとほ)り ただひとりして 白栲(しろたへ)の 衣袖(ころもで)干(ほ)さず 嘆きつつ 我(あ)が泣く涙 有間山(ありまやま) 雲居(くもゐ)たなびき 雨に降りきや

 

(訳)遠いはるかな新羅の国から、日本(やまと)はよき国との人の噂をなるほどとお聞きになって、安否を問うてよこす親族縁者もいないこの国に渡ってこられ、大君のお治めになるわが国には、都にはびっしり里や家はたくさんあるのに、いったいどのように思われたのか、何のゆかりもないここ佐保の山辺に、親を慕うて泣く子のようにやってこられて、家まで造って年月長く住みついていらっしゃったのに、生ある者はかならず死ぬという定めから逃(のが)れることはできないものだから、頼りにしていた人がみんな旅に出て留守のあいだに、朝まだ早い佐保川を渡り、春日野を背後に見ながら、山辺を目指して夕闇に消え入るように隠れてしまわれた、それで、何を何と言ってよいのやら、何を何としたらよいのやらわけもわからぬままに、おろおろ往(い)ったり来たりしてたった一人で、白い喪服の乾く間もなく、ひたすら嘆きどおしに私が流す涙、この涙は、あなたさまのおられる有馬山に雲となってたなびき、雨となって降ったことでしょうか。(伊藤 博 著 「万葉集 一」 角川ソフィア文庫より)

(注)たくづのの【栲綱の】分類枕詞:栲(こうぞ)の繊維で作った綱は色が白いことから「白」に、また、その音を含む「新羅(しらぎ)」にかかる。(学研)

(注)とひさく【問ひ放く】自動詞:遠くから言葉をかける。問いを発する。(学研)

(注)うちひさす【打ち日さす】分類枕詞:日の光が輝く意から「宮」「都」にかかる。(学研)

(注)しみみに【繁みみに・茂みみに】副詞:すきまなくびっしりと。「しみに」とも。 ※「しみしみに」の変化した語。(学研)

(注)しきたへの【敷き妙の・敷き栲の】分類枕詞:「しきたへ」が寝具であることから「床(とこ)」「枕(まくら)」「手枕(たまくら)」に、また、「衣(ころも)」「袖(そで)」「袂(たもと)」「黒髪」などにかかる。 ここでは、「家」に懸っている。家を寝具に見立てた。

(注)有間山 分類地名:歌枕(うたまくら)。今の兵庫県神戸市の六甲山北側にある有馬温泉付近の山々。「有馬山」とも書く。(学研)

 

「朝日日本歴史人物事典」によると、「理願(読み)りがん」について次のように書かれている。「没年:天平7(735) 生年:生年不詳

新羅人の尼。新羅から日本に渡って活動し,日本で没した。『万葉集』巻3(460,461)に,彼女の死に当たって大伴坂上郎女 が作った挽歌2首が収められており,その左注から彼女についてわずかに知ることができる。それによれば,理願は渡日,帰化して,大伴安麻呂の佐保の宅に寄住していたという。安麻呂の死(和銅7〈714〉)ののちも同宅で安麻呂の妻の石川命婦や娘の坂上郎女,息子の旅人らのもとで暮らしたらしい。天平7年,にわかに病気となり死去した。坂上郎女の歌は,温泉で療養中の石川命婦に彼女の死を告げたもの。」

 

坂上郎女の母、石川郎女が、病気療養のため有馬に行っていたので、坂上郎女が一人で尼理願の葬儀を取り仕切り、悲しみながらの報告である。

 

 万葉の時代、畿内でも「有馬山(ありまやま)夕霧(ゆふぎり)立ちぬ宿(やど)りはなくて」と不安に駆られる時代に、尼として、新羅から日本にわたって来て活動する、使命感と精神力には脱帽する。

 

 家持と所縁があるとはいえ、このような歌も万葉集に収録するといった万葉集の包容力にも魅せられてしまう。

 

 

 

(参考文献)

★「萬葉集」 鶴 久・森山 隆 編 (桜楓社)

★「万葉集 一」 伊藤 博 著 (角川ソフィア文庫)

★「万葉集 二」 伊藤 博 著 (角川ソフィア文庫)

★「weblio古語辞典 学研全訳古語辞典」

★「weblio辞書 小学館デジタル大辞泉

★「伊丹市HP」

万葉歌碑を訪ねて(その786)―豊中市緑丘 豊中不動尊―万葉集 巻十二 三一九三 

●歌は、「玉かつま島熊山の夕暮れにひとりか君が山道越ゆらむ」である。

 

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豊中市緑丘 豊中不動尊万葉歌碑(作者未詳)

●歌碑は、豊中市緑丘 豊中不動尊にある。

 

●歌をみていこう。

 

◆玉勝間 嶋熊山之 夕晩 獨可君之 山道将越  一云 暮霧尓 長戀為乍 寐不勝可母

              (作者未詳 巻十二 三一九三)

 

