万葉集の歌碑めぐり

万葉歌碑をめぐり、歌の背景等を可能な限り時間的空間的に探索し、万葉集の万葉集たる所以に迫っていきたい!

万葉集の世界に飛び込もう―万葉歌碑を訪ねて(その2539)―

●歌は、「多摩川にさらす手作りさらさらになにぞこの子のここだ愛しき」である。

東京都狛江市中和泉 玉川碑跡万葉歌碑(作者未詳) 20231119撮影

●歌碑は、東京都狛江市中和泉 玉川碑跡にある。

 

(注)「玉川碑跡」の名称は「東京都指定旧跡 玉川碑跡 【指定年月】大正11年8月【所在地】狛江市中和泉4-14 【所有者】伊豆美神社」に基づく。

 

 

●歌をみていこう。

 

◆多麻河泊尓 左良須弖豆久利 佐良左良尓 奈仁曽許能兒乃 己許太可奈之伎

        (作者未詳 巻十四 三三七三)

 

≪書き下し≫多摩川(たまがは)にさらす手作(てづく)りさらさらになにぞこの子のここだ愛(かな)しき

 

(訳)多摩川にさらす手織の布ではないが、さらにさらに、何でこの子がこんなにもかわいくってたまらないのか。(「万葉集 三」 伊藤 博 著 角川ソフィア文庫より)

(注)上二句は序。「さらさらに」を起こす。(伊藤脚注)

(注)てづくり【手作り】名詞:①手製。自分の手で作ること。また、その物。②手織りの布。(weblio古語辞典 学研全訳古語辞典)ここでは②の意

(注)さらさら【更更】副詞:①ますます。改めて。②〔打消や禁止の語を伴って〕決して。(学研)ここではここでは①の意

(注)さらす【晒す・曝す】他動詞:①外気・風雨・日光の当たるにまかせて放置する。②布を白くするために、何度も水で洗ったり日に干したりする。③人目にさらす。( 学研)ここでは②の意

(注)ここだ【幾許】副詞:①こんなにもたくさん。こうも甚だしく。▽数・量の多いようす。②たいへんに。たいそう。▽程度の甚だしいようす。 ※上代語。(学研) ここでは②の意

 

 この歌については、前稿で紹介している。

 ➡ 

tom101010.hatenablog.com

 

 

 

 「玉川碑」については、次のように狛江市HPに詳しく書かれているので引用させていただきます。

「玉川碑(中和泉4-624)は小高い築山の上に、礎石を横たえて立つ3メートル近い根府川石の石碑である。次のような万葉集の一首(巷14)が万葉仮名で刻まれている。

 

  多麻河泊爾左良須/弖豆久利佐良左良/

  爾奈仁曽許能児能/己許太可奈之伎

 

  「たまがわにさらすてづくりさらさらになにぞこのこのここだかなしき」と読む。『この子がとてもかわいい!』という内容だが、多摩の清流に脛(はぎ)もあらわに布を晒(さら)している若い娘さんの姿が目に浮かんでくる。

 なお碑の背面には旧碑の『碑陰記』(白河藩儒者広玉川碑 写真瀬典撰、同藩大塚桂書)と、再建の趣旨を伝える渋沢栄一の新しい碑陰記が刻まれている。下部には再建を推進した『玉川史蹟猶興会』の主要なメンバー17名の姓名が明らかにされている。

 文化(1804~)のころ、猪方村の名主の家に平井有三菫威という元土浦藩士の浪人が寄宿していた。手習師匠などをしていたが、白河楽翁(松平定信)や江戸の文化人とのパイプがあったらしい。

 彼は日本六玉川(むたがわ)の一つ武州玉川を称えるこれといった名所がないのを嘆いて石碑の建立を思い立ち、楽翁に揮毫を依頼する。碑は文化2年(1805)、猪方村半縄の堤防のほとりに水神社ともども完成する。ところが、20数年後の文政12年(1829)の大洪水で流失、行方が知れない。

 時は移り大正を迎える。三重県人羽場順承は楽翁を敬慕し、その遺著や遺跡を追っていた。たまたま旧桑名藩士の小沢氏に面会したとき、玉川碑の拓本(復刻)を見せられた。驚喜した羽場は強引にこれを譲り受けたが、このとき玉川碑がすでに失われていることを知る。早速猪方の旧跡を踏査、再建の希望に燃えることになる。村長の石井扇吉、郷土史家の石井正義などが賛同・協力し、まずは旧碑を求めて数回にわたる発掘を試みたが、結局見つからない。

 羽場は『楽翁公に私淑し又名勝保存の志ある』渋沢栄一を建碑事業の中心に据えた。楽翁-董威、渋沢-羽場というパトロンと企画者の相関が時を隔てて見られるのは興味深い。しかも渋沢、羽場ともに楽翁に私淑していたのだ。

 大正11年7月、羽場らの努力によって玉川碑再建のための『玉川史蹟猶興会』が発足。8月、東京府は猪方半縄の玉川碑の旧在地を『史蹟』に認定し、標識が立てられる。9月24日には講師として渋沢栄一稲村坦元東京府史蹟係)、八代国治(国史学者)、石井正義を迎えて、玉翠園内林間学校で『玉川史蹟講演会』が開かれる。その手早い段取は驚くばかりである。

 翌12年3月、渋沢は『勧進帳』を作り、財界に回した。自ら2500円を寄付し、財界から2150円が集まった。これに会費を加えると6000円を超した。渋沢はこの月、玉川碑陰記を撰文・揮毫している。(碑陰記の日付は楽翁の誕生日にちなみ前年の12月27日となっている。)大震災で玉川碑が倒れたことを知らせる石井扇吉村長の渋沢あて書翰が記録されているので、この年の8月までにはほぼ完成していたのであろう。石工は登戸の伊勢屋五代目吉沢耕石である。

 13年4月13日、震災のために延期となっていた除幕式が玉翠園で盛大に行われた。しめくくりの渋沢の講演は玉川碑再建の経緯と楽翁の顕彰を喜びのうちに語ったものだった。なお、この日は楽翁の命日であった。

 うっかりすると見落としてしまうが、玉川碑の塚の向かって右の根方に二首の和歌を刻んだ1メートル足らずの石がもう一つ立っている。

  建碑 玉川のその名所(などころ)も末遠く伝ふしるしの小松石文

  後楽 願くは千年(ちとせ)の後も来り見む百千萬(ももよろず)の子鶴引ゐて

  『羽場順承誌す』とあるから自作であろう。建碑事業に奔命したプロモーター羽場の矜持と感慨が深くこめられている。

 建立地が猪方の旧在地と大分はなれてしまった経緯は不明だが、玉翠園一帯の開発プランと関係があったのかもしれない。」



グーグルマップより引用させていただきました。

 

 この「玉川碑」も行田市の「前玉神社の万葉歌碑(万葉灯籠)」とともに、機会を見つけて是非行ってみたと考えていたが、一日で両方の歌碑に巡り合えるこの感激は何ともいえない。

 前玉神社では、元禄の御代にタイムスリップができたし、この玉川碑は3メートルの巨大な石碑であるが、大仏様のように歌の世界に誘ってくれるそんな空間を提供してくれたのである。

 万葉歌碑、万歳、万葉集、万歳である。

 

 

 行きは六郷さくら通りを歩き、帰りはバスを使って狛江駅に戻り、次の目的地玉川児童公園に向かったのである。



 

 

 

 

 

 

(参考文献)

★「萬葉集」 鶴 久・森山 隆 編 (桜楓社)

★「万葉集 三」 伊藤 博 著 (角川ソフィア文庫

★「weblio古語辞典 学研全訳古語辞典」

★「狛江市HP」