≪書き下し≫玉かつま島熊山(しまくまやま)の夕暮(ゆふぐ)れにひとりか君が山道越ゆらむ  <一には「夕霧に長恋しつつ寐(いね)かてぬかも」といふ>

 

(訳)島熊山の夕暮れ時に、一人さびしく、あの方はその山道を越えておられるのであろうか。<夕霧の中で、果てない妻恋しさに、寝るに寝かねている>(伊藤 博 著 「万葉集 三」 角川ソフィア文庫より)

(注)たまかつま【玉勝間・玉籠】分類枕詞:「かつま」は、かごの意。竹かごは蓋(ふた)と身とが合うことから「逢(あ)ふ」にかかり、「逢ふ」に似た音の地名「安部(あべ)」にもかかる。また、地名「鳥熊山(とりくまやま)」にかかるが、かかる理由未詳。 ※「たま」は接頭語で美称。(weblio古語辞典 学研全訳古語辞典) 島熊山(しまくまやま)?

 

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歌の解説案内碑

 豊中不動尊のHPの「境内案内」にこの歌碑について次のように記載されている。

「千里を詠んだ歌の中でも最も古いとされる一首は、万葉集巻十二に出てきます。

『玉かつま島熊山の夕暮れにひとりか君が山道(やまじ)超ゆらむ』

この歌は作者不詳であるが、歌謡的な抒情味に富んだ作である。奈良朝以前が大和河内浪速あたりにあった頃、その地方から丹波方面へ旅立った夫の行路をしのんで留守居の妻が詠んだものであろう。島熊山の所在については、契沖阿闍梨がはじめて万葉代匠記の中に順徳上皇の八雲御抄を引いて考定された。

土地開発にともない山容地形が著しく変わって行くのでここに歌碑を立てることになった。

豊中市から【豊中不動尊と万葉歌碑】で『とよなか百景』の一つに選ばれております。」

 

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豊中不動尊山門

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豊中不動尊境内参道

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豊中不動尊本堂

 島熊山については、「レファレンス協同データベース」の「事例詳細」に、質問として、「島熊山の地名の由来について知りたい。万葉集に詠まれた地名だと聞いているが、古語でなんらかの意味があるのか。」に対する回答として、「『新潮日本古典集成 萬葉集 3』に島熊山の『くま』について『恐怖心をかきたてる国境の山か』との記載があるが、断定はできない。このほか地名の由来に関する一般的な資料を見ていただいた。」と書かれている。さらに「回答プロセス」として、郷土資料や諸文献の記述が添えられている。例えば、「『大阪府全志 巻之三』(清文堂)p1181-1182に島熊山付近の丘陵全体を千里山といい、高くはないが広大であるためにこの名がついたか、との記載があるが、島熊山の由来はなし。」(他にも引用文献があるが省略)「『古代地名語源辞典』(東京堂出版)『日本古代地名事典』(新人物往来社)には、いずれも別の地名に関する記載ではあるが、「しま」について「古代には一般的に周囲を囲まれた(特に水、水路で)地をシマと称し、平野部では平野内の小高地などもシマと称した」(古代地名語源辞典)「島状の地形より生じた地名」(日本古代地名事典)との記載があり。また「くま」について「湾曲しているものの曲がり目、奥まったところ、暗く陰になっているところ(山かげ)などの意味」(古代地名語源辞典)「奥まって隠れた土地、奥まった谷のあるところ」(日本古代地名事典)との記載があり。」として、上述の回答に至った旨が記載されている。

 豊中近辺の阪急バスの停留所名に「島熊山」がある。豊中市HPに「豊中に残されている自然豊かなみどりの保全・再生を地域で進めるため、平成18年(2006年)8月31日に大阪府から『島熊山緑地』が移管されました。また、平成20年(2008年)9月1日、新たに同緑地の南西部分の表面管理等が許可されました。」と記載がある。

 

 万葉時代の丘陵地帯を想像するに、獣道に毛が生えた程度の道を夕暮れに越えて行くことは、行く本人はもちろん見送る側も大変な思いであったろう。

 

 

 

(参考文献)

★「萬葉集」 鶴 久・森山 隆 編 (桜楓社)

★「万葉集 三」 伊藤 博 著 (角川ソフィア文庫

★「weblio古語辞典 学研全訳古語辞典」

★「豊中不動尊のHP」

★「レファレンス協同データベース」

 

万葉歌碑を訪ねて(その785)―吹田市津雲台 千里南公園―万葉集 巻十 一八三九

●歌は、「君がため山田の沢にゑぐ摘むと雪消の水に裳の裾濡れぬ」である。

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千里南公園万葉歌碑(作者未詳)

 

●歌碑は、吹田市津雲台 千里南公園にある。

 

●歌をみてみよう。

 

◆為君 山田之澤 恵具採跡 雪消之水尓 裳裾所沾

               (作者未詳 巻十 一八三九)

 

≪書き下し≫君がため山田の沢(さは)にゑぐ摘(つ)むと雪消(ゆきげ)の水に裳(も)の裾(すそ)濡れぬ               

 

(訳)あの方のために、山田のほとりの沢でえぐを摘もうとして、雪解け水に裳の裾を濡らしてしまった。(伊藤 博 著 「万葉集 二」 角川ソフィア文庫より)

(注)えぐ:〘名〙 (あくが強い意の「えぐし(蘞)」から出た語) 植物「くろぐわい(黒慈姑)」の異名。一説に「せり(芹)」をさすともいう。えぐな。(コトバンク 精選版 日本国語大辞典

(注)ほとり【辺】名詞:①辺境。果て。②そば。かたわら。近辺。③関係の近い人。縁故のある人。(学研)

 

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吹田慈姑(すいたくわい)の植え付けコーナー


 

 この歌碑の横に「吹田慈姑(すいたくわい)」が植えられているコーナーがある。

その説明案内板に、一般の慈姑奈良時代に唐から輸入されたもので、吹田慈姑は日本古来のものと書かれている。

 

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吹田慈姑(すいたくわい)の説明案内板

歌から脱線するが、慈姑(くわい)について詳しく知りたいと検索してみた。

 

「野菜情報サイト野菜ナビ」に詳しく書かれているので引用させていただく。慈姑にもいろいろな種類があることを知ったのである。

「国内で流通しているくわいの多くは青くわいです。扁球形で皮が青みがかっていて、おもに埼玉県や広島県で栽培されています。肉質がやわらかくホクホクとした食感が特徴。別名『京くわい』や『新田くわい』ともいわれます。京野菜や加賀野菜としてのくわいも在来の青くわいです。出回り時期は11月下旬から12月下旬頃。」

そして「吹田くわい」についても、「大阪府吹田市近郊で栽培されているくわいで、この地域で誕生した歴史の古いくわいです。塊茎が小さく皮は青〜赤紫色で苦味が少なめ。口当たりのよい緻密な肉質でくわいの中では一番食味がよいとされています。小粒なので『姫くわい』ともいわれ、なにわの伝統野菜の1つに指定されています。」と書かれている。

さらに、「大黒くわい」に関して、「青くわいや吹田くわいはオモダカ科ですが、この大黒くわいはカヤツリグサ科なので別の種類の植物です。皮が黒く果肉は白色。中華料理でよく使われ、シャキシャキした歯触りが魅力。炒め物や揚げ物などに使います。ちなみに、日本に古くから自生していた『黒くわい』もカヤツリグサ科なのでこの大黒くわいとは近縁になります。」と書かれている。

 

阪急千里線、大阪モノレールに「山田駅」がある。大阪府吹田市山田西四丁目である。歌の「山田」は、「山田のほとり」という表現から一般的な山田であり、地名ではないように思える。また、「雪解けの水」という表現から大阪とはなじまないように思える。

しかし「ゑぐ」「吹田慈姑」等からは吹田市千里南公園に歌碑を設置するのもロマンがあって楽しい感じがするのである。

 

万葉集のおかげで、慈姑について少し知ることができたのである。

 

 

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万葉歌碑(「ゑぐ」を詠う 作者未詳)

 

(参考文献)

★「萬葉集」 鶴 久・森山 隆 編 (桜楓社)

★「万葉集 二」 伊藤 博 著 (角川ソフィア文庫)

★「コトバンク 精選版 日本国語大辞典

★「野菜情報サイト野菜ナビ」

 

万葉歌碑を訪ねて(その784)―吹田市津雲台 千里南公園―万葉集 巻二十 四四二五

●歌は、「防人に行くは誰が背と問ふ人を見るが羨しさ物思ひもせず」である。

 

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吹田市津雲台 千里南公園万葉歌碑(作者未詳)

●歌碑は、吹田市津雲台 千里南公園にある。

 

●歌をみていこう。

 

◆佐伎毛利尓 由久波多我世登 刀布比登乎 美流我登毛之佐 毛乃母比毛世受

               (作者未詳 巻二十 四四二五)

 

≪書き下し≫防人(さきもり)に行くは誰(た)が背(せ)と問(と)ふ人を見るが羨(とも)しさ物思(ものも)ひもせず

 

(訳)「今度」防人に行くのはどなたの旦那さん」と尋ねる人、そんな人を見るのは羨(うらや)ましい限り。何の物思いもせずに。(伊藤 博 著 「万葉集 四」 角川ソフィア文庫より)

(注)自分の身の回りには防人として九州に送られる人がいない着易さと知りたがり屋から少し騒ぎ立てている人への批判を込めて詠っている。

 

 四四二五から四四三二歌の歌群の左注は、「右八首昔年防人歌矣 主典刑部少録正七位上磐余伊美吉諸君抄寫贈兵部少輔大伴宿祢家持」<右の八首は、昔年(さきつとし)の防人(さきもり)が歌なり。主典(さくわん)刑部少録(ぎやうぶのせうろく)正七位上磐余伊美吉諸君(いはれのいみきもろきみ)抄写(せうしや)し、兵部少輔大伴宿禰家持に贈る>である。

 

 他の七首をみてみよう。

 

◆阿米都之乃 可未尓奴佐於伎 伊波比都ゝ 伊麻世和我世奈 阿礼乎之毛波婆

               (作者未詳 巻二十 四四二六)

 

≪書き下し≫天地(あめつし)の神に幣(ぬさ)置き斎(いは)ひつついませ我が背(せ)な我(あ)れをし思(も)はば

 

(訳)天地(あめつち)の神々に幣を捧げ、身を慎み守りながらいらっしゃいませ、あなた。この私のことを思ってくださるならば。(同上)

 

 

◆伊波乃伊毛呂 和乎之乃布良之 麻由須比尓 由須比之比毛乃 登久良久毛倍婆

               (作者未詳 巻二十 四四二七)

 

≪書き下し≫家(いは)の妹(いも)ろ我(わ)を偲ふらし真結(まゆす)ひに結(ゆす)ひし紐(ひも)の解(と)くらく思(も)へば

 

(訳)家の愛(う)い奴(やつ)がおれのことをしきりに偲んでいるのだ。丸結びに結んだ着物の紐が、こんなに解けてくるからには。(同上)

(注)「いは」は「いへ」の訛り

(注)-ろ 接尾語:〔名詞に付いて〕①強調したり、語調を整えたりする。②親愛の気持ちを添える。 ※上代の東国方言。(weblio古語辞典 学研全訳古語辞典)

(注)真結(まゆす)ひ:本結び。丸結び。

 

◆和我世奈乎 都久志波夜利弖 宇都久之美 叡比波登加奈ゝ 阿夜尓可毛祢牟

               (作者未詳 巻二十 四四二八)「

 

≪書き下し≫我が背なを筑紫(つくし)は遣(や)りて愛(うつく)しみえひは解かななあやにかも寝(ね)む

 

(訳)うちの人、この人を筑紫へ遣(や)ってしまったら、いとしみながら、私の方は紐は解かないままでいたい・・・。ああそれにしても私はただもやもや案じながら独り寝ることになるというのか。(同上)

(注)「筑紫は」は「筑紫へ」の訛り。

(注)「えひ」は「結(ゆ)ひ」の訛り。

(注)なな 分類連語:…ないで。…(せ)ずに。 ※活用語の未然形に接続する。 ※上代の東国方言。 ※なりたち 打消の助動詞「ず」の上代の未然形「な」+上代の東国方言の助詞「な」(学研)

 

 

 

◆宇麻夜奈流 奈波多都古麻乃 於久流我弁 伊毛我伊比之乎 於岐弖可奈之毛

                (作者未詳 巻二十 四四二九)

 

≪書き下し≫馬屋(うまや)なる縄(なは)絶(た)つ駒(こま)の後(おく)るがへ妹(いも)が言ひしを置きて悲しも

 

(訳)馬屋の縄を切って飛び出そうとする駒のように、家に取り残されてなんかおらずに私も一緒に行く、あの子がそう言い張ったのに、無理やりあとに置いて来てしまっていやもうほんとに悲しい。

(注)上二句は序。「後(おく)るがへ」を起こす。

(注)おくる【後る・遅る】自動詞:①あとになる。おくれる。②後に残る。取り残される。③先立たれる。生き残る。④劣る。乏しい。(学研)

(注)がへ 終助詞:《接続》活用語の連体形に付く。〔反語〕…しようか、いや、けっして…しない。…するものか。 ※上代の東国方言。(学研)

 

 

◆阿良之乎乃 伊乎佐太波佐美 牟可比多知 可奈流麻之都美 伊埿弖登阿我久流

               (作者未詳 巻二十 四四三〇)

 

≪書き下し≫荒(あら)し男(を)のいをさ手挟(たはさ)み向(むか)ひ立ちかなるましづみ出(い)でてと我(あ)が来(く)る

 

(訳)冷静剛着な男子がいを矢を手挟んで狙いを定め、ぴたりと引く手を止めるように、見送りに騒ぎが静まるのを見はからって、おれは家を出て来た。(同上)

(注)あらしを【荒し男】名詞:荒々しい男。勇ましい男。「あらを」とも。(学研) →伊藤 博氏は脚注で、「私的な感情にめめしく捉われたりしないはずの、剛の男をいう。荒れすさんだ男をいう「荒男(あらを)」とは、別語、と書かれている。

(注)かなるましづみ 分類連語:騒がしい間を静かにこっそりと。▽真義は不詳。 ※上代東国方言か。成り立ち不詳。(学研)

 

◆佐左賀波乃 佐也久志毛用尓 奈ゝ弁加流 去呂毛尓麻世流 古侶賀波太波毛

               (作者未詳 巻二十 四四三一)

 

 

≪書き下し≫笹(ささ)が葉(は)のさやぐ霜夜(しもよ)に七重(ななへ)着(か)る衣(ころも)に増(ま)せる子(こ)ろが肌(はだ)はも

 

(訳)笹の葉のそよぐこの寒い霜夜に、七重も重ねて着る衣、その衣にもまさるあの子の肌は。(同上)

(注)着(か)る:「着(け)る」の東国形。

 

◆佐弁奈弁奴 美許登尓阿礼婆 可奈之伊毛我 多麻久良波奈礼 阿夜尓可奈之毛

               (作者未詳 巻二十 四四三二)

 

≪書き下し≫障(さ)へなへぬ命(みこと)にあれば愛(かな)し妹(いも)が手枕(たまくら)離(はな)れあやに悲しも

 

(訳)拒もうにも拒めない大君の仰せであるので、いとしいあの子の手枕を離れて来てしまって、ただむしょうにせつない。(同上)

(注)さへなふ【障へなふ】他動詞:こばむ。断る。(学研)

 

巻二十の防人の歌にあって、この八首の「昔年防人歌」は、作者未詳となっているが、 勝宝七歳(七五七年)二月に、東国から徴集され防人として任についた人たちは名前が明記されている。

防人達が奉った歌は一六六首であるが、「ただし、拙劣の歌は取り載せず」とあり、結局万葉集には、八十四首が収録されたのである。

 

 

(参考文献)

★「萬葉集」 鶴 久・森山 隆 編 (桜楓社)

★「万葉集 四」 伊藤 博 著 (角川ソフィア文庫)

★「古代史で楽しむ万葉集」 中西 進 著 (角川ソフィア文庫)

★「万葉の人びと」 犬養 孝 著 (新潮文庫

★「weblio古語辞典 学研全訳古語辞典」

万葉歌碑を訪ねて(その782,783)―大阪府吹田市津雲台 千里南公園―巻一 二〇、巻十二 三〇二五

 吉野の余韻さめやらぬ中、10月2日大阪北摂部の万葉歌碑めぐりを行った。

 

 9月24日、吉野の万葉歌碑をめぐり、壬申の乱という歴史的なエネルギーに押しつぶされて帰って来たのである。

 10月2日は、吹田、豊中、伊丹、尼崎界隈の万葉歌碑を巡った。ルートは、吹田市千里南公園➡豊中不動尊➡伊丹緑が丘公園➡伊丹昆陽池公園➡尼崎猪名川公園➡吹田垂水神社➡吹田片山ふれあい公園である。

 千里南公園、伊丹緑が丘公園、伊丹昆陽池公園、尼崎猪名川公園はいずれも広大な敷地を誇っている。そのなかで歌碑を探す必要があるので事前準備が大変なのである。千里南公園は、全国的にも、拓本がとれる公園として有名なのだそうである。園内案内図には、歌碑の位置や写真まで整備されていた。万葉歌碑は4基あることが事前に確認できた。

 あとの3つの広大な公園にある万葉歌碑はそれぞれ1基である。公園案内図等で万葉歌碑を書き記しているものは数少ない。先達たちのブログや公園紹介ブログなどをてがかりにある程度場所を特定していく。この作業もまた楽しいものである。

 伊丹緑が丘公園は、徒歩でのストリートビューができるのに気づき、上池の南、桜の古木の下というブログからのキーワードを手掛かりに池の周りをバーチャル散歩。しかし何度もトライするも見つけることができなかった。あとは現地任せである。

 

 

―その782―

●歌は、「あかねさす紫野行き標野行き野守は見ずや君が袖振る」である。


 

●歌碑は、大阪府吹田市津雲台 千里南公園にある。

 

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大阪府吹田市津雲台 千里南公園万葉歌碑(額田王

●歌をみていこう。

 この歌は、これまで幾度となくブログの中で紹介している。歌碑で群を抜いているのは、東近江市糠塚町 万葉の森船岡山 山頂付近に大きな岩自体を歌碑に見立てたようなものである。また、同万葉の森船岡山 蒲生野狩猟レリーフ横の碑も味わいがある。

山頂の碑は、ブログ拙稿「万葉歌碑を訪ねて(その259)」で、レリーフ横の碑は「同(その258)」で紹介している。 ➡ こちら

tom101010.hatenablog.com

 

◆茜草指 武良前野逝 標野行 野守者不見哉 君之袖布流

             (額田王 巻一 二〇)

 

≪書き下し≫あかねさす紫野行き標野(しめの)行き野守(のもり)は見ずや君が袖振る

 

(訳)茜(あかね)色のさし出る紫、その紫草の生い茂る野、かかわりなき人の立ち入りを禁じて標(しめ)を張った野を行き来して、あれそんなことをなさって、野の番人が見るではございませんか。あなたはそんなに袖(そで)をお振りになったりして。(伊藤 博 著 「万葉集 一」 角川ソフィア文庫より)

(注)あかねさす【茜さす】分類枕詞:赤い色がさして、美しく照り輝くことから「日」「昼」「紫」「君」などにかかる。(weblio古語辞典 学研全訳古語辞典)

(注)むらさき 【紫】①草の名。むらさき草。根から赤紫色の染料をとる。②染め色の一つ。①の根で染めた色。赤紫色。古代紫。古くから尊ばれた色で、律令制では三位以上の衣服の色とされた。(学研)

(注)むらさきの 【紫野】:「むらさき」を栽培している園。(学研)

(注)しめ【標】:神や人の領有区域であることを示して、立ち入りを禁ずる標識。また、道しるべの標識。縄を張ったり、木を立てたり、草を結んだりする。(学研)

 

 額田王の歌の「君」は、大海人皇子である。

額田王は、初め大海人皇子との間に十市皇女をもうけている。後に天智天皇後宮に入られたのである。壬申の乱という大動乱の中を生き抜き、運命に翻弄されたといっても過言ではない。

 

大化の改新のもうひとりの立役者藤原鎌足の伝記「大織冠伝」に、浜楼(浜御殿)での宴会の席で、大海人皇子が兄である天皇の前で、酔った勢いで、槍で床を突き刺したという事件があったという。政治的な問題や、額田王をめぐっての鬱積したものがあったのかもしれない。天皇は不敬だと、ただちに死を命じるものの、鎌足が間をとりなしたという。鎌足は、時代をみすえ、大海人皇子の時代がくると読んでいたのかもしれない。

 

 天智天皇は、近江大津宮で、伊賀采女宅子(いがのうねめやかこ)との間に生まれた大友皇子を皇太子にしたのである。人望のある大海人皇子でなく、母親の出自(しゅつじ)が良くないが、あえて天智天皇大友皇子を皇太子として藤原鎌足を中軸に力のバランスをとっていたのである。しかし、天智天皇八年十月に鎌足が亡くなり均衡が破れたのは言うまでもない。火種はくすぶりやがて壬申の乱となっていくのである。

 

「日本書記」によると、天智天皇十年(671年)十月、病床にある天皇から後事を託された大海人皇子(後の天武天皇)は、固辞し、出家して吉野に入ったとある。時の左大臣、右大臣を宇治まで見送りに行かせたという。この時に、「虎に翼を着けて放てり」と述べたという。十二月に天智天皇が亡くなる。

 

  672年六月吉野を出た大海人皇子は、鈴鹿山脈を越え、桑名を経て、今日の関ヶ原(当時は和射美<わざみ>が原)を拠点とし近江に攻め込むのである。七月、瀬田川での決戦で近江方が敗走し、大友皇子自死、終幕を迎えたのである。九月に飛鳥に戻り、十二月に飛鳥浄御原(あすかきよみがはら)で天武天皇として即位するのである。  神業的な1か月での政変である。

 

 額田王の歌に答えた大海人皇子の歌もみてみよう。

 

◆紫草能 尓保敝類妹乎 尓苦久有者 人嬬故尓 吾戀目八方

                (天武天皇 巻一 二一)

 

≪書き下し≫紫草(むらさき)のにほへる妹(いも)を憎(にく)くあらば人妻(ひとづま)故(ゆゑ)に我(あ)れ恋(こ)ひめやも

 

(訳)紫草のように色美しくあでやかな妹(いも)よ、そなたが気に入らないのであったら、人妻と知りながら、私としてからがどうしてそなたに恋いこがれたりしようか。(同上)

 

 

 

―その783―

●歌は、「石走る垂水の水のはしきやし君に恋ふらく我が心から」である。

 

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大阪府吹田市津雲台 千里南公園万葉歌碑(作者未詳)

●歌碑は、大阪府吹田市津雲台 千里南公園にある。

 

●歌をみていこう。

この歌については、ブログ拙稿「万葉歌碑を訪ねて(その557)」で紹介している。

 ➡ 

tom101010.hatenablog.com

 

◆石走 垂水之水能 早敷八師 君尓戀良 吾情柄

                                   (作者未詳 巻十二 三〇二五)

 

≪書き下し≫石走(いはばし)る垂水(たるみ)の水のはしきやし君に恋ふらく我(わ)が心から

 

(訳)岩の上に逆巻き落ちる滝の水のように、はしき―いとしいあなたに恋い焦がれるこの苦しさも、他の誰でもない、私の心のせいです。(伊藤 博 著 「万葉集 三」 角川ソフィア文庫より)

(注)はしきやし【愛しきやし】分類連語:ああ、いとおしい。ああ、なつかしい。ああ、いたわしい。「はしきよし」「はしけやし」とも。 ※上代語。 参考➡愛惜や追慕の気持ちをこめて感動詞的に用い、愛惜や悲哀の情を表す「ああ」「あわれ」の意となる場合もある。「はしきやし」「はしきよし」「はしけやし」のうち、「はしけやし」が最も古くから用いられている。 なりたち形容詞「は(愛)し」の連体形+間投助詞「やし」(weblio古語辞典 学研全訳古語辞典)

(注)上二句「石走 垂水之水能」は、水の流れが速い意で「早敷八師」を起こす。

 

 

 

(参考文献)

★「萬葉集」 鶴 久・森山 隆 編 (桜楓社)

★「万葉集 一」 伊藤 博 著 (角川ソフィア文庫)

★「万葉集 三」 伊藤 博 著 (角川ソフィア文庫)

★「万葉の人びと」 犬養 孝 著 (新潮文庫

★「古代史で楽しむ万葉集」 中西 進 著 (角川ソフィア文庫)

★「weblio古語辞典 学研全訳古語辞典」

                           

万葉歌碑を訪ねて(その779,780,781)―吉野町下市 下市中央公園拓美の園―巻一 二七、巻十一 二四五三、巻九 一七二一

 吉野の万葉の世界を満喫し、帰路に就く。途中吉野郡下市町下市中央公園内にある拓美の園に寄る。ここには現在16基(23面)の句碑歌碑が立ち並んでおり、手続きすれば拓本をとることができるようになっている。このうち万葉歌碑は3基である。

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「拓美の園」の碑

中央公園には総合体育館やテニスコート、野球場等がある。拓美の園の隣はゲートボール場となっており、年配の方たちが楽しんでおられた。

 

 

―その779―

 

●歌は、「淑き人のよしとよく見てよしと言ひし吉野よく見よ良き人よく見」である。

 

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吉野町下市 下市中央公園拓美の園(天武天皇

●歌碑は、吉野町下市 下市中央公園拓美の園にある。

 

●歌をみていこう。

この歌については、ブログ拙稿「万葉歌碑を訪ねて(その768)」で紹介している。

 ➡ 

tom101010.hatenablog.com

 

 

題詞は。「天皇幸于吉野宮時御製歌」<天皇、吉野の宮に幸(いでま)す時の御製歌>である。

(注)吉野宮:吉野宮滝付近にあった離宮

 

◆淑人乃 良跡吉見而 好常言師 芳野吉見与 良人四来三

               (天武天皇 巻一 二七)

 

≪書き下し≫淑(よ)き人のよしとよく見てよしと言ひし吉野よく見よ良き人よく見

 

(訳)昔の淑(よ)き人がよき所だとよくぞ見て、よしと言った、この吉野をよく見よ。今の良き人よ、よく見よ。(伊藤 博 著 「万葉集 一」 角川ソフィア文庫より)

(注)淑(よ)き人:立派な人。昔の貴人。ここは、天武天皇と持統皇后を寓している。

(注)良き人:今の貴人をいう。

                           

 

 

―その780―

 

●歌は、「春柳葛城山に立つ雲の立ちても居ても妹をしぞ思ふ」である。

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吉野町下市 下市中央公園拓美の園(柿本人麻呂歌集)

 

●歌碑は、吉野町下市 下市中央公園拓美の園にある。

 

歌をみていこう。

この歌は、ブログ拙稿「万葉歌碑を訪ねて(その433)」で紹介している

 ➡ tom101010.hatenablog.com

 

◆春楊 葛山 發雲 立座 妹念

                                  (柿本人麻呂歌集 巻十一 二四五三)

 

≪書き下し≫春柳(はるやなぎ)葛城山(かづらきやま)に立つ雲の立ちても居(ゐ)ても妹(いも)をしぞ思ふ

 

(訳)春柳を鬘(かずら)くというではないが、その葛城山(かつらぎやま)に立つ雲のように、立っても坐っても、ひっきりなしにあの子のことばかり思っている。(伊藤 博 著 「万葉集 三」 角川ソフィア文庫より)

(注)春柳(読み)ハルヤナギ:①[名]春、芽を出し始めたころの柳。②[枕]芽を出し始めた柳の枝をかずらに挿す意から、「かづら」「葛城山(かづらきやま)」にかかる。(コトバンク デジタル大辞泉

(注)上三句は序、「立ち」を起こす。

 

 人麻呂歌集の「略体」の典型と言われる歌で、「春楊葛山發雲立座妹念」と各句二字ずつ、全体では十字で表記されている。助辞はすべて読み添えてはじめて歌の体をなす。この詠み添えは前例歌によって明らかになるのである。

 

 

 

―その781-

 

●歌は、「苦しくも暮れゆく日かも吉野川清き川原見れど飽かなくに」である。

 

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吉野町下市 下市中央公園拓美の園(元仁)

●歌碑は、吉野町下市 下市中央公園拓美の園にある。

 

●歌をみていこう。

この歌については、ブログ拙稿「万葉歌碑を訪ねて(その445)」で紹介している。

 ➡ 

tom101010.hatenablog.com

 

◆辛苦 晩去日鴨 吉野川 清河原乎 雖見不飽君

              (元仁 巻九 一七二一)

 

≪書き下し≫苦しくも暮れゆく日かも吉野川(よしのがは)清き川原(かはら)を見れど飽(あ)かなくに

 

(訳)残念ながら今日一日はもう暮れて行くのか。吉野川の清らかな川原は、いくら見ても見飽きることはないのに。(伊藤 博 著 「万葉集 二」 角川ソフィア文庫より)

(注)くるし【苦し】形容詞:①苦しい。つらい。②〔上に助詞「の」「も」を伴って〕困難である。③心配だ。気がかりだ。④〔下に打消・反語を伴って〕不都合だ。差しさわりがある。⑤不快だ。見苦しい。聞き苦しい。(weblio古語辞典 学研全訳古語辞典)

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拓美の園歌碑群


 

 

蔵王権現堂(泉徳寺)➡鈴ヶ森行者堂➡近鉄吉野駅➡葛上白石神社➡老人福祉センター中荘温泉➡宮滝野外学校➡河川交流センター➡吉野歴史資料館➡桜木神社➡菜摘十二社神社➡喜佐谷公民館➡下市中央公園と万葉歌碑を巡って来た(9月24日)

 万葉歌碑を通して、吉野の時代的、地理的背景を垣間見ることができた。やんわりと包みこまれながら、その実、非常な衝撃を受けたのである。これまで頭の中で描き持っていた吉野のイメージの浅薄さに恥じ入るばかりである。吉野は、もっと良く見よ、である。

 

 吉野については、歴史的、地理的といった、時間と空間の組み合わせと万葉歌の関わりといった観点から総合的に書き表わしたいと考えるが、残念ながら頭の中の引出の数も少なく、容量も小さい。「万葉神事語事典」(國學院大學デジタルミュージアム)の「吉野」を読ませていただくと、自分が書きたいと考えていることが、もののみごとにまとめられている。申し訳ないが、引用させていただきます。いつかこのようにうまくまとめられる日を夢見て。

 

「吉野 Yoshino

現在の奈良県吉野郡。吉野町役場から東へ5キロほどの所に、宮滝遺跡があり、その付近が万葉時代に吉野宮が存在した場所と見られる。記紀には神武天皇の東征時における吉野の国つ神の奉仕が記されており、神話的歴史において吉野の聖性が形成されていたことをうかがわせる。『延喜式』には天皇の即位に際して行われる大嘗祭において、吉野の国栖が歌舞を奏上し、物産を献上した記事が見られ、平安時代まで吉野が天皇の王権を保証する観念を役割を担っていたことが確認できる。万葉集での初出は、天武天皇御製(1-25)で、大海人皇子(天武)が天智天皇と決別して近江大津宮を出て吉野に隠棲する折を回想する歌である。大海人皇子と吉野の関係については、大海人皇子道教の呪術に秀でていたこと(紀)と、道教の秘術に関わる水銀が吉野で産出したこととの関連も指摘されている。天智天皇崩御した後、大海人皇子は672年に吉野を基点として兵を挙げ、近江朝廷を討ち滅ぼして、天武天皇として即位した(壬申の乱)。万葉集には、柿本人麻呂(1-36~39)に始まり、笠金村(6-920~922)、山部赤人(6-923~927)、大伴旅人(3-315~316)、大伴家持(18-4098~4100)へと続く吉野讃歌の系譜を確認することができる。それらの歌では、吉野の情景の美しさと吉野宮のすばらしさを讃美することによって、そこを営む天皇を讃美するという論理がうかがわれ、吉野が万葉時代の王権にとって重要な場所であったことがうかがわれる。柿本人麻呂の吉野讃歌では、山川の美しさとともに山の神、川の神が持統天皇に奉仕する様子が歌われ、吉野の神聖性を最もよく示している。持統天皇は在位11年の間に31回の吉野行幸を行ったが、それは吉野がカリスマ的天皇であった夫天武天皇壬申の乱に勝利をおさめ、679年には、天武天皇の皇子、天智天皇の皇子を集めて不逆の盟約を交わした地であったためであろう。中継ぎ的な天皇であった持統天皇は、カリスマ的天皇であった夫天武天皇の威光を借りることで、天下を維持しようとしたのである。山部赤人の吉野讃歌では、清透な吉野の情景が讃美されるが、それは聖武天皇の治世の安寧を、自然の秩序の安定によって示すものである。大伴旅人大伴家持の吉野讃歌は、天皇の前で奏上されることのなかったものだが、彼らが天皇讃美のために予め吉野讃歌を作ったことは、吉野と王権とのつながりの深さを物語っている。大浦誠士」

 ありがとうございました。

 

「淑き人のよしとよく見てよしと言ひし吉野よく見よ良き人よく見」

 

  

(参考文献)

★「萬葉集」 鶴 久・森山 隆 編 (桜楓社)

★「万葉集 一」 伊藤 博 著 (角川ソフィア文庫)

★「万葉集 二」 伊藤 博 著 (角川ソフィア文庫)

★「万葉集 三」 伊藤 博 著 (角川ソフィア文庫)

★「万葉神事語事典」(國學院大學デジタルミュージアム

★「weblio古語辞典 学研全訳古語辞典」

★「コトバンク デジタル大辞泉

★「下市町HP」